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手紙 2

※残虐な表現が多少あります。

「殺せ!殺せ!」

「首をはねろ!首を!!」


 刑場に引き出された屈強な男たちに兵士が熱狂する。

 イスファンが無表情で彼らを見下ろし、男たちに問うた。熱狂の渦にいた兵士たちは怜悧な主人の合図で押し黙り彼の挙動に注目する。


「貴君らの働きに敬意を表する。貴君らの主人、ハリファは逃げたぞ。単騎で王都へ走った。—―さて、私の麾下にくだるか?それともここで死ぬか。自分で選べ。卑怯な主人に殉ずる必要はない」


 ハリファの領地に攻め込んだイスファン軍は数日のうちに彼らを制圧した。ただ、劣勢をみて、ハリファだけは逃げたらしい。かつてハリファが座っていた椅子に座り、イスファンが錆色の目で彼らを検分している。

 引き出された男たち三人のうち二人には見覚えがあった。

 己を救ってくれた団長もいる。窶れてはいるが—―、騎士然とした高潔な横顔に変わりはない。


「発言してもよろしいでしょうか、首長クイアイスファン」

「許す」

「主人の不徳は、部下の不徳。—―しかし、私が情けを受けては先代からの厚情に背く事になります。どうぞ、私のことはお捨て置きください。しかし……」

「しかし?」

「女子供にはどうか、寛大なる処遇を。賢き人の慈悲を示していただきたい」


 聖典の一つを口にして頭を垂れた騎士にイスファンが近しい者にだけそうとわかる表情で笑った。イスファンは聖典の研修を好む学者肌の一面もある。

 騎士団長がその事を知っているとにおわせたのが面白かったのだろう。

 西国の人々の気性は激しい。そして基本的には寝返りも良しとしない。女子供の処遇は首長の裁量によるだろうが。


「わかった。約束しよう」

「感謝します。寛大なる王よ」


 王ではないが、とはイスファンは否定しなかった。イスファンの合図で呆気なく三人が斬首される。


 シェンが、と。


 団長が語っているのを思い出す。

 イェンの同胞、シェンが団長の息子を救ったのだと。だから彼は恩に報いてイェンの命を救ったのだと。そう言ってイェンを救ってくれた。

 その恩人が殺されるのを、イェンはただ、傍観していた。

 手を伸ばしもせず—―


「っ」

「おい、シケた面してんじゃねえぞ、お嬢ちゃん」


 同僚のナジルがイェンの足の甲を踵で思い切り踏む。痛みに横を睨むと笑顔のナジルは目だけ笑わずに鋭く低く吐き捨てた。


「笑え。勝利に酔え—―、自分の立ち位置を示せ。マスードやイスファンがこちらを見るぞ。糞みたいな感傷に浸ってんじゃねえ」

「—―」


 ナジルの言う通りだ。イェンは唾を飲み込んで彼に従った。


「あれは敵陣だろうが。気ぃぬいて憐れみ垂れ流してんじゃねえぞ」

「……あんたの言う通りだ、すまない」

「チッ、二度と言わねえぞこのクソガキが」


 処刑が終わると、今度はまた別の一団が現れた。

 ハリファの後宮にいた女や使用人達だ。

 女達を一瞥してイスファンは笑った。幾人かの若い美しい女は彼の側近に手を引かれまた消えていく。

 イスファンの側女になるか、側近に下げ渡されるのだろう。

 大して若くもなく、見目も良くない女達はイスファン所縁の商人に下げ渡されすぐさま値段交渉がはじまった—―競りだ。

 イスファンは競りがはじまるのを見届けるとあとは勝手にやれとばかりに奥へと引っ込み、人が入り乱れての売買が始まった。


「この女、歯がないじゃないか」

「一本だけですよ、旦那。若いし。あとはほら、全部具合がいい」

「下働きの男がほしい、なにかいいのが」

「それならこっちだ。ガタイもいいし怪我もない—―」


 イェンの出身であるカルディナでは、人身売買は合法ではなかった。だからこういう場では多少の忌避感を感じる。—―ナジルにお嬢ちゃんとまた足を踏まれそうだなと嘆息しつつ、イェンは人波に目を凝らした。


