物語は閉ざされる
ぱち、と夜の森に火が爆ぜる。
暗闇に篝。
どこまでも闇が漂う中で獣避けに作られた焚火があわく橙に光る。
何もないよりも僅かな光に照らされたせいで深い闇はよりいっそう際立つ。
いっそ、と。
誰かが、言った。
はじめから、光など知らない方が、安穏と暗がりに漂っていられたのに、と。
―――面白い話をしてやろうか。
いいや、少しも面白くない話だ。
どこにでもある、ありふれた、取るに足らない一人の人間の一生の、話。
もう知っている奴は誰もいないと男は言った。
答える者も、もう、いない。
死臭、腐臭。どろりとした、むせかえる甘い匂いが腹に落ちて澱む。
……終わりははじまりで、はじまりは終わりで。
勝手にはじまった物語は、己ではもう、閉ざすことができない。ぽかりと口をあけた暗闇に包まれて人の輪郭は溶けていく。
どこかで狼が吼え。梟の嘆きがが不規則に時間を刻み、鳥が羽ばたきを闇に落として去りゆく。
闇にいつまでも留まるのは、彼だけだ。
彼、ひとりだけ。
カルディナ北の森に住む魔女ーーー怪しげな知識と医術を使う民の一人、テーセウスが物心がついた頃に、彼の父親が亡くなった。
父は人間と関わる変わり者の竜族で医師で、ぼんやりと、優しい人だった、と記憶している。
父の亡骸の横で母は一晩中泣いていて、それがテーセウスの一番古い記憶になった。
両親の傍らにはずっと、白髪の竜族がいた。
白い雪のような髪に褐色の肌。橙色のような金の瞳。
びっくりするくらい綺麗な顔をした男はイェンと言った。
母、キリの友人だというイェンはいつしか当たり前のようにテーセウスのそばにいた。
竜族の長の縁者だという美貌の男は、長から里にいろと命じられても彼らを嫌って里にはあまり寄り付かず西国や、ときには山を超えた煌の国にも赴いているようだった。
当てのない旅は何のためなのか。
何かを探しているようなんだけれど……と。
気になって母に聞いたことがある。
尋ねたテーセウスに、キリは……(その頃にはもう、キリは病で時折、寝付くようになっていた)ベッドの上で煙草を行儀悪く燻らせながら、天井を眺めつつポツリポツリと話し始めた。
テーセウスを見上げて、おいで、と手招く。
「あたしも全部を知ってるわけじゃない。西国を行き来して、ナジルとか……あんたもあったことあるだろう……オアシス都市の総督をしているケチで嫌味な爺さ…奴から聞いたこととか。聞いた話全部合わせた答え合わせをしてるだけ。テーセウス、……暇つぶしに、あんた聞いておく?」
素っ気無い口調とは裏腹に、懇願するようにぎゅ、と手を握られてテーセウスは苦笑して、聞くよ。
と請け負う。
母はもう、永くはない。
誰かに伝えておきたいのだと思った。遺言のように。
純血の竜族は両の瞳が金色で、テーセウスのように半竜族は、その片方だけが金色になる。
だが……稀に、竜族の血を引く者が死にかけて蘇生すると、両の瞳が金色になる、ことがある。
人から竜になるわけで……。
一度殺されかけたイェンはその数日後に息を吹き返した。
蘇った原因は本人もわからないと言っていたし、条件は誰にもわからないのだとか。
「イェンは、人間だった頃とは馬鹿みたいに力が違うって言ってたよ。腕力も、身体を動かす速さも比べ物にならない、それに……同族がどこにいるのかが気配でわかるようになった、って」
テーセウスは、ああ、と頷いた。
子供の頃、森の奥で迷子になると決まってイェンが探しにきてくれたのは、それでだったのかと得心する。
キリは、まるで見てきたかのようにその後のイェン、を語り始めた。
家族を失った代償のように竜族としての能力を得たイェンは西国へまずは取って返したらしい。
――当時は西国領土だったカナンに行き、総督府に忍び込んで総督だったハリファを文字通り八つ裂きにした。
凄惨な復讐劇が終わるのを見計らったかのタイミングで、前カナン総督イスファンはその場に現れた。イスファンが目にしたのは血の海の中で立ち尽くす竜族の男だったと言う。
どこから連れ出したのか、彼の目の前には、ぼんやりと天井を見つめる美しい女が人形を抱きしめて細い声で歌っている。
アセムは繰り返し、繰り返し、子守唄を歌っている。
