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白夜を行く 1

長いです

 砂漠には数十年に一度、雪が降るのだという。

 嵐の後、白い雪は砂の上に柔らかに覆い隠し多くの命を緩やかに奪うのだと。

 白雪はやがて砂の上で淡く溶ける。まるで、最初から何も存在しなかったかのように……。



 ◆◆◆

 イェンは高熱にうなされながら、愚かな夢を見ていた。


 あれはいつの冬だったのか。

 美しい、少女のような母が熱に浮かされたような視線で窓の外を見ている。わずかに曇ったガラス窓を細い指でなぞって視界を確保して、しかしすぐに硝子は曇る。

 いましがた北へ帰った父を……竜族の長を想っているのだろう。


『母上』

『どうしました、イェンジェイ』

『北部へ行くのは止しましょう』


 何故、と母は青くなった。

 従順な息子が己に反抗するとは思わなかったのだろう。イェンは切々と説いた。父には正妻がいる、竜族に自分たちは歓迎されない。

 ならば、臣下に降って王都のどこかで……もしくはカナンや別の土地で国教会の神官として暮らそう、と。

 国教会には、後ろ盾のない王族の体のいい閑職として何がしかの席は用意されているものなのだ。

 母は息子の提案に激高し、息子をなじって泣き喚き、だが……最後には折れた。


『本当はわかっていたのです。彼の方は私を愛してはいない……厄介な、馬鹿な女だと思っているのでしょうね』

『良いではありませんか。我々は……人間です、父上とは相容れない。私に何か異能があればよかったが、私は只人に過ぎません。父上は、竜族の長殿は、私を息子とは認められないのでしょう』


 竜族だからと言って必ずしも強い異能があるわけではない。

 逆に、人間と竜族が混じるとたまに恐ろしいほどの力を持った者が生まれることがある、らしい。しかし残念ながら、少年は何の異能も持たなかった。母と同様に、だ。


 出来損ない、と。


 視線だけで伝えられ期待はしていなかったにせよ、少なからずイェンは傷ついたが、母はもっと傷ついただろう。

 家族からも臣下からも見捨てられた少女は、恋人からさえ無価値だと断じられたのだから。

 無能な息子は、母の価値を証明してやる事が出来なかった。そのことを申し訳なく思っていた、いつも。


『誰も知らない土地へ行きましょう。きっとここより、過ごしやすいはずですよ、母上。私が母上に苦労ない暮らしをお約束しますから』


 母は泣き笑いの表情になった。

 愚かな母で済まなかったと口にしながら窓の外を見るのをやめ、イェンと一緒に王都を離れるのに同意した。


『お前には苦労ばかりかけること。愚かな母を許しておくれ』

『苦労など微塵もなかった。母上は私を生んでくださった。感謝しかありません』


 安堵する息子に反比例して母の口調は急速に冷えた。


『本当かしら?』

『ははうえ?』

『貴方の言う言葉はいつも綺麗事ばかり。それは本心かしら……?』


 母はひたと息子を見つめ、細い声でざくりと切り込む。


『本当かしら?ねぇ、息子よ。お前は本当に、生まれて良かったと思っている?こんな……惨めな人生なのに!』


 母の顔が、別の顔になる。

 姉と慕っていた神官マラヤ・ベイジア。アセム、姫君、侍女。女達が口々に言い募る。

 やがてそれに見知った男が加わった。

 父、義兄、ヴァザの王族達。

 ……それから幼い頃の自分に!

 少年は汚れを知らぬ凛とした佇まいで、地面に這い蹲る惨めなイェンを見下ろして罵った。



『なんという、惨めな姿なんだ』

 うるさい。

『無様で、弱く、汚らしい』

 黙れ。

『……こんな姿で生きるくらいなら、死んでしまえばいいのに!』

 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。



 イェンは長剣を抜いて少年を斜めに切り捨てる。

 地面に斃れた少年は血に塗れた指で、笑ってイェンを指差した。


『……わたしは知っている、これがお前の……』







「……っ、は!」


 目覚めたのは新月の夜だった。

(逃げるのには、新月がいいわ)

 姫の声が囁く気がして身震いする。

 いや、違う。姫はいない、違うのだ。

 もう、ここにはいない。

 ……ここ、どころか、この世にも?

