滞留 2
スイとキリを連れて戻ると屋敷には呆れるほどの美食が並んでいた。
アセムが完璧な作り笑顔で二人を美食と酒でもてなし、どこから呼んだのか数人の楽士までいて、イェンは大いに戸惑った。
旅人を歓待するのは西国の礼儀だ。
スイとキリは美食によろこび、まるで実家かよと思うほどに馴染んで楽しんでいるのでまあいっか、とも思うのだが……台所を見渡しながらキリキリとしている妻をこっそりのぞいてイェンは「適当でいいぞ」と声をかけて、眦を吊り上げたアセムに「私が恥をかくの!どれだけ準備したか全くわかってない!!」と激怒された。
改めて……、準備された調度品がさりげなくカルディナ北部のものであることや、料理も全てあちら風だったことに気がついて、イェンは溜息をついた。
こっそり近づいて声をかける。
「……アセム……」
「何かしらっ!?」
ぷんすか怒っている妻を手招いてほおについた粉を指で拭う。あ、と気づいたアセムが自分で拭おうとするのを笑ってイェンは指でふいた。
「……俺の友人を歓待してくれてありがとう、いつもすまないな」
アセムは一瞬呼吸を止めて、ふん、と鼻を鳴らしてから……イェン胸に顔を埋めた。
「気付くのが、遅いのよ……許さないわよ」
イェンにとってはキリもスイも気のおけない友人だがアセムにとっては得体のしれない、異人種二人だ。
しかも一人は神の使徒とさえされる竜族でイスファンの客人でもある。
落ち度をもしもイスファンに告げられては(そういうことをしないとイェンは知っているが、アセムはスイをよく知らないのだ)大変だと、体裁を気にするのは当然のことだろう。
「十分、おまえは役目を果たしたよ」
「そうかしら?何か不都合はなかった?本当に?」
「完璧すぎて、ほら……あいつらそろそろ、自分が王侯貴族かなんかだと勘違いしてる」
座り心地のいいソファで娘と息子をあやしながら寛いでいる客人を指差すとアセムは笑った。
「おまえも一緒に酒を飲もう。楽士は帰らせて、家族だけで。だめか?」
「……貴方がそうしたいなら、文句は言わないわよ」
微笑んだアセムの額に口付けて、居間に連れて行く。
話が好きなスイは子供たちだけでなく、アセムの警戒心も瞬く間に和らげて、彼女は声をたてて笑う。
そればかりか、最近は滅多に人前では歌わないカルディナの民謡を歌って客人達を喜ばせた。イェンがいい声だなといつものように褒めると、惚気てんじゃねえ、と左右から小突かれた。
夜もふけると、次第に盃は重ねられ二人の近況に話題は移って行く。
「じゃあ、今はキリは医者なのか?」
「の、真似事。スイみたいにいろんな知識を得るのは難しいや。だから今は薬師って方が相応しいかな。北の森で魔女をしてる」
魔女。
カルディナ北部と竜族の郷の狭間に住む、不思議な知恵を持つ浮世離れした人々だ。
中央から忌避されている人々でもある。
「医者になれるかはともかく、スイが西国の医者と色々情報交換したいっていうからついてきた。西国はカルディナより医術は数段進んでるな。あっちは効果があるかわかんねえ祈祷をさせてばっかだし、あと、清潔だ。疫病が発生しづらい……」
「西国も全てがそうではない。が、まあ、イスファン様は医術がお好きだからな」
「イスファン………さま、に許可を得て、医療者達から色々教えてもらうつもりだ」
アセムが「女なのに医者なんてすごいわね」と感心すると、キリは「まだなれたわけじゃないんで」と妙に照れて見せた。
キリがまるで大人のような会話をする、と改めてイェンにとっては驚くことが多かった。
ここにいるのは、生意気な口を叩いてちょこまかと自分のそばをうろつき、勝手きままに遊んでいた少女ではなく、一人の、自立した大人だ。
なんとも不思議な気持ちだと物思いに耽っていると、スイがどうした?とイェンを窺う。
正直に「大人になったキリに感動している」と言うと、スイはゲラゲラと笑った。
「それは俺がおまえに思うことだよ。すっかりまあ……、知らない男の顔になりやがって。寂しいじゃないか。しかも綺麗な嫁さんと、可愛い子供までできて」
アスランを抱きしめて気のいい竜族はちょっと迷惑そうな息子に構わず、頬擦りをした。
「おじいちゃんになった気分……」
「あんたみたいな飲んだくれの親父を持った覚えはないぞ……」
相当酔っ払っているスイに呆れて、イェンは寝所に彼を引きずって行くことにした。キリにおまえはどうする?と聞くと、もうちょっと飲みたいかな、と笑ったので、そうか。とうなずく。まずは眠そうなアスランを子供部屋に連れて行こう、と小さな身体を抱き上げた。
「なあ、イェン」
「どうした?」
キリがイェンを引き止めた。それから、大真面目な顔で聞く。
「あんた、いま、幸せ?」
(あの頃より?)