無残な遺体と、恐ろしいほどの美貌の竜族と、か弱い女。
イスファンは既視感を抱きながら、その場面を眺めてかぶりを振った、
かつて、同じ場面に立ち会ったことがある。
あの時も彼は家族を奪われて……悲嘆に暮れていた。
しかし、今のイェンを包むのは悲しみではない、憎悪と怒りだ。
「娘を探しているの。アイシャがどこにもいないのよ。あの子は私が守ってあげなきゃいけないのに!……ああ、どこにいるのかしら」
男たちが静まり返る中、場違いに明るい声で、アセムは言った。
不思議そうに、無表情のイェンを見上げる。
「ねえ、竜族の方。私の夫と息子を知らない?私たちを置いて先にカルディナに行ってしまったのよ……そろそろ迎えにきてくれるはずなの……」
イェンが剣を持つ手に力を込める。
イスファンは部下たちが静止する中、血の海の中を歩いてかつての部下だった男に近づくと、彼が柄にかけた手を上から押さえ込んだ。
感情の抜け落ちた双眸に見下ろされて、イスファンは首を振る。
「よせ。これ以上の殺戮は許されない」
「なぜ?あんたの仕事がしやすくなっただろう?感謝してくれてもいいぜ」
皮肉に笑う双眸は金。
美しかった陽の光を集めた髪は色褪せ、老人のような白髪になっている。
かつての友人たちが彼を見かけても、この男が、このカナンで、ひとりの凡庸な父親として暮らしていた人間と同じだとは、……決して気付くまい。
二人のずっと背後でナジルが呻くのを聴きながらイスファンは再度、ゆっくりと首を振った。
「カナンは私の支配下になった。たった今からこの都市の、人も建物も全て私のものだ。誰が傷つけることも許されない。そして、我らと竜族の間には不可侵の契約がある。竜族は西国の人間の争いには関与してはならない、決して。……彼女は、私が庇護しよう」
イェンは鼻白み、ハッと鼻で笑うと、鞘に抜身の剣を納めた。
アセムが「ねえ」とイェンに追いすがり、イェンはぴくりと肩を震わせた。
「ねえ、竜族の方。お願いよ。私の娘を探してちょうだい。そこで寝ているハリファ様が、アイシャを何処かにやってしまったの!ひどいわ、あの子は私がいないと駄目なのに……ああ、はやくアイシャが帰ってこないかしら。イェンが戻ってきたら怒るわ。せっかく家族四人で幸せに暮らせるのに。……あの人、寂しがり屋だから」
アセムは人形を抱きしめて、あら?といった。
「アイシャ!こんな所にいたの?いつ戻ってきたの。……お母様は駄目ねえ、気づかなかったわ。ごめんなさいね。もう、離さない……可愛いアイシャ、大好きよ。大好き。私の可愛い娘……あんたは私みたいにはしないわ。世界で一番、幸せになるのよ、とびきり、可愛い子、特別な子、いちばん……」
アセムは再び歌い出した。
男たちは異様な光景に沈黙し、遺体の上に西国の古い歌だけが。
大粒の雨のようにひんやりと無慈悲に降り注ぐ。
夜の星が照らす道を
旅人は影を連れてあるく
闇をたどり地平をめざし
あけゆく光を 夢見て
ひとり 影を連れて……
イェンは、用は済んだ、とハリファの遺体を睥睨して、踵を返す。
その背中に、イスファンは声をかけた。
「私が不在のせいで起こった事だ。恨みに思うのならば、今ここで私を殺してもいい。恨むまい」
イスファンの言葉に部下たちはぎょっとしたが、イェンは斜めに振り返り、吐き捨てた。
「くだらない。あんたを殺して何になる?ハリファを殺して気が済んだ。あとはもう、西国の事には関わらない……我ら竜族と西国王の誓約において」
冷たい竜族の声音にナジルは目を伏せた。
死ぬな、と。
別れたのはほんの数ヶ月前だというのに、あの時の友人の面影はどこにもない。
一顧だにせずすれ違い……イェンの足音は遠ざかる。
ナジルが意を決して振り返った時、彼の姿はもうどこにもなかった。
アセムはイスファンの後宮に残り数年後に静かに息を引き取った。
そう、キリは聞いた。
子供のようになったままイスファンの寵を受けて子を産んだとも噂されたし、いいや本当はそれは誰の子かわからないのだが憐んだイスファンが子供を引き取ったのだ、とも。
彼女にはそんな妙な噂もあったが……異国の後宮深くのこと、部外者には詳しい事はわからない。
キリにしても、とにかくアセムは死んだのだ、と。ナジルが言いにくそうに説明するのを聞いただけだ。
