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白夜を行く 4

本編のイェンにつながるので、どんなにほっこりする場面があっても全ては本編の爺につながります。ハッピーエンドではありません。すべて許せる方はどうぞお付き合いください。残虐なシーンがあります。


 現西国王が寵姫に産ませた娘という女とその夫は昔このオアシスに通っていたことがあるらしい。

 エチカが世話になったというカルディナの国教会の神官に、だ。

 神官は王宮で王に招かれてカルディナの国教を教えていたことがあるから、その伝手なのだという。


「西国王に、カルディナの国教を教えた?なぜ?」

「べつに珍しくいことじゃないぞ。この国では税さえ払えば信教は自由だから、大神を奉じる民は一割弱はいるだろう。だから王族は知識としてその教義を学ぶ。カルディナではどうなんだ?」

「今は知らんが、邪教と断じて終わりだな」


 イェンの言葉にエチカは邪教か、と苦笑した。イェンの感覚では同国人で信じる神が違うというのが不思議だったが。そこは国の文化の違いだろう。

 ともかく、エチカと面識がある夫妻は、近隣のオアシス都市の総督として赴任してきたらしく気まぐれに共も連れずに挨拶に来た、という事らしい。


「挨拶に来ただけだから、もう会う事は無いんじゃないのかなあ、たぶん……」



 という妙に自信なさげなエチカの言葉に一抹の不安を抱いていたのだが、その予感はすぐに的中する事になった。


「また来たんですか」

「邪魔をされるのは嫌か」

「嬉しがる人間はいないのでは」


 ひと月ほどの間に西国王の娘だというサヘルは三度も現れた。

 彼女は礼拝堂のベンチに行儀悪く横たわりながら、イェンに気づくとよっこらせと妙に年寄り臭く身を起こした。前回は夫妻がふたりで訪問してエチカと茶を飲んで帰っていったが、その前は共も連れずにサヘルが一人で訪れてエチカと話し込み、キリを揶揄い、いつのまにか帰っていた。


 西国の王族は暇なのか?と舌打ちしイェンは彼女を無視して礼拝堂の掃除をする事にした。

立て付けのよくない窓から入る砂を丁寧に掃いて布で拭きあげる。慣れた手つきで掃除を終えて満足すると気の無い拍手が背後から聞こえて来た。


「手際がいいな。竜族には掃除の異能もあるのか?」

「俺の出来がいいだけだ。貴女も暇なら一緒に拭きますか」


 茶化す声に適当に返すと、のんびりと断られた。


「それは私がすべき類の仕事ではないな。しかし驚いた。エチカの人の良さにつけ込んでタダ飯くらいをしているのかと思っていたが、意外とお前は働き者だな、青年」

「根が真面目なもので。居候の恩は返す。……それで?呼ばれもしないのに、あんたは何しにここに来るんだ。暇なのか?」


 長椅子に横たわり気だるげにこちらを見ている女に近づいて上から覗き込むと、女はふ、と笑ってイェンの胸ぐらを掴んで引き寄せた。唇が触れるほどの近さに朱唇がある。


「旧友の家に遊びに来たら、好みの男が暇そうだったので誘惑に」

「……」

「喜ばないのか?地位ある女がせっかく目をかけてやってもいいと言っているのに」

「暇じゃないし、あんたは好みじゃない。さっさと亭主の所に帰れ」


 眉間に皺をよせて敬語もやめて言い放つと、王女はますます楽しそうに笑った。


「欲がないな。私は利用しがいのある女だぞ?適当に誘惑して遊んでおけばいいのに」

「あんたと遊んで幾ばくか貰って、それで?あんたの亭主に縛り首にされるのか?そんなのは割りに合わん」


 吐き捨ててサヘルの手を取って立たせる。


「立たせてくれるのか。親切だな、イェン」

「違う、あんたの座っていた場所の埃を拭きたいんだよ」


 真顔で言うとサヘルは流石に呆れた。


「ほこり……他に言いようはないのか」

「あんたと言葉遊びをするより、掃除の方がよほど楽しい」


 言い放つとアハハと女は笑ってまた長椅子に腰掛ける。


「私が誰と遊んでもイスファンは怒らないよ。入婿だから立場が弱いんだ」


 サヘルは西国王の溺愛する娘で、イスファンは傍系の王族らしい。

 後ろ楯の無い娘に西国王が優秀でしかし金のない王族の青年をあてがった、政略結婚なのだとか。これはオアシスの噂好きな人々の説明だったが、たしかに見る限りではイスファンとサヘルは、サヘルの方が立場が強そうだった。


