68. 空色の瞳 8
私の前に現れたシモン・バートリはにこやかに微笑んでいた。同時に彼がエスコートしている美しい貴婦人を視界におさめ、冷や汗をかく――。
シュタインブルク侯爵であるシモン・バートリは、ヴァザ家四姉妹の三女にして私の伯母、オルガの伴侶だ。
しかし、本日伴っているのは妻のオルガではなく……。
「侯爵、カタジーナ伯母上、ご無沙汰しております」
「久しぶりだね」
ヴァザ家の四姉妹の長姉、カタジーナ伯母は一言久しぶりねと言い、バートリはにこやかに笑う。
祖母と母からヴァザ家の血を色濃くひいた侯爵は、長めだった豪奢な金髪を短く切りそろえ品よく後ろに撫で付けていた。
甘い容姿と優雅な振る舞いで宮廷でも夜会でも侯爵は女性に騒がれるのだとか。
四十前後の素敵な紳士だが、ゲームの中で父上を謀反へと誘ったバートリが、私は苦手だ。
もちろん、カタジーナ伯母も。
カタジーナは先日、長年引きこもっていた彼女の領地メルジェから王都へ居を移した。
王家への反発を隠さない伯母が女王主催の祭事に来るのを、私は初めて見たが特に問題を起こすでもなく……平静なのが不穏だ。
「春の訪れを言祝ぐ、素晴らしい祭事だったわ。フランチェスカ王女は夢のように美しかったこと……まさにヴァザの王女ね?」
「はい。殿下は女神のようにお綺麗でした」
私のお利口さんな返答に、煌国のものだろう扇子を僅かに開いてカタジーナは口元の笑みを隠す。(貴方とは違って)という私への嘲笑だと思うのは被害妄想だろうか。
王家の継嗣を公爵家の名に因んで褒めるなんて、アレクサンデルはさぞ不快に思ったろうが、カタジーナの王家嫌いは有名だからか、敢えて訂正はしなかった。
「珍しい二人を連れているね――商会の御曹司と神官様とは――レミリアも隅におけない。仲良くしている所をみると、アレクサンデルはレミリアの護衛になるのかな?」
「私はまだ見習いです。侯爵閣下」
アレクサンデルが私の後ろで不機嫌になってなきゃいいけれど、と思いつつ私は否定した。
「侯爵、アレクサンデルはフランチェスカ殿下の護衛です。今日はたまたま、私の警護をしていただいているだけ」
「そうなのかい?」
「ええ――私の護衛はタウシクやクレフ子爵家のカミラがしてくれています」
カタジーナがふぅ、と溜息をつく。
「――首輪持ちは大変ね。己の主を選べないもの」
伯母の不穏な単語に私は訝しげに彼女を見た。首輪?――それは、どういう?
私が怪訝に思ってアレクサンデルを見ると、彼は色を失い、唇を噛んだように見えた。
カタジーナはそれを一瞥し、次いでドミニクにも視線を寄越した。
「ドミニクも久しぶりね」
「――夫人。覚えていてくださって、光栄です」
白い手袋に覆われたカタジーナの手が差し出され、ドミニクが恭しく口付けるフリをする。実際に口付けずにフリをするのがカルディナ流だ。
「あら、貴方のような楽しい方を忘れたりはしないわ――ドラゴンの雛が生まれた時はわざわざ私にまで礼をいただいて、――ありがとう、嬉しかったわ」
さすが、ドミニク。伯母上の機嫌まできっちりとっていたのか、抜かりない。カタジーナも珍しく皮肉でなく微笑んでいる。
「王都の私の屋敷にもおいでなさい。紹介したい人たちも居るもの」
うっ、と私は背中に緊張を走らせた。カタジーナ伯母の紹介したい人々――反女王派のお歴々?
そんな巣窟みたいな所にキルヒナー家の嫡男が行ったら、まずくない?
