【幕間】箱庭を、出る前に。
多才なるヘンリク・ヴァレフスキがもっとも好む趣味はヴァイオリンを弾くことだ。
たとえ、その演奏に価値がなくても。
形のない美しい旋律は一時、彼にすべてのわずらわしさを忘れさせて、くれるから。
子供の頃はよく夢想をした。
伯爵位なんてさっさとと誰かに譲ってしまって、街でヴァイオリンをひく。その日その日の演奏で日銭を稼いで街から街へ練り歩く。
大陸中を旅して、それで……。
思考に遊ぶのを邪魔するのは、いつでも母の悲しげな声だった。
「……ヘンリク、どうして左で弾くの?」
母の誕生日にヴァイオリンで曲を弾いて見せると母は綺麗な曲だとほめてから、それからためらいがちに言った。
剣技も、食事をするのも、ヴァイオリンを弾くのも。
左利きのヘンリクは、左手のほうがやりやすい。さすがに食事はマナーもあるから右で出来るように修正したが、剣技やヴァイオリンだけは、叔父のとりなしもあって元に戻した。
「本当は母上だって左利きなんだよ。刺繍をこっそり左でやっているのを知ってる」
むすっとしたまま叔父の侍従、スタニスに言うと無礼者の侍従は目を丸くした。
「それは存じませんでしたね。ヨアンナ様が左利きだったとは」
今は軍学校の教官として王宮に出入りしているスタニス・サウレは休みの日は今までどおりヘンリクを「我儘な坊ちゃん」として甘やかしてくれる。
その時間がヘンリクは好きだ。
「ふぅん、お前でも母上について知らないことはある?幼馴染なのに?」
「残念ながら、子供時代はヨアンナ様とあまり親しくさせていただく機会もありませんでしたので。幼馴染というのは大げさですねえ。年に数度お会いするだけでしたから」
スタニスがあまりにもあっさり否定するので、ヘンリクは心中で苦笑した。
多分ヨアンナは少女時代にスタニスの事を憎からず思っていただろうし、父のジュダル伯爵はそのことをいまだに恨みに感じていて、母にあてこするのを見たことすらある。
「ヘンリクは、サウレに懐きすぎではないのか?まさか、彼の息子だという事はないだろうがね!」
冗談めかして父がいい、ヨアンナは氷のような表情でそれから数日父と口をきかなかった。ヘンリクは鏡の前で自分を観察しながら噴き出してしまった。
薄い唇も、やや眠たげな感じのする瞳も、薄情そうなヘンリクの容姿はどうみても、色味以外は父親譲りだ。
ヘンリク本人が穴のあくほど鏡を眺めて、レミリアに「ナルシスト!」と呆れられるほど探してもさがしても見つからないこの顔のどこに、スタニスの要素があるのというのか!
あるのならば、どうか教えてもらいたい。
「いっそ、お前の息子に生まれたらよかったな」
「は?」
レミリアの温室にいつものように勝手に侵入して、気に入りの場所に寝転んで。
探しに来た侍従を見上げると、スタニスは間抜けな声を出した。
地面に寝そべったら服が汚れるからだめですよとお小言を貰うのを笑ってながして薄茶色の瞳をみつめる。ヘンリクの瞳は紺青だ。
彼とは全然似ていない。
「そうしたら、堂々とこの屋敷に出入りできたのに」
「まったく、幾つになってもおバカなことを!今だって遠慮なく来ているでしょうに!それに自分の息子だったらこんなに可愛くないですよ」
スタニスは冗談めかして笑い、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれる。
誰の目もない時は、子ども扱いしてくれるのが嬉しい。
スタニスがわざわざ否定しなくても、ヘンリクは知っていた。
だけど少しがっかりする。
自分の父親はあの酒にも女にもだらしないジュダル伯爵だ。疑いがない。
一縷の望みをかけて、心底ばかばかしいと思いながらもヘンリクは自分が生まれる十月十日前付近のヨアンナの外出記録と、スタニスの所属していた軍の日誌まであさって、二人の行動を照合した事さえあるのだ。
……二人は、該当する年に、同じ土地にいた期間すらない。
