ヒトと竜 5
建国より遠い遠い、昔。一頭の竜が北の地を逃れた。
竜はやがて大陸の中央に降り立って青年となりカルディナを作った。
その子孫たるヴァザは失った空をみあげてその事由に焦がれるあまり、瞳にその色を映した。
――空色の瞳は、ヴァザの証。
――かつて空を支配し、愛していた竜だった、その名残。
だが、と私は壇上で厳かに告げる男の貌を盗み見ていた。
現在この大陸でもっとも竜を愛し、竜の側に居る一族の長の瞳は金色。多くの竜と同じだ。
決して空色ではない。
しかしこの王国の始祖は己の出自を竜と位置付けて自らを神格化した。神格化して宗教と己を一体化させることで国民の尊敬を集めて来た。
ヴァザは滅び、ウォルト王家の時代となってた今でも。
――今もこの王国はその神格化された物語から逃れることができない。
立太子の儀式は高位貴族と神職者が集められた玉座の間で厳かに行われた。ヴァザ家の長、カリシュ公爵。レシェク・ルエヴィト・ヴァザは私の隣に立って、執り行われている儀式を混じりけのない水色の瞳でじっと見つめている。
(私が、最後の神だ)
王国の西でそう言い切った父上の横顔を思い出して私は瞬きをゆっくりしながら再び、壇上に視線を戻した。
そうであるといいなと思う。口に出したらきっと不興を買うだろうが。
竜の加護などなくても正当性が認められるくらいの立派な王にフランチェスカがなれたらいいなと思う。たとえヴァザの始祖が真実竜族だったとしても、私の身体にあと何滴その血が残っているというのだろう。そんな不確かなものを崇めて時計を戻すような争いなんか不要だ。
竜族の長とカルディナ王の邂逅がいつの時代も国の繁栄と大陸の平和を願う儀式だというならば、私も願わずにはいられない。
私の大好きな人たちがどうか、平和に暮らせますように。と。
静まり返る玉座の間で動くのは美しい若い二人だけ。
竜族の長と、美貌の王女。ともに白絹に艶やかな金銀の刺繍が施された式典の衣装に身を包んだ二人は壇上で見つめ合った。フランチェスカが音もなく、跪いて顔をあげ。
他には誰も身じろぐ者もいない。
心臓の音が他の人には聞こえないように、音を立てないように……私は静かに胸に手を当てた。
「新しき王の歩む道が輝くものであるように。我が同胞の治世が幾久しく続くよう願う」
「――我が身に流れる血が竜の長に誓うでしょう。祝福に恥じぬ王になると」
決められた口上をフランチェスカの美しい唇が紡ぐ。
誰もがたじろぐフランチェスカの平坦な視線をそれを受けたシアは神官が手渡した錫杖を王女に渡す。それだけでいい。それで、儀式は終わりだ。
私はそっと、息を吐いてわずかに俯く。
ようやく、無事に――、
「あっ」
叫んだのは、私ではなかった。
けれど、一人でもなかった。
神官長が捧げたはずの錫杖が床に転がっている――。
鎮まりかえった玉座の間で、誰もが……、シアでさえ動けずに転がった錫杖を見ている。
私は思わずヒュッと息を吞んだ。
神官長が蒼白な顔で固まっているが、そこは錫杖を拾って何事もなかったかのようにシアに渡してほしい。神官長のずっと背後に控えていた赤い髪の青年が逡巡するようにみじろぎして私と目が合って。
アレクサンデル…………!!
私たちは一瞬見つめ合ったけれど、どうしようもない。
ここで私は出ていける立場でもないし。
私の並んだライン上で、誰かが小さく笑う。
――カタジーナのようにも思えたし、シュタインブルク侯爵の声にも聞こえる。
或いは軍務大臣のハイデッカーのこれ見よがしの皮肉な笑いだったかもしれない。視界の端で、宰相ユンカーが胃の辺りを抑えた。
――神はヴァザではない女王を祝福しないのではないか。
広間の人間がこれを不吉の予兆だとちらりとでも考えなかったとしたら、それは嘘だ。
時間としてはおそらく、数秒。
しかし、それよりもずっとずっと長く感じる……。
――と。
動いたのは他でもない。錫杖を授けられるべき少女だった。フランチェスカは自嘲するように笑うと、私たち、高位貴族に視線をよこした。
目が合ったように思った私は思わず胸の前で手を組んでがんばれ!と声を出さずに応援してしまう。隣で父上がほんの少し呆れたように私を見た。
あ、あぶない。声に出ちゃってたかな、今の。私はあたふたしかけて、慌てて再び固まった。視線の先ではアレクサンデルまで一瞬笑いをこらえたので、……きっと挙動不審だったな。
何故か、くすくすとフランチェスカは笑った。緊張していたのが嘘のように晴れやかな表情だった。
錫杖を手に取って、神官長に渡す。
「神官長、あなたは在職何年になるだろうか」
「……は、ひ……十五年あまりかと……」
責めるわけでもない穏やかな質問がフランチェスカの口からまろびでた。
「長年重職に在るものでさえ、緊張するのだ。――私のような若輩が気後れするのも無理はない、な。――私の治世にも波乱が多いかもしれない。それでも、貴方は王家を支え、時には神の教えのもと私を叱り導いてくれるだろうか」
「勿論でございます、殿下」
神官長は厳かにうなずいてシアに錫杖を今度は丁重に渡した。
私は大きく拍手したい気分だった。――神官長は多分気づいていないだろうけど、フランチェスカは鷹揚に微笑みつつも、錫杖を落としたのは神官長だと認めさせたうえで己の寛容さを示したのだ。ついでに謙虚さも示した。
安堵のあまりぷしゅううとその場でへたり込みそうな私は気力だけでその場に立っていた。
た、魂が抜けそうだよ!!