「もちろん」
イェンがキリと、もうひとりと暮らした頃の事を思い出しながらも穏やかに応えると、そっか、とキリは微笑んだ。
じゃあ、その酔っ払い頼むぞと、キリとアセムに、ぐでんぐでんに酔っ払ったスイを頼んでイェンは子供部屋に向かった。
「キリの部屋も用意してるわ、スイとは……別でいいのよね?」
悪戯めかした質問にキリは苦笑した。
キリはまだ少女だが、物言いと表情のせいか大人に見られるし、若い男女が二人きりで旅をすれば夫婦勝ち誤解は受ける。
「スイはあたしの保護者だから。でも、べつに一緒の部屋でもいいよ。ご亭主、ずいぶん出世したみたいだけどさ。そんなに部屋ある?」
「失礼ね、ちゃんとたくさん部屋はあります!」
アセムが戯けたてみせたのでキリは笑った。
アセムは、美しい女だった。
金色の髪に白い肌、背が高く細身で気が強そうで。
相変わらず、イェンの趣味って変わらねえなと変な感心をする。
オアシスにいたときもべつに恋人はいなかったが、街で美人に誘われたらふらっと深夜まで帰らないことはあった。
「じゃ、世話になるよ。アセム、あんたにはそれくらいしてもらってもいいはずだろうし」
キリは髪をかき上げた。アセムが意味がわからないわ、と言いたげに、小首を傾げた。キリは笑みを深くして、言った。
「だって、あんたはあたしが何通も書いた手紙を捨てただろ?せっかく書いたのにさ。おかげで、何年も無駄に手紙を書いて時間を無駄にした。ひどくない?」
「―――………」
いつの頃からか、キリが出した手紙に返信がなくなった。何度書いても、葉書が帰ってこない。だが、イェンは手紙が届かなかったと言う。スイが偽名で出した荷物は届いていたのに?アセムとイェンが婚姻した時期を聞いて、ひょっとしたらと思って尋ねただけだが。
どうやら正解だったらしい。
ごっ、とスイがイビキをかいたので、キリはうるせえ、と竜族を蹴飛ばした。ふにゃふにゃとスイは寝返りを打ち、アセムは表情を喪った顔で、キリをじっと見て……居住まいを正した。
「ええ、そうよ。だけど捨てたんじゃないわ。もやしたの。よく燃えたわ」
「……なんでさ」
「よくある嫉妬よ。あの人の関心をほかに向かわせたくなかっただけ」
「……あたしは別に、イェンの恋人でもなんでもないけど」
別れたとき、まだキリは十かそこら。
育ったいまだって、全く異性としては眼中にないだろう。イェンの好みとは違いすぎる。皮肉に笑うと、美しい女は悪びれずに言った。
「知っているわ。だけど、貴方達はイェンの特別だわ」
「あんたがあたしに謝ってくれるなら、水に流してイェンには黙っといてやってもいいけど?」
キリが冷たく言うと女は顔を上げた。睨まれると思ったが、涼しい顔で女は額を床に押し付けた。迷いもなく謝罪を口にする」
「申し訳なかったわ。夫には言わないで」
「…………――」
「謝罪が足りないならなんでもするわ。何をしたらいい?」
キリはえーーーっと、と頬を右の指でポリポリとかいて、息を吐いた。ソファから降りて、アセムの前に行儀悪く座り込んで、思い切り自分の頭をアセムにぶつけた。
「いっ………っ!たああああ!何するのよ!この石頭ああ!」
「いいじゃん、むかついたし、これで手打ちにしてやるって、感謝しろよ、奥方様」
「嫌な子ねっ!」
キリはニッと笑った。
「だってあたしは魔女だし。魔女は性格が悪いと決まってんだよ。いいや。別に。結果としてよかったんじゃない?イェンは幸せだった言ってるし、あんたも幸せそうだし。飯は美味かったし。文句ないよ」
