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【幕間】美しき、日々

カタジーナ視点。色々とあんまりな表現がありますので不快な表現が嫌いな方は回れ右。

「みてごらん、公爵閣下がお通りになる」

「ご令嬢も一緒か!」

「――ふたりとも人形のよう、なんってまあ美しい」

「えれぇひと達ってのはあんだけきれいなもんかねぇ」


 少女は気分よく馬車から下界を見下ろした。

 領民から姿が見えるようにとわざわざ狩猟用馬車(ヤークト)で移動して、郊外にあるヴァザの別邸からすぐ近くの国教会に向かう。

 人と会うのを極度に嫌う父も、この小さな別邸と村、それから国教会では姿を晒して――信じられないことに平民たちと触れ合うことも多かった。


「人が増えた」

「旦那様のご尽力の賜物です。収穫が安定し、男たちも戻ってまいりました――流行病も予防が行きわたり、冬に人も減りませんでした」

「そうか」

「陛下の慧眼に感謝せねばなりませんね。……北部の民の医療の知識には本当に頭が下がるばかりです。――ああ、村では赤ん坊も沢山生まれて」


 父と変わらぬ年の男が目を細める。

 本来なら二人に帯同できる身分ではないが、父はこの別邸にいるときは好んで彼を側においた。


「セバス」

「はい」

「お前はよくやっている、何かほしいものはないか?」

「左様でございますね。荷運びの馬が増えると皆、喜びますが……、後は国教会の方々に診て貰えない住民たちが、医師をおいてほしいと……」


 父は苦笑した。少女は驚いて美しい横顔を見た。何も動じない人だがこの別邸近くでは彼はよく表情を変える。特にセバスティアンと呼ばれた男の前では。


「そうではない、セバスティアン。お前の要望は叶えよう。お前自身に何か贈りたかったのだがな」

 セバスティアンは微笑んだ。

「日頃から、過分なものをいただいておりますよ、旦那様」

「何か考えておきなさい。たまには欲を出してもいい」


 セバスティアンはありがとうございます、と父にいい、少女は口を挟んだ。


「だったら、私の大切な本をあげるわ!国教会の教義書よ。あれはいいものだとセバスティアンはずっと眺めていたもの!」

「――お嬢様なりませんよ、そのような貴重なものを」

「知っているわ、でも、セバスティアンにならあげても構わないじゃない」


 どうせこの男には身寄りがない。生真面目な男は大切にするだろうし、教義書ならたくさん、たくさん持っている。この男が死んだら取り戻せばいいのだ。

 それで――。


「それはいい考えだ。カタジーナ」


 父の指が少女の――カタジーナの髪を梳く。カタジーナは恍惚とした。


「お前は人の気持ちのわかる、敏い子だね」


 本一冊で父の歓心と愛を買えるのなら、書庫ごとこの使用人にくれてやるのに。そう思って、カタジーナは父親に抱きついた。

 気分よく村を見渡すと、ぼろ布をまとった平民たちが少女の視線に気付いて、おずおずと不格好に礼をする。

 それを気分よく見て、少女は横に並ぶ父にくすくすと笑って告げた。


「父上!ごらんになって?あの端の男!信じられないくらいおかしな顔!――どうしたらあんなに目と目が離れるのかしら。あの娘の髪の色、なんてみすぼらしいの」

「……私には何も見えなかったよ。さあ、前を向いて。もうすぐ教会に到着する」


 少女は甘えて父親に抱きついた。




「お嬢様、手順はおわかりになる?」

「あたりまえよ!――私にわからないことなんかないんだから!」


 国教会に行って、彼らの報告を聞いて、それからあの腹をすかした汚い平民に食料と衣服を与えてやるのだ。あるいは幾ばくかの錆びた色の貨幣を。


「領民たちに、私はジヒをもってせっするのだわ!王族のギムだもの!」

「お嬢様」


 家庭教師は困ったように首をかしげたが美しい父は何も言わなかった。

 だから少女は正しい。王女(・・)は定められたとおりに憐れみを分け与えてやり、おどおどと身を縮こまらせた平民にさえ遠くから微笑んでやり、賞賛の眼差しを当たり前のように享受した。


