50. 我が愛しきヴァザの面々 5(三人称注意)
二人が退出すると、オルガは扇で口元を隠し、水色の瞳でキルヒナーを射た。
そこには、媚も憂いの色もなく、舞台を降りた往年の女優の目を想起させる。
「……キルヒナー商会が、男狂いのオルガに愛人をあてがったと噂されるわよ」
「侯爵夫人が世間に噂されるほど遊んでいらっしゃらないのは、存じておりますよ――先程の少年も、口さがない連中が言うような関係ではありませんよね?――まるで、母親を守るように夫人を見ていた」
「アロイスは特別……。死んだ息子の身代わりで、あの子を拾ったの。赤ん坊の頃から側にいるから……そうね、息子のようなものかしら」
オルガは口元を緩め、キルヒナーと視線を合わせた。
背が高い女性なので目線はあまり変わらない。
「ねえ、キルヒナー。この商談、貴方に儲けはないようだけど、どういうつもり?」
「いいえ、未来への投資です。彼が貴方の後見で世に出たら、あいつの音を聞きに――嫌になるほど聴衆が集まるでしょう――その後はたっぷり儲けさせて貰いますよ」
「奇特な人ね。昔からだけど」
「若者の才能を愛でるのが趣味なのもので」
「ええ、そうね。あなたは生意気な若い男が好きよね、昔から」
含みのある言い方をされ、あなたは昔から、誤解を招く言い方が好きですよね。――とはさすがにキルヒナーは反論しなかった。
「……貴方の趣味と企みに、私が加担して、なにか得があるのかしら。嗚呼、損をさせられたわ」
キルヒナーは商人の顔で笑った。
「お客様に損はさせませんよ。美しい方であればなおさら――彼が後世に名を残せば、偉大なる音楽家を見出し、保護した女神の名も永遠に人々に記憶されます。貴女ほどの女性が、カルディナの歴史上、何十人と存在したシュタインブルク侯爵の妻として家系図にひっそりと記されるのじゃつまらない。芸術の守護者、オルガ・バートリの名前を残すべきだ。――そうは思われませんか」
「昔から変わらず、嫌な男ね――。人をその気にさせておいて、決断は本人がしたかのように錯覚させるの」
オルガは、笑みを再び口元に乗せて、言った。
「お誉めに預かり光栄です。では、お買上げを?」
「いいわ。なかなか面白い商品だったわ……キルヒナー男爵。今度の訪問も、楽しみにしてあげる。ただし、今度は普通に形ある物を売りに来てちょうだい」
「御意」
頷けば、口付けられそうなほど近く、美しい顔に覗き込まれている。
遊ばれているなと苦笑して、礼儀正しく一歩退くと、キルヒナーは淑女の白い手に恭しく口付けた。
うらぶれた劇場前で馬車とめ、キルヒナーは杖を片手に降りた。
空は明るかったが、雨が振りはじめるだろうとは足の傷でわかる。
左足は義足だから、器具との接触部分が鈍く痛むのだ。
舞台上で練習する踊り子や俳優たちの横を通り過ぎて、楽屋の最奥にある小部屋に身を滑り込ませると、煙草を咥えて紙の束を睨んでいる男にただいま、と声をかけた。
男は、おかえりなさいと気のない様子で言った。
「どうでした?首尾は?クラウスはいないようですが」
クラウスは、あのまま、オルガに半ば拉致されるように連れて行かれた。
彼が根城にしていた安宿の部屋はキルヒナーが引き払って荷物を持っていってやる予定だ。
ことの顛末を話すと、男はさすがに目を瞠った。
「倍額!それは豪勢だな。さすが侯爵夫人。しかし、相変わらずあなたは酔狂ですね」
「埋もれさせるには、あいつの腕が惜しかったんだ」
子供の頃は裕福な家で育ったと本人は言っていた。
ヴァイオリンもその頃、夢中で習ったと。
しかし、家が没落し、本人も目を不自由にしてからは貧民窟に行く一歩手前の生活をしている。
腕を買われて劇場でたまに弾けば――歌手の音程が外れたと指摘して喧嘩をし、酒場で弾けば、客に頼まれても、気に入らない曲はひかない。
自信家のくせに、卑屈。
野望があるくせに、自暴自棄。
キルヒナーが彼を見つけたのも、深夜の酒場のごみ捨て場だった。客と喧嘩をして――店主から叩きだされたのだ。
野良犬のようなクラウスに妙に惹かれて拾って帰り、妻に「あなたはまた…」と溜息をつかれた。
それから、何かと連れ回して――今回の件は――渋るクラウスを半ば挑発するようにして、オルガの元へ連れて行ったのだ。
曰く。
「――怖いのか、どうせ、侯爵夫人を満足させられる自信がないんだろう」