アセムは毒気の抜かれた顔で、「本当に悪かったと思っているわ」と俯いた。
キリとスイが来てから、アセムはずっと気を張っていた。
きっと、いつキリが手紙のことを切り出すのか気が気ではなかったのだろう。褒められた所業ではないかもしれないが、責める気にはならない。
穏やかなイェン、可愛い子供達、美味な食事、落ち着く調度品。
それは、奴隷だったという彼女が、イェンのために心を砕いてひとつひとつ揃えてきたものだ。傷ついて悲嘆に暮れていたイェン一人きりにしたキリに何かをいう権利もない。
「私は何度あの時に戻っても、……何度でも手紙を焼くわ」
キッパリと言われて、キリは肩を竦めた。
たとえ、色恋の間でなくても、イェンのそばに特別な誰かがいるのを彼女は好まないのだろう。
アセムにとってはイェンが喪えない絶対なのだ。
それは、キリがもう、ずっと前に喪ったものだった。
そっかあ、とキリは呟いた。
「明日から、イスファン様のお屋敷に移って、サヘルの見舞いに行くことになってるんだ。だから、ここにはもうこられないし、なんにも心配しないで。本当に美味しかったよ、カルディナのご飯も、タイスのご飯も。ありがとう」
「……ええ」
イェンが戻ってきたので、そろそろ寝るねとスイを担ぐのを手伝って、客間に行く。
隣の寝室に行くか、とため息をついたキリはスイに腕を掴まれた。驚いて下を見ると、全く酔っていないスイと視線があった。狸寝入りめ、とキリは笑う。
「……イェンに言わなくてよかったのか、手紙のこと。イェンが許しても、卑怯だろう……手紙を焼くなんてのは」
さーな、とキリは笑って窓から空を見上げた。
美しい満月がぽっかりと空に浮いている。
「真実が全てじゃないときだってあるだろ?イェンが幸せで楽しいならいいじゃん。それにさ、アセムの指先、荒れてた」
「は?」
「髪も手入れされて綺麗で、珍しい香を焚いて、化粧もカルディナのものを取り寄せて美しく装って……でも、指が荒れてた。今でも炊事はあの人の仕事なんだってさ。亭主の好物を覚えて、作ってさ。愛だろ。愛されて愛してんじゃん。それに、子供達見てたらどれだけ大切にされてるかなんか、すぐわかるよ。それを壊したら、あたし全く悪者になる。……まあ、真実を知ったところでイェンがあたしに謝って終わりなだけだろうけど……。いいよ、別に。謝ってもらったし、大したことじゃないや」
スイは釈然としないようだったが、そうか、とため息をついた。
「じゃあ、なんで泣いてるんだ、キリ?」
涙を拭いもせずに、キリは笑った。
「自分が最低だな、って思って」
「それは、どういう?」
「……イェンが不幸なら、引きずってでも北の森に連れて行きたかったな、って」
泣き笑いをしながら月を仰ぐ。
「だけどイェンはもう幸せで、あたしが一番幸せだった時代はやっぱりもう、二度と戻れないんだなあって思いしって、ちょっぴり悲しく思っただけ。あの、月みたいにさ」
キリは月に手を伸ばした。
小さく掌に収まるような気がするのに。かすめることもできやしない。
「エチカとイェンとあたしがいてさ。貧乏で、お腹が空いてて。でも、あの満月みたいにまんまるくて完璧だった。……ひとつが欠けて、バラバラで、もう元には戻んないって……ずいぶん前に、しってたんだけどな。イェンが幸せで嬉しいはずなのに、…………だめだな、寂しいや」
「俺がいるだろう。もう泣くな、キリ」
