幕間 軍学校の人々 下
ツイッターにすごく素敵なイザーク、ヴィンセント、ヘンリクのイラストをいただいたので。
ぜひみていただけると嬉しいです(あとで活動報告に転載したい…!)
軍学校の卒業式は、厳粛な雰囲気で行われていた。
卒業を祝われる青年たちが並ぶのは慣れ親しんだ学舎ではなく、王宮の広場で、幾分緊張した面持ちの青年たちはまっすぐに正面を向き——彼らがこれから生涯仰ぐべき主君、ベアトリス女王へと視線をそそいでいた。
軍学校に進む若者は裕福な平民や、貴族の子弟が多い。
卒業すれば通常の軍人よりも上の階級からキャリアをはじめることになる。
つまり卒業式は国の中枢を担う若者たちのデビューでもあるから学校のというより国の式の意味合いも大きい。
四年の学務を終えた十代終わりの若者たちは一糸乱れぬ動きで隊列を組み剣技を披露し、代表者が女王から騎士の爵位を授けられる。
当代限りの爵位だが女王から若くしてしかも直接叙勲されるのはこのうえない栄誉だろう。
しかもそれが百人からなる卒業生のうち一人だけとあっては。
「イザーク・キルヒナー」
カルディナ王国の国主、ベアトリス女王は静かに青年の名を呼んだ。
近衛騎士団の正装は、濃いブルーの軍服だ。濃青のベルベットのマントを羽織りその下には純白のロングドレスがのぞく。
真紅のベルベットフードの上に黄金の頸飾を下げた姿の女王にはおかしがたい威厳があある。女王は軽やかに進み出た黒髪の青年に近づくとその肩に剣をあてた。
「我が騎士よ。いついかなるときも、倫理と名誉を連れて歩むべし、弱きものを守護すべし、神と王家に忠義を示すべし」
「御意」
女王の剣の腹が陽光に煌めき、頭を垂れた青年の肩を三度叩く。
「今までの貴方は死にました。——これからは公人として賢く、強く生きなさい。イザーク」
女王の言葉に青年は深々と頭を下げた。
一瞬女王の目に親愛の情が浮かんだのは無理のないことだろう。
目の前の青年は、彼女の腹心の息子で生まれた時から知っているのだから。
一瞬口角を上げたベアトリスは次の瞬間には為政者の顔に戻り青年を再度祝福した。
「この栄光が貴方の道を生涯照らしますように」
「ありがとうございます」
一族のものではなく自身の爵位を手に入れたイザーク・キルヒナーは同輩たちの列に戻った。
ベアトリス女王の隣には背の高い王女が控え、一連の儀式をかすかな微笑みをたたえて見守る。
フランチェスカ王女は彼女がふだん好む男装ではなく母と同じく女性の正装に身を包んでいた。
ベルベットのマントを羽織りマントの上に蜜色の美しい金色の髪を結いもせず背中に流して。
いずれ彼女の周囲を守るであろう青年たちの憧憬を尊敬の視線を一身に受けながらもそれを殊更に誇るようなこともない。
ただ悠然と彼らの視線を受け流している。
今、この日から貴族社会に踏み出す青年たちの多くは、きわめて美しくそして聡明な王女を守る地位を得たことに高揚していた。
彼女が女王になれば、軍部の最高権力者は女王だ。
多くはその事実を喜び、だが——中にはそうでない者もいて、現王家よりも旧王家に心を寄せるもの或いは軍部の急進派に属する一族の者は、そっと視線を外した。
立場が違えども、いまこの時までは彼らは共に学びの徒であった。
いま、この時までは。
蒼天の下で、青年たちは解き放たれた。
◆◆◆◆
陽が沈んだ王宮では、この日のために訓練された給仕たちが慌ただしく広間を埋め尽くす貴人たちと軍学校の卒業生の間を縫っていた。
広間の奥に設置されたテーブルに座る数人の貴族の少女たちは卒業生たちの噂話に余念がない。
その話題の中心はやはり、イザーク・キルヒナー「子爵」令息で小鳥が囀るように彼女たちは彼についての話題を続けていた。
「お父様が子爵になったのだもの。すごいことだわ。女王陛下の腹心でいらっしゃるし!」
「それにお金持ち!北部ではね、すべての街にキルヒナー家のお屋敷があるんですって。凄いわ」
「ドラゴンを誰よりも上手に操るんですって。イザーク様が竜厩舎に訪れるとドラゴンたちが皆一斉に振り向くって」
「私はイザーク様より兄上のドミニク様が好きだと思うわ。軍部の方はやっぱり怖いもの」