(そう、私はもうどこにもいない……私も、侍女も……)


「……」


 幻聴を振り払い、混乱する意識を整えるために深く息を吸って、記憶を整理する。

 それから注意深くあたりを見渡した。

 オアシスに辿り着いて、気を失った。その時に誰かがそばにいたはずだ。……ここは、その人間の家か。

 空を見て、新月なのを再度確認し、自分の寝込んでいた粗末なベッドから音を立てぬように身を起こす。小さなランプがベッドサイドに置かれていて、その灯りを頼りにイェンは手早く着替え、腹の傷の痛みに、思わず蹲った。

 治療はされているが、まだ癒えてはいない、らしい。

 窓の外から馬のいななきが聴こえてくる。……荒い息を整えてそれでも、重い足を引きずる。


 この家の主人は知らないが、顔を合わせずに逃亡するのが正しいように思われた。この新月の暗闇に紛れて、少しでも、遠く。


 粗末だと思われた家は、思いがけなく広い。

 足を忍ばせて去ろうと思ったイェンは建て付けが悪いのかギィ…と開いた扉の音に身を硬くする。

 わずかに開いた扉から漏れてくる淡い光の帯が足元から額までを線状に照らすその僅かな光量の眩しさに目を背け……、誘われるように扉に手を伸ばす。


 月のない晩に、燭台の橙に照らされていたのは、小さな像だった。タイスの多くが信奉する神ではない。

 龍と女神……その横に無防備に立ってイェンを見下すのは、カルディナの大神だった。


「祭壇…」


 呆然と見上げる。

 まさか、カルディナ領のカナンに連れてこられたのかとはじかれたように窓の外を見て、そこが、おそらく己の倒れた閑散としたオアシスである事に安堵する。

 ……タイスは、納税さえすれば信教は自由だ。カルディナの民が建設した古い教会なのかもしれない。

 瀕死の己がたどり着いた場所が、よりにもよってかつての信仰を思い起こさせる教会だった事に呆然とする。


(神は子らを救い給う)


 教句の一節が頭に反射的に浮かんだことに目眩がする。


「……ふざけやがっ、て」


 ギリ、と歯を噛み締める。何が、かはわからずに、ひたすら悔しく憎らしい。まさか、救ったとでもいうつもりなのか?

 なぜ、今なのか!

 神が慈悲を垂れるつもりがあったなら、今でなく、もっと、以前に……!イェンは踵を返しかけて、ふと、脚を止めた。

 小さな像だが、美しい造りをしている。売ればそれなりの金になるだろう。イェンの懐に金はもはやない。逃げたところで路銀がなければ飢え死ぬしかない。

 ならば、これこそが神の慈悲ではないか?


(……盗人まで落ちるとは!)


 像を手に取ると頭の中に再度幻聴が聞こえた。父の声か兄の声か。美しい神像をなぞりながら、イェンは小さく笑った。……金色の肌に青い瞳、美しい容姿。

 まるで大神のよう、と、イェンを褒めそやす者は少なくなかった。だが、それがなんになる?

 神の如きと呼ばれた自分が……、神の血を引くという己が、いっそ、堕ちるところまで堕ちればどうだろうか?

 神への、ささやかな復讐にはならないだろうか?

 いいや、空高き場所におられる御身には、それは大した余興にすらなりはしな………。



「このっ!どろぼうッ!」

「馬鹿!キリっ!椅子で殴る奴があるか、せっかくの椅子が壊れ……っておい、あんた起きて大丈夫だったのか!おいっ!ばか!キリ、せっかく生き返ったのに殺す気かっ!おい」


 この声を聞くのは二回目だな、と思いつつ、イェンは後頭部を(どうやら椅子で)殴られて、昏倒した。視界の隅では、神像がイェンを嘲笑うかのように、彼を見下ろしていた……。