当たり前の事実を眼にしてヘンリクは自分でも驚くぐらいに落胆した。
調べなければよかった。
真実をつきとめなければ、馬鹿な夢くらいたまにみて、寂しさを紛らわすことが出来たのに。ヘンリクは笑って聞いた。
「スタニス、お前は左利きだったりする?」
「いいえ?」
うん、と頷く。
「ヴァザの人間で母上以外にも左利きの人間はいるのかな?」
「……それは、存じませんが……レシェク様は違いますね」
妙な事を聞くと思ったのかスタニスの表情が、曇る。
なんでもないんだ、と笑ってヘンリクは立ち上がった。
ヴァザの屋敷に用意された自分の部屋に戻って思うさまにヴァイオリンをかき鳴らす。レミリアとユーリがやってきていつの間にか小さな演奏会のようになるのを、心地よいものに感じている。
左利き用の、ヴァイオリン。
これは貰い物だった。
何年か前に、フランチェスカが「私はもう使わないから」と下賜してくれたものだった。
ヘンリクは驚いて聞きかえした。
「もう使わない、ですか?殿下」
「ああ。私も元々は左利きなんだ――母上も。やっぱり色々と不都合が多いから、子供の頃に修正してしまった」
フランチェスカ殿下は彼女に似つかわしくない、無警戒な表情で笑った。
「お祖父さまの家系が、ずっとそうだったらしい。それは、祖父のヴァイオリンだ」
「……前陛下の。……貴重なものを、ありがとうございます」
ヘンリクは冷や汗の出る思いで、王女に丁重に礼を言い。
――調べた。
狂ったように、調べた。
ヴァザの家系は金色の髪に水色の瞳の人形のような容姿の一族だ。
早くに亡くなった、祖父、祖父の後妻としてあまりにも突然にヴァザに輿入れした祖母。
彼らもまたヴァザ特有の水色の瞳をしている。祖父母の両親もまた、混じりけのない、水色の瞳をしていたという。
なのに、どうして……、ヨアンナだけが、違うのか?
深い紺青の瞳。
――それは光の加減でたまに紫が混じる。女王と同じように。
左利きの、母。
――女王ベアトリスも昔は「そう」だったと言う。
ねえ、母上?何を隠しているんですか?
何をいつも怯えているんですか?
――貴女が僕を嫌うのは、僕が……貴方の嫌いな誰かに似ているからですか?
答えを突き詰めるのか、目をつぶるのか。
どちらにしろ、厄介なことに違いない……。
厄介なことを忘れるために、ヘンリクはヴァイオリンを弾く。その時だけは、何も考えられずにいられるから。
小さな演奏会を終えると、ユーリが熱心に手を叩いてくれる。
「へんりく兄さまは、まほうつかいみたいです!」
「そうか?」
「おおきくなったら、ぼくのがくしさんにしてあげます!」
「ユーリ!どこで覚えたの、そんな生意気な言葉を!」
「いいじゃないか、なあ、こぶた?がくしさまとして雇ってくれよ?」
「ぶたじゃないもん!ユーリだもん。でも、いいよお、雇ってあげます!」
ぷう、と膨れる頬が愛しい。抱き上げて、抱きしめる。
ヘンリクは思考に蓋をした。目をつぶる方がいい。そこに誰かが気づいたら、ヘンリクのたいせつなこのささやかな箱庭はきっと、奪われてしまうから。
「ヘンリクと一緒にいると落ち着くんだよねー、フランチェスカと似てて、空気が」
卒業試験を間近に控え不本意ながらシンと図書館で資料をあさっていると、シンがぽつりとつぶやいた。あまりにふざけたことを言うのでヘンリクは黙らせるためにその脛を蹴り上げた。
「痛い!なんで蹴るかな」
「ふざけたことを公子がおっしゃるからでは?僕は誰にも似ていない、唯一無二だ」
傲慢な物言いにシンは呆れ、近くで聞いていたキルヒナー家の次男が笑った。
「多少は、似ているんじゃない?はとこだし」
「似てない!」
強固に否定すると、イザーク・キルヒナーは一瞬妙な顔をした。何かあるのかと窺うような視線を逸らさないように、ヘンリクは見つめ返した。
それから、出来る限り浅はかに、傲慢に見えるように椅子にふんぞり返る。
「僕は誰にも似ていない、唯一無二だと言っているだろう?で、イザーク・キルヒナーお前はなんで、卒業試験の合間に、戯曲の本なんか扱っているんだ?」
