40. 温室と姫君 5
王女とシン、それからユンカー卿は帰っていった。
私は父上の顔色を窺ったけれど、あまり機嫌も良さそうではないので、話はまたの機会にすることにする。
なんの話だったんだろう。
母上はヨアンナ伯母上とすっかり話しこんでいた。
「秋だというのに夏の疲れがとれなくて。食欲も湧かないわ」
「あら!それは良くないわヴィカ。王都は忙しすぎるのよ。北の保養地へ行きましょう?素晴らしい景勝地があって……」
母上達の話は、最近流行のドレスから保養地の話まで多岐に渡っている。
父上と対照的に楽しげな二人の様子を見る限り、ユンカー卿の話は聞いていないようだ。
ヨアンナ伯母上がお帰りになる段になったのだが、どこへいったのか、ヘンリクの姿が見えない。
さっきまでそこにいたのにな。ヨアンナ伯母上は困ったように息を吐き、セバスティアンと探しに行った。侍女頭もスタニスと共に後を追いかける。
ヘンリクが逃亡……。
どこにいるかなぁ、と考えつつ、私もそっと部屋を抜け出した。温室へ行くと、案の定、つまらなそうな顔でヘンリクはそこにいた。
私が植えたハーブの横に腰掛け、スタニスは従兄の前に立って何かを話している。
「――――それで、母上は学校に行けって言うんだ、横暴だとは思わないか?僕は行きたくないと何度も言ったのに」
「学校、いいじゃありませんか。どうして、お嫌なんです?」
学校の愚痴か。
私は思わず、温室の木の影に座り込んで身を隠した。ヘンリクは私には聞かれたくないかも。
「学校だけならいいよ!……母上は僕に寄宿舎に入れと」
「それはそれは」
スタニスの声が少し驚く。
我が儘なヘンリクに寄宿舎で共同生活なんて出来るんだろうか。
……そうでなくても、伯爵家の子息が寄宿舎か。高位貴族が学校へ行く例はあるだろうけど、寄宿舎ともなると珍しいかも。
「お屋敷を出て暮らすなんて、考えようによってはまたとない経験でしょう?素晴らしい事だと思いますよ」
スタニスが慰めるように言うと、ヘンリクは……ぽつりと言った。
「母上は、僕を寄宿舎に閉じ込めて、厄介払いがしたいんだ、きっと」
「……またおばかなことを」
呆れた口調のスタニスに、
「馬鹿な事じゃないぞ!母上は僕が好きじゃなくて、だから僕を執拗に学校に入れようとしてるんだ……思い通りになんか、してやるもんか!」
「そんなこと、あるはずがないでしょう」
「わかるもんか!」
癇癪を起こす従兄に、スタニスは優しく尋ねた。
「……伯爵は、なんとおっしゃっているんです?」
「父上は、母上には逆らえないよ!……妹達のこともあるしさ、頭があがらないんだ」
皮肉な口調にスタニスは口をつぐんだ。
話の流れから、私は出づらくなって身を縮こまらせた。
ヘンリクには妹が二人いる。ヨアンナ伯母上の子供ではない。「外」に産ませた娘だ。
何年か前に伯爵に愛人と娘が二人いると知って、カタジーナ伯母上はヴァザの面子を潰されたと激怒し、父上も、妹に対する不義理を、さすがに不快に思ったらしい。
珍しくカタジーナ伯母上の訪問を父上が渋らず、二人の意見が一致して、伯爵に怒っていたのでよく覚えている。ヨアンナ伯母上はヴァザの家に戻ってくるかも、という話もあったくらいだ。
貴族の愛人については子供の私でさえよく聞く話だし、父上が女性関係に関して完全に潔白だとは私は思わないけど、妻の知らぬ間に隠し子が二人もいた、とは結構な醜聞だ。
カルディナでは貴族の離婚は珍しい話ではないから、おそらく父上はヨアンナ伯母上に離婚を勧めたのだと思う。
けれど、当の伯母上は事が発覚すると、伯爵の愛人にお一人で会いに行ったらしい。
「感じのいい御婦人でしたわ」と笑ってカタジーナ伯母上と父上の干渉を拒絶し、年金や遺産、それから二人の娘達の立場の取り決めを即座に専門家に依頼して、細かく決められた、と一族の大人達が話しているのを聞いた。
以来、伯爵は伯母上に頭があがらなくなり、……伯母上は現在に至るまで、夫から口だしされることなく、慈善事業や文化事業の後援に、取り組まれている。まるで、伯爵から逃げるように。
「僕がいなくなれば、父上と一緒にいる理由もなくなるだろ。母上にとってみれば願ったりだよ。邪魔な僕を学校に押し付けて、家を出て、ヴァザ家に帰るつもりなんだ」
寂しげな声に私はそっと木の葉の影から、従兄を窺った。
ヘンリクは膝をかかえて頭を膝に乗せている。スタニスは困ったなあ、という風に首を傾げていた。
「……お前も学校に行ったことあるんだろ?どうだった?」
スタニスは苦笑した。
「ございますが、数ヶ月のことでしたのであまり印象がありません」
「――退学になったって聞いたけど、なんでだ?」
え、なにそれ!
