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ファムファタル

諦めてナンバリングにしました。気の長い方だけよろしくお願いします。

本編のイェンにつながるので、これからどんなにほっこりする場面があっても全ては本編の爺につながります。ハッピーエンドではありません。

許せる方はどうぞお付き合いください。




「お前もそろそろ身を固めたらどうなんだ?」

「は?」


 矍鑠かくしゃくとした老人に突如として言われて、青年は……イェンは目を丸くした。西国に来てこの地の王族に連なる老人に仕え始めて数年、確か、二十歳を過ぎたばかりの事だった。


「殿、それはどういう事ですか?」

「嫁をとれ、と言うとるんだ儂は。どっかの良家のお嬢さんでもいいし、ちやほやされた女は扱いづらいってんなら、どこぞの女奴隷でもいい。綺麗なのを買ってきてやる」


 スイから紹介されて仕えはじめた老人は、一言で言うなら頑固な糞親父、だった。

 好々爺だったのは竜族たるスイの前だけで、彼が帰った次の日からがらりと態度が変わって詐欺だ、と思ったものだ。

 口が悪く手も足もすぐに出るし、ふとしたことで癇癪を起こし気難しい。

 仕え始めたばかりの頃は何度穴を掘ってこのへそ曲がりの爺を埋めてやろうと思ったかしれないが今ではだいぶ慣れた。騎士として彼の兵団に勤めながらもなぜか気に入られて時折身の回りの世話も任されている。

 兵団の面々もイェンに対する扱いはたいそう雑で……、忌避されていたとは言え自分は所詮は高位貴族の子息で随分と上等な扱いをされていたのだと思い知った。


 イェンの主である老人の名はアーキムという。


「アーキム様、いきなり、どうなされたのですか」

「嫌なのか、どうなんだ?まさか、野郎のが具合が良いとか言うなよ?」

「……無理です!」


 イェンはぞわぞわと粟だった二の腕を撫でた。

 西国に来てひとつ辟易したのは男色の風習が半ば公然と存在していることだった。妻帯者でも気軽に花街で少年を買う人間は……多くはないが、珍しくはない。

 老人に仕え始めたばかりの頃、やけに馴れ馴れしく優しくしてくる男がいるな、と思って親しくしていたら危うく風呂で犯されそうになり、半殺しにして半泣きかつ半裸で逃げた。それこそ、脱兎のごとく、である。

 他人の性的嗜好をとやかくは言わないが、カルディナでは同性愛はあまり褒められる傾向にはなかった。国教会が禁じているからだ。

 それでなくても多分、自分は同性を性的な視点でみるのは根本的に無理なのだ。花街で女と見紛う美少年をみても、全く何も感じない。それなら老婆と夜通し話す方がまだ楽しい。


「そうかそうか、気が合うな小僧。儂も昔から野郎は無理でな?どんな醜女でも婆でも女がいい」

「……殿と意見があって光栄です」

「フン」


 老人は眉間に皺をよせて白い顎髭を撫でた。

 スイは多分、そういうことも考慮してこの老人の元にイェンを預けたのではないかと思う。

 ……イェンは男女を問わず、そういった誘いを受けやすい。甚だ、不本意なことに。

 自分は顔がいいのだろう事は正直に言えば知っていた。

 子供の頃から王宮で羨望の眼差しを向けられていたことではあるし、だ。

 だが、生まれが美貌ぞろいのヴァザ王家だったし、、引き取られた竜族の里でも平均以上に皆顔立ちは整っている。

 だから西国に来て己の容貌はどうやら際立っているらしいのだ、掛け値なく、とようやく気づいて、……愕然とした。

 女になんの意図もなく話しかければ頬を染められ、その恋人を敵に回す。

 名前しか知らぬ女同士があずかり知らぬところでイェンの所有権を争う、見知らぬ女に毎日同じ場所で待ち伏せされる……。

 という事を繰り返し、正直に言えばうんざりしてもいた。誘われて娼館に行く事も無いではなかったが、毎回一番暇な女でいい、と適当な人選をして呆れられるが、それが一番面倒がないのだ。