「――錫杖を受け取る前に、長に詫びてもよいでしょうか」
「……何をだ、王女」
台本のないことを喋り出した王女に再び玉座の間がざわつく。シアも眉間に皺が寄っている。
――フランチェスカあ!!その人きっと、はやく部屋にかえってのんびりしたいとかしか思っていないから、変な事言ったらだめだよっ!!
私の願いは虚しく、フランチェスカは竜族の長を見上げたまま呟いた。
「我が身に流れる血の多くは、ヴァザではない。シア殿。私はあなた方竜族との縁も薄い」
広間がまた水を打ったように静まり返った。……ヴァザの正当性を認めるための儀式で、それを言うのかと視線が彼女に注がれる。
「だが、それでも――あなたはこの国の儀式のために、北から来てくれた。そのことに礼をいいたい。ありがとう」
「……いいや」
シアの表情が奇妙に動いた。呆気にとられたと言ってもいい。妙なものをみるようにフランチェスカを見ている。
「それから、この場に集まってくれた皆にも。王宮の外で警護をしてくれている城づとめの人々にも、国の各地で祭りをしてくれている国民にも。それから、私のために寝る間を惜しんで尽力してくれた友にも――礼を言いたい」
フランチェスカが一瞬、私を見た気がしたので、私はその友が私だといいなと都合のいい解釈をした。まっすぐにシアを見上げるフランチェスカに、ツンと鼻の頭が痛くなる。
「私は未熟です。けれど私のために祈ってくれた人たちに、日々の平穏な幸福を与えられる王になることをここに誓う。――ですからどうか、竜族の長よ。我が国の旧き友人よ。長きを生きる方々。あなたにはどうか、私のその決意の証人になって頂きたい。私とこの国の人々の子や孫が、この時代を思い返していつかあなた方に尋ねた時――この国を治めた王は、この国の民を幸せにするために即位したのだ、と」
シアは長い口上を聞いて。じっと王女を見下ろした。
「……王女の紡ぐ言葉はおとぎ話のようだな」
冷たい言葉に私は凍り付いたが、その様子をなぜか面白そうに竜族の長が私を見た。
きょ、挙動不審だったかな。
竜族の長は笑ってフランチェスカを立たせた。
「だが、さきほどのくだらない文言よりかはその決意はよほど心地がいい。私は人間は嫌いだが、この王都の滞在はなかなかに快適だった。業腹だがな。――祝福するかはわからんが、願っていよう。フランチェスカ。ウォルトの姫よ。あなたがこの国を穏やかに治められるように。あなたの愛する民と、ともが幸せであるように、遠い北の地から監視していよう。私は証人だ。孫の代にでもこの国が平和であったなら、遊びに来るといい。今日の事を話してやる」
「……約束ですよ」
「いいだろう」
竜族の長が笑い、二人は同時に私たちの方を向き直った。
今だとばかりに神官長が、声をはりあげる。
「我が神殿は、神の名のもと、フランチェスカ・アビシナ・ウォルトを正式に王太子として認める!!」
わっと歓声が沸く。
私はへなへなと力が抜けそうになりながら隣の父上にしがみついた。
――ああ、どうか。
我が友に。
フランチェスカに栄光あれ。
彼女の歩む道は平たんではないだろうけれど、どうか光差す道でありますように。
私は光に照らされた王女の笑顔を見ながら、これでハッピーエンドが近づいて来た、と。
すべてがうまくいくと胸を撫でおろしていた。
つづきは5月1日です(すいません、17日にはかけなかった…)
フランチェスカ回でした。