キリは長いことイェンに彼女の訃報を告げられなかったが、イェンはとっくに知っていたかもしれない。
西国を後にしたイェンは、カルディナに戻った。
王宮に忍び込んで王を殺すのが困難だと悟った彼は代替わりしていた新しい竜族の長に請われて北山で数年を過ごし……。
やがて、北方を治めていた年若い紫の目をした辺境伯と知り合い……、力を貸す事になる。
王家に連なる名家の当主、ウォルト辺境伯は狂王に父と姉を惨殺された。
その恨みを隠して国王に取り入り、やがてヴァザ王朝を斃すことを夢見るようになる。
イェンは辺境伯の部下のような客人のような地位を得て暗躍していたようだ。
その頃のことはテーセウスもぼんやり覚えている。
いつも血の匂いがしてどこか怪我をしていて、あの頃のイェンは少しも好きじゃなかった、と思う。なんでカルディナの貴族なんかとつるむのか、とテーセウスが聞くと、ただヴァザの王を暗殺するよりも、ヴァザ自体を滅ぼす方がよほど面白いだろ?と笑っていた。
……ぜんぜん面白くないよ、とテーセウスは反論したけれど……。
「ヴァザが滅びたことを、イェンは喜んでいたのかな」
テーセウスが母から煙草をとりあげつつ呟くと、キリは困ったように笑った。
「どうだろうね……。ヴァザ滅ぼす約束で力を貸したのに、ウォルトが日和やがった、と怒っていたけど」
ウォルト辺境伯……カルディナの新王となった彼は、ヴァザ王家を滅ぼし尽くし……は、しなかった。
ヴァザ国王の遺児である美貌の姫に骨抜きにされてその姫を妻に迎え、彼女に連なる一族の者を助命した。
だからヴァザの一族は王権を失った今でもカルディナ唯一の公爵家として未だ存続し。
燻り続ける火種のように、彼らと彼らを取り巻く貴族たちは、新王家の失脚を虎視眈眈と狙っている。
カルディナの平穏は……新王の娘であるまだ小さなベアトリス王女(という名前なのだと、つい先日テーセウスは知った。王女ベアトリスは、テーセウスの大切な妹分の、異母妹にあたるからだ)に託されたらしい。
カルディナはテーセウスにとっては異国だ。
誰が治めようが知ったことではないけれど……平和な気質の彼は、あまりひどい内乱が起こりませんようにと祈るしか出来ない。
長い話を終えて、キリは目を伏せた。
「あたしが死んだら、イェンの事情を知る奴は、ほとんどいなくなっちまうからね。ねえ、テーセウス。あいつも困った奴だけど、たまに……気にかけてくれる?」
テーセウスはわかった、と頷いた。
「イェン、そろそろ帰ってくるかな?」
「たぶんね」
「母さん、……イェンはあちこち放浪して……何を探してるんだ?」
キリは悲しそうに微笑んだ。
「アセムの願いを果たそうとしてるのさ。馬鹿だろう?娘を……赤ん坊だったアイシャを探してる」
「……生きているの?」
アセムと共に西国に残された娘は、ハリファによって殺されたとも、奴隷商人に売られたとも聞いたらしい。
行方が知れないのだ、とにかく。
「どうだろうね?だけど、しつこく、しつこくイェンは探してる……気が遠くなるくらいの時間を、ずっと……あたしも、気持ちはわかるよ。あんたが同じ目に遭ったら、きっと世界の果てでも探しに行く」
テーセウスの髪の毛をかき乱して、キリはぼやいた。
テーセウスは、そうだね、と応じる。
息子の反応に目を細めてから……よっこいせ、とキリはベッドから起き上がった。
あいつが帰ってくるなら肉料理でも振る舞ってやろう、と楽しそうに笑う。
……キリはの外見は、そろそろ老年に差し掛かる。
だが、そんなキリにとって、イェンは「兄のようだった」らしいのだ。
竜族の生涯は長い。
――人間よりも、ずっと。
キリが老婆になって息絶えても、以前はずっと若いまま、竜族として生きていくだろう。……そして、テーセウスも彼よりも早く死ぬ。おそらく。
キリは窓の外の空を眺めてしばし、その青さに見惚れている。
「竜族の奴らはね、かわいそうなんだ」
「可哀想?どうしてさ」
キリは空に視線を遊ばせたまま、言った。
「だって、自分で死ぬのを選べない。自分で自分を殺せない。その命を自死で終わらせることができない……それはきっと、呪いだよ」
「呪い」