 イェンは傷が開いてベッドに逆戻りし、ようやく朝に起き上がると、見慣れぬ二人がそばにいた。

 黒髪のツンツン頭の小娘は憎たらしく頰を膨らませて唾をペッと床に吐き捨てるなり開口一番謝罪した。


「ごめんよ、アンタが助けてもらった礼も言わずに、神様の像を盗んで逃亡する凶悪犯に見えたからさあ、つい手近な椅子で殴っちゃったや、あっはっは」

「……キリ」


 イェンは頰を引きつらせながら娘を見た。年の頃なら十かそこら、痩せっぽちの少女は琥珀色の目でイェンを睨んだ。目つきがすこぶる悪い。


「助けてくれてありがとうよ、お嬢さん。盗人に間違われて椅子で殴られたのは生まれて初めてだがな!」

「違うっていうなら、何してたのさ、アンタ」


 睨まれてイェンはにっこりと笑った。せいぜい自分が美しく見えるように。


「神像に見惚れていた」

「はっ?」

「あまりに美しく、俺にそっくりなんで、見惚れていた。悪いか?」

「はああああ!?」


 少女は立ち上がって目を三角に釣り上げた。


「ばっっかじゃないの!この盗人!んな糞な言い訳があるかよ!盗人バカバカしい!」

「猛々しい、の間違いかな?お嬢さん、お勉強はしたほうがいいぞ」

「うるっせええええ!ねえ、エチカ、こいつやっぱり、捨ててこようよ!谷にっ!ばーか、ばーか!ばあっか!」


 イェンはそっぽを向いて耳を塞いだ。

 野良猫の罵倒は口汚い上に稚拙で、煩い。

 少女のとなりにいた若い男が苦笑する。


「キリ、客人の身体に障るだろ?病室では静かにな」

「だって、エチカっ!」


 キリは口を尖らせたが、エチカと呼ばれた男が懇願するように、なっ?と言うと渋々「水、持ってくる」と部屋を出た。


「口の悪い娘なんだよ、悪いな。そういや、頭のたんこぶ大丈夫か?あいつ乱暴だからなあ」

「いや……」


 殺人未遂を乱暴ですませるなよと思いつつイェンは短く答え男を観察する。


 若い男も黒髪だった。

 黒髪に黒い目、背は高いがひょろりとしていて、柔和な表情を浮かべた眼鏡の男。

 娘と顔だちは似ていないが、兄妹だろうか?つい、探るように指を見てしまうのは剣を扱うかどうかを知りたかったからだ。

 男の指は、少なくとも剣士のものではない事を確認して、僅かに力を抜く。


「俺はエチカ。一応、ここの教会を代理で預かってる。あんたは?」

「……イェン」


 名乗って沈黙すると、エチカは苦笑しつつイェンの持ち物を持ってきてくれた。破れた服も綺麗に補修されている。もはや使い物にならない剣も。

 それから、エチカは簡単にここがどこだか説明してくれる。

 以前から、西国タイスにはカルディナから数百人単位で移民があった。ここは、その移民達が建てた教会なのだと言う。

 今はカナンから神官を呼ぶこともできずに、この周辺に点在する小オアシス群に住む僅かな住民達が世話をしているらしい。そしてこの小さなオアシスには彼とキリがだけが住んでいるのだ、とも。


「神官の爺様が亡くなって、ここには代わりの神官がいないんだ。だから俺が代理」

「……危ないところを、世話になった」

「気にするなよ。客人をもてなすのは当たり前のことだ」


 礼を言うと、エチカはパッと笑顔になる。

「客人をもてなすのが当たり前」なのはカルディナの流儀ではなくタイスの伝統だ。カルディナの宗教を信奉していても、結局、この男の中身はタイス人なのだろう。

 しかし……イェンは改めて男を見た。

 タイス人と断じるには肌が白い、この男もカルディナからの移民、の子孫なのだろう、きっと。


「しっかし、あんたよく生きてたな!俺はもう無理かと思ったんだけどなーハラワタが出かけてたから無理やり押し込んで、なんとか縫ってさー、うにょーって出かけてたのをさー」

「……う、うにょ」


 そんな微妙なことを物凄く楽しそうに言わないでほしい。思わず想像してしまい、口元を押さえて襲ってくる吐き気に耐える。

 エチカは苦笑しつつイェンに身を横にするように勧めた。


「傷の治りは早いみたいだけどさ、死にかけてたんだわ、あんた。今はゆっくり休んだ方がいい」

「いや、一晩休んだら明日にでも」


 身を起こそうとした肩を思いのほか強い力で押さえつけられる。


「無理だよ。せっかく助かった命を粗末にするな。あんたが何から逃げているかは知らんけどさ、どうせ外ではこれから一月は砂嵐が定期的に起こる。どこにもいけないし、どこからも来れない」