「なんだよ、イェン。お前も奴隷が欲しいのか?」

「いや—―見ているだけだ」


 適当に答えてイェンはあたりを見回す。

 どうしたいのかなどわからないが、彼女を探さなければならない。

 ナジルから呆れた視線を投げかけられたが、気づかぬふりで百人もいるかという奴隷と買手の間の人波をかきわかけてイェンは人を探した。

 金色の髪をした女は少ないからすぐに見つかるはずだと思ったのに、目当ての人物へいき当たらずに気持ちが焦る。


 ここにいないのならば、イスファンが連れて行ったのか。


「イェン様」

「—―何か?」


 柔らかな声に振り向けば、サヘル付の侍女が微笑んで立っていた。


「姫がお呼びです。どうぞこちらへ」

「俺を?どんなご用事だ」

「さあ?どうぞこちらへ」


 侍女に促されてイェンは離宮へと足を向けた。

 サヘルから呼ばれたはずだが向かうのは地下牢のある方角だ。場所が合っているのか?と訝しく思い始めた時、渡り廊下の壁に背中を預けているとサヘルが見える。

 近づいてひざまづくと、薄く笑った女主人はおいで、と言い捨てさっさと歩き始めた。


「ハリファの奴隷中に、ひとり逃亡しようとした女がいたんだ。—―面白いだろう?顔を見に行くぞ、来い」

「—―……逃亡を?」

「顔をみて満足したらそれで終わり。今夜か明日には処分されるんだ。はやく」


 有無を言わさぬ口調で促され、地下牢へ付き合わされる。

 石に囲まれた寒いくらいの地下牢は見張りも無く、地下水のせいか、じめじめとした空気もあいまって大層陰気臭かった。松明も入り口にひとつ置かれたきりでほぼ闇に近い。


 サヘルに持たされた松明をかかげると、錆びた鉄格子の向こうに、細身の少年が倒れていた。

 刈り上げられた髪は殴られたのか血で汚れて—―


「アセム……」


 違う。少年ではない、痩せた女だ。

 イェンは牢の前に設けられた金具に松明をさしこんで、ひざまづいた。


「アセム。聞こえるか」


 声をかけるとゆっくりと瞼を開けた女の青い瞳がこちらを見た。

 痩せこけてあちこち傷だらけなのに、双眸だけが爛々と松明の光を弾いている。アセムはゆっくりと半身を起こして壁に背をつけてると、荒い息でイェンを威嚇した。


「—―あんたなんかしらないわ。いい気分で寝ていたのに起こさないでよ、うるさいわね」


 喋る元気があったのならばよかったが、と思っているイェンの背後でサヘルが笑う。


「お前が探しているからどんな美女かと思ったら、小汚い女だな。それはお前の恋人か」

「冗談じゃないわ、私は姦通なんてしていない。そいつとはなんの関係もない!」


 アセムが叫びながら鉄格子を掴んでイェンを睨んだ。

 イェンは多少面食らったが、アセムの剥がされた爪に息を呑んで—―彼女の意見に同意した。

 確かに、アセムと自分はなんの関係もない。単に、自分が一方的に探していただけだ。


「そうです、違います。ただ—―以前、命を助けてもらったことがあるので。彼女を探しておりました」


 イェンは身を起こしてサヘルに向き直った。

 感情の窺い知れない高貴な身分の女はふうん、と笑って腰にさしていた美麗な短剣を鞘ごと外す。意図がわからずに彼女を見ていたイェンに、サヘルは短剣を投げつける。


「恩人か、ちょうどいい。—―イェン、その女を楽にしてやれ」

「……何をおっしゃっているのかわかりません、サヘル様……」


 イェンが意図せず庇うようにして立つ配置になったアセムがぴくりと動きを止める。

 金の髪と青い瞳をしたおよそ西国(タイス)人らしくない男女を眺めつつ、サヘルは赤い舌でちろりと自分の唇を舐めた。


「その女はハリファに姦通の疑いをかけられて元々、牢にいたそうだ。そんな不良品を我らが麾下の競りにかける訳にもいかないだろう?娼館に売り飛ばしてやろうとしていたら、逃亡を図ってね。その際、偶然みつけた私の侍女に怪我を負わせた」

「それは—―」

「私の気に入りの可愛い侍女なのに。逃亡をはかったうえに、この私の持ち物に傷をつけた。だからその女は死罪だ。八つ裂きか火炙りか、どちらか民衆が望むやり方で罰を与えてやろうと思っている。どちらがいいかな」