「あたしが……イェンを殺してやれたならよかったけど。無理そうだ。……あいつには、生きていて欲しいって、無責任に願っちゃうもの」
キリは、首を振って「辛気臭い話をしちゃったね」というと、厨房へ向かう。
テーセウスはそうだね、と静かに応じて、西の空を眺めた。……遠くにドラゴンの影が見える。
イェンが帰って来たのだろうか、とテーセウスは目を細めた。
―――キリは数年後に、病を経て亡くなった。
北山の魔女の習慣で荼毘に付されたその煙を……、イェンは夜更までずっとひとりで眺めていたように記憶している。
時は流れて。
何年も何年も流れて。
テーセウスは恋を知り、破れて。
唯一の家族である母を失い、その代わりに幼なじみの息子である、シンを養育する機会を得た。
まるで自分の子のように彼を慈しんで育てて……、しかし、シンをカルディナの女王ベアトリスの要請に応じて引き渡して。……日々は悲しみの量に関係なく、淡々と動く。
イェンは時折、北山に戻って来ては埒もない土産話をテーセウスにしにきて、気がつくと、フイ、といなくなる。そういう……根のない暮らしをしている。
今はスタニス・サウレと名前を変えた半竜族の少年、ユエがヴァザの当主であるレシェクを選ばずに北山にいたならば、と思うことがある。
そうであれば……イェンは、北山にずっと止まっていただろうか、と。
全ては意味のない仮定だけれど。
イェンが北山に戻って来なければ、いいと思う。
どこかでのたれ死んで、孤独な旅に終止符が打たれればいいと願う。
なにせ……、たぶん、テーセウスは彼よりも先に死ぬ。彼を遺して、先に逝く。
「あたしが殺してやれれば」
という母の声をたまに思い出す。
イェンは冗談じゃないと嫌がるだろうが、たまに、心底、そうしてやれたらいいと思う。
彼に終わりを与えてやれればいいと思う。だが、テーセウスにも出来ないだろう。……彼に生きていて欲しいのだ。
自分が、死んだあとも、なお。
時は流れる。
瞬くまに。
◆◆◆◆◆
時は、流れるのだ。
あまりにも早く。
その日、カルディナの王都にある国教会の離れの廊下を一組の男女が無言で歩いていた。
しばらく前に国教会では収監されていた咎人が脱獄のうえ服毒死するという不祥事があった。
その女が敷地内で荼毘に付されているとあって、国教会内は奇妙な緊張感に満ちている。
二人が歩くのは国教会の本部ではなく、引退した神官などが住まう離れであったけれども、静謐とは程遠い、不気味な静けさがそこにはあった。
通常、カルディナでは死者は土葬で葬られる。
疫病でない限りは火葬は、咎人への処置だ。
咎人の名はリディア。
半世紀近くの長きに渡り、国教会の中枢にいた神官である。
神官リディアの訃報を聞いて喜んだ者は、少なくはないだろう。
彼女は神殿関係者を多く輩出するレト家の出身であるから、レト家の者はつい先日まで一族の誇りよと褒めそやした彼女が犯した罪が白日の下にさらされて一族の評判が地に落ちる事に戦々恐々としていたし、神殿関係者もしかりだ。
訃報を耳にした神官長が「裁判にかけられる前に死んでくれてよかった」とお道化ていうのを聞いたと、神殿内ではまことしやかに囁かれていた。
神殿関係者が胸をなでおろしたのとは対照的に、女王を奉じる一派は歯噛みした。
高位神官の犯した罪を詳らかにし、その処置を交渉の材料にして国教会より優位に立つ機会を失ったのだ、無理もない。
そして、副宰相を失ったのも手痛かったろう。反女王派の弱点になりそうだったリディアが、何故か都合よく副宰相の執務室に忍び込み、彼を殺して律儀に服毒死した。
でき過ぎた話ではあるが、今のところ死因は覆っていない。
廊下の端で足を止め、高い建物の上から荼毘に付される煙を眺めながら、男は皮肉に口の端をあげた。
「死んでくれてよかった、か。よかったな、せめて喜ばれて」
皮肉な言葉を発した男は黒髪に青の瞳をして、肌は日に焼けている。
北部人に多い特徴だった。
右手首には彼の簡素な装いに不釣り合いな瀟洒な腕飾りをしていた。
「死者を冒涜するつもりはないのではなかった?」
冷ややかな口調で美女になじられて男は微笑む。
「冒涜などしていないだろう?事実を端的に述べただけだ」
