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神の如き

「……っ!ひっ!頼む、殺さないでくれっ、頼む!おれは頼まれただけなんだ!たの…がっ」


 肉を斬る音は、派手ではない。だが、何度も繰り返せば手首に重い衝撃がある。イェンは噴き出す血潮に構わずに刃を滑らせる。


 断末魔の悲鳴は聞き慣れた。

 特段の感慨もない。


 欠けて、鉄の棒になってしまった剣を杖のようにして体重を支えながらイェンは荒く息を繰り返し、次第に整えながら最早動かなくなった追手たちを目線で確認する。


 動かない、誰も。

 安堵のあまり尻餅をつくように後ろに倒れこんで夜空を見上げた。


 丸さをやや失った月は明るい。まずいことに。


 もしこの男達に「頼んだ」誰かが役立たずの追っ手の顛末を知れば新たに誰かを差し向けるかもしれない。失いそうになる意識を奮い立たせて黒い馬を引き寄せて、倒れこむように馬に跨る。手綱に自分の手を結びつけて落ちないように祈りながら鐙を蹴る。


 祈る、か。


 イェンは自嘲した。誰に?何を、何と祈る?聞き遂げられもしないのに。


 ふと湧いた疑問が馬鹿らしくて笑った瞬間に腹の傷が痛み、……死ぬかもしれないなと思いながら馬を進めた。





 ◆◆◆

 アーキムの、という体で渡された紹介状はそれなりに役立った。西国タイスの王都から離れ、カルディナの領地カナンにほど近いオアシス都市にイェンは身を寄せていた。


 王族の傍系だという若い領主は大体の事情を察していたらしく、皮肉に笑いながらも、イェンを麾下に加えてくれた。

 それにもう1つ、お前は人形のようなお綺麗な顔をしているな、と彼の未成年の妹の世話を任された。


「お兄様はね、私に何でも買ってくれるのーああ、動かないで横を向いて、そうー例えば、綺麗な人形とか」


 歩けず、すぐに熱を出し、死地を彷徨う。病弱な少女はしかし、随分とキツイ物言いをする娘だった。

 絵を描くのが趣味とかで気まぐれに彼女に呼び出されてお人形は動くなと命じられる。

 イェンは辟易としながらも、黙って応じる。

 職務だからだ。


 砂漠の中のオアシスとは不思議なもので、どこから湧くのか清廉な水が地中から溢れて、屋敷の中心にもちょっとした植物園ができていた。


 極彩色の見慣れぬ植物、水を浴びに来る鳥達、息を深くすれば酔いそうな鮮烈な香りは、どの色の花から香るものなのか。少女は全くそれは気にならぬようで、黙々とイェンを描いている。


 沈黙の中でふと思い出した。

 いつか自分と母を描いた肖像画があった、あれはどこにあるだろう。とっくに捨てられただろうか。そうならばいいが……。


「こちらを見て」

「はぁ」


 気の無い様子で応えると娘は首を傾げ無邪気に問う。


「お前の目は、いつ見てもふしぎ。ねぇ、左と右で、物の見え方ってちがうの?」


 イェンの瞳は左右で色が違う。ひとつはヴァザの血筋を表す空色。もう片方は金色だ。竜の血を引く証……。


「違いませんよ、姫さま」


 ふぅん、つまらないわね、と彼女は言い捨ててまた紙に集中する。

 主人の警護、娘の他愛もない相手、日々は淡々と過ぎて行く。アーキムの屋敷ではそれなりに同僚とも付き合いをしていたが、新しい仕官先では、周囲はよそよそしい。

 あるとき、姫が理由を教えてくれた。


「騎士団長が、私を好きなの。か弱く美しい姫さま、私がお守りしてあげたい!ついでに、兄上の義理の弟になってもっと権力を得たい!ってね。後半の理由が八割だけど。だからお前は嫌われているのだわ。私のお気に入りだから。私がお前に恋をしているせいで、団長は私に愛されないの。可哀想」