学年首位を(実技も含めて)、とうとう入学から一度も譲らなかった少年は、にこっと人の警戒心をたちまちに解除させる厄介な笑顔を浮かべた。
「ん?キリのいいところまで終わったから、息抜き。レミリアが戯曲のいい本をみたいっていうからさ、探してるんだ」
「……レミリアに様をつけろ!あれでも公爵令嬢だぞ!お前は余裕だな、キルヒナー!まったく、腹の立つ」
丸めた紙を投げつけるのを難なく受け取って、イザークは笑った。
「余裕なんじゃないよ!要領がいいと言ってくれたまえ、ヴァレフスキ。いいじゃん、レミリアをよろこばせたいだけだしさ」
イザークは、あのぼんやりとしたヘンリクの従妹への好意を隠そうともしない。
男爵家の次男が偉そうに!なんて身の程知らずな!と、ヘンリクはことあるごとにイザークを蹴落としてやろうと思うのだが、品行方正、学業優秀、実技でさえ彼に適うのは半竜族のシンくらいで。
しかも北部随一の裕福な商会の息子とあって。なかなか蹴落とされないのが、腹が立つ。
「……公女様に届け物?今度会うから僕が持っていくよ」
図書館の奥から現れたのは、これまた腹の立つことに、ヘンリクがなかなか学業で抜けない、ヴィンセント・ユンカーだった。実技はヘンリクの方が上だ。辛うじて。
「今度会う?なんで?いつ?」
「秘密、教えない。一緒にはいかない」
イザークの質問に先手を打って、さらにユンカーはどさりと資料をヘンリクの前に積み上げた。
「ヴァレフスキ」
「……なんだよ」
「余裕綽々のキルヒナーに、思うところはあるだろうが、ここは共闘しよう。時間が惜しい」
「……そうだな」
西国から戻ってやけにさっぱりとした表情になって、そのうえ妙にレミリアにことづけやら手紙やらをおくってくるユンカーにも腹は立つのだが、卒業試験で打倒キルヒナーを果たすために、今はムカつきに蓋をする。
二人は机に向かい、そろそろ勉強に飽きはじめたシンをけしかけた。
「シン、そこのイザークを連れて遊んで来いよ!」
「日暮れまで連れまわせ!くたくたにな」
シンは二人の様子にくつくつと笑った。
「いいよ!なんか二人が仲良くやってるのがおかしいし、打倒イザークの手伝いしたげる」
「シン、俺を裏切るのか?」
「裏切るよう。たまにはイザークも負けた方がいいって」
半竜族の公子は左右色違いの瞳を細めてイザークに向かって笑った。
それから、窓の外に止まった鳥をみつけて笑う。
「もうすぐ、春になっちゃうね。そしたら、こんな風にみんなで図書館とかもなくなるかな?」
しんみりと寂しそうだったので、ヴィンセントは苦笑し、ヘンリクは鼻を鳴らした。
「僕は……せいせいするさ、お前たちと朝から晩まで会わなくて済むようになる!」
「また、そういう可愛くないこと言う!」
思わずつられて笑いそうになるのをこらえ、ヘンリクは先程のシンの言葉を思い出す。「シンと一緒にいて気が楽」なのは……、彼が誰にでも気安いからだろうか?
それとも。
……彼に近しい、特別な何かをいやおうなく感じてしまうからだろうか。
ヘンリクは、シンの綺麗な紫の瞳をみつめ、自分の瞳にも、触れた。
レミリアの水色と、シンの紫。
この紺青は、どちらに近いだろうか……。
ヘンリクの内心に気付かずに、ヴィンセントが少し笑った。柔らかい口調で言う。
「寂しくない、と言えばうそになるかな。四年の間、色々とあったから」
「そうだね」
イザークが同意し、四人の間に沈黙が流れる。
窓の外、気ままな風に散らされる若い葉を見ながらヘンリクは、再び思考に蓋をすることにした。
……今は、考えない。
この、箱庭に、やわらかな世界に浸っていたいと願うから。
季節はもうすぐ移り替わる。
王都にも、春の嵐が吹こうとしていた。
以前、ファンレターのお返しに送ったものです。
その節はありがとうございました~
一年たったので、公開します~
次回更新は7月末です(更新亀でごめんなさい~




