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142.砂塵舞う 5

 リディアの首筋から鮮血が飛ぶということにはならなかった。

 その代わりにヒュン、と音を立ててなにかが横をよぎるような風を切るような感覚がした気がして、私は思わず閉じてしまった目を恐々あける。

指の間からのぞけば、目の前には呻くリディアと驚くアレクサンデルがいて、彼女の肩には短い矢が刺さっている。


 ……矢!?誰が。

 戸惑う私の目の前でスタニスが素早く動きリディアを背後から押さえ込んだ。


「意外な特技をお持ちで」


 揶揄する口調のイェンにつられて後ろを振り向いて、私は、目を丸くした。

 ヘンリク、イザーク!


 ――それに、弓をひいていたのは。


「お父様!?」


 弓をイザークに渡した父上は涼しい顔で私達の元へと近づくと、スタニスに抑えられたままのリディアに静かな声音で、いつもと変わらぬ様子で、声をかけた。


「死者の眠る地で騒ぐな、リディア。貴女が神官を名乗ると言うのならば、死者には敬意をはらうといい」

「閣下……」


 スタニスがちらりと父上を仰ぐ。


「お越しにならずともよいとお伝えしましたよ、閣下」


 父上は少しだけ口の端をあげた。私とスタニスにしかわからないほどの小さな変化で。それから後方に控える少年二人を見た。


「ドミニク・キルヒナーに頼んでいた。ヘンリクが大人しくしていないようなら知らせてくれと。結果として、二人と来ることになったんだ。役に立ったろう」

「弓だけは相変わらずお得意で」

「誰かに吐くほど鍛えられたからな」


 イザーク達との間に何があったんだろうと父上を見ていると、父上はテーセウスの後ろに隠れるようにいたシンを冷たく一瞥する。


「シン公子。貴方はここにいるべきではない方だ。ドミニク・キルヒナーがもうすぐここに来る。残りの滞在期間は屋敷から出ぬように」


 シンは何か言いたそうにしたけれど、続く父上の言葉で黙った。


「貴方は、自由に過ぎる。貴方の立場にしては。――ここカナンでの全権は現在、私にある。要望を受け入れていただけないのなら、陛下に直々に抗議申し上げるが、如何か」

「……わかった」

「結構」


 貴方の立場にしては自由に過ぎる、か。

 似たようなことを昔、テーセウスに言われたな……。

 父上は、さらに言葉を続けた。


「アレクサンデル神官、ヴァザの長として頼もう。君の懐にある物騒なものをしまってくれ」


 アレクサンデルは一瞬動きを止めて、それから言葉と共に何かを飲み込んでから身を引いて、私の背後に控える。

 思わず表情を窺うと、目を逸らされたので私もぎこちなく逸らしてしまう。

 リディアは痛みからか屈辱からなのか、下唇を噛みしめて公爵を見上げていた。


「……閣下」

「さて、リディア。貴女は言ったな。ヴァザは神の化身、神官はその下僕だと。それは、本心か」

「……」

「ヴァザの長として命じよう。レシェク・ルエヴィト・ヴァザの名において汝に命ず。『汝の血肉の一片たりとも、汝のものに非ず』貴女の自死を禁じる」


 リディアが蒼褪め、その首環が薄く光ったような気がした。そして、アレクサンデルが僅かに身を硬くしているのがわかる。

 父上の冷たい水色の瞳が僅かに色を濃くして、スタニスへと移動した。


「サウレ」

「はい、閣下」

「私が命じたら、即座にその女の命を断て」

「御意」

「お父様!?」


 私は悲鳴に似た声をあげた。スタニスが父上の命令で人を殺す?

 そんなこと、嫌だ!


「なにをおっしゃっているのです、そのようなこと!」


 私の抗議は片手で制された。私が有無を言わさぬ口調に戸惑っているうちに、父上は残酷に宣言を追加する。


「リディア。貴女の自由な発言もしばし『封じよう』。……いにしえの悪法だが、ヴァザの長には神官長をのぞく全ての神殿関係者の生殺与奪権が与えられている。ジグムント」


 父上は老伯爵に声をかけた。それから、ヴィンセントに視線を動かす。


「ヴィンセント・ユンカー。貴兄らに問おう。リディア神官の死を望むか?彼女の罪は明確で悪辣だ。貴方方が望むのなら、私の命で、サウレがリディアを根の国へ送るだろう。私にはその権利がある。どうするね」


 ユンカー宰相が身じろぎしたが、押し黙る。私は声が震えるのを止められずに、それでも、口を開いた。


「そ、そんなのは、駄目です、お父様、やめて。だって、スタニスがそんなの、嫌だ!嫌です、駄目だよ」


 子供じみた悲鳴をあげた私を、イェンが片手で動かぬように抑えて父上はそれを咎めもしなかった。

 裏切られたような気がして、絶望にかられて父と義理の伯父をみたけれど、彼らの表情は全く動かない。

 リディアが、罪を犯していたとしても、だから、私刑で彼女を殺すなんてあってはならない、それより、何より、スタニスが、父上の命令で人を殺すなんて、そんな命令を下されるなんて、嫌だ!


