幕間 軍学校の人々 中
軍学校の現役教師とOBですね。
スタニス・サウレはその日の夕暮れ、目立たぬ格好でヴァザの屋敷から抜け出した。
髪を下ろして帽子を目深に被り、眼鏡をしまえば、印象は変わるだろうと思う。陽が沈んだあとではすれ違う人間の顔貌など確認しようもないとは思うが。
侍従服も軍服も脱いで質素なシャツにジャケットを羽織り、同色のズボンを穿く。
肉体労働ではない、中流階級の男といった風情に見えるだろうか。
仕事帰りを装って、王都の外れの治安が良くも悪くもない酒場に足を踏み入れると、やあ、と寝癖のついた眠そうな顔で、顔見知りが奥のテーブルから手を振った。
呑気な顔に多少いらつきながらもテーブルにつくと、人畜無害そうな顔をした男もテーブルに座る。
連れの女が顔を上げたので、スタニスはどうもと気のない挨拶をした。
エーミール・ハイトマン。
かつてのスタニスの同僚で今、新進気鋭の劇作家だ。
そしてたまに、童話も書く。
本人は童話作家が本業のつもりらしく、子供たちに夢を与えたいんだよとかなんだとか世迷言を言っていたのを思い出して、スタニスはこめかみを抑えた……。
「君が来た事だし、個室に移ろうか!」
沈黙したままのご婦人と、眉間に皺を寄せたスタニスをソワソワと眺めながらハイトマンは二人を店の奥に誘導した。
ずらりと飯が並べられ、ジョッキに酒が並々注がれる。
間がもたなかったのか、乾杯、とハイトマンが言うので、スタニスは思わず突っ込んだ。
「なんにだよ?」
「……ええ、と……西国から無事に戻ってきて、おめでとう、とか?」
「1ヶ月たってる、つうの」
毒づくと、ハイトマンは視線を泳がせた。
「じゃ、じゃあ……君の教え子たちの卒業に乾杯、とか」
スタニスはそれはいいな、と言ってジョッキを高く掲げた。
「乾杯。俺の可愛い教え子たちに。……そして、貴女のご子息に、レディ」
女が初めて視線を上げた。
ヨアンナは息子と同じ色の青い目でスタニスを見ると、意外にもジョッキを片手で掲げた。
「ありがとう。あの子を見守ってくれて、いつも感謝しているわ。スタニス」
「どーも」
ケッ、と舌打ちしたいのを耐えて、スタニスはジョッキを煽る。
先日、レミリアと共にヨアンナの元を訪れた際、彼女はスタニスにボソボソと耳打ちした。
『エーミール・ハイトマン』
と。
ヨアンナは篤志家だ。
救貧院や孤児院の訪問もするし、芸術の……特に、文芸関係の発展には情熱を注いでいる。
その縁でハイトマンとは親しい。……だから、嫌だ嫌だと思いつつ、スタニスは昔馴染みのハイトマンにその夜すぐに連絡をとった。
ハイトマンは彼自身も困惑した声音で、「ジュダル伯爵夫人が君に二人だけで会いたがっているよ」と伝言を寄越したのだった。
ヨアンナと二人きりで話す内容は何もないのだが、先日の様子が確かに非常に気になる。
仕方なく、忍ぶようにして店に来た次第だ。
「二人きりとおっしゃるから、期待して参りましたのに。邪魔者がいて興ざめですね、ヨアンナ様」
「私だけでは不安だから、ハイトマンさんがついてきてくれたのよ」
「なるほど」
質素な服を着て目立たなくはしているが、ヨアンナの物腰は平民には見えない。
さぞかし目立ったろう。
「だけど出来れば貴方と話がしたいの、二人で」
「嫌ですね」
ヨアンナの個人的な愚痴でも、相談事でも、巻き込まれるのは大変に迷惑そうだ。
眉間に皺を寄せて即答するが、意外なことにヨアンナは怯まなかった。いつも何かに怯えている彼女にしては珍しい。ハイトマンが苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「レディはお困りなんだろ?家族のことなんだから聞いてやれよ……」
