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暗き道へ

 イェンが少しなりとも慣れ親しんだアーキムの屋敷を出たのは、主の葬儀が終わって間もなくの事だった。

 老主人は前日まで闊達な様子は変わらず、イェンは盤上遊戯の相手などを務めてもいた。

 アーキムはいつもの通り適量の酒を飲んで、気に入りの妻を呼んで就寝し、そして、翌朝目覚めなかった。


「お前が父上に無理をさせたのではないか?その罪をどう償うつもりだ!」


 葬儀が終わるなりイェンはアーキムの息子、ハリファに呼び出され叱責された。彼の背後では騎士団長がハラハラと成り行きを見守っている。ハリファは憎々し気にイェンを睨んでいる。


 ……何を言っても無駄だろう。


 ようは、父親の死をだしにして、いたぶりたいだけなのだ。イェンは心中で嘆息し、そのようなつもりはなかった、申し訳なかったと繰り返して頭を下げた。

 ハリファは醜いと形容してもいい顔を更にゆがめた。そこに浮かぶのは愉悦だ。

 イェンを意のままに謝罪させて、高揚している。力任せに頭を殴って吐き捨てる。


「平民風情が!いつもお高くとまりやがって」

(……私は、平民ではなかった)

「どこの誰とも知れぬ私生児のくせに!竜族混じりだと?よくそんなほらがふけたもの」

(……父は、竜族の長だ。嘘ではない)

「いつも、人を見くだしやがって」


 殴り返して言い訳をしたい自分を……イェンは、嗤った。指を強く握りしめる。


 自分は王族だった。

 竜族の長の息子だった。


 そんな過去は捨てたと思いあがっていたが、悪し様に言われてようやく気付く。

 血筋と出生に一番こだわっているのは自分ではないか、と。

 それを喪ったら何が残るというのか、と?

 いずれ衰える容色と、惚れた女に気の利いたことも言えない凡庸な中身。

 剣技だとて多少は使えるだろうが、随一になるには何かが足りない。


 俺には足りない。

 何かが。

 決定的に。


 ハリファはイェンにとっては天敵だが……彼は繊細で賢く、目敏い男だ。きっとイェンの(いびつ)さに気付いたのだろう。だから敏感に感じ取るのだ。彼への傲慢と、侮りを。


 手の中にあったものの価値を知らずに捨てたのは、自分なのに、己は、今更それを惜しんでいる。


 イェンは切れた口元から血をぬぐった。

 スイやシェンは、きっとわかっていただろう。愚かなあまっちょろい子供が強がっていた事を。厳しい外の世界で一人では暮らせないことを。だからあんなに心配したのに……。それに気づかずおかしな見栄を張って、いま、死ぬほど後悔している。

 なんと、無様か。


 ハリファは意気消沈するイェンに留飲を下げたようだった。椅子に座ると靴のつま先でイェンの顎を上げさせた。勝ち誇った表情で見下ろしている。


「まあ、いい!……父上に免じて今回だけは許してやる」

「……」

「お前が頭を垂れて、私に心底から許しを請うならな。許してほしいのならば跪いて靴を舐めろ」

「……」


 イェンは顔を上げた。表情を無くしてハリファをうかがう。人とは思えぬ美貌の冷たい眼差しに、一瞬怯んだハリファは振り上げた拳でまたイェンの顔を殴打した。イェンは肩を震わせて、やがて、弾けたように空を仰いで我慢できずに笑う。


「ふは!はっ!あはははは!……ふふふ、ははっ!」

「おい……!」


 ハリファの背後に控えていた騎士団長がイェンを制止する。イェンは笑って立ち上がると、胸元から短剣を抜いて……驚いた騎士団長が長剣の柄に手をかける……、ハリファの前に投げた。


「貴方の汚い靴裏を舐めるくらいなら死んだ方がマシだ。生憎と私の舌は贅沢だ。そんな粗末な物を舐めるように出来ていない」

「貴様ッ!よくも!」

「どうぞ、ハリファ様。お腹立ちなら貴方がその短剣を持って私をお手打ちになさるがよろしい。貴方にはその権利があり、私は抵抗しない」


 言いながら、真実、どうなってもいい気がしていた。

 馬鹿馬鹿しい。こんな小汚い小男の足を舐めて生きるくらいなら、あっさり死んでもいい気がする。どうせ惜しむほどの命ではない。愚かな事に。真実、そう思った。


「ただ、貴方は気に入らないという理由だけで靴を舐めさせようとして、拒否した部下を殺したという悪評を得る事になるだろうが。それでよろしいのなら、どうぞお好きに」

「……貴様ッ!」


 ハリファは顔を赤くして震えている。

 人の目を過剰に意識し、評判を気にするこの領主には堪え難いだろう。周囲の観衆は……とくに女は同情的な視線をイェン に向けている。ハリファが一瞬怯み、その隙に動いたのはイェン でも彼でも無かった。