「お前を口説いたら、エチカが私の部下にならないかと実は思っているんだが。イェン。私の騎士にならないか?給金は弾むぞ」

「ありがたく検討しますよ、姫……。タイスの王族のくせになんでエチカを欲しがるんだ?異教徒を王族がそばに置いていいのか?」

「部下の信仰心を奪うことはないぞ。なにを信じようがタイスでは自由だ」


(オアシスの民は税などないが)西国(タイス)では本国でも納税の義務さえ果たせば信教は自由だ。


「ーーあいつは側に置いておくと心地いいだろう?せっかく近くに赴任するんだし、聞けばあいつも大病を患ったというし、ひとりぼっちで寂しいだろうから、雇って近くにおいてやろうと思っていたのに……。お前達と楽しそうにしていて、なんだか腹がたつなあ」


 勝手な事を言い放ちサヘルは大きく背伸びをして、欠伸をしながらくるりと踵を返す。


「まあ、いい!エチカによろしく伝えてくれ。最近はこの辺りも野盗が出て物騒だし、近くに越してこいとな」


 礼拝堂を出ようとしたサヘルは自分を睨みつける少女に気づいた。

 キリはふくれっ面で腰に手を当てて目をつり上げている、


「やあ、キリ。わたしを見送りにきてくれたのか?嬉しいなあ」

「誰が!また来てたのかよあんた。さっさと家に帰れ。それからエチカにもイェンにも絡むな」


 サヘルはくすくすと笑って少女の髪に指をくぐらせて嫌がる少女を抱きしめた。


「怒るな怒るな。可愛い顔が台無しだぞ?……キリは幸せ者だなあ、いい男を二人も侍らせて」

「どっちもあたしのだからな。勝手に触るな!」

「そうか、それは悪かったよ、キリ。お詫びに砂糖菓子をやろう、おいで」

「本当?やった!」


 簡単に餌付けされた食いしん坊なキリの背中に「いつ、俺までおまえのものになったんだよ?」とぼやきながらイェンはちらりと視線を横にやった。


「エチカ、お前も俺に相手をさせてないでサヘル様をもてなせよ……」


 エチカが物陰からそろりそろりと顔を出す。


「どうもあの方は苦手で……昔から、妙に押し切られると言うかなんというか」

「それは分かる気がするな」


 イェンが笑うとエチカがそうだろう、と渋面でうなづいた。


「騎士の誘いは魅力的だが、本気かな」

「イェン?」

「……いつまでもお前の世話になるのもまずいだろう。俺には他にできることもないし」


 エチカは目を細めた。


「そんな事はないだろう。炊事洗濯掃除なんでもできるじゃないか」

「お前たちがあまりにその才能がないからだろうが!」


 イェンは思わず天井を仰いだ。

 エチカもキリも、家事全般に熱意がないので、妙に生真面目なイェンが引き受けることが多い。しまいには綻びのあるキリの衣服まで繕ってしまい、己はなにを目指しているんだ?と苦悩する日々である。エチカは明後日を向いた。