「それで?だれかいないのか」

「いませんが……それ以前に、無理なのではないですか」

「なんでだ」

「殿が嫁をとれというなら逆らいませんが。私には財産がありません。式を挙げるのが無理なのでは?」


 給金が安いしな、とイェンは内心でため息をつき、アーキムはむぅ、と口を曲げた。西国の結婚式はとにかく派手なのだ。

 国教会に届ければいいカルディナの婚姻と違って、三日に渡って花嫁と花婿は披露される。

 その間の会場費、飲食費、衣服の料金、何故かばら撒かれる花びらまで……それがすべて新婚夫妻の手出しになるのだ。今のイェンの給料では三日の式などとても無理だ。式の翌日には借金を抱えて路頭に迷う。

 さすがに貧しい農村では簡素にやるのだろうが、曲がりなりにも王族が抱える騎士が貧相な式をやったとあっては主の評判にかかわる。

 面子を重んじる西国人にとって、それは耐えがたい屈辱だろう。だから西国は一部の金持ちが複数の妻を持つし、騎士階級は意外にも独身が多く、その結果同性同士が以下略、だ。


 老人は舌打ちした。


「仕方ない。金は貸してやらんこともない、いいから適当に探しておけ、いいな?」


 そこは貸すではなく全額出せよと思いつつ、イェンは気のない返事をしてから老人の部屋を退出した。部屋を出たとたんに騎士仲間が苦笑しつつ近寄ってきた。彼はどうも、アーキムの用件を知っていたらしい。

 どうだったと聞かれ、イェンが正直に会話の内容を打ち明けるとと大笑いした。


「いいじゃないか、金を借りて嫁を貰っておけば!あのけちな殿が金を貸してくれると言うんだ。雪が降るな」

「生憎と、嫁になってくれそうな相手に心当たりがない」

「どんな女が好みなんだ?」

「さあな……女なら誰でもいい気はするが」

「お前なら誰も断らんだろうよ」

「最初はね。けれど中身は案外普通だなんだと花街の女にさえ落胆される」


 同僚はツラが良すぎるのも問題だなと笑い、イェンは肩を竦めて、一瞬、頭をよぎった女の姿を打ち消す。

 ちょうど廊下の向こうから女たちが――アーキムの若い妻たちだ――歩いてくるのが見えて、二人は壁によって頭を下げた。

 三人のいずれも二十代前半の娘たちで、彼女らはイェンたちを盗み見てくすくすと笑う。

 ここが王のハレムならば、妻たちは後宮に押し込められて、屋敷内を歩くことなどないだろうが、アーキムは王族といっても傍系だ。彼のような貴族や富裕層の屋敷では女たちは堂々と表を歩事を許されていた。


 多分、彼女たちの身分は奴隷のはずだ。


 親に売られたか、それとも、庇護を求めて、自分で自分の身を売ったか。

 ひとことで奴隷と言っても、王族の所有物たる彼女達は平民よりはるかに優雅な暮らしをしており、王族の奴隷である事は、ある意味で勲章(ステータス)で、王族側も、美しい奴隷を所有して、宝飾品と同じように大切に取り扱う。

 そのこともイェンには不可思議な制度だった。

 妻たちの一人がじっと濡れた瞳でこちらを見つめてきた気がして、イェンは思わず無表情で視線をそらした。鼻で笑って過ぎ去った女を思わず目で追って、それから同僚と、練兵場へ向かい……、女と初めて会った時の事をつい思い出した。


 彼女は相変わらず雪のように白い肌と、青い目と金色の瞳をしていた。まるで、ヴァザのように。


 掛け値無しの美女と言い切るにはすこし目に険があるが、素晴らしく美しい声で歌う女だ。

 名前はアセナ。狼を意味するその名は、気が強い彼女には似合っている。

 ……イェンは彼女に会うたびに何故か馬鹿にされ、罵倒される。

 初対面はアーキムの配下として働き始めて数ヶ月たったころだった。酒席で彼女は大勢の前で高らかに歌っている最中で、天上に響くが如しの滑らかな高音は、主人にも主客にも絶賛された。