「砂嵐……?」

「そ。この辺りの天候は不安定で、これから一月は砂嵐が出る。ひどい時は風の威力で馬が空を飛ぶ。あんたの追っ手が西国人なら、こんな時期に探しに来るほど愚かじゃないよ」


 砂漠の気候にそこまで詳しくないイェンは首を傾げ、それから、突如として襲ってくる睡魔に目を閉じた。

 どこからか漂う香が思考力を奪う。


「なんの……香……」

「キリ!」


 扉が開いて先ほどの娘が香炉を持って入ってくる。娘は勝ち誇ったように水差しと、古い香炉をイェンの側に置いた。


「夢も見ないで眠れるよ。起きたらあんたの身体はあたしにバラバラにされてるかもしれないけどさ!」

「……っ」


 クソガキと詰ろうとするのに、香炉には何が入っているのか、抗う間も無く全身が弛緩して行く。

 エチカと呼ばれた男が溜息をついて、煙を避けながらイェンの肩を押した。のほほんとした表情で微笑む。


「今はその方がいいかもな。安心していい、ここに危険はないから」


 そんな都合のいい言葉は、信じない。

 抗おうと伸ばした手を掴まれて胸の上に戻される。


「いい夢が見れますように」


 エチカの言葉を合図にして、またイェンの意識は混沌と悪夢の波を漂った。






 ◆◆◆

 男の名はエチカ、娘の名前はキリと言った。

 エチカはカルディナからの移民の子孫だが、キリは違う。二人は兄妹ではないらしい。

 親がオアシスで行き倒れて、そのままエチカが面倒を見ているのだ、と説明してくれた。

 結局、イェンはまた一昼夜昏倒し、ようやく起き上がれるようになったのは半月ほど経ってからだった。

 今のところ、追手は現れない。


 風の噂で、元の主人が部下の謀反にあって暗殺された、と聞いた。その噂が真実なら、追っ手はいなくなったのかもしれない。


 殺したのは誰だろう、と考えて、か弱い姫の横顔が浮かぶ。

 兄を憎んでいる、と言った彼女だろうか。

 いや、そんな力はもはやあの儚い女性には残っていなかっただろう。最早関係のないことだが……。

 二月ほど経って身体の不具合がほぼなくなった頃には、さすがに無駄飯ぐらいは気が引けて雑事をこなすようになっていた。


 どこへ行くか、これからどうするか、はまだ決断できていないのだが。

 溜息をつきつつ、イェンはエチカから借り受けた鋏で長く伸ばしていた金色の髪を肩の付け根でバッサリと切る。

 残った不揃いな髪をどうするかと思案中に、野良猫のような娘がひょっこりと顔を出した。


「髪!切ったの」

「暑いからな」


 黒い野良猫を思わせるキリは客人が珍しいのか、イェンが目覚めて一月も経つと警戒しながらも距離を縮めてくるようになった。彼女は、切り落とされた髪を残念そうに摘む。


「砂漠を越えたからかな、傷んでるや。傷んでなけりゃいい色だから、売れたのに」

「髪が売れるのか?」

「うん、金持ちが鬘にするからね。あたしも売った」


 キリの黒い髪の毛は女としては例外なほど短い。以前は腰まであったものを、近くのオアシス都市まで行って売ったらしい。


「……売りに行けばよかったか?」


 イェンは切り落とした金髪をマジマジと眺めた。

 人種の坩堝である西国にも金髪の人間は少なくないが、純度の高い蜜のような髪は珍しいだろうから高値で売れたかもしれない。惜しいことをした、と本気で残念がっていると「こんだけ傷んでいたら無理だって」とキリが呆れた。


「売って、何をしたんだ?」

「うん?教会の壊れた窓の修繕。エチカは金がないし、でも窓がないと教会が傷むだろ?エチカはあたしが髪を切って怒ってたけど、でも窓は無理やり修理させた。じゃないと、あいつが大切にしてる教会がダメになるしさ」