真実クラウスが大成するかなど、実のところキルヒナーには分からないが、明らかに平民育ちの鬼才を、同じく貴族社会のはぐれ者のキルヒナーが後見するより、オルガのような生粋の貴族――に売り出して貰うほうがいい。
意外性、というものは何よりの宣伝になる。
そして、オルガ・バートリほど音楽を愛する貴族も他にいない。
「相変わらず、才能ある若者が好きですよね、副官」
かつての部下にオルガと同じような事を揶揄され、キルヒナーは頭をかいた。
「道楽なんだよ、見逃せ。――それに、惜しいと言うなら、お前の才能も十分惜しいよ、ハイトマン」
言われて、エーミール・ハイトマンは榛色の瞳を優しく瞬いた。
童話作家として知られるこの男は、匿名で――風刺が過ぎるからだが、大衆劇の脚本も書く。
軍部の中枢から将来を嘱望されていたにもかかわらず、軍閥の諍いに嫌気がさしてこの男が退役してしまってから、もう、何年になるか……。
「キルヒナー男爵にそう言われるならありがたい。次の舞台も評判になるといいけど」
「作家としてのお前じゃないぞ?俺は文学はよくわからん――お前の軍人としての才能を惜しんでる。その気があったら言え。軍部に伝手はなくもない」
長男のドミニクは軍部には進まなかったが、一族の者は、何人も軍にいる。それに、ハイトマンの家の者も彼の復帰には手を尽くして協力するだろう。
エーミール・ハイトマンは首を振った。
「気に入ってるんです。今の生活が。たまに脚本を書いて、童話も書いて、好き勝手、無責任に批判される――だけどここには嘘がない。皆、嫌になるくらい正直で――楽しいですよ」
キルヒナーは声を潜めた。
「軍部の話を聞きたくはないか、カナンで何が起きているか、を」
「いいえ、全く」
間髪入れない言葉に、かえって嘘だと感じる。
カナンに、かつてハイトマンもキルヒナーも居た。
気にならないと言うのはどう考えても、あり得ない。
キルヒナーはため息をつき、ハイトマンはすみません、と言って肩を竦めた。
「……物書きとして食い詰めたら、あなたの秘書にしてくれたら嬉しいけどね」
「ぞっとしないね。お前に四六時中見張られる生活は……家には相変わらず帰ってないのか……マリアンヌが寂しがっていたぞ」
「……マリアンヌは元気ですか?」
エーミールの愛する姪の顔を思い出し、キルヒナーはさてね、と首を振った。
「気にするなら会ってやれよ、いつも心配している」
「いや……会ったら余計に心配されそうだから」
ふと会話が途切れたのを狙いすましたかのように、扉がノックされた。
「ハイトマンさん、手紙!」
現れたのは劇場の小僧……ではなく、キルヒナー家の小僧、だった。
突如として現れたイザークに、キルヒナー男爵は目を丸くした。
「あれ、父上。おかえりなさい」
簡素な服を着ると、イザークはまるきり、劇場の小僧のようだ。
「何してるんだお前は……って、達、か」
「お邪魔してます、男爵」
イザークの後ろから背の高い少年も現れた。
「おう、ヴィンセント――なんか様になってるな?」
こちらもどこで調達したのか、平民の服を着ていた。
イザークは劇場の小僧が体調を崩したので、代わりに今日一日小僧の仕事をしているんだ、と事も無げに言う。
「ミハルが酷い風邪で手が足りないって言うから、ちょっと小間使いしてます」
「僕も、成り行きで」
仮にも男爵家の次男と宰相閣下の息子がこんな劇場で働いてもいいものか、と悩むところだが、キルヒナーもここに頻繁に出入りしているし、なにより最初に二人を連れてきたのは己だから、煩く言い難い。
ユンカー様にはバレないようにしろよ、と言うと二人は悪戯っ子の顔で視線を交わして笑った。
イザークとヴィンセントは仲がいい。
シンはさすがに頻繁に市井に降りることは出来ないが、ヴィンセントの手が空いているときは、イザークが誘ってあれこれつるんでいる。
たまに大きな喧嘩もしてはいるようだが、無理に取り澄ました顔をするヴィンセントが子供の顔に戻るとキルヒナーは安心する。
息子をどこに出しても恥ずかしくない貴族の子弟として、感情を表に出さぬように育てようとしているユンカー夫妻には悪いが、ヴィンセントにも逃げ場は必要だろうとキルヒナーは思う。
だから二人の多少の無茶には、口を出さないようにしていた。
「父上、どこに行ってたんですか。なんかぴしっとしてるけど」
「シュタインブルク侯爵夫人と逢引」
「えーっ!俺も行ってみたかったな」