うるせえ、と思いつつスタニスはもう一口ジョッキを煽った。
ハイトマンが気を利かせて部屋の外に出て行ったので、スタニスは、ため息をつきつつ、椅子に座り直した。
ヨアンナに対してはヘンリクに対する色々な事で個人的に腹の立つことは山ほどあるが、実際のところ、スタニスはヘンリクにとっては何でもない。
義理の叔父、教師、無理やりそう言う名前を当てはめることもできるだろうが、それは多分、自己満足だ。だから、実の親たるヨアンナを責める権利などはない……。
「先日は、伯爵がごめんなさい。貴方に無礼を働いて」
「それはもう結構ですよ、レディ」
スタニスが他人行儀に言うと、ヨアンナは苦笑した。
「お願い、ユエ。少しだけ、昔みたいに気安く喋ってくれないかしら。肩が凝るわ」
スタニスは昔の名前で呼ばれて、眉を跳ね上げた。
ユエ。
月を意味する竜族の名前は、実のところ呼ばれたくない。
ヴァザの連中に取り上げられた名前だからだ。経緯を知るレシェクは決して呼ばないし、好んで使うのはテーセウスや己の師であるイェンくらいだ。
……死んだ先代カミンスキ伯爵とユゼフに呼ばれるならまだわかるが、ヨアンナからは、そんなふうに呼ばれたことはない。
「……勝手に呼ぶな。そんな名前で俺を呼んだことなんてないだろ。……何がしたいんだ貴女は?」
不機嫌に睨むと、ヨアンナはどこか懐かしそうに微笑んだ。
「一度呼んでみたかったのよ。綺麗な名前で、素敵だと思っていたわ」
「それはどうも!」
「……昔もよく、無神経なことを言って、あなたをイラつかせていたわ。貴方はすごく、我慢していたけどね」
「貴女を怒らせると首が締まるので。俺だって命は惜しかった」
ヨアンナはヴァザの娘で、少女時代は今よりもずっと内気だった。
本を読むのが好きな大人しい優しい少女以外の印象はない。今は亡きヴァザの公爵夫人の後をついて微笑んでいる印象が強い。深窓の姫君はスタニス相手にずいぶんと無邪気で無神経な質問をしてきたような気もする。
だから、決してスタニスは彼女が手放しで好きではなかった。
嫋やかな美少女からの称賛の視線を心地よいと感じる虚栄心はあったけれど、苛立ちの方が強かった。
多分、羨ましかったのだ。
何も知らず、汚れず、綺麗なものばかり見て生きている彼女が。
腹立たしいほど妬ましく、悔しかった。
そんな「お綺麗な女」の種馬の如くあてがわれそうになった時期がスタニスには確かにあって、酷く不快だったのを覚えている。
「私はあなたが好きだったわ。初恋だったんじゃないかしら?」
「他人事のように言うんですね」
「……昔すぎるもの」
「それで?まさか思い出話に付き合わせるためにこんなところに呼んだわけじゃないでしょう?」
ヨアンナがまっすぐスタニスを見た。青い目は、ヴァザ特有の水色ではない。
もっと、濃い青だ。酒場の緋い光を受けると、青というよりもむしろ……。
「昔話をしたいの。おねがい、貴方にしかいえない。どうか、きいて」
テーブルの上に置いていた手を、ぎゅっと握られる。
爛々と光る瞳には恐怖と決意が混ざっているのを見て、スタニスは仕方なく、頷いた。
「少女の頃、私は貴方が好きだったわ。本を読むのが好きな姫君だったから、いろんな空想をして遊んでいた。貴方は、私の子供じみた空想の幼稚な恋の相手にぴったりだった。神秘的な竜族の血を引く男の子で、強くて、毅然としていて、誰かの顔色を窺ったりもしない。意地悪なカタジーナだって、貴方を疎かにはしない……。他の同じ年頃の子が他にいなかったし……本当を言うと、私はきっとどこかの竜族の子で、いつか、貴方みたいにものすごい剣の使い手になって、戦場でカッコよく戦うんだ、って……」
