手紙 3
R15な表現があります
地下牢を出て、イェンは自宅にアセムを連れ帰った。
眼球には傷がないようだが額から耳にかけては斜めに消えない傷が残るだろう。
傷があるのは顔だけではない。
女の医者を手配して、あちこちに残った傷が治療される様子を遠慮がちに盗み見れば、アセムが逃げたハリファやサヘルの部下からどのような扱いを受けていたかは想像がつく。
「捨てちまえ、こんな女。死んだことにすればいいだろ」
妙に付き合いのいいナジルが治療の様子をみながら吐き捨てた。
「趣味が悪すぎるんじゃないか、お前。確かに美人だがあれくらいの女ならどこにでもいるだろ」
「そうだな」
「サヘルに睨まれた女を囲う必要がどこにあるんだ」
「本当にな」
煮え切らない返事にナジルは苛々と頭をかいた。
やっとられん、帰る、とナジルが踵を返すのでそれに軽く笑って、イェンは呟いた。
「俺なんだ。彼女を奴隷商人に売ったのは」
ぴたり、とナジルの足が止まる。こちらを見た顔にあまりに意外、と書いてあるので笑ってしまった。
「故意に売ったわけじゃない。昔、カルディナにいた時に会ったことがある。俺は貴族の私生児で、まだ子供だったこの娘が逃げているのを助けたことがある――その境遇を憐れんでな」
「それで?」
「俺は、助けたことに気をよくして、こいつをよりにもよって最悪な人間に託して――あとは、彼女の顔も、その出来事さえ忘れた」
ヴァザの血筋を詐称したアセムは、王宮で殺されかけていた。事情を知らずに、追われて震える娘を憐れんだイェンは、きまぐれに彼女を救って、子供好きな国教会の神官にそのまま渡した。
幼い彼女がどんな目に遭わされたのかは、今ならば容易に想像がつく。
「俺が、こうした。しかも、命を救ってもらった借りもある。回復すればすぐに出て行くだろうが、それまではここにおいておくよ」
「寝首かかれるぞーー賭けてもいい」
イェンは笑った。
髪をいつもの癖でかきあげ、こびりついた血のせいで固まっているのに気づいて、指を髪から離す。
「気をつける。ナジル、すまないな。あんたがせっかく心配してくれたのに、俺はあんたの好意を無碍にしているか?」
「知るか、次は勝手に死ね」
怒っているな、と苦笑してナジルの背中を目で追った。
ベッドから微かに声が聞こえた気がして寝室に戻ったが、アセムは、譫言を言っただけのようだ。水に浸した手巾を取り替えて傷に触れぬように額の上に置く。
怪我の具合が良くなって、形式上でもイェンの所有物になったとすればアセムは怒り狂うだろう。
だが、アセムを逃したとすれば、気まぐれに残虐なサヘルの怒りを買うかもしれないーー
あまり、死にたくはないがと考えて。
それがおかしくてイェンはベッドの下にしゃがみこみ、背中を預けた。
空虚な気分で部屋の天井を眺める。
がらんとした部屋は一人でも物悲しいが、他人の気配があるとより一層夜の闇を身近に感じる。
何もない。己には、何もない。
とりたてて力も、才能もない。信念など持ったこともない、信仰は中途半端に残り、野望など抱くこともなくその日を生きてきた。家族も友も恋人もなく、愛したものはすべて遠いーー。
今はただ、無為に生きているだけなのに、それでも死ぬのは恐ろしいらしい。
『あたし、迎えに行った方がいい?』
キリからの手紙を思い出して、そうだなと心の中で、返した。
生意気な声が脳裏に浮かんだけれどすぐにあやふやになった。きっともう、懐かしく思い描くこれはキリの本当の声ではないだろう。忘れてしまった。もう、全部。
「キリとシェンはーーどうしているかな。スイも」