「……私は姫のお気に入りだったのですか?知りませんでした」


 その割にはいつもぞんざいな扱われ方をしているが。姫はくつくつと笑う。


「ええ、お気に入り。私は神の如き美貌のお前に入れあげて、ワガママを言って、団長の求婚を退けている。兄上は苦々しく思いながらも、病弱な妹の純粋な気持ちを無視はできない、残念だけど、能力はあるけれど野心家で貧民層出身の騎士団長を身内には出来ていない、って筋書きなの……私は兄上の気持ちをよく理解してお前とお人形遊びをしてるのよ、平和でしょう?」


 神の如き、と娘は時々イェンの容貌を揶揄する。


 イェンの出身であるカルディナでは大神は竜の化身だ。

 北から逃れた竜が人に身をやつした若者は金色の髪に金色の肌を持ち、空に焦がれて見つめ続けた結果、双眸は空色になったとの伝承。

 外見だけならまるでお前みたいね、と娘は言う。


「……随分と、ご自身を客観視なさるのですね」

「暇で暇で退屈でいつも死にそうなの!物事のカラクリを考えなきゃやってられないわ」


 イェンは口の端をあげた。


「邪推ともいいますよ。騎士団長は真実あなたを愛しているかもしれないし、兄上は妹君が純粋に世界で一番大切なだけかも」

「物語には色んな解釈があるわね?じゃあ、お前はお前の筋書きではどういう役割なの?」


 茶色の瞳が楽しげに瞬きする。まるで教師からの謎かけのようだ。

 イェンは甘い声で喉を鳴らす。


「それは勿論、姫に焦がれる憐れな騎士です。姫の寵愛を得たいのに、内気なせいで何も言えずにいる」


 姫は内気ねぇ、と肩を竦めた。


「で、本音は?」

「実はそろそろ腹が減りました。姫さまも朝から何も食べておられませんよ。絵の勉強はここまでにして、続きはまたご体調のよろしい時に」


 イェンは扉の側に立つ若い女に目をやった。

 彼女はホッとしたように頭を下げる。姫の侍女で、いつも姫の体調に一喜一憂する善良な娘で、姫の乳姉妹なのだという。

 イェンは渋る姫を宥めすかして、両手に抱えて部屋まで運び、少食な彼女が時間をかけて昼餉を取るのを確認する。

 医者が薬を飲ませて、寝所で寝息を立てるのを侍女が確認するのを待ってからようやく二人で部屋を辞した。


「今日は、姫さまのお顔を色がよくて、ようございました」


 姫の容態は、実は悪い。

 十日ほど前にはもはや意識は戻るまい、とまで言われていたのだ。


「イェン様にはいつも姫さまを諭していただいて感謝しているのです。私のお願いではお薬を飲んでくださらない事も多くて」

「侍女殿に甘えておられるのでしょう。姫さまはお幸せです。あなたのような方が側にいて」

「いいえ、何の役にもたたぬのです。本当に有り難く思っております」


 伏し目がちに感謝されて、そんな、と否定する。


「私もまだ昼は食べていないのです、侍女殿も一緒に……」


 誘おうとしたが、無邪気に、それでは仕事に戻りますと告げられたイェンは無駄にあげた片手を彷徨わせて、やや落胆する。


「色男も形無しだな?」

「……殿」


 振り返ると、どこから見ていたのか、主人が一人でイェンの背後にいた。一人でいるのが好きな性質なのか、屋敷では彼は勝手気ままに歩いている。

 数ヶ月前、この主人に侍女を嫁にどうだと言われた事がある。主命なら構わない、とイェンは思ったのだが、侍女にアッサリ振られた。いわく……、


 私が嫁になど行ったら、姫のお側には誰がいるのです、私は姫さまのお世話がしたいのです、どうかこのお役目を取り上げないでくださいませ!