「ああ、そう?それより少し黙って。貴方をここに連れてくるのも苦労したのよ。おとなしく目立たないようにしてくれない?でなければさっさと帰ってちょうだい、一人で」
冷たい瞳で睨まれて肩を竦める。
無言で歩みを進めた二人に気付いて老いた神官が慌てて道を譲る。
栗色の髪をした女の名はシルヴィア・ヤラ・ヘルトリング。
神官達が神と崇めるヴァザ一族の有力者である、伯爵夫人カタジーナの愛娘だ。
連れの男は誰だろうか、と老神官は訝しんだが、シルヴィアは「御前様にお客よ」とすげなく答えた。
「……マラヤ様に、でございますか?」
「ええ、私がこちらの客人を伴ってここに来ることはマラヤ様には報せてあるから、心配はしないで」
「その、そちらのお客人のお名前は……」
「私もよくは知らないわ。マラヤ様の客人、とだけ」
老神官は彼女の横にいた男をしげしげと眺めたが、貴族然とした彼に冷たく射られて慌てて頭を下げた。
その間にマラヤ付きの老侍女がお二人ともお待ちしておりました、と迎えに来た為に、名乗りを受ける機会を失って背中を見送るにとどめた。
黒髪に青い目の、しかし、ひどく美しい男だ。
まるで神のような。
ひょっとすると美貌で名高いヴァザの傍系かもしれない。
おそらく、そうなのだろうと得心して彼は二人連れの背中に頭をたれ、彼らの事はすぐに忘れた。
「マラヤ様は?」
「そろそろ、午睡から目を覚まされるお時間です。どうぞ、隣室でお待ちを」
「わかったわ」
老いた侍女がそう答え、シルヴィア達は大人しく従った。
マラヤとは、マラヤ・ベイジア・ヴァザという名のヴァザ一族最高齢の女性であり、ヴァザの面々からは御前様、と呼ばれている。九十は超えた老齢だろう。
元々の生まれはヴァザ王家の末姫だったが、異能を持っていたがゆえに国教会に籍を移し、そして、それ故に、ベアトリスの父たる前国王がヴァザ王家の者達を悉く弑した際、辛くも難を逃れた……。
「本日はヨアンナ様もご訪問になっておりますのでどうぞ、ヨアンナ様がご退出された後にお部屋にお入りください」
老いた侍女はほんの少しだけ困惑を表に出していた。
ヨアンナの訪問は予定外の事であったのだろう。シルヴィアはわかったわ、と肩を竦めた。
男と二人、部屋に取り残される。振り返って男の横顔を睨みつける。
「……マラヤ様におかしなことはしないでしょうね?」
「おかしな事とは?」
「害をなさないで、と言っているのよ」
男は秀麗な顔を皮肉に歪めた。
「信用がないな、俺はただ昔馴染みのマラヤに会わせてほしいだけだ。そうすればお前の質問にも答えてやる。悪くない取引だろう?」
「本当でしょうね?」
「くどい」
男はため息をついた。
椅子を引き寄せると行儀悪く腰掛けてシルヴィアを見上げた。
「お前の疑い深さは人間不信からくるものか?それとも、男嫌いなのか?どちらだ」
「貴方が嫌いなだけよ。主語を大きくしないで」
「わかったわかった、……マラヤを傷つけるつもりはない。聞きたいことがあるだけだ。本当に」
「本当でしょうね?もし、嘘なら貴方が知りたいことを私は絶対に話さないわ」
「無理やり口を割らせるって手もある」
「そんな事をしてごらんなさい。舌を噛んで死んでやるから。貴方の知りたいことは、全て闇の中よ。よかったわね」
どこまでも冷たく頑なな女に、男が多少辟易をしたところに、マラヤの部屋から甲高い叫び声が聞こえた。
「アアアアアアッ!!!アア!!」
「御前様、マラヤ様!!」
老女の叫び声に続いて聞こえたのは、シルヴィアの叔母にしてヴァザ家四姉妹の四女、ヨアンナの声だろう。
シルヴィアが躊躇するのに構わず男はさっと椅子から立ち上がると勝手知ったる様子で、マラヤの部屋へと足を踏み入れた。
「待って!」
シルヴィアの制止はあっさりと無視される。
男が隣室に入るとマラヤ付きの老侍女は困惑し、ヨアンナは鋭く誰何した。
「誰です、無礼者!」
「お客人、今は……」
とどめる二人の声も全く意に介さずに、男はヨアンナの腕の中で荒く呼吸をする痩せた老婆を冷え冷えとした青で見下ろした。
マラヤは悪夢を見ていたのか、荒い息を繰り返し、額には汗が滲んでいる。
「――老いたな、ベイジア」
男は無礼にも、彼女の洗礼名を口にした。
マラヤ・ベイジア・ヴァザはのろのろと顔をあげ、男の顔を見て、わずかに震えた。