 私は、身勝手な理由で嫌だと首を振る。

 そんな私に、父上は冷たく言い放った。


「レミリア、君に発言は許していない。黙りなさい」


 私は、思いもかけない冷たい態度に言葉を失う。

 カリシュ公爵の顔をした彼は、問いを繰り返した。


「どうする、ジグムント?ヴィンセント・ユンカー」


 ジグムントは暗い声で、言った。


「サウレではなく、私にお命じください、閣下。娘は、……娘と、孫の、仇です」

「許可しない」

「何故です!レシェク様!」


 ジグムントのそれは血を吐くような悲鳴だった。


「ジグムント、貴方にはその権限はないし、そもそも貴方は剣が得意ではない。悪戯に神職にあるものを苦しめるのは本意ではない」

「そのような……」

「認めぬ」


 父上は素気無く言い放つと、ヴィンセントへ返答を促した。


「君はどうするね。ヴィンセント・ユンカー」

「僕は……」

「何を望む?」


 やめて、と私は叫びたかった。

 スタニスは、無表情で右手に短剣を持っている。

父上が命じれば、スタニスは即座にリディアの命を奪うだろう。そんなのは嫌だ、やめてと叫んで喚いてしまいたい。


 けれど、同時にそんな自分を恥じる。


 ヴィンセントやジグムントが、リディアを殺したいほど憎んでいることは、頭ではわかっているのに、私は、私の感情だけで、嫌だと、そう、思っている……。

 ぎゅっとくちびるを引きむすんで、言葉を飲み込む。


 ヴィンセントの翠色の瞳が、苛烈な色を帯びる。

 私はそれを、知っている。

 その瞳で過去、みられたことがある。

 悪夢でなぞった事がある。


 ヴィンセントはずっと、ずっと、恨んで来たのだ。家族を奪った人を……。やっと訪れた、これはまたとない、復讐の好機なのだ。


 でも、嫌だよと暴れそうになる子供な私を、私のなけなしの理性がねじ伏せた。拳をぎゅっと握りしめる。


 どれくらいの沈黙があったのか、ヴィンセントはふと、息を吐いた。

 こちらをうかがって、私を見た気がした。

 ヴィンセントは、短く息を吐き出して……、本当に、小さな、小さく、自嘲するように、笑った。


「閣下」

「心は決まったか?」

「ええ」


 ヴィンセントはリディアに近づいて、彼女を見下ろした。


「例え、直接手を下していなくても。……リディア神官、貴女が僕の家族を殺した。僕はきっとその事実を、死ぬまで忘れられないと、思う……、そして、貴女は僕の代わりに、小さなシャンティを殺した。死を待つばかりの小さな女の子を慈悲もなく殺害した。それは罪深い、許されざる事だと思います」


 リディアはただヴィンセントを見上げている。

 アレクサンデルが怒りなのか悲しみなのか震えたのがわかった。

 ヴィンセントは、透明な表情でカリシュ公爵を見つめ返した。


「僕は、望みません」


 ……ヴィンセント。


「僕は、私刑など望みません、閣下」

「私刑ではない。法が許している」

「いいえ、恐れながら閣下は……ヴァザはもはや、王家ではない。先ほどの悪法は、ヴァザ王家に許された特権です。今はもう、ないものです。……だから、僕は」


 ヴィンセントは、言葉を区切った。

 一瞬、奥歯を噛み締め、続ける。


「僕は、法と正義が正しく行使され、リディア神官への厳正な処置がなされることを、望みます」


 一瞬、ジグムントと、それからユンカー宰相を見る。そして、宣言した。


「カルディナの国民として、私が望むことは、それだけです」


 ジグムントは虚を突かれたかのようにうなだれ、侍従の青年とテーセウスが気遣わしげに彼を支える。老伯爵はこの一晩で十も老いたように見えて、痛々しい。


 父上は、ヴィンセントを見つめながら重ねて聞いた。


「後悔は、ないか?」

「はい」


 私は、ヴィンセントの横顔をじっと見つめた。

 彼の顔には迷いや、烈しい感情はどこにも見当たらなかった……。

 そうか、と一言いい、父上はスタニスに手で合図をした。

 スタニスが素早く手刀を落として、リディアは昏倒させられた。


「アレクサンデル神官リディアの身柄は君に預けよう」

「……御意」


 アレクサンデルは表情を全て消して、リディアを連れて行く。魂が抜けたようにジグムントはそれを見送っている。


 ぱんぱん、とイェンが手を出して叩いたのを合図に、私はその場に崩れ落ちそうになる。


「お嬢様、大丈夫ですか!」


 慌ててわたしを支えてくれたスタニスの「いつもの」表情に、泣きそうになりながら、うん、と言う。

 抱きついて泣きわめきたい衝動に耐えながら頷く。ぽん、と頭に手を置かれたので斜め上を見ると、ヘンリクが仏頂面で私の髪をグシャグシャにしていた。


 私はヴィンセントを見ながら、泣きそうになる。

 もしも、私がヴィンセントなら。

 きっと、許せない。


 スタニスやヘンリクが理不尽に殺されたとして、家族を奪った人間を目の前にして、殺意を抑えることなんて、きっと、できない。

 ヴィンセントだって……。本当は。


 ヴィンセントは、去りゆくアレクサンデルとリディアを見つめて、無言だった。何を考えているのかは、わからない。イザークがそっとよりそって肩を叩くと、うん、と何かを返すかのようにうなずいた。私が何かを言う権利はないから、私はただ、俯いただけだった。


 重苦しい沈黙漂う夜更けの暗闇に、私たちはどこかバラバラに立ち尽くし夜風はどこか湿り気を帯びて、頰を嬲る。


 人ならざるイェンだけが、人間たちの感傷を嘲笑うかのように、場違いに微笑みをたたえながら種類の違う美貌のカリシュ公爵に皮肉な問いを無遠慮に投げかけた。


「ヴァザは神の化身、か。懐かしい言葉を聞いた……。カリシュ公爵。貴方があの国の神か」


 秀麗な面に隠されたヒヤリとした何かを感じて私はイェンの横顔を見つめる。



 父上はそうだ、とあっさりと肯定した。



「そうだとも、私が神だ。今はもう亡い国で、狂信者達だけが奉じる……最後の、神だ」


夜は静かに、白々と更けていく。





続きはそう遠くないうちに

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