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【幕間】降り積もる嘘と雪 上

ベアトリス視点。

カナンを巡る様々な事の決議を終えた日。

会議終わりの人気のない広間で、ベアトリスは痛む頭を押さえながらひとりごちた。


「……これで収束へ向かえばいいけれど」


カナンはカルディナの南西に位置する領土。

西の大国、タイスとの国境に位置し、その所属は何百年も前から流動的で――。常に両国の火種となる土地だった。

ベアトリスの父王の時代も、例外ではない。


ベアトリスの父王は元は北部を預かる辺境伯の家柄だった。

十代で名門を継いだ彼は稀代の戦上手と評判で、カルディナの永年の頭痛の種であった北東の騎馬民族との争いに勝ち、時の国王の寵愛を得ると瞬く間に中央でも重責を担うようになる――。


「私なら、幾ら辺境伯の才能に惚れ込んでも血に飢えた北部の若造を中央(みうち)に引き入れるような馬鹿な真似は、しないわ。毒入と知りながら甘い果実を喰らうようなもの」


父の人生を紐解く時、ベアトリスは常に滅ぼされた王家(ヴァザ)の立場から父を分析してしまう。

いかにすれば若者の野望を阻止する事が出来たか。

今、同じような反乱者が生まれたら国王(わたし)はどう、すべきか。


はじめ、反乱者であったはずの父は、ヴァザの王に飽いた軍部や貴族たちに国主へと持ち上げられ、ヴァザ王家は呆気なく滅びた。

放蕩と享楽に溺れたヴァザ最後の王に理性が少しでもあったなら、北部を守る辺境伯の軍事力を増強した挙句、タイスの南西の国境の諍いを指揮させるような、歴史上稀に見る愚挙は起こさなかっただろう。


父王はカナンでも国境線をカルディナの希望通りに引き直し国内からは喝采を、タイスからは怨嗟の声を浴びた。


国境を巡り。

父王が即位してからも、長く両国は争うこととなる―――。


タイスの前王は賢王と名高く、苛烈な気性の歴代タイス王の中では珍しく温厚で慎重な男だった。


争いに膿んだタイス王と、軍部の疲弊と一部の増長を懸念した新王ベアトリスの思惑は一致し、講和を結んだのは十年と少し前のこと。

平穏が、永く続けばと願っていたが――代替わりしたタイス国王は必ずしも平穏をよしとしなかったようだ。


カナンを巡る会議は、夏の終りから紛糾し真冬の最中、ようやく解決の糸口を掴もうとしていた。



もう一度、カルディナから特使を送ること。

国境は変更しないこと。しかし講和条件であった、カルディナ軍がタイスへ与えた戦乱の損害に対する賠償金は見直し、差額を支払うこと。

ただし、支払いの条件としてタイスとカルディナの国境にここ数年頻繁に出没する盗賊団(その割にはやけに統率がとれた)を殲滅もしくは解散させること――――。


金で解決するのか、薄汚い。

宰相は弱腰だ。

軍務卿たるハイデッカーはじめ、中央軍の将は宰相ユンカーを、ひいてはその背後にいるベアトリスを散々詰ったが、カナンの実質的な継承者であるカリシュ公爵が全面的にベアトリスを支持したことで、ユンカーの案は、カルディナの総意となった。


「軍部の気持ちもわからぬではない。かの地は、我が同胞が流した血も多い」


愛娘(フラン)とよく似た――ひいては、ベアトリスの亡き夫とよく似た横顔で公爵は議場の面々を睥睨した。


「しかし、我らが重きを置くべきは徒に暴徒を殲滅し、いっとき溜飲を下げることではない。カナンの民の心を安んじ、事態の収束を速やかに図ることだ。タイスの過激な一派が狙っているのは我がカルディナに亀裂を入れることだ――不遜ながら、例えば、陛下と私の間に。――そのような不埒な事を考える者はいないだろう?私は陛下の深慮に賛同申し上げる――卿らはどうか」