無礼者、下がれとヨアンナが叫ぼうとした刹那、老婆から発せられた名に体を固くする。
「……ルエヴィト殿……」
「おや、俺の顔がわかる程度には耄碌していなかったか、それは重畳!」
美貌の男は露悪的にせせら笑う。
男から遅れて部屋に現れたシルヴィアにヨアンナは困惑した。
それから、マラヤが口にした男の名にも、だ。
ルエヴィト。
戦神を意味するそれはヨアンナの同母弟レシェクの洗礼名だ。
そして、その名を授かるのは、ヴァザの一族の者だけと決まっている。
しかし、その男の顔にヨアンナは覚えがなかった。一族の者か?いいや、知らない顔だ。ヴァザの特徴である金色の髪でも、水色の瞳でもない。
いや、どこかで見たような気がするのだが……、違和感が邪魔してヨアンナには、思い出せない。
「この者は……誰ですか、シルヴィア?」
「ヨアンナ伯母上……彼は」
シルヴィアが誤魔化す前に、マラヤが答える。
「……ヨアンナ、彼は私の客です。私の知己です。古い、古い、知り合い。大丈夫、心配をかけたわね……大丈夫だから」
「……御前様。しかし、素性の知れないものを貴女様のお部屋に入れるなど!人を呼びま……!」
ヨアンナが最後まで言えなかったのは、喉元に刃を突き付けられていたからだ。男の掌に収められた小さな小刀が喉元にぴったりと押し付けられている。
いつの間に、と思うのと同時に、冷たい感触に恐怖がせりあがる。シルヴィアが青ざめ、男は苛立ちを隠さずに低い声で言った。
「しばらく黙っていてくれないか、ジュダル伯爵夫人。俺も時間が惜しい。出来ればこんな胸糞悪いところには一秒だっていたくないんだ。静かにしてくれ。ベイジアから話を聞けばすぐに出ていく」
首元の刃が僅かに角度を変え、わずかに痛みが走る。
「静かにできないのなら、静かにさせてやってもいい。……シルヴィア、お前も妙な真似をせずにそこの椅子にでも座っていろ」
「……危害を加えるつもりはないと言ったではないの、嘘つき」
「お前とマラヤには何もしないと誓った。それは守っている。この女に対しては何も約束してはいない。俺にはどうでもいい事だ」
ヨアンナは胸にあてた左手で思わず自分の襟元を握りしめ、ごくりと唾を飲み込む。男は、面白そうにヨアンナを見た。
「……あんたも左利きか、なるほど」
嘲笑する口調にヨアンナの背中を汗が伝う。
マラヤが、静かに懇願した。
「……ヨアンナ、私と彼は、古い知り合いなの。本当に。大丈夫だから何も心配しないでおくれ……」
ヨアンナは視線だけで同意すると、へなへなと崩れ落ちた。叔母上、とシルヴィアが差し出した腕の中に情けなくも収まる。
それから唇を小さく震わせて言った。
「おもい、だしたわ、貴方……スタニスの……」
ヨアンナの呟きを肯定するかのように男が腕輪を外した。
途端に、艶やかな黒髪は雪のように白く、空の青は夜の月色に、肌は西国人のような、褐色へと変化する。
いいや、元に戻ったと言うべきか。
――おそらく、腕輪に込められた術で幻視をかけていたのだろう。
……竜族だ、とヨアンナは思い、数ヶ月前の夜会で彼を見かけたのを思い出した。
西国の使者として現れた竜族。
そして、それ以前にもヨアンナは彼を目にしたことがあった。
遠い昔。
彼女がまた少女だった頃に幼馴染の――そう思っているのは悲しい事にヨアンナの方だけだろうが――スタニスが彼を酷く忌々しげに、そしてどこか誇らしげに、そして親しげに、この男の名を呼ぶのを何度か見たことがあった。
「イェン……」
竜族の男、イェンはヨアンナとシルヴィアを冷たく一瞥するとマラヤのそばでしゃがみこんで、彼女を見上げた。
「久しいな、マラヤ・ベイジア」
「……貴方も。今日は、何の用です。ルエヴィト殿」
「聞きたい事がある、とその前に」
イェンはシルヴィアの手の中に居たヨアンナに近づくと、手巾で口を塞いだ。あっさりと彼女は眠りに落ちる。
「……面倒ごとは嫌いだ。シルヴィア、お前があとはどうにかしておけ」
「……わかったわ」
シルヴィアは侍女の手を借りて、叔母を長椅子へ横たわらせた。それを一瞥して、イェンはマラヤの横に椅子を引き寄せて腰かけた。
窓の外に細い煙が立ち上るのを、マラヤに示す。