 との事。


「侍女殿は、姫さまが大事すぎて私など眼中にないのですよ、殿」


 蒼褪めて主人に涙ながらに懇願する様子を見て、さすがに少しばかりイェンは傷ついたが、同時に羨ましくもある。


「姫君はお幸せです。あのように思ってくれる侍女殿がお側におられる」

「振られた女に寛容だな、イェン」

「慣れています。私は、好ましいと思う女性からは、大抵疎まれるらしいので」


 ハハ、と主人は笑い、城下へ行くぞとイェンを誘った。


 オアシス都市は交易の華やかな土地でもある。さまざまな人種や物品が集まるこの街は楽しいが、揉め事も多い。


 街の視察と称して主人はふらりと城下へ降りる。その警護を担うことも少なくなかった。

 しかし、色々な人種がいるものだと感心して周囲を見渡す。さすがにカルディナ人は少ないが、肌が漆黒の南方人や、顔の平坦な東国人などもちらほら存在している。

 ……ふと、違和感を覚え、イェンは目を左右に走らせた。

 視線を感じたのだ。


「……?」

「どうした」


 いえ、とイェンは低く応えた。

 雑踏に消えた複数の人影に見覚えがあった気がする。

 まさか、と瞬きする。

 最早、記憶も遠いヴァザの都で見かけた、王宮の……。


「……カルディナ人がいるようなので。カナンから来たのでしょうか?珍しいですね」

「ああ、たしかに。お前はカルディナの北部出身だと言ったな?」


 イェンは頷いた。嘘ではない。

 生まれは王都だが、母とともに北部の北山で暮らした。


「懐かしいか」

「……カルディナでは、私のような混血児の存在は喜ばれません。あまりいい思い出もありませんので懐かしくは、ないですね」


 混血児が喜ばれないのはカルディナの人間から、だけではない。竜族もそうだ。

 例えば、金色の髪に金色の瞳をした異母兄とは何度か顔を合わせただけだが、まともな会話が成立した覚えがない。汚いものを見る目で吐き捨てられた。


『雑種が我らの聖域に足を踏み入れるとは……父上も何をお考えなのか!』


 何もお考えでなかったから、無垢な小娘に手を出して、子を孕ませるという失態を犯したのではないか。

 竜族様ともあろう方が情けない、とイェンは思ったのだが口にするのは憚られた、さすがにそこまで命知らずではない。


 褐色の肌に灰色の瞳の主人は雑踏を見渡した。

 彼にもいくつかの民族の血が混じっている。

 複雑に編み込まれたタペストリのように、この国の人々は色鮮やかだ。


「混血児、な。これだけ人がいるのだ。どこかで血は混じるもの。単一であることを誇る理由がわからぬ。そもそも、ヴァザの王家からして異常だからな、カルディナは」

「そうなのですか?」

「新王は従妹を妻にしたらしい。そうまでして、血脈を保ちたいものか?」

「ヴァザ王家は神の末裔を自称しています。神の血を絶やさぬために、と……同族婚は多いようですね」


 獣のようだな、と主人は鼻を鳴らした。


「しかも、自ら同族の数を減らして満足したかと思えば、また増やそうとする」


 主人はおかしそうにヴァザ王家の現状を話してくれた。

 ヴァザ王家をついだのは、イェンの従兄らしい。イェンも知っているが、昔から奇行の目立つ若者で、今ではその行状は目も当てられないらしい。

 さらに、何故か新王の兄や姉の伴侶達は時期を同じくして三人とも死んだと、その原因は新王なのだと、実しやかに囁かれていた。


 粛清だろうとはイェンでさえ推察出来る。

 血脈の醜聞と聞き知った名前の人間達が死んだことには、さほど心は動かなかい。ただ、王都にいなかったのは正解だったろう、と思うだけで……。

 イェンが考え込んでいると、主人がじっとこちらを見ていた、どうかしたか?と聞かれるのでいいえ、と首を振る。


「カルディナの新王は、謀反人を見つけて差し出すと、同じ目方の財宝を褒美としてくれるそうだ。私もあやかりたいものだな!」


 主人の瞳が皮肉に細められる。

 それを何故かひやりとした気持ちで見て、イェンは曖昧に頷き、カルディナ人が消えた方向へ視線を向けた。

 視線の先、砂漠を超えればカルディナとタイスが所有権を争うカナンの街。

 懐かしくはないものの、カルディナの地へ近づいたと思うのは些か奇妙な感慨はあった。

 このオアシス都市とカナンは今は不戦の関係だが、いつお互いが攻め入ってもおかしくない。

 内政に明るい主人はカナンを常に警戒しているが、戦いではなく、外交で今の関係を維持したいと考えているようだった。


 この後の人生において、カルディナへ行くことがあるだろうか?イェンは考えて否定した。

 帰って、何になるという?