担ごうとしている人間に、こうまで直接的に言われ反対の声をあげる馬鹿はいない。


それに、と彼らは考えたかもしれない。


公爵には継嗣が誕生するかもしれない。


待ち望んだ、男子が。


そうすれば、ベアトリスおよびフランチェスカを廃して、次代の公爵の――いいや、王の下で堂々とタイスと事を構えることが出来る。


それまではまだ、ベアトリス女王陛下で「我慢してやる」と――。


ハイデッカーの暗い眼差しと、シモン・バートリの混沌を愉しむ風の皮肉な視線を思い出し、ギリ、とベアトリスは唇を噛んだ。


全面的な衝突になれば被害を被るのはハイデッカーではない。国境にいる兵たちだ。しかし、彼らの働きで諍いが収まったとなれば、それはハイデッカーの手柄になるだろう。

それならばなんと詰られようと武力衝突は避けたほうがいい。

タイスも一枚岩ではないのだ――あちらはあちらで、国境の領主たる第二王子に、功を立てさせたくない事情がある。


頭の痛い、事だ。


「特使には誰を任命なさいます」

「ジグムント・レームでしょうけれど、カミンスキを補佐につけるのはどう?カミンスキは外交顧問のままよね?」


いつの間にか部屋に戻ってきていたユンカーがベアトリスに尋ねる。


「ええ、今は名誉職のようなものですが」

「カリシュ公爵に依頼したいところだけれど――軍部も神殿も許さないでしょうね」


カリシュ公爵がわざわざ出向けば軍部も従わざるを得ないし、カルディナ唯一の公爵が特使ならば、タイスの国の面子も立つ。

フランチェスカを特使に、と言う案も出そうになったが――水面下でそれは退けた。

タイスは子供の特使など不快に思うだろうし、娘可愛さと詰られても構わないが、娘を危険な目には遭わせられない……、ベアトリスには、フランチェスカの他に後継者がいないのだ。


娘をかの地へ長旅へ遣るのは暗殺してくれと国内外に触れ回るようなもの……。


そして、娘が死ねば国内は混乱する。

ヴァザに王位が移譲されるだけならまだしも、ヴァザを操る軍部かあるいは国教会の誰かが、ようやく戦乱から離れたこの国の時間を巻き戻そうとするだろう。


それだけは、容認するわけにはいかなかった。


カリシュ公爵は欲深い人物ではない。政治闘争を嫌う厭世家だ。

年若い従弟の隠遁を実に都合がいいと無責任に歓迎していたベアトリスだが、いざこういう事態に直面すると、彼を表に引きずり出して積極的に取り込むべきだった、と後悔していた――――。


カリシュ公爵には軍部への影響力はあっても、長く表舞台から遠ざかって居たがために、手綱を握ることは出来ていない……そして、彼が王位に向く人物かと言えば、決してそうではなかった。


「公爵には、借りができたわ」


なんであれ、彼がベアトリスの案に賛同してくれたおかげで会議は収まったようなものだ。

つぶやくとユンカーは怜悧な横顔に不快の色を濃くした。


「――あからさまに過ぎます。――子が産まれると分かるや、まるで掌を返したかのように熱心に政に参加するのが情けない。公爵の地位にあるならば、個人の事情からではなく、貴族の義務として国に奉仕すべきです」


