143.砂塵舞う 6
「伯爵は?」
「今は自室でおやすみに」
私の問いに、スタニスが答えてくれた。
あのあと、アレクサンデル達神官は国教会に、竜族二人とシンはキルヒナーの屋敷に戻り、ヘンリクはジグムントが心配だからと私達と一緒に屋敷へと戻ってきている。
ユンカー宰相は父上と調印式の打ち合わせをしていて、部屋には私とスタニス、ヘンリク、ヴィンセント、――そして何故だかイザークも居たりして。
「お前は余計なんじゃないのか、キルヒナー」
「なんで?俺がいた方が気が紛れていいだろ?」
ヘンリクの憎まれ口にイザークはしれっと言って舌を出した。
シンはキルヒナー家に戻ってしまったし、イザークはヴィンセントが心配だからついて来たのだと思う。
父上はかすかに笑ってスタニスに皆をもてなすよう指示をしていたから、ここに居て、大丈夫って事なんだろう。
キルヒナー兄弟の事を、多分父上は気に入っている。
他人が己の領域に踏み込んで来るのを嫌う人なんだけど、彼らの振る舞いについては仕方ないと半ば楽しんでいる気配がする。気が合うんだろうか。スタニスがイザークに苦笑し「お茶は自分で淹れてくださいよ」と侍従の役目を放棄したので、イザークは人数分を慣れた手つきでカップに注いでくれた。
香気の強い茶はあちこちに散らばりそうになる気持ちを、ほんの少し落ち着けてくれる。
ヴィンセントが表情を緩めたのを視界にとらえて、私は紅茶に映る己と顔を見合わせて、ほっとした。
「美味しいな」
「そっか?よかった。伯爵の侍従さんに淹れ方聞いたんだ」
侍従さんと?
いつのまに仲良くなったんだろ、イザーク。
「そうか」
「あの人のお母様が好きなお茶でさ。よく色んな人に淹れてたんだって」
私は心配げにジグムントに付き添っていた気のいい青年を思い浮かべた。
ヴィンセントの母君の乳母だったという女性の息子さん。
乳母だった、というその女性は、このお茶を伯爵や、ヴィンセントの母君のカヤ様にも振舞うことがあったのかな……。
ヴィンセントはしばし沈黙して、もう一度味わうように口をつけ、美味しいなと繰り返す。
二人のやり取りに、ずっと眉根を寄せていたヘンリクが口を開けて曲げてカップを置き、何を思ったのか無言で奥の部屋に引っ込んですぐに引き返してくる。
手に持ったものが何かに気付いて私達はおもわず顔を見て見合わせた。
左利きのヘンリクの為に、いつかフランチェスカ王女がヘンリクにとくれた、ヴァイオリンがその手の中にありヘンリクは行儀悪く椅子に腰掛けると弦を握った。
「お前たちと話していても間が持たない」
ヘンリクはつまらなそうに吐き捨てると、口調とは打って変わって優しく弦が引かれる。
ゆっくりとした物悲しい旋律は、カナンの柔らかな風に乗って、夜を彩る。
――ああ、これは。
鎮魂歌だ。
誰の為のものなのか、なんて聞くまでも無い。
私達は動きを止めて、天邪鬼なヘンリクの優しい演奏に聞き入っていた。
ジグムントにも、聞こえているだろうか……。
一曲終わると、ヴィンセントが目を伏せた。
「……ありがとう、ヴァレフスキ」
「お前のためになんか弾いていない。僕はただ、ジグムントのご息女の為に弾いたんだ」
「そうか」
同じことのように思えるけれど、と私とイザークは目を合わせて少しだけ笑う。
ヘンリクは鼻を鳴らして、もう一曲別の曲を弾いてくれた。国教会でよく歌われる静かな賛美歌だ。
イザークも演奏が終わるといい曲だなと目を細めた。
「持ってきていたのね、ヴァイオリン」
私の言葉に、ヘンリクは皮肉に口の端をあげた。
「屋敷に置いたままだと、父か母が廃棄しかねない」
「……そんなこと、は」
ないと思うよ、と言いたかったけれど私は口を噤んだ。
ヘンリクが何か言いたそうにしたので、否定するのも憚られたのだ。
スタニスが「片付けましょう」と茶器を持って部屋の外に出る。ヘンリクは苦笑しつつスタニスを見送って、ヴァイオリンの一番高い音を細く鳴らした。
か細い悲鳴みたいに。
「母は僕が左利きなのを相変わらず厭っているし、父は音楽など女子供がやればいいといい顔をしない。軍部に所属すればますます弾く機会は減るだろうな」
「そんなに上手いのに、勿体ないな」