ハラハラとする私を気にせず、ドミニクは朗らかに笑った。
「ありがとうございます。是非お伺いさせてください」
「レミリアも、一緒においでなさい」
「私もですか?」
思わず声が上ずってしまった。
「貴方も生まれてくる子のお姉様になるのだから――もっとしっかり令嬢らしく教育をしなおさねばね?」
カタジーナ伯母は上機嫌だ。
私は曖昧に笑いながら頭で胃薬、胃薬と唱えていた。
伯母が去ると、シモン・バートリは当然のように私に手を差し出した。
私は彼の水色の――私と同じ色の瞳を見つめ返した。
「今日は父上は忙しいだろう?――おいで。案内してあげよう」
「……あ…りがとう、ございます」
私は戸惑った。
シモン・バートリは私に興味を示した事は今までに、あまりない。
単に親戚の小娘を案内してやろうという親切心なのか、他に思惑があるのか。わからないけれど、私は侯爵の手に自分の手を重ねた。
シモン・バートリからは甘い香りがする。バニラによく似た、でももっと深い……これは、なんだろう。
「ああ、アレクサンデルはもうついて来なくてもいいよ?僕の護衛がいる。――キルヒナー家の坊やはおいで」
影のようにシモン・バートリの後ろに騎士が現れた。制服の色は紺青。中央軍の所属だろう。
薄い唇に白い肌、どこか爬虫類を思わせる男は私をつま先から頭まで見て、薄く笑った。私は少しだけ怯え――それはおそらくシモン・バートリにも伝わったろう。
「しかし」
「――君は、君の任務に戻るといいよ」
三日月の形に目を細めた侯爵の視線を受けてアレクサンデルは考え込む。私は反射的に、彼を見た。
――出来たら、一緒にいて欲しいけれど、私の側を離れられるのを、これ幸いと逃げられちゃうかな……。
しかし、アレクサンデルは私をちらりと見て首を振った。
「いいえ。本日のレミリア様の警護は、私の任務ですから」
そう?とバートリは私の手を、アレクサンデルに渡す。
え、と思ったのはお互い様だったらしいが、宙に浮いたままの私の手を、放置するのも悪いと思ったのか、戸惑ったアレクサンデルの冷たい指先が私の手を……あまり力を込めずに掴んだ。
じ、とサファイアの瞳が私を見たので私もたじろぎながら見つめ返す。
「僭越ながら、お手を」
「……あ、はい」
なんだか、気の抜けた声が出てしまった。――お互い緊張しているのか、少し指先が汗ばんでいる気がする……。
私達の様子を見たシモン・バートリが、はは、と軽く微笑んだ。
「可愛らしい組み合わせだねぇ」
機嫌よく歩いていってしまうので、ついてこい、と言う事なのだろう。ドミニクが微笑んで「行きましょうか」と私を促す。
私の手を引くアレクサンデルも、参りましょうと促した。
「……今日は春らしい装いでいらっしゃるのですね」
アレクサンデルが横目で私を見つめた。私は自分のドレスに目を落としてからにこりと微笑んだ。
いつもは青や緑色のドレスを好きで切着るんだけど、せっかくの春の祭事なので、と薄桃色と白のドレスを身にまとっていた。
裾はふんわりと風に揺れるので歩くたびに心は浮き立つ。
「……お祝いなので、春めいた色がよいと、母が」
着道楽の母上が選んでくれたのだ。
たまにわけの分からない(孔雀模様のドレスとか)ものも欲しがる母上だけど、基本的に趣味は悪くない、と思う。少なくとも私が着るものは。
「公爵夫人が」
「母は、ドレスを選ぶのも着るのも好きなの」
「――よくお似合いですよ」
何の衒いもなくアレクサンデルが褒めてくれたので私ははにかんだ。
好意を持たれていない相手からであっても他意無く褒められるのは、嬉しい。
「ありがとう」
私は微笑んだ。