「ああ」


 イェンはエチカの人の良い顔を思い出した。

 前任の神官は医者も兼ねていたらしく、その弟子みたいなものだった、という彼は拙いながらも医術をする。イェンは無意識に不揃いに縫われた腹の醜い傷を撫でた。

 近隣の集落に呼ばれて施術する事もあるのだが、とにかく、治療費を受け渋る、らしい。

 キリは眉間にしわを寄せる。


「いくら貧しくたって、少しくらいなら払えるはずなんだよ、あいつらも。だけどエチカは人がいいから、踏み倒されても苦笑するだけで許しちゃうんだ。あたしが後で取り立てに行くけど!」

「なるほど、お前は優秀な取り立て屋になりそうだな、キリ」

「ん!金がないなら別のもの取り立ててる!肉とかさ」


 十歳かそこらの娘は胸を張り、イェンは僅かに呆れたが頷くにとどめた。エチカの人の良さにつけこんで、無駄飯ぐらいの地位に甘んじている身としては耳がいたい。

 一宿一飯の恩と思いつつなんとか起き上がれるようになった頃から、イェンは、時折馬を走らせて砂漠に赴き、砂蜥蜴を狩っている。

 蜥蜴はさばくのに骨折れるが、鶏肉によく似て旨いし、はいだ革もそれなりの値段で売れる。

 革を売った金で塩を買って保存用の肉を作れるようになると、教会の晩飯はわずかに豪華になり、食べ盛りらしいキリはころりと掌を返してイェンを盗人と呼ぶのをやめた。肉をくれるからいい奴だ、となったらしい。

 現金な猫である。


「しかし蜥蜴の肉ばかりじゃ飽きるよな…。駄目元で売りに行くか?食料くらい買えないかな。俺はたまには鶏肉と野菜が入った、スープが飲みたい。あと、酒も」

「あたし、柔らかいパンが食べたいっ!そんなら髪、売りに行く?あたし走って行ってこよっか?」


 二人して美食に想いを馳せて、ややあってため息をつく。

 思えば今まで人間関係の苦労はあったにせよ、騎士として雇われていた以上は衣食住は保証されていた。

 空腹に悩むというのは初めての経験でこれが実に辛いものなのだと、情けないながら初めて実感していた。

 二人して腹を空かしていると、エチカが診療先から戻ってきた。

 彼はイェンの髪を見て驚き、暑いから切ったと告げると、不恰好だな、と呆れる。


「整えてやろうか?」

「あんた、出来るのか?」

「キリの髪も俺が整えてるんだよ。問題ないって」


 イェンが多少の不安は覚えつつも鋏を渡すと神官代理は慣れた手つきでイェンの髪を切り始めた。

「どんくらい切る?」

「可能な限り、短く」

 首筋に金属の冷たさを感じて粟立つのをやり過ごせば、エチカの仕事は手早かった。


「ほい、出来上がり!」


 鏡を見れば短く髪を切られた自分と目が合う。少し痩せて輪郭が鋭角になったからか、まるで別人のようだった。

 イェンは、エチカを見上げると、洒落者だったと言う前任者の神官が使っていたという髪粉の残りを貰っていいか尋ねた。

 短くなった髪を黒く染めれば……カルディナを思わせる要素が格段に減る。髪色一つでおもしろい物だな、と思いながら鏡の自分を皮肉に観察する。

 父親にはどこも似ていない。


「なんで染めんの、髪。売れなくなるじゃん」


 キリがイェンを見上げて尋ねる。イェンは腕を組んで、せいぜい凶悪に笑った。


「俺は泥棒で逃亡者だからな。変装をしている」

「へぇー変装かあ。あ!あたし良いもん持ってるよ。待ってな!」


 キリは教会に引っ込んで直ぐに出てきた。

 黒い布を「変装用小道具」と渡されて……、イェンは思わず笑ってしまう。古びた眼帯で片方の瞳を、金色の瞳を覆ってしまえば黒髪に水色の瞳、褐色の肌をした西国人にしか見えない。