「ええと、ごめん……俺もちゃんと朝食つくります……」

「そうしろ、不味くても食ってやる」

「イェン朝ごはん食べないじゃん」

「めんどくさいんだよ。おまえが作ったら食べるだろ。多分」

「じゃあ、そうします……」


 折り目正しく反省するのがおかしい。イェンはくつくつと笑いながらキリの去った方角を見た。


「キリは……大きくなったらお前と結婚するんだとよ。お前の子供を産むって」

「っ!!はぁ!?子供が何を言っているんだ」

「よかったな、色男」

「バカ言え!!俺は聖職者だし、キリは娘だぞ!……まったく、育て方を間違えた!」


 予測通りの反応をイェンはにやにやと眺めた。


「いいじゃないか。絶世の美男子の俺をさしおいて選ばれたんだ。よかったな?」

「黙れ野盗……」


 エチカが眉間に皺をよせるのを見つつ、イェンはキリが言っていた言葉を思い出した。

 ここにいるエチカはいつか、いなくなって。

 それでも、キリはその後の事を、幼いなりに考えているのだ。

 それを逞しく、ひどく眩しいもののようにイェンは感じる。

 エチカはやれやれと言い長椅子に座ると女神像を見上げた。


「子供のいうことだからすぐに忘れるだろうけれど……、俺、きっと、キリが嫁に行くときは泣くだろうなあ」

「号泣だな」

「お前が婿に行くときも盛大に泣いてやるぞ、イェン」

「バカ言え」


 イェンは呆れて右足でエチカの脛を蹴った。いてぇ!と声を上げるのを鼻で笑う。


「自慢じゃないが、俺は好みの女からは嫌われるんだ。呪いかな」


 清廉な神官と仕えた主人の妾妃。それから幼い姫付きの侍女。淡い思いは彼女達には届かなかった。

 女に誘われて戯れるはあっても、本気で誰かと向き合った事はない。


「自慢になんないだろ、それ。どんな人たちだったのさ」

「背が高くて髪が綺麗で、強い女。わかりやすいだろ?全員に振られたが」


 お前が誰かを見つけるのを祈ってるよとエチカは軽く笑い視線を前に向けた。

 女神像を仰ぐ横顔は穏やかだ。いつものように。


「俺はサヘル様の元には行かないけど」

「うん?」

「おまえは自由にやるといいよ、イェン。騎士になってもいいし、ここにいてもいいし、サヘル様の部下がいやになったら帰ってきてもいいし、好きにするといい……。ずっとじゃないかもしれないけど、約束は出来ないけど、……できる限りは俺はここに、キリといるから、さ」


 描く未来は掴めないかもしれないが。今はどうか、このままで。


「ああ」

「ずっと、変わらずに」


 あと、少しだけでも。


「……ああ」


  立て付けの悪い、木で作られた窓が風に煽られて勢いよく開く。

 どこからか飛んで来た色鮮やかな青い小鳥が細い枝で一時羽を休めて、チチチと明るい声で鳴く。

イェンが何気なく小鳥に視線を動かすと、小鳥は視線から逃れ幻のように羽ばたき…。‬

羽音だけを残して、青い空に同化して、消えた。‬
















 ーーその日は、よく晴れていた。


 イェンはいつものようにキリと隣接するオアシスへ買い出しに行っていた。キリは上機嫌に柔らかなパンを両手に抱えている。


「あたし、知ってるんだ。本当はエチカは柔らかいパンが好きなんだ。硬いパンばっかり食ってるけどさ!……喜ぶかなあ」

「お前がくれるもんならなんでも嬉しいだろ、エチカは」

「そうかな」

「きっとな」


 家に戻って、キリが大声で彼の名を呼ぶ。


「ただいまー!エチカ!」

「……?」


 足を踏み入れた途端にイェンの背筋にザワリ、と緊張が走った。

 何か、違和感がある。

 ……違和感?気配?

 いいや。ちがう。これは……。


 脳裏に、雪の日の光景が浮かぶ。

 まだ柔らかな、白い雪に沈む……

 大量に朱に塗れたーー美しい、母の……。


「キリ!!」


 大声で叫んだイェンにキリがびくりと肩を震わせる。

 礼拝堂の、いつもエチカがいる場所にーーいつもきっちりと閉じられている扉はなぜか半開きになっている。


「ど、どうしたのイェン」

「キリ、ここにいろ」


 漂う、血の香りにイェンは冷えた声で言った。

 目を閉じて息を吸い、礼拝堂に身を滑り込ませる。


 エチカは、彼の気に入りの場所にいた。

 いつものように女神像を見上げるように長椅子に座って、ぼんやりと虚空を視線が漂う……。

 いつもとちがうのは、彼が慈しむ女神像がそこにはないということだ。

 それだけではなく、祭壇の一式が……全て奪い取られている。


「……野盗の……」


 イェンは唇を噛んだ。

 初めてここに来た時、女神像を自分は盗もうとしなかったか。

 金に変えようと思わなかったか。

 古い、価値あるものだと感じたのではなかったか。


(最近は野盗も多い)