「戦場なんて」
「ええ、人間が行くところではないわ。ひどい、ところ。……でも、何も知らずに私は憧れていた。そんな時」
ヨアンナはスタニスの手を握りしめた。
無意識なのか、爪が食い込む。
スタニスは眉をしかめたが、女の好きにさせた。
……聞かない方がいい、と誰かが言うのだが……聞くべきだ、ともう一方では誰かが囁く。
スタニスとの縁談があったのだ、と。
ヨアンナは喜んだ。
次に再会するときに備えて、スタニスのためにいろんな刺繍だって縫った。
今はあまり好かれていない気はするけれど、一緒に暮らしたら、きっと優しくしてくれるだろう、と夢見がちな少女は考えた。
今思えば、スタニスを好きだったのではない。
竜族の血を引く旦那様。なんて素敵なシチュエーションだろう、とその状況に酔ったのだ。
夜にはドラゴンに乗って散歩に行けるかもしれない。ヨアンナが産む息子か娘は、父親譲りで金色の瞳をしていたらどんなに素敵だろうか、と。
スタニスがヴァザに引き取られた経緯も知らずに、醜悪な妄想を、した。
彼の父親は、王家に殺されたのに。彼は間近でその最期をみたのに。
自由を全て奪われて、首輪でヴァザに隷属させられていたのに。さらに、馬鹿な女の種馬としてあてがわれる。それが彼にとってどれだけ屈辱か、温室の花に囲まれて育ったヨアンナにとっては、全く考えの至らないことだった。
だからスタニスとの婚約をマラヤ・ベイジアと、退位した国王が強固に反対したことに、ヨアンナは珍しく憤慨した。
彼らが、完璧な御伽話を邪魔する悪役のように思えた。
先代国王は、嫌な男だった。
いつも王宮に挨拶に行くと必要以上にヨアンナに話しかけてきて様子を伺う。
観察されている。
彼がヴァザの女を好んで、手をつけると聞いて嫌悪は一層増した。
カタジーナは口をわらないが、長姉は国王と関係があったはずだ。
おそらく、美貌で国王を籠絡して、王妃の冠を手に入れる算段をしていたはず。
ヨアンナはゾッとした。
そもそも、ヨアンナの母親は、国王の亡き妻の侍女として、彼の側に仕えていた。ヴァザの傍系で、身分はそう高くないが、金色の髪と水色の瞳をした、おとなしく美しい女だった。国王が母親に目をつけていてその母に似てくるヨアンナを「慰み者」にしようとしてきたらどうしよう、などと言う埒もないことを妄想して……寒気がした。
いやらしい、悪どい、娘のベアトリスに玉座を奪われた老人。
ヨアンナは彼が大嫌いだった。
だから、マラヤ・ベイジアに、スタニスとの婚約破談について抗議をしに行き……、そこに前国王がいるのを見かけて……、震えながらも抗議した。
「私、言ったの」
「……何を?」
「『私が、若くて強い男性に焦がれるのが気に入らないんでしょう?いくら邪魔をしたって、私、貴方みたいなおじいさんなんかの妾にはなりませんから!』……って」
スタニスが蛮勇だなそりゃ、と呆れた。
「スタニス、貴方は前国王を覚えてる?」
「もちろん。……いつか、殺してやりたいと思っていた」
ヨアンナが泣きそうな顔で、笑う。
「私もね、大嫌いだったわ。あの男がいなければ、私はヴァザの王女様だったのに!カタジーナと同じで、愚かなことを考えていたの。だから、感情の赴くままに、前国王を詰った」
ヨアンナの拙い啖呵を聞いていた前国王は、ニヤニヤと笑って、ついには堪えきれないとでも言いたげに、大笑いをした。
