73. 空色の瞳 13 ※3人称
時間が少しさかのぼり、三人称王宮サイドです。
「――カナンの件が一段落して、何よりでございますな、閣下」
書類をまとめながら、カリシュ公爵の前で安堵の溜息をついたのはクレフ子爵だった。
まるで熊のような巨漢のヴォイチェフ・クレフは縦にも横にも大きい。筋骨隆々の体形に似合った厳めしい容貌のクレフはその姿にふさわしく軍に籍を置いてはいるが、部門としては後方支援に就いている。
印象に反してきめ細やかな処理が得意だからで、今日は朝早くから公爵――レシェクの補佐としてカナンの件をまとめていた。
レシェクは、王宮に与えられた自らの部屋の、広い机に頬杖をついてため息をつく。
「落ち着いたと言えるのか、現状は」
「カナンで暴れていた賊どもは、結局のところ、盗賊だった……とタイスからの返答でしたか」
「その割には統率のとれた一団だったようだがな」
言い捨ててレシェクは鼻白む。
ここ一年ばかりカナンを荒らしていた西国人の一団は結局のところタイスの軍部ではなく犯罪者だった、とタイスから一方的な通達があった。
賊にしてはやけに統率のとれた一団であった事、狙われたのがおもにカルディナの中央部からの移植者で、タイス人と懇意な人々はなんの被害も受けていなかった事、国境を引き直せとタイス側が騒ぎ始めてから活動し始めた一団であった事……。
様々な事柄から、タイス軍部の息のかかった組織であることは明白だったが。
「――首謀者の首まで届けられてはな」
カルディナが動く前に、頻繁に暴れていた一団の首領と目される男と側近はタイスの軍に捕縛され、斬首された。タイス側に「犯罪者を捕まえたので献上する」と先手を打たれては、何ら証拠も掴んでいないカルディナ側としては沈黙するしかない。
おかげで――被害者達の救済はカナンの領主ジグムント・レームが行うことになり、痛い出費だと泣きつかれ……大方はヴァザ本家が補填することになるだろう。
「女王陛下もいっさい力添えしてくださらないとは、……情のないことをおっしゃる」
「――仕方がない。停戦時にカナンを割譲された際に、その条件を飲んだのは我らだ」
カナンは国境付近の問題が多い土地ではあるが、西国の交易品が手に入る豊かな土地であるのは確かだ。
その税収をすべてヴァザ家が得る代わりに、有事の際には責任を取る取り決めだった。ジグムント・レームは停戦以前から――正確に言えばレシェクの父マテウシュが逝去してからの二十年余りの間、彼の地を支配している。
今回の事は除いて、交易で大層儲けたに違いない。
「我ら……とおっしゃいますが、閣下。その取り決めをされたのは閣下では……」
ためらいがちなクレフの言葉にレシェクはため息をついた。
「停戦当時、既に私はヴァザ当主だった。それに、ジグムントにカナンを与えたのは亡き父だ。……責任はヴァザ家にあると言われれば、言い逃れは出来まい」
実情はどうあれ、カナンはヴァザの領地だ。領地を守護できなかったヴァザへの領民の不満は高まっているだろう。それに、この数年あまり王宮から疎まれるのを口実に、屋敷に引きこもって居たのは他ならぬ自身だ。
「今回は大した出費ではないが、我が領地は近年不作だ。――カナンが落ち着かねば、手痛いな」
「……このまま、落ち着くでしょう。カミンスキ伯爵のご尽力のたまものですな」
「――全くだな……出来の悪い娘婿のせいで、ウカシュには世話をかける」
溜息をついたところで、くすりと笑いが聞こえた。
「――珍しく若が反省されている。さっきの台詞、伯爵に聞かせて差し上げたいですね」