 サヘルが口にした時に、なぜ、エチカに注意を促そうと思わなかったのか。

 どっと去来した後悔と己への怒りに足がすくむ。糸に操られるようにエチカの前に立つと、エチカは緩慢な動作で……瞼を閉じて、またゆっくりと、開いた。

 西陽が窓から差し込んで、イェンを照らす。唇を戦慄かせて一歩前に出たイェンの靴に、ぴちゃりと水音が禍々しく纏わり付いた。


 ……裂かれた腹からの出血が、多すぎる。


 血で滲むエチカの胸元に手を伸ばしかけたイェンに、エチカは微笑んだ。


「……ああ、待って、た」

「エチカ喋るな、もう、いい。大丈夫だから」


 エチカは細い声で言う。

 光を失いつつある黒い瞳がひたと、『イェン』を見つめる。


「大神、我が神よ。ずっと……貴方を待っていました……」

「エチカ?」

「ずっと……」


 イェンは言葉を失い、やり場のない怒りを、噛み殺した。


 金色の髪、褐色の肌。金色の瞳。

 カルディナにいた頃から、言われてきたことだ。

 伝説上の、大神の容姿にイェンはそっくりだと。

 神でもないのに。

 嘲笑混じりに、言われてきたことだ。

 ただの、なんの力もない人間に過ぎないのに。


 ……見てくれだけは、まるで神の如き、と。


「この、せかいを、さる前に、貴方にあえ……た」


 よかった、と。エチカの声なき声が紡ぐ。

 キリが背後にいるのがわかった。声もなく少女は震えている。イェンは怒りを殺しながらエチカの血で濡れた指をつかんだ。


 ちがう、俺は神じゃない。


 お前の信奉する神じゃない。お前の家の居候で、ただの人間だ。

 おまえは、そう扱ってきたくせに、最期に裏切るのか!今更!!

 おまえも、俺ではないなにかを、俺に見ようとするのか!!


 そんなのは、あまりに卑怯だろう!


 叫びだしたい衝動を押し殺して、イェンは無理やり、微笑んで。


 エチカを静かに見下ろした。


「……我が同胞よ。暗き道を行くがいい。暗く、狭い道を……その果てにこそ真実はあるのだから」


 教義の一節を静かに語る。声が震えないようにことさらゆっくりと。

 エチカが満足げに指を握り返す。


 イェンは……昔、イェンジェイ少年は聖職者になりたかった。


 静かに神と対話して、貧しい暮らしでも人を慈しんで、誰かに寄り添い、無私に生きる。

 そんな生き方が出来たらと思っていた。


 きっとそれは。

 彼のような。


「いやだ、いやだよエチカ!こんなの、嫌だ!!!酷いよ」


 キリが泣きじゃくる。

 エチカは微笑みをたたえたまま目を閉じ、イェンは奥歯を噛み締める。

 ……エチカが、イェンを神と間違えて神だけを必要として逝くのならば、その役を全うする道化になるだけだ。


「わが神よ。どうか」


 エチカが言った。


「キリをまもって、どうか。大切な……」

「わかった」


 安心したようにエチカが息を吐く。

 エチカは透明な笑みをたたえて、光を失いつつある瞳でイェンを見上げた。


「……あいつにも、伝えて」


 いつものように、エチカは笑う。


「ちゃんと、朝飯食えよって……どうか」

「……っ」


 唇が笑みの形になる。

 けれどもう二度と。彼はイェンの名前を呼びはしなかった。

 指から力が抜ける。


「ーーーーっっ!」


 イェンはエチカの膝元に突っ伏して、声もなく慟哭した。


 馬鹿が。

 馬鹿野郎が。

 最後までしょうもない心配をしやがって!