「……この、無礼者がっ‼︎」

「……ツ!」

「恩知らずの無礼者が、よくそのような口をきけたものだ!」


 騎士団長だった。

 彼は加減をせずにイェン を殴り倒し、ほとんど動かなくなった彼を足蹴にし、有無を言わさぬ口調で、ハリファを仰ぎ見た。


「殿、このような愚か者の血で、この屋敷を汚す事などありません!私の指導不足、不徳の致すところでございます。……、私の責任をもって処分いたしますが、いかがでしょうか」


 団長の烈火の如くの怒りに多少毒気を抜かれたハリファは肩を竦めた。


「わかった、好きにしろ」





 ◆◆◆


「……命を粗末にするな、とお前に誰も教えなかったのか?」


 牢の中でイェンは痛みと共に目を覚ました。

 呆れた口調で言われて目を開けると、団長がイェンを見下ろしていた。どうやら、彼はイェンを手ずから打ち据える事で、助命してくれたらしい。

 ……イェンは沈黙して、考えた。両親はもとより、周囲の誰もが彼が存在する事をどこか疎んでいた気がする。


「……大切にする程のものではない、とは言われた気がします……」


 弱々しい声だ、と拗ねている自分を酷く惨めに感じていると、団長は大きく溜息を落とした。


「スイもか?」

「……」


 スイ、シェン……。

 彼ら二人はイェンが自棄を起こしたとしれば悲しむだろうし、怒るだろう。情けないと失望するかもしれない。その想像をするだけで、気が滅入った。


「お前のような拗ねた餓鬼がどうなろうと知らんが……。私の娘は、以前、スイ先生に病を治して貰った。その恩返しに、スイの息子のお前を助けてやる。荷物をまとめているから、夜の間に逃げろ」

「……私は、スイの息子では」


 団長は肩を竦めた。


「息子のように思っている」

「え?」


 ぽかんと口をあけると、団長は続けた。


「息子のように思っているから、何かあったら助けてやってくれと……スイから直々に頭を下げられたのでな。私ができるのはこれがせいぜいだ。ハリファ様の手前もある」


 スイの優しい顔を思い浮かべて、唇を噛む。

 ……情けなくて、今度こそ死んでしまいたかった。


「ハリファ様もどうにもならんのさ。お前をみればどうしても母君の恋人を思い出す。そして、その死に様も。……何故、ずっと子供に恵まれなかったアーキム様が突然、ハリファ様を得たのか。そのあたりの理由もな。アーキムさまがお亡くなりになる前に書いたお前の紹介状を預かっている……、それがあればどこかしらの仕官は可能だろう。アーキム様は、こうなる事を予測されていたんだろうな」


 砂漠をその傷でこえられるかはわからんが、と団長は言い、達者でやれよと言い渡す。

 理不尽だと思ったが、イェンは頷いた。

 どちらにしろここにとどまれば自分は死ぬ。自暴自棄にそれでいいと思ったが、一度助かってしまうと命は惜しい。

 痛いなと半身を落とすと、牢の外に小柄な女がいるのに気付いた。彼女は団長と一言二言かわし、一人で牢にはいって来る。


 アセナだった。


 彼女は無遠慮にイェンを眺めてから、行儀悪く、彼の横にしゃがみ込んだ。


「あんたって、考えなしの掛け値無しの馬鹿よね。命を助けてくれるんなら、靴くらい喜んで舐めなさいよ。やっぱり王子様のまんまね?」

「……だから王子では」

「イェンジェイ殿下」


 否定したイェンに、アセムは低く鋭く囁く。

 廃公子は弾かれたように女を見ると、アセナは青色の目を細めた。


「アーキム様の、あんた宛に残した遺言みたいな紹介状はね、偽物よ。あたしが書いたの」

「は?」

「あの強欲ジジイのアーキムが、たかだかあんたの為だけに紹介状なんて、書くわけがないでしょ?アーキムが死んだ朝に認めて、書斎に放り込んであげたの。あたし、他人の筆跡を真似るのは得意なのよ」


 本名を呼ばれたことに言葉を失い、しれっと告白された事に間抜けな声が出る。


「ど、……な、…はっあ?」

「どうして?なぜ、お前が?って」


 あまりの事にイェンはコクコクと頷く。

 女はくつくつと笑った。


「あたし、あんたに借りがあるのよ。だから倍にして返してあげるわ、王子様」

「……借り?」


 アセナは猫のように目を細めた。見せびらかすように艶やかな金髪を指で梳く。


「ねえ、私……金の髪に青の目でヴァザみたいに見えるでしょ?あたしの母親はカルディナの王都にいた高級娼婦でね?見目よく育ったあたしを連れて、事もあろうに王宮に乗り込んだのよ。誰だったかな、客の一人だった王族の娘だって言い張って強請ろうとした。本当か嘘かはわかんないけどさ」