 気楽な口調で残虐な未来を提示されてアセムが呻いた。


「—―違います誤解です。傷つけようなんてそんな意図はありませんでした!どうかお許しください」


 サヘルがのんびりと笑って片手を振り、アセムの言葉を遮る。


「死にゆく者の戯言だ直言は許してやる。それと、慈悲深い私は、おまえにもう一つ、選択肢を与えてやろうと思っているんだ」


 サヘルはアセムを指差した。


「イェン。明日、その女が無惨に殺されるのを見物するか。おまえが慈悲を持って今楽にするか選ばせてやるよ。どちらがいい?」

「……おっしゃる意味が、わかりません。サヘル様」


 イェンは短剣を持ったまま、白い肌の女を見た。今日も怪しげな薬で酩酊しているのかと思ったが、黒い瞳には理知の光がある。サヘルは正気だ。


 だが、トチ狂っている。


 沈黙する()()()()()人二人を、砂漠の王の娘はつまらなそうに眺めた。


「物分かりが悪いなあ。私はおまえがこの女を殺すところが見たいと言っているんだ。簡単なことだろう。昨日、この女と同じ陣営の兵士たちにそうしたみたいに首に刃を立てて一直線に引けばいい、ざっくりと。ものの数秒で終わることでしょう?」

「戦闘要員と、女は違うでしょう—―上に立つ方の言葉とも思えません。お戯れはおやめください」


 サヘルは挑発するようにイェンの頰に手を触れた。

 ひんやりと氷のような指が頚動脈の上に触れ、ドクと波打つ血液が冷やされていく。彼女の指のせいで身体中の体温が下がって行くような感覚に襲われる。


「ここでは殺せないのか?じゃあ、この女は明日無残に死ぬ。おまえ、自分の手は汚したくないんだな。本当に、つまらない男」


 サヘルの視線を追って、斜め後ろにいたアセムを見ると、彼女は目を大きく見開いてイェンを見上げていた

 。ゆっくりと鉄格子から手を離して壁際に後退る。

 イェンは舌打ちしたい気分でサヘルの前にひざまづく。短剣を捧げて頭をたれた。


「……イスファン様が、皆の前で約束をなさいました。ハリファの奴隷のうち、女子供には寛大な処遇をなさると。奥方様におかれましても、慈悲をもって罪人をお許しになられますよう」

「イスファンは私のやることに文句は言わないさ。女奴隷が一人死んだくらいで心を動かすバカでもない」


 お前と違って、と言われているようでイェンは黙って頭を下げた。

 ふぅん、とサヘルは短剣を取った。


「恋人でもないなら、奴隷女ひとりくらい死んでもいいだろう。私の不興を買うとわかっているのに、どうして拘るんだ?わからないなあ。なんなら、私が代わりに慈悲をあたえてやろうか。おまえみたいに上手くできないかもしれないけど、武芸の嗜みくらいはあるよ」

