滞留 4
新しい主君を迎えてもカナンは概ね、平和だった。
前領主のイスファンは先代国王崩御に際して起きた王都での暴動に巻き込まれて死に(遺体は誰も見ていないが)、暴動を起こした王族もその場で屠られたという。
血に塗れたなんとも西国風の玉座には、傍系王族の一人が座ることになった。
わずか、数ヶ月の間の出来事だ。
新しい国王からカナン総督に任じられたのは、新国王に近い血筋のハリファだった。
ハリファは横暴で、冷酷で醜悪な男だが、統治能力には優れている。
また、己より立場が上の人間への従順さは疑いようも無い。
「私の愛する夫、イスファンは死んだ。よって、彼の遺産は全て妻である私のものだ」
ハリファがカナンに到着した際、サヘルは言い放った。
床に転がされた夫の腹心達を一瞥すると、縄を解け、と冷たく命じ、それから彼らにも、自分の麾下にもそこを動かぬように命じると、ハリファに椅子を勧め、先先代の王の娘は、傲岸不遜に宣言する。
通常女性が何の権力も持たないこの国で彼女は少しばかり事情が異なる。
直系王族だから公的な立場にも就任出来るし、崩御した父のお陰で終生の地位を約束されている。
新しい国王を選ぶ票を持っていた彼女は、前国王崩御後の、新国王選定の会議に使者を送りその即位に票を投じた。
さらにいうなら彼女を溺愛していた父親が遺産を残したおかげで、王も無視できないほどの金を持っている、のだとか。
新国王としてはサヘルの金銭的な面も含めて恩義に感じているらしく、ハリファにもくれぐれも彼女を大事に扱うように、と命じたらしい。
「夫の遺産は私のものだ。だからハリファ、貴方はカナンにいる如何なる者も害してはならない。……いかに、気に食わなくてもね。それが守れる?」
「もちろんですよ、美しい人」
「形式上は貴方の妻になってもいいけど、そういう類の世辞はいらないよ。私は貴方と本当の夫婦になるつもりなんか、全くないし」
ハリファが一瞬、鼻白む。
彼は優秀な男だが、鷲鼻で目は細く、その容貌は醜悪だ。
だから、そういう意味で……サヘルが拒否したのだと思ったのだろう。
しかしサヘルはあっけらかんとその誤解を否定した。
「貴方じゃなくても、私はもう男は懲り懲り。柔らかな女神の胸で眠る方が安眠できる。……ああ、だから私の侍女を寝所に連れ込むのもだめだよ。彼女達は私の特に大切な財産だから」
悪癖の告白にハリファは流石に面食らったようだが、いろいろなものを飲み込んで、それでよし、となったのだろう。
夫妻は衝突することもなく、イスファンの元部下達も、ぎこちなくではあるが……、概ね新しい君主に馴染みつつある。
表面上は、の話である。
「かか様 手にした赤い実をおくれ。
あまそな まあるい 赤い実 ひとつ
ひとつよりふたつ、ふたつよりみっつ、みっつより……
よくばりさんは ぜんぶおとして ひとつも……」
カナンの中でも小高い場所にある閑静な住宅街の屋敷で、美しい女は娘を抱きしめながら歌を歌っていた。
子守唄だ。
アセムは、ここのところようやく言葉を発し始めた娘の黒髪を梳りながら歌う。
娘は、可愛らしい子だ。
父方の祖母の血を濃く引いたのか、ゆるくうねる黒髪、滑らかな褐色の肌。
西国人にしか見えない、しかも美しい容姿はこの国で生きるには幸運なことだとアセムは思っていた。
疑いを知らず、愛情だけをこめて見上げてくる金が混じった緑の瞳は猫のようで思わずほおずりして抱きしめてやりたくなる。
夜泣きをして侍女が困り果てたら、アセムみずからが抱いて屋敷中を歩いてやる。一時間以上歩いてようやく眠るのだが、そんな手をかかるところさえ、可哀想で、愛おしい。
夫は「アスランはすぐに寝たのにな」と娘に手こずって苦笑するが、白い肌をした完璧な息子よりも、アセムは娘が手がかかるから、いっそう……、いじましかった。
私の母は、私を愛さなかった。
だから私は、この子を私がそうして欲しかったように愛するのだ。
娘を寝かしつけ、娘の部屋のサイドテーブルにしまっていた手紙を開く。