 アセナが褒美の杯を主人から受ける時、アーキムの近くにいたイェンは初対面でしげしげと眺められ、思わず赤くなって目をそらした。

最初、イェンを貴族の息子と勘違いしてしおらしく少年に接していたアセナは、しかしながら、イェンが根無し草だと知ると、誰もいない場所でガラリと態度を変えて言い放った。


「なんだ!ほんとうにただの騎士見習いの貧乏人なのね?媚を売って損したわ!あんたって顔だけ良くて、少しも旨味がないのね坊や」


 と。


 あまりの変わりように(神の使徒のような歌声で歌う彼女に、多少、惚けていたのは認めよう)面喰らうイェンに鼻面を寄せて、アセナは嗤った。


「でも、……本当に外見だけは王子様みたいに綺麗ね、お人形さん」

「……私は人形ではありません、奥様」

「あら、喋れるのね?綺麗なオツムの中身がちゃんと、あるんだ?」


 媚を多分に含んだ声で笑われ、白魚のような指がイェンの首元から胸へと移動する。アセナは艶やかに微笑んで、指先に少しだけ体重を預けた。ふわりと、柔らかな香りが鼻先をくすぐる。それから、甘えた声でイェンに囁いた。


「今夜、部屋に来ない?……楽しいことをしましょうよ」


 去り際に思わず、白い喉と胸元をしっかり見てしまった事は認める。首筋から薫る花の香りを惜しいと思ったのは罪だろう。だが、主人の妻の一人に手を出す?そのような不道徳な事が出来るわけがない!

 イェンは行かなかったが……翌日、アーキムにニヤニヤとされながら聞かれた。


「アセナを袖にしたって?」


 お言葉ですが、とイェンは真面目くさって言った。アーキム様に世話になっておきながら、アーキム様の配下を誘うのはいかがなものか、と。

 アーキムはゲラゲラと笑った。


「お前、本当に硬いな。……昨夜、アセナの部屋にお前が行っていたらどうなったと思う?」

「は?」


 アーキムは右手に手にした串焼きから鳥身を器用に外しながらこともなげに言った。


「今頃お前がこうなってる。アセナの部屋には騎士が三人控えてた」

「……」


 試されたのか、と息をのむと、アーキムは苦笑した。


「言っとくが儂は反対したんだ。アセナがお前みたいな綺麗な野郎がこんな辺境に来るなんて信用ならんと言うんでな、そばに置くなら試させろと煩かったんだよ、まあ、許せ」


 許せも何も、他に行くところの無い自分にどうしろと言うのか。大人しく、はいと頷くと、老人はぎょろりとした目でイェンを見た。


「お前はたしかに、お綺麗すぎる。顔じゃなくて所作やら考えがな。……元は貴族か」


 イェンは迷ったが、素直に答えた。


「母が、貴族でした。と言っても、母も私生児なので何か爵位が私にあるわけでは、ないですが……」

「ほーん。母も、か。お前も落とし子か?父親が竜族だって?」

「父は竜族だと、思います。両目が金色でしたので。……父は、母と婚姻していたわけではありませんから、私は、殿の仰る通り私生児です」


 婚姻どころか、愛人関係だったかも怪しい。無垢な小娘に戯れに妻帯者が手を出して、避妊にしくじっただけだ。

 久しぶりに父親の顔を思い出してイェンは苦い感情を嚥下した。

 父は、追い払った厄介者のことなど最早記憶の片隅にも無いだろう。父や、数度あっただけの兄もきっとそうだ。

 孤独は我慢できても、自分とよく似た男から、汚い物を見るような目で見られるのは堪らなかった。


 ふん、とアーキムは鼻で笑い、次の日から自分の身の回りの世話だけでなく、騎士団に所属して、訓練をする事を許された。


 それから数年。あっという間に時間は過ぎるのだと物思いに耽りながら屋敷を歩いていると、行く手にヒラリと手巾が舞い落ちて来た。


「?」


 不審に思って見上げると、金の髪の美女がしどけない姿で窓から顔を出している。

 アセナだった。


「拾って?騎士様」

「お断りします。自分で拾えばよろしいのでは?」


 イェンが吐き捨てると、アセナは今度は、羽根ペンを投げた。コツンとイェンの頭に当たって、痛ッと思わず呟くと、彼女はケラケラと品なく笑う。さらに拡大鏡、カエルの置物、次々に物を投げてこようとするので、イェンは鋭く舌打ちした。