そして、制止するマラヤを突き飛ばして、ヨアンナの頬を張り飛ばして床に倒れ込ませ、言葉を失って泣くヨアンナの喉元に短剣を突きつけた。
そして、服を脱げ、と笑った。
スタニスの眉間に皺がよる。
「……無理に、話すことはない。そんな下衆の記憶は、あんたが口にする必要は……」
ヨアンナは笑ったまま、首を振った。
「犯されてないわ。その方が良かったけど。今、思えば」
「……ヨアンナ?」
ヨアンナは自分の胸元のボタンを外した。
ギョッと身を引いて逃げようとするスタニスを逃げないで、おねがい、と懇願する。
「貴方を誘惑したいわけじゃないわ。見てほしいだけ!」
素早く上半身のシャツを脱いだヨアンナは左肩を見せた。
狼のような小さな痣がある。
火傷痕のようにも見える……。
「ヘンリクにもあるの。……あの子の場合、左の腰より下の、臀部みたいな位置だけど」
貴族は他人に肌を見せない。
下半身となれば余計見せはしないだろう。
「私はね、あの子に小さな頃から呪いをかけたわ。痣なんてみっともない、恥ずべきことだ、誰にも見せてはいけない、それは……恥ずかしい印なんだから、って」
スタニスは無言で、ヨアンナの前に座り込んだ。
「……前国王は私の肩を押さえつけて、笑って言ったわ」
馬鹿な娘。お前の母親にそっくりだ。
美しいだけで、夢見がちな、頭の足りない愚かな女に!
そして、シャツをはだけて、見ろ、と言ったと言う。
……ここに、お前と同じ痣がある。
よく見ろ、全く同じ形だろう?……我々にはよく出る痣だ。
先代国王の胸元には、ヨアンナと同じ形のあざがあった。
そうして、先代国王は、左手で短剣を器用に扱いながら、低く、ささやいた。
愚かな娘、聞くがいい。
お前が竜族の子を産んでは困る。
それは、ベアトリスの治世の妨げになる……、いいな?諦めろ。
お前にはお前に相応しい、美しく、美しいだけの若者を見つけてきてやるよ。
おまえをつくった、私の責任として。
ヨアンナは泣き叫んで、その場で意識を喪った。
……酒場の喧騒で、スタニスは我にかえった。
ヨアンナの震える左手で握られた己の手に視線を落とす。
スタニスは、ぼんやりと思い出していた。
そう言えば、ヨアンナも左利きだ。一族の中では唯一。息子のヘンリクもそう、だ。
その癖はヨアンナがひどく嫌がって、剣術とヴァイオリン以外は矯正させていたが……。
………。
女王ベアトリスが左で署名していたのを思い出して、背筋がすっと寒くなる。
唾を飲み込んだスタニスに、ヨアンナはすがった。
「知られては、困るの。あの子が、目立っては困るの。だって、殺されてしまう。誰かが知ったら、きっと私の大切なあの子が、殺されてしまう!なのに、マラヤ・ベイジアはそのことをヘンリクの卒業と同時に明かそうとしている!」
「……ヨアンナ」
「栄華などなくていい、凡庸でいい、愚かでいい。そう、身勝手に願うあまりに、ずっと、息子の心を傷つけてしまった。それでもいい、生きてさえいてくれれば、何事にも巻き込まれないでいてくれれば。それでよかったのに!……おねがい、どうか、お願い、スタニス。どうか私の息子を守って。マラヤから証拠を取り戻して」
ヨアンナは泣いてはいなかった。
ただ、緋い灯に照らされて……青い瞳が違う色に映る。
紫の瞳がすがるように……、スタニスを見上げていた。
続きは5/15に!
5月前半はバタバタなのでごめんなさい。感想とか頂けると嬉しいです。
ヨアンナの目の色とか、ヘンリクが左利きな理由とか、察してらっしゃった方もいるかな?と思ってますが……どうでしょうか(書籍の挿絵もヘンリク左利きなのです……。