スタニスは驚いたように目を開いたが、ヘンリク様は色々ご存知ですねえ、と悪戯っぽく笑い、そっと声をひそめた。
「……昔は軍学校の下に幼年学校がありましてね?私は、十になったばかりで入学しまして。こちらは平民、周囲はお坊ちゃまばっかりで勝手がわからないものですから、粗相をしまして」
「粗相?」
「偉い方の御前での模擬試合で、上級生をうっかり負かしてしまいまして……子供ですから、貴族相手には面子を重んじて、手加減をしなくちゃいけないなんて、知らなかったんです」
「やっつけちゃったのか!」
「はい。相手は侯爵家ゆかりの方だったので、問題になりましてね。後見をしていただいていたマテウシュ様もお亡くなりになった後で、庇って下さる方もおられず。そんなに剣が使えるなら、学校は不要だろうと、お咎めを受けない代わりに兵士見習いとして戦地へ行くことになりまして、あえなく、退学、と」
「なんだそれ、かっこいいな!」
ヘンリクは顔を輝かせた。
ヘンリクには武勇伝に聞こえたみたい。
か、かっこいいかなぁ。確かに、十歳の少年が上級生に勝つ姿はかっこいかもしれないけど、幾ら腕が立つと言っても、子供を戦地に。なんだか、とても酷い話な気がするぞ。
……当時父上は幼児だから、止めようがなかったとしても、他の一族の大人達は何をしていたんだろう。
しかし、当のスタニスは暗さのまるでない表情で笑った。
「遠慮を知らない、馬鹿な子供だったんです」
「おまえの子供時代なんて想像つかないな」
誰にでも子供時代はありますよ、とスタニスは笑った。
「退学になった理由までは公爵もご存知ないですからね、秘密にしてくださいよ?」
「わかったよ、秘密にしておいてやる」
「ヘンリク様が、もし学校に行って、退学になったらお揃いですねぇ」
スタニスの軽口に、従兄は、あはは!と笑う。機嫌がなおったらしいヘンリクに、スタニスの目が細められた。
「……行ってみれば、楽しいことも、きっと沢山ありますよ」
「そうかな」
「入学して嫌なら、その時にお辞めになればよろしいじゃないですか」
「そう、かな。……でも、やっぱり、行きたくない。母上の思い通りになるのは、嫌なんだ」
「……入学まで、あと一年あるでしょう。ゆっくりお考えになられてはいかがです?」
ヘンリクは顔をあげて、口をへの字に曲げた。
「よく考えて、それでも、やっぱり行きたくなかったら、叔父上に、母上を説得してくださるよう、頼もうと思うんだ」
「そうですね」
「その時は、お前も、僕の味方をしなくちゃ駄目だぞ」
偉そうに命じたヘンリクに、スタニスは畏まって頭をさげた。
「たいした戦力にはなりませんが。お味方させていただきますよ」
「ほんとうだな?」
「はい」
うん、とヘンリクは納得して立ち上がった。
「坊ちゃま!ここにいらしたんですか」
ヘンリクが立ち上がると同時に、セバスティアンが汗を拭きながら温室に入ってきた。
「いま行く」
従兄は慌ただしく温室から出て行き、私もそっと立ち上がった。
残されたスタニスがおや、といった表情を作って私に視線を向けた。薄茶の瞳が、ちょっと笑っている。
「お嬢様もヘンリク様をお探しに?」
「ええと、そう。いま!今来たのよ」
スタニスは私に近付くと、スカートに泥がついていますよ、と笑った。
隠れてたのに、気付かれていたな。これは。
「……ヘンリクに、学校に行けばいいなんて、簡単に言ってしまったわ」
単なる我が儘だろと、冷たい言い方してしまったな。ヘンリクも色々悩むことは多いのか。独り言のように言うと、スタニスが苦笑した。
「色々な方に会う機会を得るのは、ヘンリク様にとってもいいことですよ、きっとヨアンナ様もそれをお望みなんでしょう」
私は珍しく沈んだ様子の、自分を邪魔者だと言ったヘンリクの横顔を思い出した。
ヨアンナ伯母上は、ヘンリクのことを考えて、入学を息子に勧めているのだ、きっと。
(そうだ、といいけどな)
翌日からも、我が家は何かと慌ただしかった。
父上は珍しいことに、王宮へと度々足を運び、母上はかねてから話があった、私の家庭教師の、ミス・アゼルの縁談を熱心に進めはじめ、一月たらずで、話をほぼまとめてしまった。
侍女達が噂するのを盗み聞いた所、「奥様もさすがにあの噂好きな家庭教師にはうんざりされたんじゃない?」とのこと……。
悪い人じゃないけれど、確かにミス・アゼルは口が本当に軽いものね……。私は結構、その口の軽さを利用させてもらいましたけど……。
ミス・アゼルも嬉しそうだったし、先生が幸せになるのはいいんだけれど、私の家庭教師はどうなるの!?私が、多少心配していると、母上は「お祖父様に相談しましょう」と提案した。
「優しい方がいいです、母上」
「優秀で、しっかりした方を紹介してもらいましょうね、レミリア」
私の要望は一蹴された。母上は、家庭教師の件もあるし「お祖父様のところへ行ってきますからね」と私に告げる。
「お祖父様のところへ?」
「家庭教師の件もあるけれど、お祖父様が風邪をひかれたみたいだから、お見舞いも行ってくるわ」
私は、フランチェスカが持ってきた萎れた百合を思い出し、不安になった。百合はカミンスキの紋章。やはり、あれは何かの警告だったんだろうか。お祖父様の体調とか?
「私も一緒に……」
私はそう言ったけれど、母上は珍しい事に私には留守番を命じて、お一人で行くという。大抵、カミンスキ家に連れていってくれるのに。
セバスティアンに家のことを任せるから、よく言い付けを聞くように、と言った。
「すぐに帰ってくるから、ちゃんとお留守番をしておいて頂戴ね?」
私は、はい、と返事をした。