イザークの言葉にヴィンセントが呆れた。
「行って、なにするの?侯爵夫人から門前払いされるんじゃない?」
「ヴァザの人たちって面白いじゃん。仲良くなってみたくない?」
「……僕は御免こうむる。ドラゴンを公爵家に持っていくのだって、僕は嫌だったのに」
本当に嫌そうに、ヴィンセントは鼻にシワをよせた。
「――姫君が余計なことを言うから!」
ヴィンセントのどこか拗ねた口調に、キルヒナーは目を細めた。
レミリアとヴィンセントが大人の目が届かない所で、嫌味の応酬をしている微笑ましい様子を思い出したのだ。
「また姫君って言うー、レミリア怒るぜ、きっと」
「レミリア嬢が何に怒るか、僕にはさっぱりわからない!――彼女が傷付いている時は、ザックが慰めてやれば?――最近、ずいぶん仲良しだしね?」
「なんだよ、やくなよ。心配しなくても、俺はレミリアとよりヴィンスとの方が仲良しだから」
「……やいてない……」
ヴィンセントはうんざりと天井を仰いだ。
王宮でのやりとりを思い出してキルヒナー男爵は少し笑った。
あからさまにヴィンセントはヴァザ家には行きたくないようだったが、レミリアと彼が友達だと勘違いした公爵の親心により、強制的に召喚される事になってしまった。
レミリアが可愛らしく小さく舌を出したのも、ヴィンセントが狼狽えていたのも実に子供らしくて、キルヒナーは、ほのぼのと和んだ。
「いいじゃないか。公爵家にお邪魔できることはなかなかない。いい経験だと思いなさい」
年長者らしくハイトマンが諭すと、二人は、はい、と礼儀正しく返事をし、キルヒナーは息子たちの様子に目を細めた。
「子供は子供同士、仲良くな?」
親同士の思惑はあっても、それで委縮することはない。
そう思いながらキルヒナーは子供達の頭をくしゃりと撫でた。
『ヴァザ家とつながりを深くしろ』
――そして公爵本人にしろ、その周囲――例えばシュタインブルク侯爵やカミンスキの次期伯爵に危うい兆しがあれば知らせろ、とはユンカーからキルヒナーに下された命だ。
侯爵夫妻もカリシュ公爵も莫迦ではない。
キルヒナーに伝えたことが、宰相に知られるのは折込済みだろう。
『仰せのままに』
キルヒナー男爵は頭を下げて――軍部を辞めたとは言え、彼の主君はベアトリス女王陛下だ――ユンカーの命に従った。
ヴァザと距離を詰めろと宰相から言われ、公爵がそれを容認したと言うことは、直接会うと何かと波風の立ちやすい両派の仲立ちを任されたと言っていい。
宰相も公爵も、キルヒナーの立ち位置は完全に女王寄りだと思っているだろうから、公爵は完全にはキルヒナーを信用しないだろうが、女王への反意がないことを示すにはちょうどいい人物だ、と思っているかもしれない。
カリシュ公爵レシェクは、欲のない、悪く言えば何事にも淡白過ぎる青年なのだ。
それ以上は望むまい。
けどな。
とキルヒナーは宰相の峻厳な容貌を思い出して、少しだけ、舌を出す。
個人的には、カリシュ公爵も嫌いではない。
その娘も可愛らしいし、あそこの侍従とは古い縁だ。
男爵としてではなく、一個人としてならば、公爵一家も十分慕わしいのだ。イザークの言葉を借りるなら、「ヴァザ家の人たちって面白いじゃん」と言うことになる。
ヴァザの内情を女王に知らせると言うことは、「逆も出来る」と言うことだ。
女王に心酔し、キルヒナーの忠誠を疑うことの無いユンカーはそこを見誤っている。
もし、宰相が力ずくで公爵一家を排除しようとするならば、見てみぬふりをする、と言うのはキルヒナーの性に合わない。
(俺が出来ることなんて、たかがしれているだろうけどね)
公爵達がこの国で生きていくのに、不利にならぬよう手伝いをしてやれるといい。
(才能ある若者が、隠者のように庭で引きこもってんのは、やっぱ勿体ないと思いますよ、若様――?)
やっぱり自分は少しばかり酔狂かもな。そう、思いながら、キルヒナー男爵は、口角をあげる。
ドミニクから、公爵家に訪問する日取りの連絡が来ていたはずだ。
さていつになったかな、と思いながら彼は頬杖をついて目を閉じた。
キルヒナー劇場でございました。
ハイトマンはフランチェスカ殿下のお友達、マリアンヌの叔父上です。童話だけではたべていけないので、副業してます。クラウスとアロイスは全く脇キャラですが、三章にちょろっと出ます。
次の話より二章の後半です。お気が向けば、お付き合いください。