弱々しい声でつぶやくが、答えはない。
どこかで遠く鳥が鳴くのを聴きながら、イェンは立てた膝に顎を乗せた。
◆◆◆
アセムは3日もすると目を覚ました。
状況を説明すると、そう、と素っ気なくーー暗い声で返す。
それからは日がないちにち二階に与えた部屋の窓からぼんやりと外を眺めている。飛び降りでもするんじゃないかと思ったが朝はきっちり起きて、食事をし、たまに細い声で歌っているので死ぬつもりはないのだろう。
顔もろくに合わせずに彼女の世話はすべて下働きの老婆に任せてーーあっという間にひと月が経過した。
寝首をかかれるどころか姿さえみないな、と思っていた矢先、イェンは頭を抱えることになった。
家事の一切をしてくれていた老婆が体調を崩して、荷物をまとめて息子の家に戻ってしまったのだ。
だれか別の働き手を、と思ったが、手配した若い女がしきりとイェンに近づきたがるので1月分の賃金を払って数日で追い出してしまった。
かといって、男を雇うのは、と。
二階に引きこもるアセムの気配を探りながらーー溜息をついた。
期待は持てないが、とりあえず、とイェンは二階のアセムの部屋を訪れた。
「私に家事をやれっていうの?あんた馬鹿なんじゃない」
「いいご態度だな、タダ飯ぐらいのくせに」
1月半ぶりにまともに顔を合わせたアセムはまだ痩せてはいるが、血色はよくなっていた。少年のように短く刈られていた髪も、少しは伸びて痛ましいほどではない。
フン、とアセムはそっぽを向いた。
「別にあんたと好きでいるわけじゃないもの。奴隷を食わせる甲斐性もないんだ?この、能無し」
「ーー口の聞き方くらい覚えーー」
「気に入らないなら殴れば?どうぞ。慣れてるから構やしないわ」
青い瞳で睨まれて本当に頭にくる。イェンは拳を握りしめて、持ってきた物をアセムに突き出した。
殴れと言ったくせにアセムがビクリと肩を震わせたのをみないふりをして、ーー鍋を押し付けた。
「やれ。なんとかなる。自分の飯は自分で作れ。材料は厨房になんかあるだろ!」
「は?あんたは?」
「ーーお前の作る飯なんか食えるか!俺は外で食う!」
じゃあなと告げて酒場に逃げ込んで酒を煽りつつ、呻いた。
何を馬鹿なことをやっているんだろう。いい加減あの女を何処かに移すか押し付けるかしよう――と考えて鬱鬱としていると顔見知りの男達がニヤニヤ笑いながら同じテーブルに酒をもって座ってきた。親しくはないが、同僚の二人だ。
「よう、しけたツラしてんじゃねえか、女房に逃げられたか」
「女房?」
「ハリファの女奴隷、お前の昔馴染みだったんだってな」
喧嘩を売りに来やがったのかと思って追っ払おうと口を開きかけると――男たちはやけに友好的に左右をかためて酒を注いでくれた。
「彼女が死ぬくらいなら、自分も一緒に死ぬって言ったんだってな?サヘル様に泣いて縋ったって」
「はぁ!?」
「どおりで、どんな女にコナかけられても素っ気なく断るとおもってだんだよー。すかした野郎だと思ってたけどそういう理由なら早く言えって!」
「え?い、いや」
「喧嘩もあるだろうけど、仲良くしろよー。ちゃんと帰っておまえから謝ってやれって、まあ、まずは飲め飲めー」
「だ、誰が、そんな話を……」
どこがどうなって、そんな話になっているんだ?と目を白黒させていると、男たちはニヤニヤと笑って答えた。
「イスファン様に決まってんだろ!美しい恋物語はいつ聞いてもいいものだなって、言ってらっしゃったぞー。はあ……純愛だなあ……」
酒盃を握りしめてイェンは白目を剥きそうになった。
アセムとの今の関係の元凶のような男が何を言うのか!
