147.帰還 3
王都に到着し屋敷よりも先に私たちは王宮へと向かった。陛下が重篤との報を受けて三日後の事だった。
開門を告げる声が重々しく響き、先ぶれの声が私達を呼ぶ。
王の広間に入ると、出迎えたのは……重病で倒れたというベアトリス女王陛下その人だった。私は内心で胸をなでおろす。
いつものように鷹揚に微笑んで玉座を守り、その横には王太子フランチェスカが立っていた。美貌の王女は少し痩せたみたいに見える。
「――陛下」
安堵の声を思わず、と言ったように漏らしたのはアルフレート・ユンカー宰相だった。
我が父、カリシュ公爵、レシェク・ルエヴィト・ヴァザはいつものように顔色を変えずに玉座の前に跪いて礼をとり、私も無言でそれに倣う。
「長の不在をお詫びいたします、陛下」
「無事の帰還を嬉しく思いますよ。美しき我が従弟よ。旅はどうであった」
「恙なく。偉大なる陛下のお導きの元、カルディナとタイス両国の永久の繁栄を約して参りました。詳細は宰相が陛下に伝えるでしょう」
父上が顔をあげるのと同時に私も顔をあげて女王を見上げた。いつもと同じように微笑んでいるけれど、化粧がいつもよりも濃い。顔色の悪さを隠すためではないのだろうか。
「ご苦労であった。貴方達の労をねぎらう為にささやかですが席を設けました。ゆるりと寛いでいきなさい」
いえ、と父上は珍しく微笑んだ。
「無礼を承知で辞退させてください、陛下」
「まあ、なぜ?」
「情けない事ですが、私も娘も長旅で疲れました。なにより、一刻も早く一人で屋敷で泣いている息子に会いたいのです。数日のうちに、必ずご挨拶に参りますゆえ、どうか許可をいただきたい」
「…………それは、残念ね。けれど公子は喜ぶでしょう。いいわ、許可します」
女王はどこか苦く笑った。
女王の体調を薔薇公爵が慮ったのだとはおそらく列席したものにはわかっただろう。私達が退出しようとしたときに、客の来訪を告げに見知った高官がやってきた。陛下に許されてそっと耳打ちする。
「……帰るようにいいなさい、許可はしていない」
女王の青紫の瞳に険が宿る。しかし、足取りも軽やか招かれざる客はやってきた。
瀟洒なジャケットを軽やかに羽織り、満面の笑みで現れたのは金髪に水色の瞳、我がヴァザの一族の特徴が色濃く表れた男性だった。年のころは四十半ば。もっともそれよりも若く見え、そして……いつも底のしれない笑みを浮かべている。私は戸惑って彼の顔と、それからベアトリス女王を仰ぎ見た。
「ああ!カリシュ公爵。無事に任務を終えて帰還されたか?嬉しいな。君のいない花園は火が消えたよう。寂しかったよ!」
「……シモン」
シュタインブルク侯爵、シモン・バートリ。彼が、陛下が倒れていた間は公務を担っていたと聞いた。彼の背後には目つきの鋭い青年が護衛のように控えていた。たしか、軍部の青年でシュルツと名乗ったはず。そして、軍務大臣のハイデッカーも側にいた。
「公爵の帰還を祝う席がおありとか?なぜ私も呼んでくださらないのです、陛下!私も彼の留守の間に政務を守った功労者の一人でしょうに……!」
芝居がかった口上に、ハイデッカーが同調する。
「公爵の無事の帰還、嬉しく思います。これで棚上げにされていた様々な議論ができる」
父上は鼻白む。ハイデッカーを無視して、シモン・バートリに視線を動かした。
「帰還については陛下に報告済みだ。私の帰還祝は後日だ。私たちは今日はこのまま屋敷へ向かう。……そもそも陛下の御前にいきなり現れるなど、無礼であろう」
「無礼?それは酷いな。今朝まで陛下は寝ついておられた。臣下として陛下の身を案じて今日も王宮を訪れたまで!……君やユンカーが不在の間、粉骨砕身して王都を守っていたのは誰だと?私や軍部だ!そうでしょう?ベアトリス女王陛下?まさかその私の陛下への献身を無視して、退去を命じるなどという、心無い真似はなさいませんでしょう?」
シモン・バートリは高らかに言い切って両手を広げ、それにユンカーが何かを言おうとしたのを制したのは父上だった。ベアトリスは玉座に座ったまま無表情に片手をあげた。
「貴方には感謝しているわ、シュタインブルク侯爵。しかし、祝いの席はなくなりました。貴方方も後日、出直しなさい。それに私の代理ならばフランチェスカがいる。次回からは王太子が政務をとるでしょう」
おそれながら、とハイデッカーは重々しく告げた。
「フランチェスカ殿下は、いまだ王太子ではありません。正式な告示はまだなされていないはず」
フランチェスカが一瞬、唇を噛みしめたのが見えた。
「……何が言いたいのです、ハイデッカー?貴方には発言を許可していませんよ」