一人の少女がまあ!と首を振った。
「私はヘンリク様が主席でもよかったと思うわ。背も高くていらっしゃるし、繊細な面立ちが素敵。……何よりヴァザの家柄ですもの!ね、レミリア様」
色とりどりのドレスに身を包んだ彼女たちの中心に座って少し苦笑する風なのは金色の髪の、やや小柄な少女だった。視線の向こうに軍学校の卒業生たちをみつけて彼女は微笑む。
「繊細かしら?気難しいだけかも!」
「レミリア様は辛辣でいらっしゃるわ」
レミリア・カロル・ヴァザ。
旧王家の一族、ヴァザの当主であるカリシュ公爵の愛娘はめずらしく緩く編んだ金色の髪を、父公爵の庭で摘んだ白い薔薇で飾っていた。
ふわりとした空色のドレスはレースのような美しい刺繍で彩られている。
レミリアはヘンリクびいきらしい黒髪の少女に肩を竦めた。
「ヘンリクもとても残念がっていましたわ。——涼しい顔をしていたけれど、最終試験の前は三日間徹夜だった、って」
「まあ!」
「私はユンカー様が好きだわ。思慮深くて……いつみても涼やかで素敵!」
成績上位の面々は貴族令嬢の中で情報が回っているらしい。
何人かの成績上位人の名前をこっそりと頭の中に仕入れて、レミリアは広間で大人たちに囲まれて微笑んでいる青年たちを見た。
そう、もう少年じゃない。
「さあて、やつらの正装でもみて冷やかしに行ってやろうかなあー、っと」
「マリアンヌ!ことばが乱暴なんじゃないの?でも、お祝いには行きたいな……イザークにお祝いも言いたかったんだけど、忙しそうね!」
レミリアの隣に座ったマリアンヌはこっそりと耳打ちし、レミリアも扇子を広げた影で小声で返す。
軍学校の卒業式典を終えたその日は卒業生を全員広間に招いて祝うのが伝統だ。
彼らにとっては有力貴族やその子女と言葉を交わし、自分を売り込む場でもある。
まだ婚約者のいない若い令嬢たちにとってもそれは同じだ。
軍学校を卒業した青年たちは花婿候補として申し分ない。
軍部においては軍学校を出てさえいれば、そして本人が有能でさえあれば家格に関係なく出世できる。
本来身分の高い貴族の子女を、下位貴族や平民出身の青年はダンスに誘うことは出来ないが今日ばかりは特別だった。
音楽が鳴り始め、意を決したように何人かの青年たちが令嬢たちのグループをダンスに誘う。
レミリアは笑顔で鷹揚に少女たちを見ていたが、ぼそりと隣の友人に本音を漏らした。
「私を誘ってくださる方がいればいいのに」
マリアンヌが笑った。
「無理じゃない?ヴァザのご息女をダンスに誘う勇気があるのはせいぜいいつものメンツくらいよ。だけどこんな場じゃねえ?」
「つまらないなあ……そこを颯爽と超えてきてほしい!」
「スタニス先生に殺されるわ」
マリアンヌのお道化た口調にレミリアは笑った。
確かに、義理の伯父で竜族混じりで……ついでに軍学校の教師で、と特異な役割を幾つもこなすスタニス・サウレはレミリアに対して随分と過保護だ。
自分の教え子が溺愛する義理の姪に無礼をしようものなら笑顔で城壁からつるしそうではある。
少女二人はまた歓談に戻り、青年たちから意識を逸らした。
レミリアが視線を逸らした先にいた今日ばかりは主役のイザーク・キルヒナーは軍学校の長に連れ回されながら挨拶に終始していた。
学校長がすこし席を外した途端に、疲れたと苦笑するイザークに、今日は王族としてではなく、卒業生として一緒に回っていたシンが隣で冷やかす。
「はじめて見た、イザークの作り笑い」
「……上級貴族とこんなに話すのは初めてなんだよ、さすがに!助けろよ、シン。——そろそろ俺の表情筋も限界だってば!」
「やだね、どうせザックはすぐ慣れるだろ?今のうちにせいぜい冷や汗かいてろよ」
シンはぺろり、と舌を出す。
軍門、ヴァザ派閥、キルヒナーと同じく成り上がり、それから親女王派。
今宵あう誰もが笑顔で美しく、イザークに好意的だがカルディナは決して一枚岩ではない、ということも軍学校で学んだ重要なことだった。
実際、軍部と仲の悪い国教会からの式典の参加者は神官長補佐の幾人かだけで、神官長は無関心との態度を隠さない。