わなわなと震えていると照れるなってーと、同僚たちはやけに愛想よく酒を注いでくれる。
そういえば西国の人間は皆、恋物語が好きなのだった――と思い出してイェンは天井を仰いだ。
寝物語に男女の恋を聞かされて育つ西国人だが、実際は少数の裕福な男たちが若く美しい女を独占するので、滅多にない恋話が身近にあると必要以上に盛り上がる、男も、女も――。
ちなみに西国人の多くは感情的で情が深く、人懐こく、ついでに言えば人の話をあまり聞かない――
誤解だというと、またまたあーと背中をバシバシと叩かれた。
痛い。
酔っているせいで余計に話を聞いていない。
それどころか妻帯者らしい二人は訳知り顔で新婚の心得を馴れ馴れしく肩に手をまわして聞かせてくる。
勘弁してくれと思いつつ、イェンは虚ろに笑った。
「それでお前はハリファの野郎を攻める時、妙に乗り気じゃなかったんだなあ」
「俺はてっきり内通でもしてるのかと思ったぜ」
「……」
イェンは一瞬固まった。そう、見えていたわけか。イスファンだけでなく、麾下の者たちにまで。
『実に愚かだ』
イスファンの呆れ声が聞こえた気がして真顔になってしまう。
本当に覚悟の決まらないやつだな俺はと反省し左右の同僚を見た。
ありがたい誤解はそのままにしておこう。イスファンのアセムとイェンに関する発言はおそらく、単純に好意だ。忠誠を疑われているイェンを庇うための。
「—―俺の覚悟が決まっていないように見えたのなら、申し訳ない……」
率直に謝ると、男たちは驚いたように顔を見合わせながら、いいって事よとまた酒を注いでくる。
気のせいか、かつてないほど向けられる視線が柔らかい。なんだろうな?と妙に居心地の悪さを感じていると、「おい!イェン!」とナジルが血相を変えて酒場へと入ってきた。
「おい!!こんなところにいやがったのか!!早く家に戻ってこい!!!」
「どうしたんだ、ナジル?」
常に冷静沈着な男にしては珍しく焦っている。いいから来いと言われて立ち上がる。
同僚二人から酒代はいいからと送り出され、大通に出てイェンは先を行くナジルに問いかけた。
「何があった?」
「何が、じゃねーぞ――あの女」
「アセムに何かあったのか?」
――まさか飛び降りでもしたか、と青くなったイェンにナジルはあほか!と喚く。
「燃えてんぞ!!お前の家がっ!!」
「—―-はぁあ!?」
なんだそりゃ、とイェンは今度こそ往来で素っ頓狂な声をあげた――。
◆◆◆
家の状況は、思ったより酷くはなかった。
厨房から小火が出たのに驚いて近隣の人間があわてて井戸の水を大量にかけ、事なきを得たらしい。大したものがあったわけではないが、調度品は全滅だなと思っていると、ナジルが顎であれ見ろよと顎をしゃくった。
誰かの用意した椅子に腰掛け、布に包まって小さくなっている人物がいる。
アセムだ。
イェンに気付くと怒ったような顔でこちらを一瞬見上げて、俯いた。
「火元はあの女だとよ。助けた上に放火されるんじゃたまんねえな。—―だから捨てちまえって言ったんだよ、俺は」
ナジルの呆れ声を背中に聞きながらイェンはアセムに近づいた。近づくたびにアセムが布を引き寄せて背中を丸くする。悔しそうに噛んだ唇と対照的に指が震えているのに気付いて、イェンは彼女の前にいくと――
「なに、よ――言いたいことがあるんなら――」
「アセム」
びくり、と肩が震える。
安心させるようにしゃがみ込んで、アセムを見上げた。
「火傷はないか」
「……はあっ?」
アセムが大きく目を開き、ナジルが呆れ声を出したのがわかったが、無視をした。
口が悪い割には何故か面倒見のいい同僚は、じっと見つめあう二人を眺めると「馬鹿馬鹿しいな、おい!」と空を仰いでぱんぱんと手を打った。
周辺に集まった住民たちを「解散しろ!」と散らして、やってらんねえな!と吐き捨てて戻っていく。すまないな、と背中に声をかけると、振り返りもせずに手をひらひらと振って、彼は戻っていく。