 もはや、国教会にさえ、居場所もあるまい。


「さて、帰るか」


 イェンを伴った主人は、その日はさっさと屋敷に帰ることにしたようだった。


「殿。お珍しいですね、いつも色々なものを視察なさるのに」

「いいのさ。もう、用事は済んだ」

「……?左様ですか?」


 気まぐれな男なので、そういう日もあるのだろう、とイェンは解釈して彼を護衛しつつ屋敷に戻る。

 それから一月あまり起伏のない日常を過ごし。

 ある夜半に、姫の侍女に、呼ばれた。


 満月の夜だった。


「声を立てないでくださいませ、イェン様」

「……侍女殿?」

「何も聞かないで、お早く」


 人の気配に誰何し、剣を握り、女だとわかって慌てて半裸の上半身を隠すために上着を羽織る。

 思いつめた表情に夜這いですかと軽口を叩く気にもならずに、黙って手を引かれて、屋敷の中を二人で歩く。

 入ったことがない部屋に向かい、奥の壁を触ると、隠し扉が現れる、何事かと問おうとすると無言で何も聞かないでくれと指を口元に当てられ……、姫の寝室へと案内された。


 姫は数日前、また高熱を出して倒れ、ずいぶんと具合が悪いと聞いたが、彼女はしっかりと起きていて、半身を起こしていた。


「よく来たわね、こちらへ」


 声は明瞭で顔色は悪くないとイェンが思ったのは、近づけば彼女が珍しく濃い化粧をしているからだとわかった。


「姫、……このような夜更けにいかがされたのです、お具合は……」


 姫は、はにかむように笑った。


「死ぬわ、多分。そうね、月が空から姿を隠す頃にはきっと」


 何を弱気なといいかけて、イェンは黙る。

 娘が静かな目でイェンを見上げたからだった。この瞳に、既視感がある。何年も前、母が死ぬ夜の……。


「座って」


 娘に命じられるまま、側に座ると娘は少しだけ、微笑む。


「昨夜までは医者や兄が周囲にいて賑やかだったのよ。今日は、兄上に無理を言ったの。……人が周囲にいると疲れるから、侍女と私だけにしてくれって」


 手が僅かに動いたので思わず握ってしまう。そうでもしないと、だらりと垂れてそのまま手の動きが止まってしまいそうな気がしたのだ。


「……ねぇ、イェン。ひとつだけ昔話をしてもいい?何故、兄上が私に甘いのか。何故私の体が、こうなのか」

「……なんなりと」





 私はね、と娘は微笑んだ。




「父上の寵姫の娘だったの。年老いた父が、愛して止まなかった、王族の美しく聡明な姫さま。

 ある時、父上は酒に酔って言ったのよ。奴隷女を母に持つ、優秀で優しい兄上の前で笑いながら冗談を披露した。


 なあ、息子よ。我が愛しい妻から生まれたのが男児なら、お前はその席を赤子に譲らねばならぬ、それは不服か。


 少年だった兄上は微笑んで言ったそうよ。

 全て父上の御心のままに、と。


 ……それから数ヶ月後に父上は暴れ馬の背中から落ちて還らぬ人となって、母は私を産む直前に、食中毒になったのですって。

 毒味役は、何人も死んで、私は虚弱な身で生まれた。

 母君は私を産むと、兄に頼んだのですって。

『私がこの子の代わりに死ぬから、どうぞ娘は助けてください』って」


 娘は淡々と物語のように、言葉を紡ぐ。


「母は美しい人だったから、兄は殺さずに自分の側室にしたわ。けれど、母は私の弟を……、兄の子を産むとすぐに死んでしまった。あの人はね、私に負い目があるの。私の両親を殺して、女として生まれたからには、奪う必要のなかった私の健康も奪ったから、せめて死ぬまでは優しくしてやろう、って。おかしいでしょう?私を甘やかしたからと言って、許せるわけもない。けれど、私は兄に甘えて生きるしか、能がないの」