ベアトリスは苦笑した。ユンカーの言うことも、尤もではあるが。


「彼を隠遁に追い込んだのは貴方でしょうに」

「……それは、否定いたしませんが。それに公爵が、ああでは、――まるで、陛下が公爵夫人を害そうとお考えのようではないですか」

「私が生まれてくる子供の命を盾にして、カリシュ公爵を懐柔(おど)したと?」

「私が軍人なら、そう思いますよ」


ベアトリス顎に指を添えた。


「そんな力が、私にあるわけもないのにねぇ……。けれど、公爵の懸念も無理もないでしょう。父がヴァザに……いえ、彼の家族にしたことを思えばね」


ユンカーは流石に返事に詰まった。


「公爵の血族は、彼より先の代は一人も残っていないわ――ひとりも、ね。ああ、マラヤ神官は別だけど」


最後のヴァザ王の末娘だったマラヤは国教会に身を寄せ、生き残っている。


「先代公爵、マテウシュの子供達も何故(・・)か女ばかり四人も育ち、男子はレシェク以外は夭折しているの……不思議よね」

「それは」

「レシェクの父母は若くして病死(・・)。母方の祖父母まで相次いで亡くなっているのよ?多すぎるわ」


片手では足りない故人の中で、不審でなかった死は、幾つあるだろう。そしてそれに父王が関わっていないものは幾つだろうか。


ユンカーはベアトリスの指摘に瞳の色を暗くした。

青灰の瞳は北部の色だ。

少女時代のいっときをかの地で過ごしたベアトリスには懐かしい。


「――陛下はご懸念ではないのですか」

「公爵夫妻の慶事について?――御懸念(・・・)したところで、産まれるものは、産まれるわよ。胎児を腹の中に留める方法などありはしない」


ベアトリスははぐらかした。

ユンカーは手を打つのか、と遠回しに聞いているのだ。


しかしながら……、ユンカーは、ベアトリスが公爵夫人ヤドヴィカを害せと命じればそうするだろうか?と考え、内心で首を振った。


(出来ないだろう)


ユンカーは冷静で厳格だが、残虐には到底なれない男だ。大義名分なき殺人は、彼には出来ない。


(国の運営には生贄がつきものですよ、――多数を活かすために、少数を殺す。実に合理的だ)


賢しらにベアトリスを諭したのは、先代の神官長だったか。ベアトリスは記憶をたどりながら口の端をつりあげた。


それは、一理あるのかもしれない。


しかし、それは権力を持つ男達が欲の赴くまま、それを振り翳す際に呪文のように口にする言葉(いいわけ)だ。

ベアトリスの流儀ではない。


確かに、公爵夫人の妊娠は厄介なことだ、と頭が痛い。

しかし、周囲が勘繰るように、生まれてくる子供をなきものにしたい、とはベアトリスは思わない。


暗殺は、なるほど対立する両陣営の力関係を変える、もっとも容易な方法ではあるだろう。

だが、同時に、凶刃で得られた有利な立場や束の間の安寧は驚くほどに脆い、と言う事も、ベアトリスは知っていた。


例え遠回りであっても、争いや、協議の果ての決着ならば敗者もある程度の納得が行く。

しかし、理不尽な要因で強要された不遇というものに、人々はいつまでも慣れず、凶行を繰り返すものなのだ。


勝者に理由は必要ない。

ただ、勝利の事実だけがあればいい。


理由が必要になるのは、敗者だ。

敗者が敗北した理由や勝者の掲げる大義名分に無理やりでも納得しなければ、争いは終わることがない。

不毛な連鎖が続くだけだ。

だから、暗殺という手段は愚かなのだし――、下策だ、とベアトリスは、思っている。


「私はね、ユンカー。次代の侯爵(・・)が産まれたところで国民の信頼が揺らぐような国家運営はしてこなかったわ……懸念などないわ」


はい、とユンカーは頭を下げた。


言いながら、脳裏を様々な顔がベアトリスを嘲笑して通り過ぎていくのを感じた。


(強がりを言って。国民はともかく、神殿も軍部もお前の敵ではないか。危険な種は大義名分をかざして排除すればいい。私達をそうしたように)


父王が、先代の神官長が、処刑された騎士や貴族、そして美しく若い男が嘲笑する。

――カリシュ公爵?いいや、そうではない。

あれは夫だ。若くして――ベアトリスを残して逝った薄情な夫。


(国民に愛されているって?――随分な自惚れだ――私たちにすら、愛されなかったくせに……)