イェンはアセムを立たせ、家に入って惨状を眺めた。
アセムをとりあえず座らせてイェンは袖をまくった。
びしょぬれになった家具を適当にかたづけて、沈黙しているアセムにもう一度、尋ねる。
「火傷、ないか」
アセムは小さくなったままふるふると首を振った。
「喉をどうかしたのか?煙を吸ったなら医者を呼んだ方がいいーー」
「ちがっ!……違うわ、違うの、喉もなんとも、ない」
アセムは顔をあげて、しおしおとまた俯いた。
「ごめんなさい……火事を起こそうなんて思ってなかったわ。信じてもらえないと思うけど、わざとじゃない」
消え入りそうな声で謝られる。何と言っていいものかわからずにイェンが沈黙したままでいると、アセムは細い声で続けた。
「火を、起こそうと思ったの……でも、わからなくて。火を起こした事なんて、ないから」
アセムはぎゅ、と自分を抱きしめるような仕草をして、また、小さくごめんなさいと繰り返す。
イェンはしゃがみ込んで、アセムの目尻に浮いた涙をぬぐった。
傷に触れたのか、びくりと肩を震わせたので、静かに聞く。
「痛むか」
「もう、痛くない。大丈夫よ……」
アセムは、子供のころから女奴隷としてハリファ親子の後宮にいた。
後宮で習うのは礼儀作法と芸事と房事だ。
「何か、せめて作ろうと――でも、火の起こし方がわからなかったの。火を強くしようとしたら、布に燃え移って……悪かったわ。あんたの家なのに……」
家事くらい出来るだろうと押し付けたイェンの言葉は、アセムにとっては途方にくれる指令だったにちがいない。彼女が下働きの人間がする家事などやったことがあるわけがない。
そういう、この年頃の女ならば誰もが出来ることを彼女ができないのは仕方がない――その境遇に追いやったのは他でもない自分だったのに。少し考えればあたりまえのことなのに、いつも考えが及ばない。
イェンは厨房を片付けた。
かまどに中を片付けるとなんとか火は起こせそうだった。手早く火を起こして鍋を掲げて身を小さくしているアセムに聞いた。出来るだけ平たんな声で。怖がらせないように。
「おまえ……」
「……なに?」
なぜかお互いに小声でやりとりをしてしまう。
「なに、食べたい?」
「え」
「なにか俺が作るよ。腹が減ったろ。俺も簡単なものしか作れないけどな」
アセムはじっとイェンを見上げると、泣きそうな声で言った。
「お肉の」
「うん」
「お肉の入った、あったかい、スープが飲みたい」
「わかった」
「……カルディナの、味がいい」
「いいよ」
ぐすぐすと鼻を鳴らして小さくなるアセムを見ないふりをして、簡単に調理をして食べろよと椀を目の前に出してやる。
木で出来た匙で一口すくって、口に含むとだアセムは小さく美味しい、と言った。
「どうして、料理なんか作れるようになっているの」
「……しばらく、教会の下働きをしていたからな」
エチカとキリのことをかいつまんで話すと、アセムはそっか。と呟く。
化粧をしていない顔は年齢よりもずっと幼く見える。アセムが食べ終わったので、お代わりいるか?と尋ねると彼女はまたふるふると首を振った。
「あんたが、困ってるの、知ってる」
「――え」
「顔に傷のある、生意気な奴隷女が、家事もせずに居座って迷惑がっているのも、知ってる。当然だわ」
「なにを」
「この前、働きに来ていた娘が言っていたの。イェン様は困っているって。領主様にあたしを押し付けられても人がいいから捨てることもできないって。知っているの……でも」
アセムは唇をわななかせた。
「なんにも、出来ないの」
「アセム」
「年頃の娘なら、出来るような料理も、裁縫も。女同士の会話だってわからないし、水汲みだってできない……」
でも、とアセムは椅子から立ち上がって、それからイェンの前で膝をついた。
頭を、床に擦り付ける。
「おい、何を」
「おねがいです。王子様。あたしを怒らないで」