マラヤと呼ばれる女が書いた手紙だ。本当は燃やさずに取っておいた。
流麗な文字で書かれたカルディナ語を指でなぞって筆跡を確認しながらアセムは、それを書いた女について考えていた。
イェンの血族、カルディナの王族、異能を持つ女。
神に仕える、女の盛りを過ぎてなお、美しい女。
(私の愛する弟よ、いつか再会できますように)
手紙の文末を指でなぞる。
何度も。
イェンは知らないだろうが、アセムはカルディナ語の読み書きを西国に来てから覚えなおした。
文字を知れば……そして、読めないフリをすれば、集められる情報は2倍にも、3倍にもなる。
新しく総督になったハリファはイェンに対しても公平だった。
サヘルの手前仕方なく、だ。
しかし、いつかはその均衡が崩れることなどわかり切っている。
サヘルは娘をベッドに寝かせて……、天井を眺めた。
ハリファはサヘルの部下を招いた酒宴でその家族も招き、彼らを自分の身内だと受け入れて見せた。
もちろん、本心でないことくらい皆、わかっている。
イェンとアセムも彼の席に呼ばれて忠誠を誓わされた。
頭を下げたイェンに、笑いながら冷たい視線をよこしたのにアセムは気づいたし、サヘルは黙って微笑んでいた。
イェンの同僚であるナジルも気付いただろうし、計算高い彼はこれからはイェンとの距離を考えるだろう、とアセムは思った。
連れてきた子供たちにハリファが上機嫌で菓子を振る舞い、息子は無邪気に喜んで「総督さまありがとうございます」とはにかむ。
ハリファが酔ったふりで娘の頭を撫でて将来が楽しみだと粘ついた声で呟いた時。
アセムの胸に去来したのは安堵だったが、イェンの瞳に宿ったのは嫌悪と怒りだった。
アセムは微笑みながら、声に出さずに、夫に語りかけた。
権力者に睨まれて生きていくなど、わたしたち無力な者には、無理だ。
もし娘がもう少し大きくなって、ハリファの歓心を買える可能性があり、もしもそれで一家全員の命が買えるなら……、貴方は泣いて喜び、目の前の醜悪な男の靴を舐めるべきだ。
けれど。
愛しい貴方には、決して、それは出来はしないでしょう。
(……アセム、アセム、美しい小鳥よ)
イェンが席を外した際。アスランを膝に乗せながらハリファは、閨で睦言を囁いていたのと同じ声音で嘯いた。
息子の金色の髪を摘んで、ごく自然に懐から短刀を取り出しアスランの髪を一房、切り取った。
(おまえは相変わらず美しい。息子の蜜色の髪は……お前譲りか?あいつのものか?亭主が元気なのがひどく残念だ)
おたわむれをおっしゃいますな、ハリファ様。わたしにはもう、こどもがふたりもいますのに。
目の前をはらはらと金の糸が舞って落ちる。
息子は目を大きく開けて、身体をこわばらせた。
(……ほれた女の子供ならそれだけで可愛いさ。しかも竜族混じりは……役に立つ。いつでも俺を頼っていい)
まあ!おやさしいこと。
ふわふわとした心地で会話を終えて、アセムはそれから、ずっと考えている。
娘のほおを指で慰撫し、その柔らかさに泣きたくなった。
「ひとつより、ふたつ、ふたつよりみっつ……。」
自らの二の腕に爪を立てて、子守唄を、口ずさむ。
「ええ、ええ。そうね。多い方がいいわ。何もないより、ずっとまし、きっとそう。でも、四つは無理」
蹲りながら、アセムはまた手紙に視線を落としす。
……マラヤの文字は流麗で、完璧で。
それゆえに……筆跡を覚えることは容易いだろう。
食い入るように手紙を読むアセムの横では、小さな娘が、すやすやと寝息を立てていた。
◆◆◆◆◆
総督代理、という呼称を得ていたサヘルはカルディナからの使者をもてなしていた。
赤い髪をした美しい女だ。
カルディナの神官だという女は両国の友好のために、とカナンにカルディナの拠点が欲しいと願い出にきていた。
教会を作り、そこにカルディナの神を祀らせてほしい、税は言い値で払うから、と。
サヘルはのらりくらりと要望を躱し、まるで優雅な茶会のような会合は比較的短時間で終わった。