「リディアと言ったか?あの女があそこで灰になっている。俺はあの女に聞きたい事があったんだが、それも全て灰だ。なあ、マラヤ。お前はあの女と親しかったな?代わりにお前が教えてくれ。なに、ほんの数十年前のことだ、お前はきっと覚えている」
「なにを聞きたいのです」
「シルヴィアの母親が疎んで遠ざけた、ヘルトリング伯爵家の侍女はどこにいる?」
「なんの、こと……」
「とぼけるな、口を裂くぞ。―――先代のヘルトリング伯爵が拾って侍女にした、竜族まじりの娘のことだ。ヘルトリング姉妹の乳母、アイシャのことだ。カタジーナが殺しかけたのを、お前が助けたと聞いた。……今はどこにいる」
「……彼女は、あなたの、なんなのです?」
「娘だ。人であった頃の、な」
シルヴィアが息を吸い込む。
マラヤは顔を覆った。
「どうして、貴方が生きているのです……貴方は死んでいると思っていたわ、イェンジェイ」
「俺もそのつもりだったよ。だが、生憎と俺は死神に嫌われた。さあ、マラヤ。お前の侍女やジュダル伯爵夫人の命がおしければ、さっさと言え。俺の娘を、お前はどこに匿った?」
老いた神官は……壁に掲げた地図を、しわだらけの指で、示した………。
北の森の魔女、テーセウスはその日、自室で手紙を読み返していた。
テーセウスの養い子だったシンは、カルディナの王都で、悩みながらも成長しているようだった。友を得て、恋をして……当たり前の人間のように、朗らかに。
時は流れるのだ。人間には。
……それは、竜族になってしまった男には二度と訪れない福音かも知れなかった。
時は流れる……。
シンから、軍学校を卒業する、と手紙が来て。
学園生活の悲喜交交を認めたシンにしては長い(途中にイザークとヴィンセントと……他にもう一人誰かの筆跡が混ざっているようではあったが)手紙を読んで微笑んでいると、慌ただしく家の扉が蹴破られた。
現れたのはイェンで、いつものようにつまらなさそうな顔をして彼は……、何も聞かずに、一緒にカルディナのヴァザ領であるメルジェまで来て欲しい、という。
メルジェは、ほんの数年前、シンや……ヴァザの公女レミリアと訪れた土地だった。
今はカリシュ公爵レシェク・ルエヴィト・ヴァザの長姉であるヘルトリング伯爵夫人が預かっている領地であるが……。
テーセウスが理由も聞かずにイェンに連れられて行ったのは、メルジェの外れにある施療院だった。
貧しい民を無料で治療する施設……。
湿気の多い病室のひとつに、彼女はいた。
粗末なベッドに寝たまま、手が何かを探して動く。
「大丈夫、ここにいるわ」
彼女の手をとって、慈愛に満ちた瞳で痩せた女を見下ろすのはほっそりとした美女だった。
痩せた病人は夢を見ているのか半分開いた瞳で、小さく歌を歌っていた。
綺麗な声で、西国の子守唄のようなものを歌っている。
「診てやってくれ、たすかるか?」
テーセウスは、病人の脈をとって口内を確認し、目蓋を裏返して貧血を確認し……、首を振った。
敷布を目視でみる。
変えたばかりなのだろうが、下着が血で汚れているのがわかった。身体を診察すると、古い傷なのか、腹を刺されたような歪なひきつれがあって、テーセウスは眉をしかめた。
腹の腫瘍が彼女の命を奪うのだろうが、この傷も酷かったに違いない。
あと数年早く会えていたならば苦痛をとりのぞいてやれただろうが、もはや……すべてが手遅れだろう。
「数日、もたないかもしれない。……親しい人は、いないのか?家族がいるなら呼んだ方がいいかもしれない」
テーセウスの言葉に、病人手を握っていた美女がわっ、と泣き伏した……。
「アイシャ!……なんてこと!なんてひどい……」
病人が、美女の泣き声にふと我にかえったかのように、目を開く。
テーセウスは、彼女のやつれた顔立ちに似合わぬ美しい瞳に、ゾッと鳥肌が立つのがわかった。
……緑に金が塗されたような、美しい瞳。
アイシャ。
西国ではよくある、名前だ。……よく、ある……。
病人は褐色の肌に、黒い瞳をしていた。
やつれてなお、美しい。
健康だった頃はどんなにか、美しかっただろうか。……ヒヤリとした思いで、テーセウスは背後に立つイェンを見上げた。