舌足らずなカルディナ語で彼女は言った。カルディナにいたのは十代前半までだったからか、どこか口調は幼い。
「痛いの、嫌です。お腹がすくのも、嫌。怖いのも嫌。嫌な男に怖いことをされるのも、嫌。死にたくない……何もできないけど、おねがい。あたしを殺さないで。ほかに、行くところが、ないの。追い出さないで」
「……」
「何もできないけど、何でもします。物みたいに扱っていい。なんでも……なんでも、するから」
沈黙が、数十秒――訪れて。イェンは泣き崩れているアセムを起こした。
ぐちゃぐちゃになった泣き顔を布でふいてやって、抱きしめて、よしよしと背中を撫でる。それでもまだ声を立てずに泣いているアセムを抱きしめた。
彼女と、己は同じだーー。
無力感にさいなまれて泣いている子供。
「いいよ。何にもできなくて」
「……っ」
「俺の大雑把な下手な飯でよければ、毎日作ってやる。掃除もしてやる。裁縫も実は得意だ」
「……じゃあ、あたしは、要らない……」
ぽろぽろと落ちていく涙をすくって、そうだな、と笑う。
宥めるように額に口づけて、そのまま目元に口を寄せて涙を舐める。アセムの身体がこわばっていないのに安堵しながら、言った。
「何もしなくていい。—―何も」
「……」
「だけど、たまにでいい。歌ってくれないか」
「歌なんて!何の役にも――!!」
「あんたの声は美しい。天上の音楽みたいだ……。たまにでいい、気が向いたらでいい。俺に向けて歌うんじゃなくていい。だけど、側にいて聞くことを、どうか許してほしい……」
アセムはすすり泣く。
彼女はいやいやをする子供のように首を振った。
「ごめんな。小さなあんたを、見捨てて――ずっと、後悔していた。本当に、ごめん」
わっとアセムが泣き崩れる。
その小さな頭を抱きしめてイェンは何度もアセムの名を繰り返した。
なだめるように髪に触れ、夜の闇の中もどかしく互いの指が布の上と下を探って慰撫する。
額、眉、瞼、鼻梁。その形を確かめて、何度も、指が。形を覚えるように……。
涙が流れる跡をたどって顎に触れた指はそのまま喉に導かれて心臓の音を確かめる。
速くなる鼓動を確かめるように耳を寄せて。
それから――
子供の悲しい泣き声は、次第に別の意味を帯びて尖り、やがてまた意味を失い、ぽろぽろと埋めきれない隙間のはざまに零れていく。
月は高く。
影は緩慢に揺れる。
やがてすべての動きが止まって、ただ、互いの鼓動と息遣いだけが――――聞こえて。
その刹那。
二人は、確かに幸福だった。
「いいからまだ寝てろよ」
「大丈夫、起きて……掃除くらいは、すると思う。料理は」
「頼むからやめてくれ。火の起こし方から俺が教えるから」
「……うん、待っているね。今夜は、はやく、帰って来てくれるの?」
「可能な限り。走る」
馬鹿ね、とアセムが泣き笑いのように言うと本気だぞとイェンは拗ねた。
小火の翌朝。それまでがまるで嘘のように甘い会話と軽い口づけを交わして、イェンはじゃあなと出かけていく。
アセムは背中が見えなくなるまで見送って。
どこもかしこも硬い男の思いのほかに柔らかな唇の余韻を指で確かめながら、柱にこつんと頭を打ち付けた。
――嬉しい。
イェンが優しかったことが嬉しい。
アセムを追い出さずに慰めてくれて。側にいてもいいと言ってくれたことが嬉しい。
もう、どこにも行かなくていいのが嬉しい。
余韻に浸っていると、隣人が訪れて紙束をアセムに渡した。
善良そうな隣人は旦那と仲直りできてよかったなと言ってきたので、アセムは、はにかんで、ええ、と応えた。紙束を受け取って礼を重ねて――手紙があるのに気付く。
「これは、何?」
「あんたの旦那が楽しみにしてる手紙さ。カルディナにいる妹からの」
「……ああ。聞いたわ。見たらきっとすごく喜ぶと思う。ありがとう。あの、厚かましくて申し訳ないのだけれど」
「なんだい?」