「—―っ」

「もういい、あとは私がやるからお前は帰れ」


 弾かれたように顔をあげると、実にサヘルは楽しそうに笑っている。

 何が楽しいのかと殴りつけてやりたい気持ちにはなるが、そんな事をすればもちろんアセムも、自分も命はないだろう。

 サヘルを殴って昏倒させて逃げるのも得策ではない。この街で彼女たちに逆らって逃げるのは不可能に近い。

 イェンは頭を下げた。


「サヘル様。どうぞお許しください。—―その女は私が勝手に愛しく思う者です。どうか、罪をお許しになり、戦功の対価として、私に下賜していただけないでしょうか」


 アセムの表情にサッと怒りが浮かぶのを視線で黙らせてイェンも沈黙をたもった。アセムが鞘から短剣を抜いて、白刃をイェンに突きつけ、すぅ、と右の目元に滑らせる。


「—―私の侍女はその女に目の当たりを殴られたんだ。お前が同じ目にあうならいいよ」

「御心のままに」

「右の瞳を私にくれる?金の瞳は珍しいから、抉り出して腐らないように液につけて保管しようかな」

「—―っ」


 刃先は睫毛が触れるほど眼球の近くにあり、チリとした痛みで、皮膚が裂かれたのをイェンは自覚する。


 金色の瞳は竜族の血を引く証だ。奪われれば、イェンを証だてるものも塵になる。


 それに、片目で剣を扱うのはひどく難しいだろう。騎士としての職務さえ失うことになりかねない。

 そこまでの価値が、果たしてアセムにあるかとサヘルは笑いながら問うているのだ。イェンは唇を引き結んで逡巡した。


 脳裏に首と胴体が別れた騎士団長の遺骸が思い浮かぶ。

 彼女に恋い焦がれているわけではない—―だが、あの光景を、見たくはない。アセムがあのようになるのは—―

 ため息をついて、サヘルの前にひざまづく。

 耐え難いであろう痛みを予測して流れる冷や汗を拭って彼女を見上げた。背後でやめて!とアセムが小さく悲鳴をあげてサヘルは楽しげに短剣を持ち替えた。


「サヘル様の、ご慈悲に感謝申し上げます」

「お綺麗で、ほんとうに、つまらない奴」


 サヘルが向けた切っ先に力が込められ—―


「弱いものいじめはそこまでにしておけ、我が妻よ」


 突如として増えた光源に、三人は動きを止めた。

 イスファンと—―その背後には松明を持ったまま、無表情のナジルがいた。イスファンは気負うことなく妻サヘルに近づくと短剣をとりあげて、自分の腰にしまう。

 錆色の瞳で睨まれたので、イェンは一歩下がって片膝をつく。


「イスファン。私の短剣を奪わないで」

「ろくなことに使わないのなら、二度と刃物は扱うな。—―その男はお前の所有物じゃない。私の部下だ。勝手に傷をつけて、価値を下げるな。これだけあからさまな竜族混じりは珍しい。また同じものを手に入れるのは骨が折れるだろう?」


 助けられたのはいいが、どこまでも所有と価値の話だなと自虐的に思いつつ、イェンはおとなしく石で出来た床をじっと眺めていた。


「いいよ。イスファンがそういうならイェンの瞳は傷つけない。だけど、その女は明日火炙りだ」

「サヘルがそうしたいなら—―」

「お待ちください、殿!それでは先程の宣言を違えることになります。殿は先程、ハリファの妻たちには寛大な処遇を約束されたではありませんか」


 イェンは弾かれたように顔を上げて反論した。

 感情を窺わせないイスファンの背後でナジルが呆れ切った表情でこちらを見ている。

 おそらくイェンを気にしてイスファンを呼んできてくれたのであろうナジルの唇が、イスファン夫妻に気取られぬように「黙ってろ馬鹿!」と動いたのがたしかに見えたが、そして自分でも大馬鹿だと思いながら、イェンはイスファンに再度、懇願した。


「イスファン様。どうか、……寛大な沙汰を」

「必死だな……なるほど、サヘルが腹をたてるわけだ」


 サヘルがどうする?と言わんばかりにイスファンを見た。イェンの主人は軽く笑い、ナジルにアセムを牢から出すように命じた。イェンはひとまず、息をつく。


「いいだろう、お前の忠誠への見返りとして、その女の命も助けてやる」


 アセムがイスファンの前にひざまづき、声を震わせた。


「か、感謝いたします」

「だが、女。逃亡した罪とサヘルの侍女を傷つけた罰はその身で受けよ」

「—―え」


 表情を変えずに砂漠の領主は短剣を抜くと、アセムの額から耳にかけてを斜めに切り裂いた。


「いや!いや!!痛いっ」


 アセムは鋭く悲鳴をあげ、その隣でイェンは、歯を、食いしばった。

 アセムの傷が深いのか、単に頭部だから流れる血の量が多いのか松明の火に照らされて増えていく血だまりから彼女を抱き起すことも出来ない。もがく女を一瞥し、イスファンは妻に問うた。