 おまえは本当に救いようもない大馬鹿野郎だ。


「……エチカっ………っ!!」





 声なくイェンが叫んでいると、外が俄に騒がしくなってきた。

 振り向くと、数人の男が笑いながらそこに立っていた。


「なんだ?神官だけかと思ったら他にもいたんじゃねえか」


 イェンがのろのろと顔をあげる。彼らはその風体に不釣り合いな獲物(ぶき)を腰に下げていた。

 芯が冷えた頭で冷静に男たちの数と力量を把握する。

 八人。しかも、おそらく、手練れの。

 普段なら、とてもイェンひとりで太刀打ち出来るものではない。


「ガキもなかなか器量好しじゃねえか。捕らえろ、売っぱらうぞ」

「男は殺すか?」


 イェンは震えているキリを引き寄せて抱きしめ背中をトンと叩いて眠らせる。

 これ以上の惨劇を彼女に見せることがないように。

 キリをそっと地面に横たわらせてゆらりと立つと、抜刀した男が軽く目を開いて上機嫌に口笛を吹いた。

 丸腰のイェンに近づくと首筋に刃を当てながら両の瞳を覗き込む。


「待て待て、殺すな。こいつも金の臭いがするぜ!こいつ、片目が金色じゃねえか。こりゃいい。竜属混じりは高値で売れる……」


 男はイェンを値踏みすると、それに、と舌舐めずりをする。


「もう少し若けりゃ倍の値段で売れただろうが、惜しいな。……しかし、おい。見てみろよこの蜜色の髪」

「馬鹿、妙な色気を出すなよ、気色悪ぃ」

「仕事だよ仕事……売り物になるか、あちこち調べなきゃなんねえだろうが」


 ヒヒ、と笑った大男がイェンの髪を掴む。無骨な指がうなじをせわしなく撫でる。

 ……そういえば、ほんの数ヶ月前に髪を売ったのだった。

 二人にささやかな馳走を買うために。

 男は無抵抗なイェンを床に引き倒して馬乗りになると下卑た笑いを浮かべたーー


「いい子にしてろよ()()()()()()なあに、大人しくしてりゃあすぐに……」


 男は最後まで言葉を紡ぐことは無かった。

 イェンは力を失った男の死体を無感動に蹴り上げると短剣を胸から引き抜く。


「……終わるのが早すぎるんじゃないか?つまらねえな」


 血を浴びながらせせら笑って他の男たちを見ると、彼らは舌打ちしつつ腰の剣を次々に抜いた。


「……お前達は、もう少し長く楽しませてくれるんだろう?……なあ?」


 倒れた死体から長剣を奪い、男達に対峙する。

 両方の瞳が……燃えるように熱く、血が滾るような感覚がある。


「与えられる限りの、苦痛をくれてやる……」



 男達は、イェンの双眸に、目に見えて怯んだ。

 先程まで空色だった片方の瞳が……金色に燃えている。金の瞳は竜族の証。

 その双眸が金ならば、それは……ひと、ならざる……。



 惨劇は日暮れまでの、ほんのわずかな時間に、繰り広げられた。








「酷い有様だな」


 私兵から連絡を受けたオアシス都市の領主イスファンは立ち込める血の臭いに顔をしかめた。

 部下にランタンを渡すと死臭で溢れた礼拝堂に足を踏み入れる。

 足を踏み入れるなり照らされたいくつもの死体に歴戦の猛者である部下が思わず顔を顰めた。


「何人いたんだ?これじゃ、わかりゃしねえ」


 散乱する部品(・・)にイスファンも肩を竦めて視線を前にやる。かつて人であったであろう男達が、あちこちに無造作に、ゴミのように捨てられている。


「ちがう」


 低く甘い声に、びくりと部下が肩を震わせる。

 口を開いたのは礼拝堂の祭壇の前にいた青年だった。部下は短く、「ひ」と悲鳴をあげた。

 大抵のことには無感動のイスファンも弾かれたかのように声の主を見た。


 竜族の血を引く美しい青年だとは知っていたが、それだけだと思っていた。

 だが、こびりついた血を拭おうともせずに佇む青年は人ならざる美貌とあいまってまるで、根の国の使いのようだった。

 美しく、硬質で、静謐だ……。


「それは人ではない。人では無かった。だから相応しい姿にしてやった」


 口の端をわずかに歪ませて発せられる甘い声、はまるで神託のようだ。

 気が触れたのか?と部下が舌打ちするのを聞きながらイスファンは青年の前で静かに横たわっている黒髪の男を認めた。


 エチカ……


 イスファンは知己に近づこうと動く。


「殿!危のうございます!」

「触るなっ!」


 部下と青年が叫ぶのは同時だった。イスファンは構わずにエチカに近づくと手巾を取り出して頰についた血を拭う。イェンの両の瞳が揺れた。


「……あいつは、好かんだろう。血生臭いのは。ましてやお前やキリが血に塗れた姿など望まないと思うぞ」


 青年は唇を戦慄かせた。


 ゆっくりと閉じた瞳を再び開くと、片方の瞳は彼自身の空色の瞳に戻る。

 まるで何かが剥がれ落ちたかのように人に戻った青年は崩れ落ちて膝をつく。

 彼自身もいくつもの傷がある。その身を彩るのは野盗の血ばかりでは無いはずだ。


 イェンは床に手をついたまま、言葉を絞り出す。


「エチカは、長くは無かった」

「そうだな」

「だが、今日では無かった」

「……」



 歯を食いしばって、獣のように呻く。


「今日では、なかった、はずなんだ!」


 イスファンは黙って、未だ気を失ったままの少女を抱き上げた。

 青年の慟哭が夢の中にいる幼子を起こさぬように優しく、耳を塞ぐ。



「今日では……」



 差し込む銀色の月が慟哭する青年の背中を無慈悲に切り裂き。

 紅く血塗られた女神像は、慈愛の微笑みを浮かべて信徒達を見守っていた。





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