「かまどに火を起こしてくれないかしら。上手に火が起こせなくて」
善良な隣人はいいよと火を起こすのを手伝ってくれ、簡単な料理まで教えてくれた。
ちろちろと揺れる火と鍋を上機嫌に眺めて鼻歌を歌いながら、アセムは家の扉を閉めた用心深くカギを閉める。イェンが返ってこないうちに、きちんとしないといけない。 手紙の差出人の名前はキリ。
そのたどたどしい文字を見て、にっこりと笑う。
イェンが話してくれた。家族のように暮らした、神官とその養女のことを思い出す。
少女の名前は、キリ。
妹のように――家族のように、イェンが大切に思っている少女だ。
思いが詰まった優しいその文章を眺めて――内容を覚えると。
アセムはそれを一気に、裂いた。
それから、紙片をすべて、火にくべる。
舞い上がった白い灰が羽根のようにかまどの中を舞うのを眺めながら、アセムは泣いた。
「……あたしは、迷わないわ。もう絶対に、不幸になんかならない。ねえ、キリ。ごめんね。あんたがどれだけイェンを大事でも、あげない。あの人の心はもう、少しもわけてやらない。だって、あんたはここにいないから――あたしが全部、貰うの。体も心も、未来も。全部。全部……ぜんぶ……」
ぱちぱちと爆ぜる音がゆっくりと時間を刻む。
アセムは細い声で、久々に故郷の歌を奏でた。
古い歌だ。
女神が自分を捨てた夫を恋しがって泣く歌。呪いの歌。
あなたを失うのならば、世界を壊せばよかったと――。
女神はひとり、泣く。
◆◆◆◆
「違うよ!父さま!この駒はここに動かすんだよ!」
「しまった、負けたな」
あどけない声に指摘されて、イェンは頭をかいた。イェンと小さな子供の間には、木でできた盤面と騎士や戦車を模した駒がある。西国で親しまれる盤面遊戯だ。
金色の髪に白い肌、それから空色の瞳を持つ子供は得意げに父親を見上げた。イェンが特別弱いわけではないが、子供はこの遊戯が好きでおとな相手にも滅多に負けることがなかった。
「えへへ」
「参ったな。もう俺じゃ相手にならんだろう。ナジルおじさまの家に行くか?」
「うん!!」
ぱあっと表情を明るくした息子を抱き上げて髭を柔らかな頬に擦り付けると、子供はくすぐったいよときゃっきゃと喜ぶ。
幼児特有の優しい香りに目を細めて、じゃあ行くかと機嫌よく立ち上がると、背後でバン!と机を叩かれて父子はびくりと肩を震わせた。
「こんな夜中に!他人様のお屋敷にいくなんて失礼でしょう!」
「……母様!」
「……アセム。他人と言っても、ナジルだろ……、いいじゃないか別に」
「イェン!子供に礼儀を教えるのは誰の役目?」
眦をつりあげたアセムの剣幕に父子はおなじような仕草で萎れた。
「俺の役目だな。仕方ない明日にするか、アスラン」
「うん……」
しょんぼりとしたそっくりな夫と息子に目を細めてアセムは分かればいいのよと微笑んだ。
その背後では年配の乳母が黒髪の乳児を抱いて笑っている。父親の声に反応したのか、ふぇ…と泣き始めたのに気づいて慌ててイェンが娘に近づく。娘の瞳は金が混じったような緑で、まだ幼児だが美しい赤子だった。イェンは娘の小さな指にそっと触れて声を潜める。
「起こしたか?せっかく機嫌よく寝ていたのに」
「貴方のせいですからね?旦那様」
「悪かったって、奥方様」
「ふふ。ナジル様には私から明日お伺いしますってお伝えしておくから、今夜はもう寝て頂戴。この前頂いた贈り物のおかえしもしたいの。忘れずに持って行ってね?いくら親しくしてくださっても、ナジル様は次期家宰なんですから、失礼のないようにね」
「分かった。わかっている」
アセムが笑ったのでイェンはその額に口づけた。
以前イスファンが彼女につけた傷は今も引き攣れて残っているが、その傷さえ愛おしいと思う。
妻と、息子と娘。
両手にあまるほどの幸福をもてあまして、青年は柔らかく―――微笑んだ。
今回に関しては、なんか一言感想をいただけると嬉しいなーと…思います…