イザークが残念がるとヘンリクは肩を竦めた。ヴァイオリンを撫でる。
「……この旅は、僕の最後の自由時間だ。だから、こいつを連れてきた」
それから少し、笑う。
「ユンカー」
「……なんだ」
「無理に伯爵と和解しなくても構わないぞ。どんな理由やすれ違いがあったにせよ、お前の両親を伯爵が見捨てた事には変わりない」
「……」
「お前がジグムントを労らなくても、僕が彼の老後の面倒くらい見てもいい。僕は彼が嫌いじゃないしな」
ヘンリクの青い瞳が皮肉に光る。
「……血の繋がりが濃いからこそ、許せない事だって、あるだろう?お前の悪い癖でいつもみたいに義務感でジグムントに寄り添うならやめてやれ。お互いに、辛い」
ヘンリクは、「そう」なのだろうか。
私は何も言えずにうつむいた。ヘンリクの父、ジュダル伯爵は妻のヨアンナと不仲で、今はもうほとんど愛人宅にいる。ヨアンナはそのことをむしろ喜ばしく思っているみたいだ。ヘンリクの両親は彼をそれぞれに溺愛はしているけれど、たまに親子三人で揃う事があってもお世辞にも仲睦まじいとは言えなかった。
ヴィンセントはしばらく言葉を失い、ややあって、うなずいた。
「……。考えるよ、きちんと。忠告をありがとう」
「そうしろ」
ヘンリクがヴァイオリンをしまい、独り言のように呟く。
「お前にとって、シンは弟だったんだな……ここの土地で亡くなった」
「そうだよ」
「どうりでべたべたして気持ち悪いと思った。――だけど、あいつはお前の弟じゃないぞ」
ヴィンセントは窓から夜空を見た。
「知っている……。シンは……僕が彼と弟を重ねていたのを気づいていて、それを許してくれていたのも知っている……。いや、ようやく気づいたんだ。あいつは、変な所で優しいから」
しんみりとした口調に私は先ほどのリディアの言葉を不吉なことのように思い返した。
リディアは、シンは人の世に馴染まない、と言った。
優しいけれど、束縛を嫌い、何かの為になかなか自分の信念を曲げられない。
今まではシンはそれでよかった。シンを取り巻く環境は優しい人ばかりだったから。けれど、軍学校を卒業したら、どうなるのだろう。
王族たるシンは軍に入ると同時におそらく公務に就く。
これから一生、義務に縛られて生きて行くことが出来るのだろうか……。
「自由時間か」
イザークが窓枠に肘をついて外を見た。ヘンリクが鼻を鳴らす。
「一番自由な奴が、何を言っている」
確かに、爵位を継ぐ身ではないイザークはヴィンセントやヘンリクと比べて選べる未来は多く、プレッシャーは少ないかもしれない。イザークはにかっと笑った。
「そうはおっしゃいますが、次期伯爵。俺は……ヘンリクやヴィンスと違って卒業後に何も約束されてないからね、必死でしがみついて色々手に入れなきゃいけない。俺を自由だと羨むのは持てる者の傲慢だと思いますよ」
「……ふん」
「だから」
「だから?」
「首席で卒業するのは俺なんでよろしく。王都に帰ったら猛勉強しよっと」
ふふんと笑ったイザークに、二位と三位を行ったり来たりしている(らしい)ヴィンセントと、五位前後をうろうろしているヘンリクはわずかに青筋を浮かべた。
「……ヴァレフスキ、君の得意科目は兵学と築城か」
「……ユンカー、お前は数学と歴史学だな?戻ったら試験の対策をするぞ」
イザークが共同戦線をはりつつある二人にげっ、っと声をあげたので私は思わず吹き出してしまった。ヴィンセントとヘンリクが一緒に勉強なんて、数年前からはなんだか想像のつかない事態だなあ。
「私も隣で勉強しようかな」
「やめろ、お前の集中力は一時間も持たない、邪魔だ」
「えー……」
私が口を尖らせると、ヴィンセントがくつくつ喉を鳴らす。
最後の自由時間、か。
西国との条約の見直しが終わって王都に戻ったらこんな風にみんなで集まって、喋ることはないのかもしれないな。
そう思いながら、私はここにシンがいないことをひどく残念に思い、それからフランチェスカやマリアンヌに会いたいなあと思った。
西国での任を終えて王都に戻ったら、いつかみたいにフランチェスカの薔薇園でシンの淹れた苦い茶を飲めたらいいのに。
懐かしい味を思い出し、私は微笑んだ。
章の終わりまであと三話
続きはそう遠くないうちに