参加している貴族からも笑顔の下ではどんな値踏みをされているだろうか、と大抵のことに物おじしないイザークでさえ、若干冷や汗をかいていた。
シンと学校長と共に挨拶をした伯爵夫人が、まあ!と感嘆の声とともに三人の向こう側に目を向けた。
「公爵がいらしたわ。去年は遠慮なさっていたけれど……今年はヴァレフスキ様がいらっしゃるものね」
伯爵夫人の視線の先には正装姿のカリシュ公爵レシェクがいて、義兄のカミンスキー伯爵と広間についたところだった。
三十も半ば近いはずだがイザークが彼と出会った時とさほど変わらず、硬質な美貌を保っている侯爵は彼の周囲に集う人々にいつものように鷹揚に頷き、二言三言交わすだけだった。
カリシュ公爵は人嫌い——。それは社交界では暗黙の了解でもある。
『あれでもお父様、ずいぶんましになったんだから!前は本当に!いつもひきこもってばっかりで!』
ドラゴンのソラの騎乗訓練の際に愚痴っていたレミリアを思い出してイザークは少しだけほのぼのとした気持ちになる。
気難しい公爵の愛娘は女なのに竜に乗る変わり者で人見知り。
だが——どの派閥の人間とも垣根なく話して親しみやすい方でもある……、さらについ先日は西国の王子とさえ交流を築いた。さすが祖父譲りの外交センスがある、と一部の貴族や平民の間で人気がある。
公女様が平民の文化を愛好し平民出身の歌姫(ここで男の役者でなかったことも彼らの支持を得た理由らしい)の熱烈な支持者なのも人気の理由らしい。
イザークとしてはレミリアがあまり有名にならないといいな、と思う。
真面目で楽天家。かと思えば弱気。けれど言いたいことははっきり言い、人を苦しめるようなことは絶対しない。
いつも春先の庭に咲く花のようなあの子が、これ以上、皆に好かれないといいな、と勝手な事を思う。
たぶんそれは、無理だけれど。
イザークがほんのすこし寂しいような感情を持て余していると視線の向こうで彫像のような美貌の公爵はグラスから口を離すと、空色の不可思議な瞳でこちらをみた。
目があった、というのはさすがに自意識過剰だろうか、と思っていると珍しく人前でくつくつと笑った公爵が小さく手招く。
学校長に促されて慌ててイザークは公爵の元へと行くことになった。
シンは笑って言ってらっしゃい、と手を振ってヴィンセントたちの元へ戻っていく。
「閣下、お会いできて光栄です」
カリシュ公爵はかすかに笑い、学校長が人嫌い公爵の意外な表情に呆気に取られている。
公爵は学校長に向かって少しばかりいたずらな笑顔を浮かべた。
「せっかくだが紹介には及ばない。——イザーク卿のことはよく知っている」
敬称で名を呼ばれてさすがにイザークは赤面し、それを実に楽しそうに公爵は眺めた。
「閣下、さようでございましたか」
「シン公子とよく遊びに来ていたからね。——彼は少年の頃から我が家の庭を訪れては好き勝手に荒らし……ああ、我が家の侍従兼、君の担任も、いつか君を軍学校の塔の上からつるしてやりたいと嘆いていたよ」
レシェクの冗談口に学校長は快活にわははと笑ったが、多分担任のそれは冗談ではなかったはずだ。
イザークは周囲にスタニス・サウレがいないのを確かめてひそかに胸をなでおろした。
「あの頃がもう懐かしいな。……さて、イザーク。久しぶりだというには——西国で会ってからあまり日が過ぎてないようだ。君が主席だったとか?」
「はい」
「素晴らしいな、おめでとう」
「……ありがとう、ございます!」
あの人嫌いの公爵が微笑み長々と話しかけ、直接寿いでいる……。
周囲から驚きの視線を集めたイザークは素直に喜んだ。
「祝いをしよう、何がいい」
「……何をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「キルヒナー!無礼だそ」
短い叱責の言葉を、カリシュ公爵は片手で制した。
「イザーク・キルヒナーの無礼には慣れている。それは私には心地よいものだ。遮るな」
「……は、はあ」
イザークはありがとうございます、と言ってから、視線を逸らした。
——視線の向こうには、マリアンヌとお喋りにすっかり夢中らしい、金色の髪をした少女がいる。
いや、もう。
彼女も少女ではないのかもしれない。イザークが少年でないように。