よしよし、と頭を撫でられて、キリは笑い。
そうだね、と微笑んだ………。
◆◆◆◆◆
イェンの主人たるイスファンにスイが歓待され、キリはその助手として振る舞い、二人は半月ほどカナンに留まった。
スイは医者達……特に外科を試みる人々と情報を交わし合い、キリは鎮痛作用のある薬草について熱心に情報を集めているようだった。
サヘルは鎮痛作用のある植物にずいぶん詳しい、とキリは感心していたが、彼女の悪癖を知るイェンとしては苦笑するしかない。
別れ際、スイは昔のままの笑顔でイェンを抱きしめて、聞こえないような小さな声で呟いた。
「……どこにいても、お前のことを思っているよ。何かあったら、いつでも頼ってくれ。いいな?」
「そうならないことを祈るよ」
気まぐれな客人達はあっというまに戻っていった。
船を見送っていると、背後からひょい、と痩躯の男が顔を出した。イェンの主人たるイスファンだ。総督になっても、一人でふらふらと街を歩くのをやめてくれないので側近は泣いている。ここは、西国と言ってもカルディナに近い。いつ、彼の国の刺客が彼に危害を加えてもおかしくない。
「まるで迷子になったような顔をする」
「……そのような事は、少しもありませんよ、殿。わざわざ見送りに来られずとも」
「散歩のついでだ」
「スイと随分と話しこんでおいででしたが?」
イスファンの後をイェンはついて歩きながら尋ねた。
「……医療の秘密を聞かれたのでな。色々と教えてやった」
「見返りに何を仕入れられたのです」
カナン総督、イスファンはタイス人にしては気性が荒くはないと言われているが、表に出さないだけだ。穏やかな表面に騙されて痛い目に見た「取引相手」は片手に余る。
「カルディナの王族の噂話を、色々と」
「……代替わりした王の話ですか」
「ああ、また話す。お前の話も聞きたいしな」
……、主人には詳しく己の話をしたことなどないが、どこまで知っているのか不思議に思う。
鈍色の瞳が一瞬動揺した部下を楽しそうに一瞥した。
しかしそこには何も触れずにイスファンは足を進める。港町は坂が多いが、その石段を軽やかに登りながら歌うように続けた。
「カルディナも、きな臭い。しかし、我らが王都もなかなかに面倒な事を言ってくる。気が休まる暇もないな」
「王が何か?」
イェンは嫌な予感に声を潜めた。
タイスの現国王は、イスファンの妻であるサヘルの長兄だ。
在位は5年に満たない。去年からあまり人前に顔を出さないとの噂を聞いていたが。
「どうやら病状が重そうだ。また玉座を巡って国が荒れるかもしれんな」
うんざりというよりは何処か楽しげな表情でイスファンは言い、イェンは内心で溜息をついた。……国王には男子がいない。
もし、彼に何かあれば、ようやく落ち着いていたこの生活も……不安定になるだろう。
イェンは坂の上からカナンの街を見下ろしてしばし動きを止めた。
もはや遠く離れた船を、目で追い、スイの言葉を思い出す。
『何かあったらいつでも頼ってくれていい』
戦士としてはあるまじきことに、イェンが思ったのは、目の前の主人の栄達でもなく、ただ、妻と子供達のことだけだった。
お前は甘いよと、誰に話しても叱咤されるであろう内心を頭を振って打ち消しイェンは主人の背中を追った。この道を行くと決めたのだ。
この道以外に、生きていく術はない。自分には。
西国王の訃報がもたらされたのは。それからわずか三月後のことだった。
つづきは 年始にもう一回更新しますー
 