ベアトリスが矜持を踏み付けにした男達が憎々しげに闇からこちらを窺っている気がして、女王は僅かに身震いをした。


「――しかし、公爵はシン様を人質に取ったようなものですよ」


ユンカーの声で思考が引き戻される。宰相が怒りを顕にするのは珍しく、ベアトリスはくすり、と笑った。

ベアトリスは大概甥に甘いが、ユンカーもそう、だ。

ベアトリスと同じく、若い頃のユンカーも姉と親しかった。とても。


「薔薇園への通行証(カギ)の事?いいじゃない、シンの息抜きにちょうどいい距離よ」


事実、シンはふらりと公爵邸に遊びには行くものの、大掛かりな「散歩」はしていない。


「危険です。――公爵邸に滞在されている間に危害を加えられたら、いかがします」

「シンには異能があるもの。危害を加えられる人間は少ないわ」

「人間でなければどうでしょう」


ベアトリスはやれやれ、と肩をすくめた。


シンが公爵邸を訪問した際にシン曰く「遊んで」くれるのは薄茶色の瞳をした侍従らしい。竜族混じりの彼には異能は働かない。スタニス・サウレ・「ヴァザ」。

彼がその気になれば、シンを害する事など容易いだろう。


「公爵もあちこちに保険をかけておきたいのよ。私の策に同調し――その一方で、私が赤ん坊に危害を加えるようなら同じことをするかもしれない――つい、うっかり、ね。そう仄めかしているの。……スタニス・サウレが妙な気を起こさないでくれる事を祈るわ」


真実、公爵がシンを害するなどとは思わない。


だが、可能性を迂遠に提示された以上は、ベアトリスも気を配る必要がある。

ベアトリスが望まぬとも、忠義に厚い厄介な連中が公爵一家を害さぬとも限らない。その動きがないか注視し、逐一潰さねばならないだろう。その為にカリシュ公爵は出たくもない会議に出たのだろうから。


国の大事に従弟とでさえ腹の探り合いをして、お互いの意を推測しなければならない。物騒で――馬鹿馬鹿しい、こと、だった。


「今日は疲れたわ」


言って、女王は立ち上がり、宰相を引き連れて部屋を出た。

騎士を従え、中庭に面した渡り廊下を歩いていると、子供達の声がしてベアトリスは足を止めた。


見れば、三人の少女達が別れの挨拶をしている所だった。

娘と、マリアンヌ。

それから、ヴァザ家のレミリア。

大人たちの思惑とは別に、フランチェスカとレミリアは少しずつ距離を縮めているらしい。


眩しいものをみつけた気がして、ベアトリスは目を細めた。


レミリアが誰かに呼ばれて――それは、少女の父だった――小走りに走りかけ、気付いたかのように淑女らしく歩きなおすのを見て、思わず吹き出しそうになる。


おすましした横顔と、あどけなさが不釣り合いだ。

ベアトリスは、レミリアを前にすると、ついつい、いじり倒したくなる。

その邪気を敏感に察知するのか、レミリアはいつもどこかベアトリスに怯えていた。


小動物みたいね、とベアトリスは呟く。


レミリアが本当に小さかった頃、何の機会だったのか、彼女にクッキーをあげたことがある。

幼女は目を輝かせてこれでもかと言う速さでもぐもぐと口に詰め込むと――薔薇色の頬をぱんぱんにして――ベアトリスを見上げて、大笑いさせた。


「……いつみても、栗鼠みたいよね、あの子」


ユンカーに同意を求めたが、ユンカーは胃が痛いとばかりに腹に手を添え苦言を呈す。


「私の他には誰にもおっしゃりませんように。誹謗だと公爵夫人がお怒りになりますよ」

「栗鼠、かわいいのに」

「……陛下」


咎める口調に、ベアトリスは、苦笑した。


ベアトリスがレシェクに気があると勘違いしている――無論、そのように振る舞ったのはベアトリスだが――ヤドヴィカには、娘への悪口だと取られるだろう。

ベアトリスがレシェクに懸想していると思わせておけば、ベアトリスの厄介な信奉者達は、彼女の機嫌をそこねるのを恐れて、カリシュ公爵に危害を加えるのを躊躇するだろう。浅はかな保険だが、ないよりはマシだ。