青年の願いに、公爵は「好きにせよ」と面白そうに笑った。
「きゃっ」
「こちらに来るわ」
レミリアは、ん?と目線をあげた。
ざわつく人波をかきわけて——いつものように何の気負いもない笑顔で現れたのは、先程から今日の話題の中心にいる青年、イザークだった。
マリアンヌが面白そうに微笑んで扇子をぱちりと閉じた。
イザーク・キルヒナーは迷いのない足取りで少女たちの目の前で足を止めると、中心にいる少女だけを見つめて微笑んだ。
「レミリア様にはご機嫌麗しく」
イザークは恭しく頭を下げた。
「今日は卒業おめでとう、キルヒナー様」
「ありがとうございます、レミリア様」
レミリアは呆気にとられつつ、ぽかんと口を開けた。
マリアンヌが慌てて、口!と囁いたので咳ばらいをして慌てて閉じる。イザーク・キルヒナーは少しだけ横を向いて堪えて淑女に手を差し出した。
「きゃあ!」
「まあ!」
少女たちが鋭く悲鳴を上げて、広間のいく人かも本日の主役の一人と、ヴァザの令嬢に視線を固定した。
戸惑うレミリアに構わず、イザーク・キルヒナーは悪戯っぽく笑って頭をたれて、こいねがう。
「レミリア様に宣言した通り、叙勲されましたので。ぜひ御身にも約束を果たしていただきたいとーー」
「約束?」
反射的に手を取ってしまってから、レミリアはおうむ返しに尋ねた。
逃さない、とばかりに素早く、かつ自然に前に引っ張り出される。
まるでそれが合図のように音楽が鳴り出したので、レミリアはイザークにエスコートされることにした。
主席とはいえ子爵家の次男が、ヴァザの公女をとの非難は目をつぶる。
「俺が主席になったら踊ってよ、って言ってたの覚えてた?」
「それはもちろん!」
イザークに手を取られながらレミリアは笑ってターンする。レミリアが軽やかに翻るたびに、ふわりと花の香りがして、イザークは息が止まりそうになった。
蜜色の髪が香油のせいかいつもよりキラキラとしていて眩しい。
レミリアの周囲の空気はいつでもすごくふわりとして、甘い。いっそ窒息してしまいたいほどに。
今夜の事も。
きっとレミリアにとっては楽しい一夜のうちの一つに過ぎないかもしれないけれど、イザークにとっては特別だ。
優秀だ、裕福だなどと言われてもイザークは貴族の中では「子爵家の次男坊」に過ぎない。
こうやってただ彼女を堂々とダンスに誘う権利を得るだけでも四年かかった。
踊り終え、無邪気に「イザークはダンスも上手ね」とはにかむレミリアにイザークは微笑み返した。
「——主席になったら爵位がもらえる」
「叙勲されるところをみていたわ、イザーク!すごいね」
「ありがとうレミリア。爵位は嬉しい。ずっとほしかったから。一族のものじゃなく、自分で勝ち取ったものが欲しかったんだ、ひとつでも。そうじゃないとレミリアに言いたいことも言えないし」
レミリアはきょとん、とした。
イザークは微笑んだまま続けた。
「俺はいつまでもキルヒナー家の次男のままだから」
「……イザークは、ずっとイザークよ。それ以外の何でもないじゃない。それにいつだって言いたいことを言ってるじゃない?」
「そうでもないよ?」
レミリアのように、自分をそのままで評価してくれる人間は実は少ない。
ありがとうと言って、イザークはもう一度彼女をダンスに誘った。
喜んでと応じたレミリアの手を少しだけ強く握る。
「ずっと告げるのを、我慢していた」
レミリアがほんのすこし不安になるのがわかる。
本当は今までの関係のままいるのが彼女には楽だろうと思う。自分がそういう視線で見られていないことも知っている。
だけど、言えるのはきっと今のタイミングしかないと分かっている。
軍部に仕官すれば、次はレミリアにいつ会えるかなんて分からない。
イザークはシンのように彼女のあこがれでもなければ、ヴィンセントやヘンリクのように一族でもない。
ただの、知人に戻ってしまう。
曲が鳴っているのに、その数分間はまるで無音のように思われた。
最後の音が鳴るのと同時にイザークはそっとレミリアの手を取ってそっと指先に口づけた。
「レミリア、君が好きだよ。子供のころからずっと」
誤字脱字は明日修正します