 お勉強、ダンス、時々慰問。

 カタジーナはどれもうまくこなした。しくじっても微笑めば許された。

 それでも許さない人間がいたときはカタジーナを溺愛する母に言えば良かった。


「あの先生はなんだか怖いわ、私にやたら触れようとするし」


 翌日には嫌いな人間はいなくなった。


 私の微笑みひとつで、かんたんに皆が幸せになる。

 なんと、優しくたやすい世界だろう。美しい父母、美しい妹、美しい自身、美しい庭に、美しい空、騎士たちは凛々しく、仕える侍女は可憐だ。

 見栄えしない侍女は少女が辞めさせてしまった。――あの侍女は少し肌が黒かった。

 みっともない、汚らしいものは少女は嫌いなのだ。己を飾るのに相応しくない。


 美しく優しい世界で少女は生まれ、育った。

 手に入らないものはなく、誰もが少女を大切にする。

 完璧な世界の最初の綻びは、下の妹が生まれたとき、だった。


「――嘘よ、母上がお目覚めにならないなんて!」


 三女の――オルガを産んだとき、母は眠りからさめなかった。上の妹のアニタは泣くばかり、父はいつものように無言で母の頬を撫でる。――少女は、カタジーナは悲鳴をあげた!


「しかしお嬢様、妹君はお元気です。どうかだいてさしあげて……」


 お母様と引き換えに。カタジーナはぞっと乳母の手中にある醜悪な塊を見た。――ぐちゃぐちゃとした赤黒い、泣きわめく獣。


「妹?それが?」

「ええ、だいてさしあげて……」

「みにくいっ!」


 カタジーナは乳母からそれを取り上げると階段から投げ捨てようとした。


「何をなさいます!お嬢様っ!」

「おはなし、セバス。それが悪いのでしょう?その汚らしいものがお母様を苦しめたから、お母様が死んでしまった!――捨てなさい、無かったことにするの!そしたら、元に戻るから」

「……誰か、人を!お嬢様はお悲しみでお心が乱れておられるのだ。このことは口外しないように、いいな?」


 セバスティアンが青褪める侍女と年若い侍従に短く命令し、カタジーナを部屋に連れて行った。

 使用人などみな、ごみのようなものだが、カタジーナはセバスティアンだけは口を聞いてやってよいと思っていた。生真面目で、父上が唯一笑顔を見せる、有能な執事見習い。


「お嬢様、お悲しいでしょう、どうか、我慢なさらないで――。お泣きになってください。こんなお小さいのに、……おかわいそうに。なんて、おかわいそうに……」

「セバス」


 カタジーナが抱きつくと、セバスティアンはぎゅっとカタジーナを抱きしめる。

 妹をかわいがるようにと諭す彼をカタジーナは涙ぐんで見上げた。

 上目遣いになれば、この男がカタジーナを許すのを知っていた。はやく涙が流れないかしら。そうすれば、セバスティアンはカタジーナへの憐憫をより、深くする。


 ――善良で、生真面目なセバスティアン。


 彼の嫌がる事は、皆も嫌がる。彼が行う振る舞いは、模範となる。――あくまで下々の、だ。

 カタジーナにはすべてが薄っぺらな、価値のないものに思えるが、どうやら平民にとっては違うらしい。彼らがおそらく良心と呼ぶものをこの男は持っていて、カタジーナは持ち合わせの無いその基準をセバスティアンの目を通して判断するように、していた。