「いいえ、陛下。臣下の諫言に耳を傾けていただくべきです。陛下は昨年から体調がすぐれぬご様子。軍部としては……一刻も早く陛下のご心労が減るよう、フランチェスカ殿下の正式な立太子を望んでおります」
「今ここで話すべきことではないだろう、控えよ」
父上の氷のような声音にも、ハイデッカーは怯まなかった。
「国を思う故でございます。西国はいまだ大国で脅威。公爵閣下のご尽力でようやく和平がなったとはいえ、情勢は不透明です。今の間にカルディナの基盤を盤石なものにして次代への負担を軽くしたいと思うのは軍を預かるものとして当然のことだとご理解いただきたい」
「私も、同意見ですよ。陛下。……つい最近も副宰相があろうころか神官に、しかも脱走した異能者に暗殺されるという痛ましい事件がありました」
部下の殺害事件を思い出したのか、ユンカーの顔がゆがむのを、シモン・バートリは実に楽しそうな顔で一瞬見た。私は肌が一瞬泡立つのを感じる。
「リディア神官が脱走したのは、陛下がお倒れになった夜。牢番が動揺して勤めをおろそかにしたのでは?」
「……侯爵閣下、言葉が過ぎましょう!」
「宰相、でははっきりと言おうか?リディアの脱走は君の選んだ法務大臣の落ち度だ。……長年同じ任務に同一人物が就くのはよくないな?任務に慣れて責任感が薄れる。それに、言葉は悪いが……、彼のように貴族出身でないものは守るべきがない分、しょせん、国への忠誠心が薄いのだ。だから、起こしてはならない失態を犯す」
法務大臣は確か、ユンカー宰相と同じく平民の出だったはずだ。
しかし、それを今論じる時ではない。ベアトリス女王は片手をあげて制した。
「シモン、今日はここまでにしなさい。そして、貴方の献身も熱意もよく理解しています。ハイデッカー」
女王の声がわずかに掠れたのを、部屋の皆が気づいただろう。女王の顔が化粧では隠せぬほどに、蒼い。
対照的にシモン・バートリは笑顔になった。まるで女王の言葉に喜んだように見えるが……ベアトリスの衰えを笑ったのではないだろうか。
「立太子の儀は必ず、近いうちにしましょう。軍部だけでなく、国民の安寧のために」
「それは力強いお言葉。臣も安堵いたしました」
シモン・バートリは笑顔を深めた。
ゆっくりと口を開く。
「それでは、さっそく準備をはじめねば!カルディナ王国の立太子の儀には、竜族の祝福が不可欠だ。竜族の祝福無しに王になった者はいない!竜族の長の訪問を待って、盛大に祝いましょう!」
フランチェスカがあからさまに顔色を喪う。
竜族の長は……来ないのだと、噂で私は聞いた。その事をシモン・バートリや軍部が知らないわけはない。
しかし、……そうでなければ認めないと彼らは言っているのだ。
ベアトリス女王は微笑みをこわばらせたまま頷いた。
「いいでしょう、楽しみにしていなさい。両人とも」
「陛下」
「ユンカー、お前も長旅ご苦労でした。今日はこれ以上私が語ることはありません。皆それぞれ休むように」
軍部と侯爵は礼をして、用は済んだとばかりに退出する。
私たちはしばらく、沈黙した。ベアトリス女王は初めて表情を崩した。まるで、恥じ入るように。
「見苦しいところをみせたわね、レシェク」
「お気になさいますな、陛下。失礼ながらまだお顔の色がすぐれぬ様子。今はゆっくりとお休みください。……フランチェスカ殿下も」
「ありがとう、公爵」
フランチェスカが初めて口を開いてにこりと微笑んだ。
ベアトリス女王が私に目を向けた。
「公女もよく務めを果たしてくれました。……西国は楽しかった?」
「ありがとうございます、陛下。王都にいては得難いことばかりでございました。機会を与えていただいたことを感謝いたします」
「そう、良かったこと」
私たち親子は、胸に不安を抱いたまま、宰相を王の間に残して、王宮から屋敷へと馬車を走らせた。
「シモン・バートリは何が目的なのでしょうか」
私は外の景色をうかがいながら呟いた。期待しなかった応えは意外にも父上から戻ってくる。
「……軍部の目的は、削減された予算と、剥奪された権力の復活だろうが。侯爵は……どうだろうな。何か考えがあるのか、ないのか。もしかすると」
ため息のように漏らす。
「単に、混乱が見たいだけかもしれないが……」
「まさか、そんな」
「だと、いいけれどもね……、レミリア」
「はい」
父上は馬車の中で肩を竦め、見えてきた懐かしい景色にふと表情を緩めた。
「真面目なのは君の美徳だが、一瞬それは忘れるといい、屋敷が見えてきた」
私も表情を綻ばせた。……ああ、我が家だ!