「…………それは」


 気の利いた言葉を、イェンは探すことができなかった。

 娘の瞳は、静かに凪いで、老いている。

 娘はイェンの指を握った。


「カルディナでも、よくある話かしら?王族が互いに殺しあうことは」

「……おそらく」


 娘の視線が、ベッドサイドに置かれた紙に移動したので、イェンが意を察して手に持つと、彼女は開いて、と小声で命じた。

 白い紙に描かれたのは人ではなかった。

 絡み合う双頭のドラゴン……。

 娘が想像で描いた、寓話の一場面ではない、これはむしろ……、ヴァザ王家の紋章。


 弾かれたように顔を上げると、娘は声を潜めた。子供を諭す母のような顔をしている。


「本当は影に紛れる新月の夜が良かった。けれど、もう、時間がないみたい……逃げなさい。馬は城の裏手に繋いでいる」


 言葉を失うイェンに、娘は息を深くした。喋るのが辛いのか、そっと視線を動かして、侍女に合図をする。


「ご領主様は……、カルディナのカナンとの和平をお望みです。先日、カナン総督と取引をなされました」

「……取引?」

「しばらくは……少なくとも10年は互いに不可侵でいること、と。その代わりに総督は彼の国への土産を、ご領主にせがまれた」


 汗が、背中を伝うのがわかった。


「カルディナ王は身近な血縁者を、廃しておられるようですね……」


 イェンは、先日、主人と街へ行った時の事を思い出した。



 何故、カルディナの王宮の人間があそこにいた?

 何故、主人は早々に視察を切り上げて用が済んだ、と言ったのか?



 用は済んでいたのだ。

 本当にイェンが、廃公子なのかを確かめさせていたに違いない。捕まれば……、とイェンは唾を飲み込んだ。


 娘はイェンの指を握った。そして、促す。


「早くお逃げ」

「……なぜ、です。兄上のためには私を差し出した方が、いいのでは、ないのですか?貴女になんの得があるのです……?」


 ふふ、と娘は悪戯めいた表情を浮かべた。


「あら?恋する娘が、怖い殿様に殺されそうな憐れな王子様の逃亡を手伝うの。よくある筋書きじゃないかしら?」

「……姫」


 イェンがなんと言っていいかわからずにいると、娘はころころと、笑った。力なく。


「嘘よ、イェン……別にお前のためではないわ。私はね、最後に1つくらい兄上に嫌がらせがしてやりたかったの。酷い妹よね、カナンの為にお前を尊い犠牲にしようとしている兄を邪魔して、お前を逃がすなんて……でも」


 娘の茶色の瞳が僅かに潤む。


「もはや、残り少ない命なら、何か一つでも為してから、死にたい……。私はせめて、ひとりの命を救ったのだと、満足して逝きたい。だから、これは私の最期の我儘です。イェンジェイ殿下。どうか、逃げて。私の小さな、自己満足のために」


 侍女がお早く、と急かす。棒立ちのようになっていたイェンを娘がそっと引き寄せた。彼女は額にそっと羽根のように軽い口付けをする。

そして、笑った。


「さようなら、私の騎士様。どうか、貴方の旅が健やかなものでありますよう……!」


 隠し扉をいくつか使って、廊下を進み、侍女とは別れた。


 貴女は、どうするのだ。

 私を逃がした事が知れれば貴女も……それならいっそ、一緒に……。かけそうになる言葉を、イェンは飲み込んだ。

 いつものように、侍女が朗らかに微笑んだからだった。


「姫様は、私がいないと寂しくて泣いてしまうのです。ですから、戻らなくては!……これから、どうなろうとも、お側におります。……奇異に思われるでしょうが、私はずっと姫様の為に生きてまいりました。これからも、最後まで、それは変わらないのです。……それでは、イェン殿、どうか息災で」


 未練なく去る背中を見送ってから、イェンは侍女から指示された通り、人目を気にしつつ、城の裏門近くに繋がれたら馬を探しに歩き……、人影を見つけてギョッとした。

 大柄な男が、馬の手綱を持っていた。


 騎士、団長。


「遅かったな、殿下?」


 常に何を考えているか、よくわからない、無表情の上司に声をかけられ、イェンは半ば観念した。誤魔化すか、イェンよりも剣技に長けた彼を斬って逃亡するか……、しかし、騎士団長はあっさりとイェンに背を向けて、馬を厩舎から出す。