「父も、屋敷の皆も褒めてくれたの。スタニスも」
私の言葉に、アレクサンデルが私の手を掴む指先に力を込めた。
「スタニス・サウレ殿は竜族の血を引いておられるとか?」
「――そう、聞いていますけれど。本人はよく分からないが多分そうだろう、と」
アレクサンデルの口調はどこかヒヤリとしたものに変わる。
「サウレ殿もシン殿下も運がよろしいですね。竜族の血を引く者は普通、国教会から逃れられないものですが」
「え……」
「国教会は……竜族混じりを保護しますから。私やリディアのように」
アレクサンデルは彼の親族であるリディアの名をあげた。彼女も竜族混じりなのか。
保護、か。国教会では、竜族混じりの人が優遇されると聞く。
「そういえば、シン殿下も言っていました、アレクサンデルには同族の気配がする、と」
アレクサンデルは皮肉に少し口の端をあげた。
「……同族。恐れ多いことですね……私には僅かしか竜族の血は混じっていませんが」
皮肉な口調で言い、アレクサンデルはそれきり黙ってしまう。
――アレクサンデルは、国教会の方針に納得が行っていないのかもしれない。
「レミリア様はお幸せですね……ご家族にも屋敷の皆にも愛されていらっしゃる」
褒めるような口調だったけど、誤魔化されたりしない。
まるで私が幸せだと、『悪い』と言いたげな口調に戸惑う――アレクサンデルの、このよそよそしさの根源は、なんなのだろう。
「そうね、幸せだと思うわ。みんな大好きだし、大切にしてくれる」
私は平坦な声でいい、アレクサンデルはその答えにまた少し嘲笑ったようだった。
「やあ!皆、元気かな」
バートリが私達を連れて行ったのは若い青年たちの集まりだった。みな、黒の軍服を身に纏っていて、すぐに軍学校の学生だとわかる。
シモン・バートリを目にすると何やら喧々諤々と話し合っていた数人の若者は一斉に姿勢をただした。
名誉職だけれど、侯爵は軍部に属していたはずだ。その関係で彼らとは知り合いなのだろう。
「侯爵!」
「なんの話をしていたかは知らないが、難しい話は無しだよ――せっかく春のお姫様を連れてきてあげたんだからね」
青年たちの興味深げな視線が私に注がれる。
「こちらは……」
青年のリーダー格らしい彫りの深い顔立ちの青年がバートリを見る。
「カリシュ公爵令嬢のレミリア様だ――皆、会うのは初めてかな?」
青年たちは私に次々と名乗り、丁寧な礼をとった。
「公爵令嬢――お父上によく似ておいでですね。さすが、お美しくていらっしゃる」
「ヴァザの姫君にお会い出来るとは、光栄です」
「姫君に春の神のご加護があらんことを」
彼らは決して小さくは無い声で、ここぞとばかりに私を褒めそやす。
「姫君」と。
旧王家への厭味にしろ、王家へのあてつけにせよ、影で私をそう呼ぶのは構わないが、王宮でしかも祭事の日に私をそう呼ぶなんてどうかしている。
私が困惑した横で、アレクサンデルは少し顔を顰め、指先に少し力が込められた。
「春の祭事は元はヴァザの王女がされていたもの――、本日は恐れながら殿下よりもレミリア様のほうが相応しくていらっしゃったのでは?」
振る舞われたワインが若者の口を軽くしたのか、一人が軽口を叩けば、他の誰かが迎合する。
「殿下は春というよりも――氷のようでいらっしゃるから」
「春は、柔らかな――暖かいものでしょう?あれほど硬くては、蕾も綻ばないのではないか?」
「違いない。殿下は相変わらず王子になりたがっておられる。――なれるはずもないのに」
含み笑いに数人が同調する。
シモン・バートリは否定も同調もせず、私達を眺めていた。
私が困惑を深くして口を開く前に中心に居た青年が、私を蛇のような瞳で見つめた。