美貌の竜族の男は彫像のように微動だにせず、死を告げに来た神の使徒のように冷酷に、病人と……、彼女に縋って泣く美女を見下ろしている。
「……なかないで、シルヴィアさま……。わたしは、さいごに、シルヴィアさまに会えたもの。とても、幸せよ。いちばん、しあわせ」
「嫌よ!せっかく会えたのに、そんなのってないわ!ずっと探していたの。貴女を探していたの……なのに、なんでこんな……」
テーセウスは、泣き喚く美女をどこで見たのか、ようやく思い出すことができた。
北部の有力貴族、キルヒナー男爵家の長子、ドミニク・キルヒナーが、夜会のパートナーとして伴っていた。カルディナ貴族の家になどはいくことはないが、先日の大雨の支援の礼に、と珍しくテーセウスも顔を出したのだ。
美女は、聞けばヴァザの一族だが、寡婦なのだという。
ならば釣り合わない縁組でもないだろうと……微笑ましく…………みた、のに。
テーセウスが呆然としていると、イェンは暗く、笑った。
「この娘は、ヘルトリング家に仕えていたそうだ」
アイシャは西国から孤児としてカルディナに流れて旅の一座に拾われた。
一座では雑用としてこき使われつつ、成長を全くしない中身は大人で外見は5歳前後の幼女だと……、見せ物のような扱いをされていた。
肌が褐色なのは幸福だったのか、不幸だったか。花街では異国人だと忌避され、―――まるで人ではないかのような、奇異な目で見られていたのだという。
……ある時、一座は南の裕福な貴族の屋敷で余興をみせ。
こき使われる幼女を哀れに思った先代のヘルトリング伯爵に拾われた。
ヘルトリング伯爵家でアイシャは侍女として過ごし、少しずつ、成長したのだという。まるで、普通の人間のようにやや、ゆるやかながらも確実に。
……彼女にも、人間のように、時が流れた。
やがて、伯爵がヴァザの長姉と結婚すると、育児を嫌がったカタジーナの代わりに、乳母のようにヘルトリングの姉妹の世話をしたのだという。
南部の平和な土地で、姉妹と伯爵と、アイシャはまるで家族のように幸福に暮らした。
だが。
アイシャは、ある時に、先代のヘルトリング伯爵夫人カタジーナ逆鱗に触れて、伯爵家を追われることになった。腹の傷もカタジーナの命令で、部下がつけたものなのだ、と……それは、カタジーナの娘であるはずのシルヴィアが、言った。
イェンは小さく、言った。
「……娘だ」
「イェン……」
「ようやく、見つけた」
だが、とイェンは笑った。
どこまでも暗く……声もなく微笑む。
「だが、すぐに喪う」
稲光がして、それが合図だったかのように、大粒の雨が薄い屋根を叩きつけ始めた。
メルジェは雨の多い地方だ。
そして今年はとにかく、大雨が降る。
まだ昼間だというのに、外は暗い。
……雨は三日三晩降り続き。
雲の切れ間さえ見ないうちに、アイシャはあっけなく儚くなった。
……面白い話をしてやろうか。
と男は言った。
「いいや、少しも面白くない話だ。どこにでもある、ありふれた、取るに足らない一人の人間の一生の、話。もう、奴を知っている奴は誰もいない。呼びかけに答える者も、もう、いない。母を失い、友を失い、妻を、息子を喪った間抜けで、無力な男の話だ」
死臭、腐臭。
どろりとした、むせかえる甘い匂いが腹に落ちて澱む。
「……終わりははじまりで、はじまりは終わりで。勝手にはじまった物語は、己ではもう、閉ざすことができない。人間としての縁はもう、全て失った。たった今。再び、ヴァザの手で」
どこかで狼が鳴いて、梟の嘆きがが不規則に時間を刻み。
鳥が羽ばたきを闇に落として去りゆく。
闇にいつまでも留まるのは、彼だけだ。
彼だけ。
「………だが」
「奪われるばかりじゃ、面白くないと思わないか?」
意味なんかないのだ、と男は笑った。
死ぬまでの暇つぶしだ、と大笑いしながら言う。
物語は閉ざされる。
誰の頭上にも、平等に。
平等に、だ。
滅びるはずだったのに、不当に、閉ざされきれていない王朝があるなら、誰かが閉じてやるのが親切だろう。
そうだ、と。
誰かが笑い…。
きっとそうだわ、と。
遠くで、誰かの泣きながら同意するのが聞こえた。
番外編は本話で完了。
お付き合いいただきありがとうございました。
次回より、最終章開始です。
のんびり月2回更新ですがよろしくお願いします。