「――妹を壊してはいけないの?」

「そのような事をおっしゃらないでください、お嬢様。たとえ、お悲しみでも……」

「……どのように、したら、いいか、わからないのだもの」


 泣いてみせれば、下々の考える姉の正しい妹の愛し方をセバスティアンは教えてくれる。

 カタジーナは学んだ。

 なるほど。


「人前ではそう、振る舞えばいいのだわ。――そうすれば、間違えない」


 妹を断罪するのは――、人の目のない所がいい。カタジーナは人目があるところではオルガを可愛がり、誰もいない所で仕返しをすることにした。――母を奪われた当然の権利だ。

 泣きわめく幼児に、告げる。


「醜い猿!いいこと?お前のせいで私のお母様は死んでしまったのだから、お前は一生誰からも愛されず、孤独に死ぬのだわ!覚えておきなさいっ!」


 肘の柔らかな部分を抓ると、オルガは泣き喚き、カタジーナは楽しくておかしくて笑った。

 なんて醜いんだろう!オルガは!


 オルガが、彼女を気に入った侯爵夫人の下に引き取られたのは三歳になる前だった。

 シュタインブルク侯爵夫妻。その一粒種のシモンの妻になるらしい。せいせいするわ、とカタジーナは思う。


「妹をよろしくお願いします、侯爵夫人」

 ヴァザの血を色濃く引く夫人は空色の瞳を眇めてカタジーナを見下ろした。

「――よくもそんな事が言えたこと‼」

「夫人?」


 侯爵夫人は耳元で囁く。怒りを抑えた声で。


「あなたの行いは見ていますよ、私も、公爵閣下も――神様も。幼子をあのように執拗に虐めるなど――恥を知りなさい、カタジーナ‼この子は私達が大切に育てます。亡き貴方の母上もそれをお望みでしょうからね!」

 

 青褪めるカタジーナは弾かれたように顔をあげる。廊下の向こうにいた父は溜息をついて姿を消した。

 