 これには、本人よりもキリの方が何故か喜ぶ。


「なんか、野盗みたいだな!イケてる!」

「……野盗」


 思わぬ評価に多少複雑な気持ちを抱くイェンに、エチカも追い打ちをかけた。


「分かるぜ!キリ。なーんかイェンは悪党っぽいもんな!似合う似合う、スカした道楽息子から野党の親分っぽく進化したぜ、おまえ!」

「うんうん、絶対そっちのが良いって、悪党っぽくて」


 道楽息子。悪党。野盗。

 散々な評価にイェンは舌打ちして二人から距離を取り口を曲げた。


「うるさい。何が野盗だ。こんな品のいい野盗がどこにいるんだ!」

「何でヘソ曲げてるのさ、褒めたんだからいいじゃん!」

「うるさい、猫娘!おまえは暫く蜥蜴の肉を食うな」

「えーっ!ケチっ!」

「狩ったのは俺だ」


 じゃれつくキリを邪険にしつつも構うイェンを、エチカが肩を震わせて見守っている。

 砂漠の小さなオアシスでの最初の季節は、そんな風にして過ぎた。






 エチカとキリの住むオアシスに建設された小さな教会には、前任者の持ち物が数多く遺されていた。

 五十冊はありそうな神学関係の書籍もあって、多くはカルディナ語で記されていた。

 ここに居た神官は学識高い人物だったのだろう、た推察された。エチカは規則正しく神に礼拝を欠かさないが、その際に唱える文言は、発音も文法も正しいカルディナ語だった。

 神官に叩き込まれたという彼のカルディナ語はほぼ、完璧だった。しかし、驚くべき事は……。


「字が読めない?あんたが?」

「ん、ほとんどな」


 敬虔な国教会の徒に見えるエチカが神学書に手をつけないのを不思議に思って聞くと、彼は気負う事もなく理由を打ち明ける。


「カルディナ語だからじゃないぞ、俺はタイスの言葉も読めない。字がミミズみたいにのたくって見えるんだ。数字はわかるんだけどなあ」

「驚いたな」


 子供の頃から、文字を見ると、線が踊っているかのように思えてほぼ読めないのだという。だが、イェンが知る限り彼は教句を澱みなく諳んじている。


「字が読めないのに、どうやって覚えたんだ」

「ん?教句?前任の爺さんが読んでくれたのを、耳で覚えた。字が読めない代わりなのかなあ、俺は記憶力だけはいいんだ」


 それは、記憶力がいいというレベルの話ではない。

 一度聞けば大抵の文言は忘れないというエチカに、イェンは驚きを通り越して呆れた。デタラメな異能を持つ人間が、世の中にはいるものだ。

 驚くイェンをよそに、エチカの指が、前任者の遺した書籍の背表紙を慈しむように上下に動く。


「爺さんがぽっくり逝ったから、続きを知ることが出来なくなったんだ。それが残念だ」


 エチカが珍しく、小さくぼやくので、イェンは彼が手にした書籍を迷いながら取り上げた。エチカはいつものように穏やかな瞳で、焦がれるように別の書籍を眺めている。


「神の御心を紐解く手がかりが、本の中にはあるかもしれないのにな。俺には手が届かないから、少しもどかしい」


 イェンは目を瞠った。

 ……こんな、国教会から遠く離れた地で純粋に神を信奉する信徒がいる。きっとカルディナの王都に行けばこの本達は高位神官の書棚を飾るだけで、持ち主は享楽と権力闘争に明け暮れているだろうに。

