52. こんにちはドラゴン 2
カミンスキ邸に到着したのは、まだ朝食の前だったらしい。
馬車を降りると厨房のあたりから立ち上る湯気が見える。
門番が馬車を訝しげに呼び止めたが、馬車から降りた私と父上をみて、慌てて背筋を正す。
「公爵閣下!おいでになるとは存じ上げず……、は、伯爵に、ただちにご連絡を……」
「不要だ。客間で待つ。伯爵と、公爵夫人を呼んできてくれ」
制止を聞かず、父上は歩き出す。
スタニスは「馬車を繋いでまいります」と言うと、トマシュに私を預けた。
「トマシュ、戻ってくるまで公爵とお嬢様の護衛を任せる…………逃げんなよ?」
後半の小声は、ばっちり私にも聞こえていたよー、こわいよー元ヤンスタニス。
トマシュは渋い顔で、はい、と頷いた。
二度寝したおかげで、少し回るようになった頭で私はトマシュを眺めた。
伯爵家から来たトマシュ。
先程の父上とスタニスの言葉から察するに、トマシュは私たちに仕える今でも、伯爵家が本来の主だと思っているのかな。
トマシュに知られて伯爵家に連絡が行かないようにこんなに早くに起きたんだろう。
トマシュは、父上の動向を伯爵に伝える係、なのかな。
「お嬢様、参りましょう」
にこっと笑い、トマシュはスタニスがそうしていたように、私を抱き抱えようとする。
私は反射的に飛び退いた。
「もう歩いて行けるから、大丈夫!」
あんまりよく知らない人に身体を触られるのって、苦手なんだもん!
つん、と顔を背けてから歩きはじめると、トマシュは差し出がましい真似を、申し訳ありません、としょんぼりと肩を落とした。
私は立ち止まって、トマシュを見る。
「トマシュのご主人様は、お祖父様なの?お父様じゃなくて?」
がっくりしたトマシュを横目でみながら、子供らしい直球さで聞いてみると、トマシュはものすごーく困った顔をした。
「と、とんでもありませんよ、お嬢様!私はちゃんと公爵家の使用人です。ただ、……そうですね、伯爵には大変御恩がありますので、……その、たまに……世間話を……たまーにすこし……聞かれた時はしていたり」
そういうの、スパイって言うんじゃないのかなあ……。
お祖父様が父上に不利なことを聞くとは思わないけどさぁ。
私はふぅん、と口を尖らせて人の良さげな侍従を見た。あとでスタニスにがっつり取り調べを受けるんだろうな。
隠れて観察しておこう。
「さ、お嬢様。――公爵がお待ちですのでいきましょう」
言われて、私はトマシュに手を差し出した。
トマシュが、ぱあっと顔を明るくして私の手を握り返す。
私は彼の硬いマメだらけの手を、ぎゅっと力を込め握りしめた。
和解の握手だと思っているな?容疑者トマシュめ……!
私はお父様の真似をして、片頬だけで笑ってみた。
「私しかいないからといって、逃げたらだめよ、トマシュ。スタニスが帰って来るまで、逃さないから」
捕獲せり!
スタニスが戻るまで逃亡させないようにしなくちゃ。
私は妙な使命感に燃えてトマシュと共に歩きはじめる。
彼は私に引っ張られて、とほほ、と肩を落として歩き始めた。
父上と客間に入るとすぐにお祖父様がやってきた。
「公爵、こんなに朝早くに、いかがされたのです?」
「急にすまない、ウカシュ。風邪はもういいのか、元気そうだ」
カミンスキ伯爵は目尻の皺を深くした。焦った様子はなく、まさに好々爺、と言った風情だ。
「本復まであとすこし、といったところでございますよ、レシェク様。もっとも――レミリア様の顔をみたら途端に元気になりました」
にっこりと微笑まれて私もえへへ、と笑った。
繋いだトマシュの手が汗ばむのがわかる。
「伯爵。我が妻はどこだろうか――彼女らしくなく、家を開ける期間が長いので、心配になってね。レミリアも寂しがっている」
「公爵夫人は…。私の風邪をうつしたようで、今は部屋に臥せっております」
「そうか、見舞いに行こう」
「公爵やレミリア様にうつしては、公爵夫人も心苦しいでしょうから、……すこし準備をするように、伝えますので……」
お祖父様にしては歯切れが悪い。
「不要だ。ヴィカは部屋か」
「……レシェク様、まだ、ヤドヴィカは身支度もしておりませんよ!」
「そんな姿は、見慣れている」
父上はさっと身を翻した。
父上は母上と結婚するまで、この屋敷で暮らしていたので、構造などわかりきっているのだろう。
私も追いかけた方がいいかな、と思ったときに扉が開き、母上が現れた。
「何事なのです、レシェク――父上まで朝から大きな声で」
「母上」
私は弾かれたように顔をあげた。
母上は今の騒ぎのうちに身支度を整えたのか、部屋着ではなく、簡素なドレスを着ていた。
髪の毛だけは間に合わなかったのか結わずに背中に流しているので、いつもより雰囲気が柔らかく見える。
私は、トマシュの手を離すと、母上に駆け寄った。
ぱふ、と抱きつくと母上はいつものように「走らないのよ、レミリア」とお小言を言う。
その口調がなんだか弱々しくて、私は心配になって聞いた。
なんだか、母上が弱っている。風邪だから?