「わかった。拾う。だから止めろ!」

「最初から、大人しく拾えばいいのよ、馬鹿な王子様」

「……その、呼び方を止めろ。王子じゃない」


 苛々と見上げると、女は予想に反して、真面目くさった顔で言った。


「いいから、早く来て。誰も来ないうちに。殿様があんたに嫁をあてがいたがってる理由を教えてあげるから。はやく」



 イェンがアセナの部屋に行くと彼女は化粧気のない素顔をさらしてイェンを部屋に引っ張り込むと、自分は椅子に座って、イェンを立たせたまま、前置きもなしに切り出した。


「殿さまが何であんたみたいな貧乏人に嫁をなんて馬鹿なことを言い出したか知ってる?」

「……知りません」

「ご子息が、ハリファ様が戻ってくるのよ。奥様連れで。ずっとここに住むの」

「…………」


 イェンは思わず頬をひきつらせた。

 アーキム老人の一粒種のハリファ。老いた老人が四十近くなって授かったこの男は王の覚えめでたい俊才で、気さくな人柄が領民に人気の老人の自慢の息子だ。

 だが、欠点がある。

 たいていの人間に心優しい男だが、嫌いな人間への対応が容赦無く苛烈なのだ。そして、イェンはこの十近く年上の男に、蛇蝎(だかつ)の如く嫌われている。


 初めて彼が王都から帰還したとき、酷く冷たい態度をとられたが、新参者は疎む性質なのか、と思い大して気にも留めなかった。

 だが、アーキムの傍近くに控えて、親子の軽口を微笑ましいと、半ば羨望の眼差しでみていたイェンはほんの少しだけ、笑った。


 そして、アーキムが就寝のために退出した室内で――いきなり殴られた。


『主を馬鹿にして笑っただろう、無礼なやつ』


 と。イェンは誤解だと釈明したが、ハリファは激高し、結局騎士団の団長が止めに入るまで執拗に暴力を加え続けた。アーキムはさすがにバツが悪そうにしていたが、息子を表立って咎めはしなかった。ただ「相性が悪いんだろうな。お前はハリファに近づくな」とぼそりと言って去っただけだった。

 老齢の主の息子に嫌われている。

 それはすなわち、自分の未来はひどく暗いという事だ。アセナは言った。


「奥様は上流階級の甘やかされて育ったお嬢様で、たいそう面食いなんですって。あんたを見たらむしゃぶりつくかもね」

「品のない……言い方を」

「仕方ないでしょ?私は貧民の出なんだもの」


 さらりと言ったアセナは花瓶から花を一輪摘まんで笑った。


「ハリファ様は頭がよくて楽しい方だけど、美男には程遠い。嫉妬されるわよ?殿様だって、痴情のもつれで自慢の息子の評判が落ちるのは嫌なのよ。あんたを放逐すればいいけど、あんたの親戚……なんて言ったっけ、あの黒髪の竜族……」

「スイ」

「そう、スイは殿様の恩人らしいから、あんたを放逐するのも良心が咎める。だから、誰でもいいから女でもあてがっておこうって。単純よねえ、殿様も」


 イェンはため息を深々とつきたい気分だった。くだらない嫉妬の風よけのために婚姻をする男など、どこにいるのだろう?しかし、一方で確かに面倒だという気もしていた。ハリファの妻に手を出されでもしたら、これ幸いと縊り殺されない。アセナは笑みを深くした。


「ハリファ様がなんで、あんたをあんなに嫌いか知ってる?」

「……いいえ」

「ハリファ様がまだ成人前にね、母君様は愛人と逃げようとしてアーキム様に処刑されたの。首から下を埋められて石を投げて殺された。私、まだ小さな子供だったけれど、よーく覚えてるわ。皆に言われて、石も投げたし」