 新しく妻を……カタジーナは妾と呼んでさげすんでいたけれど……迎えた父は、昔のようにはカタジーナを撫でてはくれなくなっていた。


「君のやり方が下手なのさ」


 自分より年下の少年に言われて、カタジーナは口を曲げた。

 シモン・バートリ。シュタインブルク侯爵夫妻の一人息子はカタジーナの髪に口付けながら言った。


「オルガのあんな目立つところに傷をつけて、侍女たちにも口があるんだから、すぐにバレるよ」

「――父上に告げ口したのは誰?侍女?」

「かもしれないし、違うやつかも。例えば僕かも?それもわからないんだ?君はおばかさんだなあ」


 カタジーナが睨めつけるとシモンは笑う。


「慈悲深い我が母上のおかげで、君の妹は僕の所有物になった。ほんとは僕の奥さんは君だったらしいけどね」

「冗談じゃないわ、侯爵なんか。格下じゃない」

「――じゃあ、何になるつもり?この国には公爵家はひとつきり。君は侯爵夫人を逃せば、伯爵夫人にしかならないけど」

「うるさいわね」

「なんにせよ、楽しみだな。オルガはどんな声で泣くかな?ああ、――悪いけど、君が僕の母上の紅茶に混ぜた危ないものは零しておいたよ」


 余計なことを、とカタジーナは唇を噛んだ。


「仕方ない。僕も庇護者が必要だからね、まだ早い――もう少し僕が大きくなったら――一緒に考えよう、カタジーナ」

「…………いつのことよ」

「僕が家督をついだら。……そうしたら好きにさせて貰おうかな。それまで貴方はもうすこし、演技がうまくなるといいよ」

「努力するわ」


 努力は嫌いだったが、嫌いな人間を排除するためだと思えば悪くない。

 侍女たちは厳選することにした。使用人など取り換えの利く道具だが、愚鈍に見える使用人も、あれはあれで感情や思考力が存在するらしい。

 他には厳しく、カタジーナに忠誠心のあるものは金品や処遇で優遇し……、がんじがらめにすれば命令をきかせやすい。

 なるほど、権力はこうして……、人はこうして甘やかして道具にするものなのか。

 しかし、いつ裏切られるともわからない。カタジーナは救貧院で口のきけない少女を買う。余計なことを喋らない侍女(どうぐ)が一人は欲しかった。

 嫌いな人間を陥れるためにも道具は沢山あった方がいい。


 カタジーナの嫌いな人間。

 その最たるものは王宮の真ん中でふんぞり返る紫の瞳をした老人だった。国王はヴァザから、いやカタジーナが座るべきだった豪華絢爛な椅子を汚して、さらにはみすぼらしい彼女の娘に譲ろうとしている。


「……カタジーナ殿は幾つになられたかな?」

「十五でございます、陛下」


 カタジーナはそれでも楚々とした風情で頭を垂れた。この男に逆らって首を切られるにはあまりにカタジーナの貌は美しすぎて勿体ない。好色で知られた王は歪んだ色を視線に乗せながら亡き妻に似たカタジーナを見た。醜悪な老人は――ことさらに、カタジーナの容貌を褒めた。


「……カタジーナ様を後添えにされる気なんじゃないかしら」

「陛下が?うちのお嬢様を?冗談じゃないわ!美しいお嬢様をあんな老人が……ぞっとする!」


 おしゃべり雀たちがひそやかに囀る。カタジーナは自身を崇める侍女にあとで褒美をくれてやろうと思いながら、……醜悪な老人の指の感触を思い出した。ささくれた、乾いた皮膚の固さを。

 ……確かに不快だが、あの指が運んでくるものがあの煌びやかな王冠だとすれば、悪くはない取引だ。


 王家の宝冠には中央に翠とも青ともつかぬ輝石が嵌め込まれている。

 光の反射如何では、ヴァザの瞳と同じ色になる……あの宝石。あれを頭に抱いて、何よりも高い位置からこの国を見下ろすことが出来たらなんと爽快だろう――!

 カタジーナはその時を想像して――吐息を漏らした。

 美しい宝冠を頭に抱いて黄金の馬車から手を振る美しい女王、傍らには国王など置くはずがない。カタジーナの側にいていいのは父か……、まあ、シモンで妥協してもいい。

 

 混じりけの無い金の髪をした正しい人間でなければならない。


「王妃など!ばかげている!」


 カタジーナへの求婚の打診を父は一蹴した。激怒したと言ってもいい。


「姉に続いて、娘まで食い物にする気か、あの老人は――!それに、カタジーナにはヘルトリング伯爵というれっきとした婚約者がいるのだ。何を考えているのか」


 父は国王を嫌っていた。怒るのも無理もない。だが、カタジーナは懇願した。

 父の為、国の為だ。国のために犠牲になる美しい公女。……なんと美しい物語だろう。それにヘルトリング伯爵なんてとんでもない。領地は豊かで容貌も優れた善良な若者だが、それだけだ。彼には野望も、カタジーナを満足させるだけの地位もない。彼の妻という肩書で得られる称賛はどれくらいだろう?

 明らかに今よりも目減りする賛美の声を弾いて、カタジーナは心底悲しかった。悲嘆にくれたと言ってもいい。


「けれど父上、悪い話ではありませんわ。私が王妃なら、反目する新旧王家の派閥を融和させられます」

「カタジーナ」

「みな、それを望んでいるのでしょう?でしたら私、構いませんわ。……貴族の娘の婚姻は、国の為にあるのですもの」


 父の前に膝まづいて、彼を仰ぐ。

 上目遣い、震える声、指、すべてを動員して懇願する。父は言った。


「……皆のために犠牲になると?」

「ええ、父上」

「……ベアトリスはどうなるね?お前の従妹、聡明なベアトリス。私の最愛の姉がいつくしんだ娘だ。もしもカタジーナが男子を産めば、彼女の地位は危うくなるのではないか?」