女を見送ったサヘルは溜息をついて、壁に立っていた長身の男を二人を手招く。
サヘルの護衛を勤めるのはイェンともう一人、ハリファの息がかかった黒髪の青年なのだが、サヘルは猫のように目を細めて黒髪の男を引き寄せると甘えるように耳元に囁く。
「喉が渇いたから茶を淹れて。おまえはなかなか茶を入れるのが上手だもの。そこの木偶と違って」
素早く唇を盗まれてわずかに頬を朱に染めた男はイェンに勝ち誇った表情を見せて厨へ向かっていく。
青年の姿が見えなくなったので、イェンはサヘルを睨めつけた。
「……男はもう、懲り懲りだとか言っていませんでしたか?」
「木偶は黙ってなよ」
サヘルは頬杖をつきながらニコニコと笑い、カルディナ語で続けた。
「男は嫌いだけど、童貞は別。だって可愛いじゃない?口づけひとつで茶を淹れてくれるんだもの!いけすかない主君が手を触れられない高貴な身分の女が自分だけに優しいのが楽しいのさ。さぞや優越感で満たされるんだろうねえ」
せせら笑うサヘルに呆れたが、香炉の香りが強くなっているのに気付いて顔を顰めた。
……強い麻薬、強い鎮静剤。
悪癖だと思うのだが、サヘルはひどい頭痛持ちでこれがないとまともに息ができないんだよね、と愚痴っていた。
「リディア神官は……あの綺麗なヴァザ女の侍女だったんだってさ。……紹介してやろうか?きっとお前みたいに金髪で青い目が好きだし、竜族混じりのことも好きだと思うよ。なんせ竜族の末裔を騙るヴァザの狂信者だもの」
「私の肌が白ければ、すかれるかもしれませんが。カルディナ人は白い肌を好みますので」
特に神殿関係者は。
イェンが淡々というと、サヘルは目を細めて丸めた紙をイェンの額目掛けて投げつけた。広げるとリディアの連絡先がカルディナ語で示してある。
「マラヤ・ベイジアの住居を親切で聞いたから一応伝えといてあげるよ。覚えた?」
「ええ」
サヘルは紙片を取り上げると火をつけて燃やす。
「逃亡先の選択肢のひとつにしとくといい。昔馴染みなんかあてになるかはわかんないし……私ならヴァザなんか信じずに竜族を頼って北山に逃げるけどさ。……私の意識がもう少し長く保つんなら、もうちょっとお前と遊んでやってもよかったけど、体調も悪いし、食事に毒は混ぜられるし……自信がないや。イスファンの奴はもう半年も帰ってこない。流石に死んだと思ったほうがいいかなあ」
物騒な事を告げた女をイェンが見ると、サヘルは肩を竦めて笑った。
「ハリファがいつまでも私を好きにさせておくものか。……半年、よく我慢したほうさ。兄上の跡目を決めに行くときに、イスファンと約束したんだ。あいつに何かあっても、私が半年はカナンを平和に保つ、あとは好きにしろ、ってね。……イスファンは帰ってこないなあ」
「……あの方は生きておられると思いますか?」
声を潜めて尋ねる。
「どうかな。さすがに殺されたんじゃないかな。半年も音沙汰がないもの。……ハリファもそろそろイスファンの部下たちを殲滅したい頃合いだろうから、私が斃れないうちに、お前は逃げたほうがいいよ。しっかしハリファはつくづく顔のいい男が嫌いなんだなあ……」
くっ、くっ、とサヘルは笑う。
「あんなに頭のいい男でも劣等感からは逃げられない。本当に不自由だこと!」
少し咳き込んだサヘルの背中をさすって白湯を渡す。
サヘルは大人しく受け取って、長椅子に身を沈めた。
「イェン、お前はハリファよりも、もっと愚かでもっと不自由だと思うよ。楽に楽に、上手く流れて生きていけばいいのに。お前は自分を殺せない。だから……いろんなものを失って行くんだ」
「不吉な予言をなさらないでください、サヘル様……」
「老い先短い女の戯言だもの、聞いておきなよ」
「長生きしますよ、きっと」
サヘルは焦点がぼやけた瞳で天井を見つめた。
「無理じゃないかな、死ぬのは怖いけれど、生きているほうがずっと怖い。イスファンがいたから、ずるずると仕方なく生きていたけど、あいつがいないんならこの世は退屈」