 イェンは弾かれたように華奢な女を見た。彼女は平然としている。


「投げなきゃ、お前も不貞を働く女なのか?ってその場で殺されかねない雰囲気だったのよ、仕方ないでしょ。わが身可愛さに私もハリファ様の母君を殺したの……」


 女の美しい声で紡がれると、まるでおとぎ話の一場面のようだ。

 ゾッとするイェンに、アセナはあっけらかんとした口調で言った。


「似てるのよね、あんた」

「は?」

「金色の髪に、宝石みたいな目をして。母君の恋人とそっくり。……だから嫌われるんだわ、ハリファ様もお可哀そうに。あんたを見る度に美しいお母上の無残な死にざまを思い出すのよ、きっと」

「そんな理由で……嫌われるなんて、理不尽だ。私には関係ない!」


 イェンが苦く声を絞り出すと、アセナは鼻で笑った。花瓶から再び花を引き抜くと、くるくると回して扉を示す。


「仕方ないでしょう?ハリファ様は理不尽が許されるお立場なんだもの。あんたみたいな貧乏人の木偶と違ってね!……ほら、親切に教えてやったんだから、さっさと出てお行き、そうじゃなきゃ私の部屋に不届き者が忍び込んだ、って叫んでやるから。早く花街にでも行って保身のために適当な女を買ってくるといい」


 イェンはアセナの余裕綽々の顔を憎らしくみた。親切だと?面白がっているだけではないか!理不尽というならこの女も常々、理不尽だ。事あるごとに挑発してイェンが我慢するのを確認しては面白がっている。イェンは苛立ちを隠さずに言った。


「ありがとう、アセナ。貴女は最悪な女だが、親切な人だ」

「どうも」

「だが生憎と私には恋人がいない……アーキム様に貴女が欲しいと言ったらどうなるかな?一目見た時から貴女が好きで、毎日夜も眠れずに思っていたと。焦がれて死にそうです、と。貴女を私に下げ渡してくださるなら、さらに忠義に励みましょう、と。そう申し上げたらどうだろう」

「……なんですって?」


 アセナの眉が不機嫌に動いた。

 細い指の中でくしゃりと花弁が潰され、血を流したかのように見える。


「そうしたら、貴女は毎日、私の小さな家で、そのきれいな指を傷だらけにしながら、私だけの帰りを待つわけだ?楽しいだろうな」


 にっこりと、出来る限りの笑顔で言い放つイェンとは対照的に、アセナは蒼くなった。


「冗談じゃないわよ、まさかアーキム様にそんな事本気で言ってないでしょうね?」

「……願い出た、と言ったら?」


 間近に顔を寄せて、まるで口づけるかのように女に迫ると、右頬に軽くはない衝撃が走った。

 拳で殴りやがった!とイェンが口元を押さえてアセナを睨みつけると、彼女はもう一度、今度は左に殴りかかってきた。慌ててそれを受け止める。


「冗談じゃない!あんたみたいな、能無しの文無しの顔だけの男の妻になるくらいなら舌を噛んで死ぬ!そんな事言ったら、本気で殺してやるから!……飢えるなんて、二度と嫌よ!」


 彼女は水が流れるかのように一息でまくし立てた。

 アセナは本気で、心底怒っていて、しかも後半は涙声である。

 イェンは泣きたのはこっちだと思いながら、慣れない挑発をしたことを、たちまちに後悔した。


「冗談だよ……、貴女みたいな気の強い女は、私だって……俺だって、絶対に、ごめんだ!」

「二度と馬鹿な冗談は言わないで!出て行って!せっかく親切で教えてやったのに、恩知らず!」


 悲鳴のように吐き捨てられ、蹴りだされるように部屋を追い出され、イェンは痛む頬と、それから何故か痛む胸のあたりを押さえて、深いため息をついた。


 胸も殴られたのだろうか。何故か、苦しい。


 結局のところ、イェンはアーキムの配下にいる間、誰かを娶ることはなかった。

 その日から一年後……、ハリファの息子がアーキムの元に戻ってからわずか半年後。

 老主人は亡くなり、イェンは住処を追われることになったからだった。

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