ベアトリスはカリシュ公爵に活躍されても困るが、彼に死なれても、もっと――厄介だった。

カリシュ公爵が死ねばその地位はおそらくもっとも最悪な人物に転がり込む。

シモン・バートリ……、シュタインブルク侯爵だ。

あの享楽的な狂った侯爵を玉座に近づけたくはなかった。


レミリアが去った方向を眺めていると、母親に気付いたらしいフランチェスカがゆったりとした足取りでこちらへやってきた。

明るい水色の瞳が気遣わしげにベアトリスを見る。

「母上」

自覚はないが、疲労が顔に現れているかもしれない。ベアトリスももう、決して若くはなかった。


「ご公務は終わりですか」

フランチェスカに遠慮がちに聞かれ、娘とゆっくり会話をするのはここ何日もなかった事を思い出して、こぼれそうになったため息を隠す。


「ええ、終わったわ――カリシュ公爵のおかげで、ね」




それから数日、ベアトリスは久しぶりにゆっくりと娘と過ごした。

嫌がる娘を拉致して仕立て屋を呼び、採寸させ、ドレスを作らせる。

夕食後に仮縫いを終えた別のドレスを着せ、ベアトリスは出来栄えに満足して目を細めた。ラインの細い深い青い衣装は、まるで女神のような娘の美貌を際立たせていた。

「なんてお似合いなんでしょう!」

「まるで月の女神のようですわ……!」

侍女たちも口々に褒めそやす。


来年になればフランチェスカも十五。

正式に夜会に出てもいい年だ。

タイスの件を片付ける事が出来たなら、フランチェスカを成人させ、正式な後継者として指名するのがいいだろう。

カルディナの王位はフランチェスカが継ぐのだと、内紛などないと知らしめるために。


親の贔屓目ではなく、王女は輝かんばかりに美しい。国民は熱狂的に支持してくれるだろう。

少なくとも、最初は。


(フランチェスカが私に似ずに、よかったこと)


しげしげとフランチェスカを眺めてベアトリスは嘆息した。ベアトリスとて決して不美人ではない。それなりの素顔に、贅を凝らした衣装を纏って、腕の良い侍女に化粧と髪を任せれば、そこそこには見栄えがしているだろう。だが、それだけ。


しかし、ヴァザの血を引くにしては、あまりに凡庸で、小柄だ。


「髪はどうしようかしら、ね――この前ファン国から貰った髪留めはどう?」


ベアトリスが言うと、フランチェスカは息を止めた。


「あの髪留めは、レミリアにあげたんです……母上に相談せず、申し訳ありませんでした」


フランチェスカがどこか不安げに打ち明け、ベアトリスは微笑んだ。


「お誕生日に?レミリアは喜んでいた?」

「ええ」

「それなら良かったわ」


娘は安心したように、息をつく。


「……レミリアや、母上みたいに柔らかな髪なら良かったな、結い上げる事が出来なくてつまらない……」


非の打ち所のない容姿の娘にも、本人なりに悩みはあるようだ。彼女はその美しい金色の髪をいつも背中に流しているが……結い上げるのには向かない髪質らしい。


ベアトリスはあら、と笑ってみせた。


「素敵じゃない。貴女の髪は父上と同じよ。真っ直ぐできれいな金色。懐かしいわ」


指をくぐらせると、フランチェスカはくすぐったそうに肩を竦めた。

娘はベアトリスが亡き夫の話をすると喜ぶ。


晩年、病がちだった夫はあまり娘には近づかなかった。

――ベアトリスにも。

女王夫妻に愛はなかったとまことしやかに囁かれる王宮内の噂を、多感な年代の娘が、無表情の下で気にしているのは知っている。


だから、安心させるように微笑むのだ。


「マレクも喜んでいたもの。貴女を膝に置いて『僕の王女は僕にそっくりだ。髪の色まで同じ――なんて可愛いんだろう!』ってね。まぁ、自分の顔が好きなお父様だったわよ――」

「――そうですか」


親しみの篭った軽口に、フランチェスカは口元をほころばせた。

嘘ではない。


(こうまで似ていたら、流石に僕の子供らしい――黒髪で無くて安心したよ。黒髪では、君に似たのか、あの男に似たのかわからないからね)


ただ、その言葉に続きがあっただけで。


(まあ、――なんと言ったかな、あの北部の男)

(――やめて)

(まだ未練があるのか、あんな身分低い――)