「これで溜飲がさがったか、サヘル」

「一応は。目が無事みたいなのは気に入らないけど」


 支配者の傲慢な会話が頭の上を素通りする。


 イェンは頰を汗が伝うのを自覚しながら拭いもせず、微動だにせずに、ただ、そこにいた。

 体が石になったように動かない。しかし、きっとそれが正しい。

 何も感じてはならない。なにかを願っても、嘆いてもならない。

 望みを知られてはならない。きっと彼らは笑いながらその望みを食い散らかすだろうから。

 なんにせよ自分はただ、この気まぐれな為政者たちが自分から意識を外してくれるのを、待つしか出来ない。

 —―無様で、無力なのだから。


「イェン」

「はい、サヘル様」


 平坦な声で答えると、サヘルは楽しげに唇を弧の形にした。


「その娘が好きなら、結婚するといいよ。要らないならこのまま娼館に下げ渡すけど。どうする?」


 呻くアセムにはサヘルの命令は聴こえていないだろう。イェンは暗澹たる心地で言葉を紡ぎ出した。


「—―ありがたい、ご指示です。奥方様」

「うん。婚姻祝いは楽しみにしておいて」


 微かに香るのはサヘルの気に入りの香水だろう。

 芳しい花の香りが近づいてくるのに吐気を催しながら耐えていると、サヘルの柔らかい唇が額に触れた。


「祝福してあげる」

「もったいない、お言葉です」

「—―ねえ、イェン。大事なものなんてもうないとか、この世は全部つまらないみたいな悟りきったいつもの顔より、今の表情の方がずっといいよ」


 のろのろと顔をあげるとサヘルはこの状況に不釣り合いな、穏やかな顔で微笑んでいた。

 慈母のようにさえ見える優しげな表情だ。


「—―無力感に苛まれて、泣きそうでぐちゃぐちゃに惨めな顔。そういうの、もっとみせてよ」

「……」

「目の下の傷、消えないといいね」


 イェンの右目の下の傷口を舐めてサヘルは笑って踵を返した。

 ナジルから松明を奪うといつのまにいたのか、侍女をつれて地下牢を出て行く。


「ナジル」

「はい、イスファン様」

「そこの娘を手当てしてやれ」


 ナジルが手早く気を失ったアセムを介抱し、イスファンは血のついた短剣を投げ捨てた。


「拾え。結婚祝いにくれてやる。職人が精魂込めてつくった業物だぞ」

「ありがとう、ございます—―」


 いつのまにか喉が恐ろしいほど乾いていた。イスファンはいつもの無表情でサヘルの去った方角を見ている。


「アレは気に入った男を心身ともに痛めつけるのが好きなんだ。妙な女に気に入られて可哀相に。それに、お前はサヘルに恨まれてもいるからなあ」


 他人事のように呑気な口調で言われ、イェンはイスファンを見た。


「……恨まれて?」


 恨まれる覚えなど全くない。イスファンは肩を竦めた。


「エチカの事を、サヘルは気に入っていた。あの女にしては珍しくなんの悪意もなく。おまえのせいで気に入りのエチカが死んだのだ、と子供のように腹を立てているのさ。つまりは八つ当たりだな。逆恨みともいうが」

「—―それは」


 逆恨みだろうか。

 いいや、たしかにあの日イェンがオアシスにいれば、エチカは死なずに済んだだろう。だからサヘルの怒りはある一面、正しい。


「ついでに一向に自分と()()()()しないお前にじれて拗ねているのさ。まあ、私はサヘルがおまえに構いたがる理由などはどうでもいいが。せいぜい気をつけろ。せっかく命をすくったその女も、お前も、気をぬくとサヘルに気まぐれに殺されるぞ」

「ご自身の奥方に、他人のような物言いをなさるのですね」


 暗い口調で問うたイェンをナジルが苦虫を潰したような顔で見る。

 イスファンはたいして気分を害された様子もなく、血のついた右手でイェンの髪に指を潜らせた。さっと鳥肌が立ったのにきづいたのか、主はくつくつと笑う。


「救ってやった私相手に、もう生意気な口を聞くのか?おまえの顔は美しいが、それだけだな。実に愚かだ。目先の正義感や矜持に負けて、いつか全てを失うことになるぞ」


 予言のような口調に返す言葉もなく、また真実なのでイェンは項垂れた。

 申し訳ありませんと口をつぐむと、まあいい、とイスファンは立ち上がった。


「―—何かあればお前だけでなく、その女も八つ裂きになると思え。上辺だけではない忠誠をつくせよ。枷が増えるという点では部下の婚姻は悪くない—―私はお前を気に入っている。いい飾りだ」

「ありがたき、幸せです」


 錆色の瞳が皮肉に笑い、主は踵を返した。



続きは来週(半分くらい書いてます)

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