 イェンの心は最早教義からは離れてしまったが、少年の頃の純粋な気持ちを、エチカの控えめな熱が僅かに掘り起こした気がして、ぽつり、と口にする。


「俺が、読もうか」

「え?」

「俺は半分カルディナ人で、カルディナの言葉がわかる。世話になりっぱなしで、他に返せる当てもないし、あんたがいいなら、読もうか?」


 エチカは躊躇うようにイェンを見た。


「そりゃ……嬉しいが、おまえは大神の話が嫌いなんだろう?読み上げてると、辛くないか?」


 イェンは笑ってしまった。

 多分、エチカはイェンがカルディナ出身だととっくに感づいていて、それなのに、居候の感情を慮って本を読めと言わなかったのだ。

 それ以前に己の願望の為に、イェンにそれを強いる事など、考えもしなかったのだろう。

『馬鹿のつくお人好し』

 キリの評価に内心で同意しながらイェンは本を開く。


「俺にとっては、この本の記述は最早ただの文字だが。あんたには違うんだろう?……読むよ、いつでも」


 エチカはそれは嬉しいな、と目を細めた。


 それから数ヶ月、イェンは小オアシスで雑事をこなしながら、エチカの暇な時に請われるままに書籍を読む、という生活をしていた。

 たまにキリも現れてカルディナ語はわかんないからつまらないと文句を言いつつ、エチカの隣で昼寝をしている。そんな姿は、ますます猫のようだと思う。


 ある日、いつものように本を読み上げていたイェンに、一息いれるか、とエチカが茶を入れに立った。

 今日はキリは近くのオアシスに食料を分けに貰いに出かけていて、二人きり。イェンはエチカの背中を見ながら本に目を落とし、一節を指でなぞる。


『暗き道を、行きなさい。より暗く、狭い道を……』


 己の歩く道は今どこだろうと思いながらゆっくりと戻ってきたエチカを見上げ、カルディナ語を口にする。

 エチカが自分で言う所の身体の不具合、は字が読めない事だけではない。

 彼は足が悪い。

 歩く分には問題ないが疲れやすいし、走ることは全く出来ないのだと聞いた。

 それを嘆く様子はまるで見せないが……。

 イェンは聞いた。


『字は読めないのに、あんたのカルディナ語は完璧だな、感心した』

『神官様がカルディナ語しか喋れなかったからなあ。死ぬ気で覚えた。イェンもは元々カルディナ語しか喋れなかったんだろう?なのに、タイスの言葉に違和感ないよな、すごいじゃん』


 ふ、と息を吐く。

 イェンは子供の頃から国でも高名な家庭教師がつけられていて、恵まれた環境で養育された。だから複数の言葉を難なく扱えるに過ぎない。己の努力ではない。


『北部の出身だっけ?おまえ』


 世間話のような口調で言われて迷った挙句に、首を振る。


『……いいや、本当は違う。生まれはカルディナの王都だ。その中心の、王宮の寂れた一室がの生まれた所だ。多分な』

『王宮?』


 イェンは片手を上げて、神官代理を見た。

 エチカがぴくりと反応して姿勢を正す。片手をあげるのは国教会での合図だ。告解をしたいという。


『……世間話をしても?神官代理どの?』

『……。どうぞ』

『私が生まれたのは、カルディナの王宮だ。母親は数代前のカルディナ国王の私生児で、父親は……竜族の長だった』


 エチカは、沈黙している。


『正式な妻じゃない。王宮を訪れたその男が気まぐれに母を犯して、……しくじった。何かのはずみで、間違って生まれ落ちたのが、私だ。母親は愚かな人で。愛情の欠片も無い父親に縋りつこうと必死だった』


 彼女は父しか見ていなかった。そしてあっさりと捨てられて命を呆気なく手放した。残される息子の事など顧みる事もないまま。


『後悔している』

『何を?』

『足にすがりついてでも、母の誤りを正せばよかった。あんな下らない男に心を残すなと。貴女は愛されていないのだと、()()()()()知らない真実を、切々と説いてやればよかった。……いいや、それは傲慢だな。私は伏して願うべきだったんだ。父を忘れてくれ、貴女の掴むべき幸せを望んでくれ、…私の事は……忘れてくれても、いいから、と』

『……』

『そうすれば、彼女はまだ生きていたかもしれない。それから……、もうひとつ、後悔している』

『後悔?』

『母親の遺体を、汚いものをみるように一瞥した、あの男を……』


 イェンは目を閉じた。

 瞼の裏に焼き付いた、己と良く似た容貌の美しい男を思い出すたびに、せりあがる火のような感情を嚥下する。


 竜族は自死が出来ない。絶対に。

 本能的に無理なのだ。


 だから、父親は自死を以って人である事を証明した憐れな母親を汚れだと、忌避した。


『殺して、やればよかった。例え、相打ちになっても、その後殺されたとしても……喉を掻き切って、母の側に送ってやればよかった……。それが出来ないなら、物のわかった賢い子供のふりなどせずに、泣いて喚いて、思いのままに、あの男を詰ればよかった。お前は屑だと、私の母を殺した人殺しだと、せめてお前も死ねと、そう……駄々をこねて暴れれば、よかった』