「……、団長?」

「逃亡するんだろう、さっさと行け。言っておくが俺は知らぬふりをするし、数時間もすれば追っ手がお前に追いつくぞ。この馬は悪くはないが年寄りだ」


 イェンは困惑した。

 この口ぶりでは、まるで団長はイェンの逃亡を幇助するつもりのようではないか。世間話をするかのように、彼は言った。


「お前が、カルディナの王族だと聞かされて、俺はなるほど、と思ったね。……お前は敢えてその瞳も隠していなかったんだろうが、お前は目立ちすぎるのさ。そして、目立つ事に()()()()()()()()身分の低い、美しい者は、な。もっとその美貌を鼻にかけたり、誇ったり、恥じたりするものだ。お前にはそれが微塵もない。……周囲も似たような奴等ばかりだったんだろう?……生き残りたいなら、もう少し、下々に擬態出来るようになるんだな、坊主」


 言い返す事も出来ない。

 彼は鼻で笑うと、イェンが無言で馬に乗るのを待ち、軽く肩を竦めた。


「……団長。貴方はなぜ、私を助けてくれるのです」

「お前のためではない。領主様が、カナンとの和平と引き換えとは言え、部下を売ったとあっては示しが付かん。それが一つ。気に食わんお前を厄介払いして、せいせいするのが二つ目」


それに、と大柄な男は思わず苦笑するような、優しい目で茶色の瞳をした馬の首を撫でた。


「……それに、姫様が泣いて俺に頼むのでな。……あの方の願いならば、叶えて差し上げたい」


 イェンは、いつか己が口にした戯言を思い出した。


(騎士団長は真実、姫を愛しているかも……)


 黙りこくるイェンを煩わしげに見て、団長は言い放つ。


「さあ、行け廃公子!次に会えばその日がお前の命日だ。……再会しないことを、せいぜい祈っているさ」


 イェンは無言で、頭を下げ、馬の腹を蹴ると、砂漠へと走り出した。





 ◆◆◆

 オアシス都市を出て、三日後には追手に出くわした。

 見知らぬ男たちはカルディナの言葉をしゃべっていたからおそらくカナンの住人だろう。


 死に物狂いで彼らの息の根を止め、イェンも浅くはない傷を負いながら、必死で馬の背に揺られる。


 死体を埋めるべきだったとまとまらない思考で考えるが、傷付いた体では、岩陰に隠すのが精一杯だった。動物が男達を餌にしてくれるのを願うしかない。


 傷が、痛む。

 喉が、乾く。


 吐く息さえ、灼熱のように腑を焼く。

 朦朧とする意識の端で、イェンは遠くに木々と、建物を視界に捉えた。


 砂漠にはいくつかのオアシスが点在する。せめて、水を、と思いながらイェンは限界近くで意識を保ちながら、進んだ。

 ジリジリとした太陽が熱いというよりは、もはや、痛い。


 次第に近づく小さなオアシスが、どうやら蜃気楼でないと知って、深く安堵するが、もはやそれが体力の限界だった。疲れ切った馬が嘶いた瞬間に、草と土の上に振り落とされる。

 緑の匂いと、本の近くに水の気配を感じながら、イェンの指は土を掴むばかり。


 目が、霞む。

 せめて、あと少し。

 水をどうか、一口……。


 この重たい瞼は、誘惑に負けて閉じれば、二度ともう、開かないだろう。

 微睡みと覚醒の狭間で幾多もの幻覚を見ていたイェンの意識を、無遠慮な声が邪魔した。

 若い男と、子供の声だった。


「エチカ!こいつ生きてるや!」

「……なんてこった!めんどくさいな、生きてるなら助けなきゃならないじゃないか!おい、こんな所で寝るな」


 眠いのだ、放っておいてくれ。


「ったく!おい!死に損ない!聞いてるか!おーい!」


 煩い眠らせろと思ったのを最後に、イェンの意識は……しばし……十日ほど、途切れた。



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