「お風邪は大丈夫ですか、母上?」
「風邪?――ええ……そうね」
母上は困ったように首を傾げてお祖父様と父上をみた。
「父上、私の我儘に突き合わせて申し訳ありません……さすがに、もう、無理のようです」
お祖父様は溜息をつき、そうだね、と肩を落とす。
私は二人の様子に違和感を覚えて……あれ、と首をかしげた。
母上がすこしふっくらとしたような気がしていたけれど、――手や足の太さに代わりはない。
けれど、抱きついたお腹のあたりがほんの少し――。
私は「あっ!」と声をあげ、母上を見上げて、顔を輝かせた。
母上が黙ったまま私の髪を撫でるのと同時に、扉がノックされた。
「スタニスです。伯爵、入室してもよろしいですか?」
「入りなさい、スタニス」
答えたのはヤドヴィカ母上だった。
「…………失礼いたします」
数瞬沈黙した後、スタニスは部屋に足を踏み入れ……、伯爵と父上と同じく母上に視線を向けて――絶句した。
「あ、あれ、……ヤドヴィカ様、それは」
仕事中は「侍従」の顔を崩さないスタニスが、目に見えて狼狽えた。
「四ヶ月に入ったところ、よ」
「お母様!おなかに赤ちゃんがいるの?」
「ええ、そうよ」
スタニスが戸惑う。
母上の言葉に私は、うわぁ!と喜んで父上を見た。
(いもうとか、おとうとが生まれるんだっ――!)
私と一緒になって喜んでくれるとばかり思っていた父上は――目を見開いて、固まっている。
母上は父上を見て、自嘲するように「黙っていて申し訳ありません」と呟いて、目を伏せた。
私は、母上の悲しげな様子に戸惑ってお祖父様を見た。
お祖父様もなんとも言えない様子で二人を見比べている。
「……まさか」
「――体調が優れなかったのは本当です、レシェク。おかしいと思ってはいたの、けれど、まさか今頃と……父の見舞いにて……私まで具合が悪くなって――医者にみせたら間違いないと」
「なぜ、気づいた時点で私にしらせない!」
「安定期に入ってからご報告しようと思っていたの……また、どうなるかわからなかったから」
「それまで、私には一切話さないつもりだったのか、君は!」
声を荒げた父上に、母上は泣きそうな顔をした。
「どうして?お父様は嬉しくないのですか?」
私が母上を、背にして庇うと、父上は苦しそうに眉根を寄せた。
「……レミリア」
父上も、母上も、お祖父様も――スタニスさえ喜ぶより先に沈黙している。
私とトマシュだけが取り残されて、三人の様子に戸惑っている。
お祖父様がスタニスに目配せし、スタニスが微笑んで私を部屋に連れ出そうとする。
私は首を振って母上のドレスのスカートを掴んだ。
出て行きたくない。
けれど、母上に、スタニスと行きなさい、と懇願するように言われては従うほかなかった。
私はしょんぼりとしながら、俯き、スタニスの左手の裾をつかみながら、部屋を出た。
扉が閉まる瞬間、顔を覆う母上と――母上を苦しげな様子で引き寄せる父上が、見えた。