 カタジーナは首を傾げた。……産むのが男児でなくても、もしも生まれなくてもあんな女、排除するに決まっている。あらゆる手を使って。


「王太子はベアトリス殿下。それを定めたのは国王陛下です。私がたとえ子を産んでも、覆せるものではありません……それに、私達、仲良くやれますわ、きっと」


 美しい空色の宝石が手に入るのなら、少しの間ベアトリスに微笑むのは大した苦痛ではない。

 カタジーナの決意に、父は静かに、言った。


「カタジーナ……」

「はい、父上」

「……お前が王妃になるのを望んでいるのは一番はお前自身だろうね?」

「……父上?」


 父は顔を歪めた。


「……。お前の侍女が先月消えたね。お前の大切にしていたカップを割った侍女だ」

「……。あまりに失敗が多いので、暇をとらせました」

「彼女は。路地裏で見つかったそうだ。幸い息はあったそうだが」

「そうですか」


 カタジーナはぼんやりとしか思い出せない侍女の横顔を思い出した。

 カタジーナが大切にしていた、カップ。母親が生前、カタジーナのためにと特注で作らせて、母の死後、十二の頃に贈られたカップ。それを悲しく思い出すときゅっと胸がしめつけられた。

 カタジーナのカップを割ったのだ。……もう、戻らない、母との思い出を。

 取り返しのつかない失態には、侍女自身も「壊れて」もらうしかなかった。

 だからカタジーナは、軍部の信奉者の一人に泣きついただけだった。


『あの侍女も同じように壊して、代わりにお前を愛してあげるから』


 と。粉々にならなかったとは、あの男も使えない。


「……驚かないのか、カタジーナ」

「父上、路地裏とはなんでしょう?私にはよく……わかりません」

「……侍女が証言した。襲って来たのはお前がよく一緒に出掛ける軍部の男だとね」


 父は冷たい瞳で告げた。最近病がちな父は、嫌な咳をするようになった。

 ……治してあげたいけれど、カタジーナは医者でも治療師でもないのだから、無理だ。カタジーナは表情を消して父を見た。何も言わなかったけれど、父にはすべての事情が分かったのだろう。

 苦し気に吐き捨てる。


「お前を国母になど出来るわけがない……、お前は何を望むのだ。カタジーナ。人を操り、人を貶め、人を排除する……、浅はかにその痕跡を残す!」

「……だって父上、王家はヴァザだわ……父上があの椅子に座るのが似つかわしいから……、私もその場所にいるのがいいと思っただけで……」

「馬鹿げている、なんと愚かな娘だ!……ああ、しかし、お前も私の娘だから仕方ないのだな……!なんと愚かな親子だろうか……、いいか、カタジーナ。国教会から明日使いが来る。お前はほとぼりが冷めるまで、国教会で身を清くするように」

「父上?」

「おまえが……王妃などとんでもない事だ!カタジーナ。みすみす災厄の種をまくようなもの……ヘルトリング伯爵にも婚約はお前ではなくアニタになったと告げる……」

「何故です!父上!」


 父は口元を震わせた。

 その口元にあるかなしかの皺をみつけて……彼女は、ぞっとした。父を初めて汚いもののように思ってのけぞる。


「その理由がわかるようになるまで、屋敷には戻って来るな、二度とだ!」


 告げて、父は足音も高らかに立ち上がり、踵を返す。カタジーナはわなないた。


 今のは、誰だ。


 カタジーナを否定する、知らない男……。カタジーナを王妃の椅子から遠ざけ、更には伯爵夫人の椅子まで奪おうと残酷に宣告する……。父は、カタジーナにとっては神だった。美しく、正しく、カタジーナを肯定し守ってくれる、わたしの神様……、その神に否定された、カタジーナはなんだろう……。