「おかえりなさいませ、公爵閣下」
「無事の帰還をお喜び申し上げます、閣下!」
私達が馬車を降りると、我が家の執事セバスティアンがまるでいつもと変わらないかのように、ごく自然に出迎えてくれた。私のほうが目を潤ませてただいま、と言うと目線だけでダメですよと老執事は窘めてくる。
そう、貴族は感情をあまり表に出してはいけないのだ。難しいけどね。
遅れて私の伯父であるカミンスキ伯爵ユゼフも姿を現した。
「ご無事な姿を見て安堵いたしました」
「留守に貴方がいてくれて心強かったよ、ユゼフ」
「ありがたいお言葉です、閣下」
「留守中何か変わったことは?」
「……その話はおいおい、今は留守を守っておられた公子の労をねぎらっていただけませんか?」
私と父上が視線を後ろに動かすと、トマシュを背後に従えて私の弟が……、ユリウスが出てくるところだった。あああ、手と足、同じ方向を動かしてしまっている!はらはらする!
手伝いたくなったけれど私はぐっと我慢して、弟が歩いてくるのを見守った。
ユリウスは、父上の前に来ると、怒ったみたいな顔で(多分、緊張しているのだ)口を開いた。
「おかえりなさいませ、父上。姉上。ごぶじを、きねんしておりました」
「いま戻った。ユリウス。留守の間……かわったことはなかったか?」
「つつがなくすごしておりました」
「そうか。……つつがなく、か。留守をよく務めた」
「はい」
父上はなぜか泣きそうな目を一瞬した。
「だが、ユリウス。父は……ああ、お前より私の方が駄目だな。お前に会いたくて、一刻も早く戻ってきたかったよ」
ユゼフ伯父上は虚を突かれた顔をしたし、私も驚いた。……父上が人前で心情を吐露するのは珍しい。
ユリウスが、ぐっと唇を噛みしめた。それから、ふにゃふにゃと、顔を崩して、袖でその落ちそうなほど大きな瞳をぬぐう。
「ちちえ、ちちうえ、ほんとうは、つつがありました」
「なにがあったね?」
弟が泣きだしたのでとうとう私はたまらずにユリウスに駆け寄った。ユリウスはしゃくりあげながら、言った。
「おねしょをしてじまいまじだ……。ひっく」
「……それは由々しき事態だな!」
父上が小さく噴き出し、私の後ろにいつの間にか控えていたスタニスが笑いをこらえて思わずと言った風に斜め下を向いた。
「それに、それに」
「どうしたの?」
私は小さな弟を抱きしめた。幼児特有のいい香りが鼻孔をくすぐり、思わず私も目じりをぬぐう。
「さみ、しかった!」
うわあああん、と貴族にあるまじき大泣きを始めた幼い弟を抱きしめながら「私もよ!」と私はユリウスを抱きしめた。ユゼフ伯父上は少しだけ呆れた顔で私達姉弟を眺めていたが、やがて、ふっと破顔する。
「やはり、ヴァザ家はこうでなくてはなりませんな、レシェク様」
「うん」
「ユリウス様の泣き声と、レミリア様の笑顔と、後ろで笑っている無礼者がいなくては。そして何より御身がいらっしゃらないと。――ご帰還を心よりお待ちしておりました。閣下」
ああ、と父上がうなずき。私も涙を拭いて伯父と弟と、執事と、使用人と。それから屋敷を見渡して息を吸い込んだ。
ゆっくりと、万感の思いを込めて口にする。
「ただいま」
と。おかえりなさい、とどこからか、柔らかな声が聞こえた気がして、私は一瞬目を閉じた……。
私たちが戻ってしばらくのち。
カルディナの全土に、王女ベアトリスの一人娘、フランチェスカの立太子の布告がなされた。
立太子の儀の竜族の長への使者としてシンが北部へと赴くことに、なった。
三章はこれにて完結です。
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幕間をぽつぽつ挟み、晩秋に四章を再開します。
※なお、来週幕間を更新します。ルエヴィトさんの話です。