口を開いたのは二人の側で書類を黙々と戸棚にしまっていたスタニスだった。スタニス、とクレフが諫めたが無礼者はへらりと笑っただけだった。
「それはそうと、クレフ子爵。そろそろお帰りの時間では?侍従の方がお待ちですよ」
クレフは時計を確認し、苦笑する。午後からは軍部から呼び出しがかかっているという。
「忙しい君に……すまないな」
「何をおっしゃいます。閣下のご命令であればいつでも駆け付けます。閣下、それでは失礼を」
「ああ、ヴォイチェフ。今度はゆるりと」
「はい」
クレフが退出したのを見計らい、スタニスが胸元から紙を出した。
「レシェク様。――ユゼフ様のご住所がわかりました」
「うん、どこだった?」
紙を広げてレシェクが問う。
住所を見る限り――ユゼフの住まいは貴族たちが好んで住む通りからは外れている。
「王都の西の外れですね、若い下士官が好んで住みます。安いですし――華街も近い。貴族の若様が好まれる高級な店はないですが、酒場は多く――最近は夜ごと盛んに議論が交わされるとか」
軍の一部――、特に中央の軍には王宮に対する不満は多い。以前にに比べ各段に人員は減ったし、予算は半分以下になった。任される仕事は演習や警備あるいは犯罪の取り締まりばかり。
王宮側からすれば致し方ない、処置ではある。なにせ、戦争がないのだ。それなのに軍へ余剰の人員を抱えることなど出来ないし――権力の幅も縮小される。
ベアトリスを女王たらしめたのは現在の軍部だが、女王は軍国よりも産業国としてあるいは農業大国としてのこの国の在り方を探っている――軍部とは折り合いがよくは、ない。
軍部の若者たちは王宮への怒りを今は、酒と女で発散させているようだ。今は、まだ。
「ユゼフ様は若手からの信望が厚い方ですから。情深い方ですし、彼らと交流した結果、現在の軍部のありように不満を抱いているのかもしれませんね……」
ユゼフ・カミンスキは穏健派の父伯爵とは違い、強硬派だ。今回のカナンの件でも再三、武力行使を主張してきた。父親が和平交渉の中心に居たのは、忸怩たる思いだったろうか……。
「ユゼフにこの場所をすすめたのは誰だ?」
スタニスは少し視線を泳がせた。その表情には覚えがある――、すぐに誰かは思い当る。
「シモン・バートリか?」
「……ご明察、です」
二人してため息をつく。
シモン・バートリ……、シュタインブルク侯爵はヴァザの一族だが、昔から人の間に不和を撒き散らしてそれを喜ぶような男だ。ユゼフの件も親切心とは到底思えない。馬の合わないカミンスキへの嫌がらせとも思えるし、あるいはレシェクと親しいユゼフを己の陣営に取り込もうとしたのかとも思える。
ユゼフは愚鈍な男では無い。だが、理性に情が勝ちすぎる。己を慕う部下たちの不遇を直に目にすれば、彼らの窮状を救ってやりたいと思うだろう。彼の精神のありようは、妻のヤドヴィカに似ていた。
「おまえの言うとおりだな?」
「……と、おっしゃられますと?」
「私が責務から逃げ出している間に……、ずいぶんと世間は様変わりしているようだ。ウカシュとユゼフの不和にさえ気づかなかった」
「ようやくお気づきになって良かったのでは?――まあ、あのお二人は若の前では、体裁気にしてますからね、役者ですよね二人とも」
スタニスが軽く揶揄して肩を竦める。そんなことはない、とレシェクの不明を否定しないのがいかにも彼らしく、レシェクとしては言い返せることもないので苦笑する他ない。
……ベアトリスの御代になってもレシェクを王にと望む貴族や国教会関係者は多かった。聡明かつ冷徹で知られた王女よりも、年若く政治に興味のないレシェクの方が扱いやすいと考えたのだろう。