「ひどい、ひどいわ。父上は……きっと誰かに入れ知恵されたのよ。でなければ私をあのように邪険に扱う訳がない……」


 泣き濡れたカタジーナは近くに気配を感じて顔をあげる。

 ……父と同じ顔をした、美しい幼児がきょとん、とした顔でカタジーナを見ていた。顔もみたくない、身分低い父の妾が生んだ弟だった。カタジーナは目を吊り上げ、見えない場所をつねろうとした。

 ……が、幼児はあどけない声で言った。


「あげゆ」

「――?なんですって?レシェク」

「ねーね、かなしい?これ、あげゆ」


 差し出されたのは小さな草花だった。紫のちょこんとした花が……ある、安っぽい花。それが沢山。

 弟の小さな手におさまると、花束が、まるで宝石のように見える。レシェクは、花や草が好きでよく観察しているのを知っていたが、カタジーナは思わずくすりと笑って弟を見た。


 ――久しぶりに本心から笑顔になった気がしていた。


「……やさしいのね、レシェク。私にお花をくれるの?」

「あげゆ、ねーね」

「……ありがとう、今まで貰ったどんな贈り物より嬉しいわ」


 抱きしめると弟はほのかに笑った。乳児特有のやさしいにおいが心地よい……。

 カタジーナは思った。


 ああ、ここにいる。

 老いの兆しが見える、「気難しい公爵マテウシュ」ではなく、美しくやわらかで、カタジーナを否定しない新たな神が。

 ここに。


「――いいわ、もういらない……あれはもう、私の知っている父上じゃないもの……」


 カタジーナは目を閉じた。シモン・バートリのくすくすと笑う声が聞こえる。


「君のやり方が、下手なのさ」


 ……癪だが、その通りだ。

 ならば、あの悪魔のような少年の力を借りよう。

 シモンならば面白がって、力を貸してくれるだろうから。カタジーナは涙を拭う。扉の向こうにヨアンナ……、唾棄すべき妾が生んだ妹――を、見つけた。

 カタジーナは笑いたくなる心地を抑えた。

 ヨアンナまで、心配げにこちらを見ている。

 

 母親と同じで、なんと善良なこどもたち!

 

 カタジーナが手招くと、ヨアンナはおそるおそるやってきた。いつも姉に構ってもらいたいのに、邪険にされて傷ついているのは知っていた。それなら、ここぞとばかりに甘やかしてやる。

 篭絡するのはたやすいだろう。

 ヨアンナを手招くと、ヨアンナは慰めようとしたのか彼女の持っている小汚い人形を差し出した。それを笑顔で受け取り、カタジーナはヨアンナに優しい眼差しを向けた。


「ヨアンナ。どうかお願いよ。あなたの母上を……、いいえ公爵夫人とセバスティアンを呼んで来て頂戴。わたし、お父様と喧嘩をしてしまったの」

「カタジーナお姉さまは、だから悲しいの?」

「ええ、そう。きっと父上は許して下さらない……けれど、公爵夫人とセバスティアンなら、仲直りに力をかしてくれるわ……」


 あの善良なセバスティアンは、カタジーナを見捨てる真似は決してできまい。

 そして、父は……特別に思うセバスティアンの頼みであるなら、決して断れはしないのだ。愚かな人たち。


 何をするにしろ、これからどうするにしろ、国教会に行くなどとんでもない事だ。

 それだけは阻止せねばならない。


 カタジーナは幼い弟妹を抱きしめて……懇願した。


「お願いよ、あなたたち。お姉さまは困っているの……どうか、助けてちょうだい……」


 カタジーナのもくろみ通り、セバスティアンは彼女の為に父にすがってとりなしてくれた。カタジーナは大声で笑いたい気分で、けれど用心深く目をとじて息を殺して父に反省を示す。 しばらくは、つまらないけれどセバスティアンの言う通りにして、父の監視を緩くせねばならない。

 

 美しい世界。


 カタジーナのためにつくられた世界は。

 この頃まだ、彼女に優しかった。

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