皮肉な口調で名を呼ぼうとしたのを静止する。

娘時代の恋人の名を、マレクに口にされるのさえ寒気がした。ベアトリスが唯一愛した恋人とは――マレクと結婚するより前からずっと会っていない。

それを知っていながらいつまでも口にする性根が嫌だった。

マレク自身は年上の恋人と結婚後もズルズルと関係をもっていたのに、だ。


「――若い頃の父上は、カリシュ公爵とも似ていますか?」

フランチェスカが楽しげに聞く。晩年は病のせいで見る影もなかった夫だ。

カリシュ公爵のように美しかったと聞いても、フランチェスカにはぴんとこないのだろう。


「そうねぇ、マレクを癖毛にして、すこし硬質な感じにしたら似ているかもねぇ。けれど、公爵より貴女の父上のほうが社交的だったかもしれないわ」


主に、華やかな女性たちと、だが。


夫婦仲は破綻し、夫はベアトリスを憎み、ベアトリスは彼を煩わしく思っていた。

しかし、ベアトリスは娘の前で父親を詰るようなことは一度としてしない。せめて、娘には幸せな夫婦だったのだと、嘘でいいから信じさせてやりたい。


いいや、違う。


――フランチェスカにそう語ることで、本当にそうだと思い込みたいのだ、己が。


「そうですか」

「ああ、でもほんとうに貴方には深い色が似合うこと!青もいいし……深紅のドレスも着せたいわ。父上が今の貴女を見たら、さぞ自慢に思うわ。――来年の夜会が楽しみね」


フランチェスカは頷きながら、不安げに瞳を揺らした。

私にはまだ早い、と言いたいのだろう。

しかし、その言葉を飲みこんで、王女は楽しみですと表情を引き締めた。


「――公爵家の子供が……男子だったら、きっと私の立太子には、軍部の反発があるでしょうね」

「フラン」


ベアトリスは流石に言葉を探した。

フランスチェスカはにこり、と綺麗な顔で笑う。


「でも、大丈夫。私が納得させます――王として私が相応しいって。母上に負けないくらい賢君になるって、誰もが黙るような、そんな人間になります……だから、母上、そんなに心配なさらないで」

「心配なんてしていないわ、フラン。少しもよ」

「私が本当は、王子だったらよかったのに」

「……あなたが女の子でよかったわ。男の子だと、一緒に夜会の相談なんて出来ないもの」

「……、そうですね」


ベアトリスは娘の髪を梳いた。

さらさらと指の間を金色がこぼれていく。


本当よ、とベアトリスは娘の――もうすっかり背を追い越されてしまった美しい額に己のそれをコツリ、とぶつけた。


親子が久々の穏やかな時間を過ごしていると、宰相からベアトリスへ奏上したい事がある、と伝言がもたらされる。

夜もふけてからだ。厄介ごとなのだろう。

母娘は笑顔を交わして、別れた。




――私達は、と騎士に続いて廊下を歩きながら、ベアトリスは思う。


(母娘揃って、嘘つきだ)


互いに嘘をついている。


母は娘に、父親を愛していたと――暗い思い出を嘘できらきらと塗りつぶす。


娘は、――本当は怖くてたまらないくせに、王になるのは楽しみだと虚勢をはる……。

罪悪感を感じてベアトリスは長い廊下の途中でふと立ち止まった。



(娘の恐れを知りながら――玉座から降りてもいいと言ってやれない。娘に盤石な基盤を継がせる事も出来ない……。国民の生活水準を引き上げることも出来ていない……軍部や国教会の掌握さえ、十分ではない……なんと、力のない国王だろうか……)


どこまでもつづく長い廊下、どこかでジジ、っと蝋燭が消える音が耳に冷たく滑り込む。


「陛下?」


先導の騎士が気遣わしげにベアトリスを振り返る。ベアトリスは軽く笑い、近づこうとする騎士を制した。


「なんでもないわ、考え事よ」


いいや、と痛む腹を抑える。


ベアトリスの命がある限りは、力を尽くさなければならない。

子に……健やかな国を譲り渡したい。フランチェスカに。そして、カルディナの国民に。

どこまでも続く廊下。小柄な女王の影は、長く、長く――伸びて、王宮の影に取り込まれた。


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