「……」

「それで、あっさり殺されちゃってね?」


 イェンは言葉を失った。

 しかし王族を騙るのは大罪だ。無理からぬ処置ではある。ある、が……。


「私も殺されそうになったんだけど、隙を見て逃げようとしたのよ。牢屋から這い出て、逃げた先は王宮内の神殿で」


 そこに、イェンがいたのだという。

 何も知らずに祭壇に祈りを捧げていたイェンは、ボロボロの衣服で怯えて泣くアセムを見つけて、彼女を追ってきた衛兵に何事かと尋ね。

 彼女が罪人だと告げた彼らに自分の金ボタンを外して渡すと、ため息混じりに告げたという。


『彼女の罪が何かは知らないが、見逃せ。このような子供を殺すほどヴァザの兵は暇ではないはずだ』


 衛兵達は、笑って言った。


『殿下が残りのボタンもくださるなら、そういたしましょう』


「……覚えている、たしかに」


 そんな事が、たしかにあった。十を少し過ぎた頃の事だ。だが、そのあとはどうしたのか…。

 アセムは鼻を鳴らした。


「あたしはなんて幸運なんだろうと思った。褐色の肌に金の髪、金の瞳。神話に出てくる龍の化身みたいな、見たこともない綺麗な王子様が、死にそうな私を助けてくれた、ああ、助かった!って……でもあんた、その後あたしをどうしたか、覚えている?」

「いや……」

「でしょうね。あんた、あたしをごみみたいな目で見て、神殿のクソジジイに売り渡したの」


 イェンは無言で首を振った。

 売り渡す?そんな事をするはずがない。アセムは笑った。


「いいえ、売ったの。『この少女を助けてやるといい。可哀想に』って、憐れみだけくれて、神官に預けてあとは、それきり。カルディナの神官様はね、可哀そうなあたしに色んな事を教えてくれたわ……母親の職業が、いかに大変かってことを、身をもって、ね」


 イェンはまた馬鹿みたいに沈黙するしかなかった。

 アセムを弄んだ神官は、すぐに彼女に飽きると、商人を呼んで幾ばくかの宝石と彼女を交換した。

 そして、彼女はまた西へ売られて、アーキムの奴隷になった……。


「可哀想で愚かな、王子様。あんたを見下すのも助けてやるのも気分がいいわ。綺麗なものばかり見てきたって顔してるあんたが段々と捻くれて行くのはなかなか見物だった。ねぇ……、泥にまみれて可哀想だと憐れんだ、平民の女に見下ろされて、憐れまれる気分はどう?――お可哀そうなイェンジェイ殿下。心よりご同情申し上げます。ざまあみろ」

「……」


 出会ったとき(正確にはそれは再会だったわけだが)アセムから感じた針のような悪意にようやく得心が言って、イェンは呆然とするしかなかった。憎まれるわけだ。


「……お前を、今の境遇に陥れたのが俺なら、なぜ助ける……」


 アセムは笑って、晴れ晴れとした表情で立ち上がった。それから、出口を高飛車に指さす。


「そうね、あんたのせいで地獄を見たけど、あんたに助けて貰ったのも本当だもの。恩はこれで返したわよ?あとはのたれ死ぬなり、なんなりすればいい」


 アセムは憎悪に燃える瞳でもう一度イェンを眺めた。


「金にうるさくて、手が早くて、酒臭くて。最低な女だったけど、あたしにとっては唯一の家族だった。それをあんた達ヴァザは殺した。――あたしはそれを、一生忘れないから」

「俺は、ヴァザじゃない。もう」

「いいえ、あんたはヴァザよ。王子様。傲慢で愚かな裸の王様」


 女の指が血の乾かないイェンの唇を拭う。

 吐息が近づいて、柔らかな女のそれが押し付けられる。

 噛みたいような衝動を抑えてイェンはされるがままに任せて、やがて二人はにらみ合った。


「……お前はこれからどうするんだ、雌狼(アセム)

「決まっているわ。ハリファを篭絡して、この土地の女主人になるのよ」


 ではね、とアセムは去り、微塵も振り返る様子がなかった。

 イェンはのろのろと、立ち上がった。

 姿勢のいい女の背中が見えなくなるまで、美しいなとつい眺めてしまって、真実俺は救いようのない馬鹿だと思い知る。


 夜明けまでに、ハリファの気が変わらないうちに、ここから逃げ出す必要があった。厩舎へ忍び込んで馬を奪って逃走するしかない。

 追手が来たら死ぬ。砂漠を越えられなければ、死ぬ。


「遠くへ来たな」


 ひとり呟くが、もちろん答えはない。

 それがなんだか可笑しくて……、イェンはくつくつと笑いながら暗き道へ足を踏み出した。



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