 本当はそうしたかったのに、卑小なプライドが取り乱す己を許せずにそうしなかった。子供じみた感傷を自嘲しながら、イェンは目を開く。

 それを見つめ返すエチカの視線には哀れみもなかった。ただ、静かに凪いでいる。


『今は分からないが、俺を追っていたのは、カナンの総督だよ。カルディナ国王は目障りな同族を次々と殺している。……だから、愚かにも竜族の庇護を抜け出した馬鹿な廃公子を手土産に、王都に帰還したかったんだろう』


 イェンの首をカルディナ王が喜ぶかはわからないが、カナンの総督は少なくとも、自分の首が国王の歓心を買うと踏んだのだ。

 それだけの価値があればいいが、とイェンは目を伏せ、正面のエチカを伺った。

 なぜ、そんな話をしたのか分からず、浅はかな事を言ったと忽ちに後悔が襲う。いくらエチカが馬鹿のつくお人好しでも、イェンのような厄介な事情を持った居候は邪魔だろう。


『世間話は、終わりだ……黙っていてすまなかったな』


 馬鹿な事をしたと思っていると、エチカの静かな声がした。


『誰にでも言いたくない事ぐらいあるだろう。お前が謝る事なんて、何一つないよ、イェン』

『……』

『お母上は、きっと天上で後悔しておられるよ。お前の心に傷をつけたことを』

『そんな人じゃなかった』

『そうか。でも俺は、そうだといいと……俺は、信じるよ』


 唇を引きむすんだイェンを軽く笑い、エチカは立ち上がった。玄関で派手な音がして、キリが戻ってきたのだと知れた。エチカから、ごく自然に行こうかと促される。


「そろそろ昼かな。キリのやつ、もう少しお淑やかにならないかなあ、無理かなあ……」


 ぼやくエチカの横顔があまりに普通なので、イェンは戸惑い、思わず問いかけた。


「出ていけと、言わないのか」


 エチカが目を丸くする。


「……なんで?」

「なんでもクソも……どう考えても厄介だろう俺は。もし、誰か追っ手が来たら」

「イェンはここが嫌いか?俺もキリも居てくれたら嬉しいけど」

「……嫌いじゃないが」

「じゃあ、居ろよ。嫌になるまで」


 呆気なく許されて、行くぞ、と肩を小突かれて呆然とする。立ち竦むイェンをエチカは再度促した。


「追手が来たら逃げればいいじゃないか、三人で。あ、俺は走れないから馬な。キリも小さいから馬な」

「……俺はどうするんだよ」


 エチカは何の憂いもない、明るい顔で言い切った。


「走れよ、若者。得意だろ?」

「は?若者って……そんなに変わらないだろう。そもそもお前何歳なんだよ」

「ん?三十超えたけど」


 えっ、とイェンは驚いた。てっきり同い年くらいだと思っていたのに、五つ以上も年上だったのか!

 若く見られるんだよねー、俺、と嘯くお気楽な眼鏡にイェンは虚脱した。


「……そんなに年上だとは思わなかった」

「知ったからには、今後は充分俺をいたわれよ」

「今後は、敬語とか使った方がよろしいですか?」

「やめろ、気色悪い!」


 鳥肌をさする姿がおかしい。二人は顔を見合わせると、同時に噴き出した。


「たっだいまぁ!」


 駆け込んで来たキリが肩を震わせている二人を見ながら、「何笑ってんだよ!」と忽ちに不機嫌になる。

 この黒猫は、仲間はずれが嫌なのだ。

 何でもないよとエチカが昼食を作りに台所へ消え、キリがむくれる。

 イェンも「本当に、大したことじゃないんだ」と呟いて、肩まで伸びたキリの猫っ毛をぐしゃぐしゃとかき乱す。……キリの髪の毛はいつものように柔らかくて心地いい。キリはやめろよ!と文句を言いながらも、イェンの腰に甘えて抱きつく。



 イェンがこの砂漠の、小さなオアシスにたどり着いてから。ようやく、半年が経とうとしていた。

続きは十日後くらいに

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