国王など死んでもごめんだと薔薇園に引きこもり人に会わずにいれば、王家に逆らう面々もやがて諦め、煩わしい権力闘争からも逃れられると思っていたが――ベアトリスもそう願っていたようだが――、そう簡単に物事は進むはずもない。
レシェクが望まぬとも、反王家の面々は勝手にヴァザ家を旗印に担ぎ出そうとする。
己が巻き込まれるのならば、構わない。
……だが、次代に、この不条理を持ち越したくないと。愚かなことに……、娘が死にかけて、ようやく思った。
「カミンスキは、今回の件を最後に、一線を退くと言っていましたが……」
「聞いた。本当はまだ力を貸してほしいが、彼も、年だ」
「承認されますか」
「ああ。不出来な娘婿としては、安心して孫守に専念させてやりたいが、……それにはユゼフと話をしないといけないだろうな……西区の屋敷に出向いて、カミンスキの家に戻るように説得しよう」
「ユゼフ様の屋敷……と呼ぶのも躊躇われる下宿ですが……私が行きましょうか」
「いい、私が行こう。ユゼフの非番の日を調べてくれ」
「御意」
二人が会話を終えたのと同時に、扉の側に控えていた衛兵から来客を告げる声がした。
「今日は、ヴォイテク以外に誰かが来る予定だったか?」
「……いえ」
公爵の部屋に、事前の約束無く訪れる者などいない。訝しみながらもスタニスは扉へ近づく。年若い衛兵二人はスタニスを見ると姿勢を正して敬礼をした。
「何事だ?」
「……それが、お客人が……」
「どなたが?」
スタニスが聞く前に扉が開き、訪問者が顔を覗かせた。
「私だ、スタニス・サウレ。――公爵はご在室か」
「……はい」
壮年の男性は豊かな黒髪を撫でつけ、後ろに流していた。背が高く、肌色は白い。その外見の特徴にさらに理知的な深い青の瞳を加えれば一般的な北部民の特徴だった。追従も機嫌伺いもなく端的に要件を切り出すのも、儀礼より実を重んじる北部民らしい。
「……これは、ユンカー殿。本日はどのようなご用件で?」
「その前に人払いを」
宰相ユンカーはちらりと衛兵たちを見て、二人を下がらせる。
……お前ら一応公爵付きなんだから、俺の許可があるまで下がるんじゃねえよ、と内心毒づいたスタニスだが、これも仕方がない。
引きこもり庭師の公爵と、平民出身とはいえ現役の第一線で活躍している宰相の命令。どちらを優先すればいいかなど、子供でもわかる選択だ。
やっぱり若も、もうちょっと働かないとなと考えながら、スタニスはにこやかにユンカーに向きなおった。
「何事です、閣下。こちらにおいでとは、お珍しい」
ユンカー宰相とカリシュ公爵は控えめに言っても友好な関係ではない。気が合わないのか立場の違いか、その両方だろうとスタニスは思うが、どうやら過去にユンカーの部下がレシェクに働いた無礼が不仲の原因らしい。公の場でない限り彼らが口をきくのは珍しかった。
「公爵に、速やかにお伝えしたい件がある」
「……何事です?」
「公爵に直接申し上げる」
「……こちらへ」
ユンカーは冷静な男だ。その彼がわずかながら蒼ざめている。
何事だ、と訝りながらもスタニスがレシェクの元に案内するとレシェクは一瞬不快気に眉を潜め――、次いで彼のただならぬ様子に首を傾げた。
「……何事だ、宰相」
ユンカーは彼の怜悧な容貌に一瞬、悲嘆の色を浮かべ、すぐに表情を消すと、胸に手をあて、カリシュ公爵に深々と頭を下げた。
「お悔やみを申し上げます、公爵閣下」
「……悔やみだと?何のことだ宰相」
「今しがた、報せが参りました……国教会近くで、襲われた馬車があり……、その中に……カミンスキ伯爵の遺体があったと」
残念なことです、と宰相は繰り返した。
続きは近いうちに。