……サヘルは片膝をついて起き上がり、短く切りそろえた爪を噛んだ。
妙な夫婦だな、と思う。
お互い興味があるようでないような……、憎み合っているような。信頼しあっているような。
「……お寂しくていらっしゃいますか」
口にしてから、イェンは間抜けな質問をしたと思った。
クスクスとサヘルは肩を揺らした。
「教えてやらない」
「……はあ」
サヘルは戻ってきた青年に微笑みかけながらカルディナ語で続けた。
「まあ、もしもおまえが生き延びて私が死んで。もしもイスファンに会うことがあったら伝言してよ。なかなか楽しかったよ、色々悪かったけど反省はあんまりしてないからって」
サヘルは微笑んで青年に茶を淹れさせ、猫のように微笑んで、まだ幼さが残る青年に茶を勧めた。
彼は女主人の温情に喜んで香気の立ちのぼる杯に口をつける。
「がっ…、う……ぐ」
……三口と飲まぬ間に、青年は喉を掻き毟って床に倒れる、
侍女が金切り声で叫び、部屋はたちまち阿鼻叫喚に包まれた。青年の脈をとってイェンが首を振ると、サヘルはかわいそうにね、と呟いて膝の上に額をつけた。
「あんまり時間がないみたいだ、私もお前も」
「…………」
◆◆◆◆◆
イェンは人気のない道を選んで帰路につき、帰宅したことすら告げずに、そっと家の中を伺った。
居間ではアスランが大きな地図を広げて熱心に読み込んでいる。
「……アスラン、何を書いているの?」
「みて、母さま。タイスの大きな街の名前!すごいでしょう、全部昔の王様お姫様や偉い人の名前が元になっているんだ!」
「まあ、どこで覚えたの」
「ナジル様がくれた御本に書いてあったんだ!」
「……アスランは本当に賢い子」
イェンは暗闇の中から、明るい居間で寛ぐ妻と息子をみた。
……アスランは、賢い。そして、西国人にはまるで見えない。
……自分は、無理でも。
賢く、未来あるあの子をこの土地で朽ちさせず、カルディナへ連れて行けないだろうか。
……ひっそりと、マラヤに託すことは出来ないだろうか?隠れるようにして北山で暮らすことは出来ないだろうか。
かつて自分が選べなかった道を、息子に歩ませることは出来ないだろうか。
緩慢に、この場所で死を待つよりも。
今帰ったかのように笑顔を作り直してアスラン名を呼ぶと、こどもは目を輝かせて飛びついてくる。
イェンは笑い声をたてながら息子を担ぎ上げた。
アセムがそれをクスクスと笑って、親子を静止する。
妻の額に口付けながらイェンはそっと聞いた。
「アセム」
「どうしたの?怖い顔をして」
「……荷物を少しずつまとめてくれ、北山か、カルディナか。逃げよう、四人で」
アセムは一瞬、表情をなくして……それから、声を震わせた。
「……ハリファ様に心から忠誠を誓って、ここにいればいいじゃない。ここが私たちの家よ」
「それは無理だ。あいつは俺を殺す。ここでは四人では生きられない」
イェンが言うと、アセムは泣きそうな顔で夫を見つめて、ゆっくりと目を閉じる。
再び目を開けたときには、涙の膜は、もはや無かった。
溜息をついて、そっと奥の部屋に戻り、真新しい手紙をイェンに差し出した。
差出人名の書かれていないその手紙は懐かしいマラヤ・ベイジアの筆跡だった。
「……貴方宛に届いていたの。少しだけ、読めるけど……、カルディナに来いって書いてある?」
「ああ」
内容を覚えてイェンは息を吐いた。
「……その手紙を、信じるの?」
「マラヤは俺の家族だ。心配しなくていい。きっと、悪いようにはならないさ。ここにいるよりかは、きっとマシだ」
イェンは溜息をついて椅子に座り込む。
アセムは、そう、と笑って厨へ引っ込んだ。不安そうな目で見上げてくるアスランを抱き上げて、小さく小さく、歌う。
「手にした赤い実をおくれ。
あまそな まあるい 赤い実 ひとつ
ひとつよりふたつ、ふたつよりみっつ、みっつより……
よくばりさんは ぜんぶおとして ひとつも……」
「よっつは、むりなの」
「むりなのよ」
続きは1月31に。




