107.西より風来たる 10 ※三人称注意
三人称注意 スタニス視点。
スタニスの過去の話です。
『ほら見ろよ、餓鬼――あれがお前のご同胞だ……お前みたいな汚い餓鬼とはえらい違いだけどな』
はじめてその男をみたときの事を、スタニスは鮮明に覚えている。
望まずに北部の紛争地に飛ばされた頃、はたしてあの時自分は、十になっていたかどうか。
謀反人の父を、処刑という最悪な形で喪い、母とも引き裂かれた時、スタニス自身はヴァザの先代公爵の情けで助命され引き取られたのはいいものの……、公爵マテウシュは気まぐれな男で、拾った野良猫に名をつけると、すぐさま興味を失った。
ろくな教育も庇護も受けられぬまま、一年余りヴァザの屋敷で下働きをして過ごす。
マテウシュが病を得て亡くなると、スタニスは今度はあっさりとヴァザ家から棄てられ、軍部に引き取られた。
公爵夫人は、竜族混じりと噂のある……たとえそうは全く見えなくとも……しかも謀反人の血筋の子を、大切な二人の子供たちから遠ざけたがった。
国王の不興を買いたくなかったのだろう。
軍部は竜族の血を引くなら、さぞ優秀な兵士になるだろうと喜んで、スタニスを二つ返事で引き取った。
(別にいい、いつか逃げ出してやる……、そして母さんを探す)
そう思いながら実行に移せなかったのは、忌々しい首輪を逃亡防止のために嵌められたからだった。
下卑た声で笑う神官が枯れた声で呪を唱えるとキリキリと締め付ける、冷たい金属。
スタニスの両目は薄い茶だが、感情が昂ぶるとたまに金色に光る、らしい。
神官は面白がって、なんども少年をいたぶり、一度逆らって死ぬ目に遭わされてから、スタニスは表面上は大人しく従うことを覚えた。
当時はまだ存在していた軍の幼年学校に無理やり入学させられても、貴族の子弟と会話がかみ合う訳もなく。ヴァザの関係だと知られれば表立って排除もされず。遠巻きにされるのは気が楽だった。ある時、高位貴族の子弟から手合わせを挑まれ手加減出来ずに怪我を負わせると「それだけ腕が立つのなら、訓練など要らぬだろう」とスタニスは軍の幼年学校からも追い出された。
おぼっちゃま、はどうやら国王の覚えめでたい部下の息子だった、らしい。
教師から丁寧に半殺しの目に遭わされて、北部に行く兵を集めた馬車の幌に、襤褸のように押し込められた。
(なにも期待なんかしなければ、いい)
誰にも触られないように、傷つけられないように丸まって眠る……。眠るときだけが、優しい時間だった。
芋のように転がされ悪路を耐えて北部についた時には、教師からつけられた傷は跡形もなく治癒していた。
異常なまでに傷の治りが早いスタニスを、北部のカルディナ軍にいた酒浸りの医師崩れはさすが竜族混じりだと半笑いで褒め、お前と同類がいるぜ、と教えてくれたのだった――。
その男はどういった経緯なのかはわからないが、カルディナ軍に身を寄せている竜族だった。
見事な白髪に老人かと思えばそうではないらしい。観察をしていると、夕暮れ時の太陽の瞳がつまらなそうにスタニスを見返した。思わず、鼓動が跳ねる。
北部に住まう竜族としては珍しい褐色の肌をした彼は、国教会で見た神様の像のようにお綺麗でスタニスにはひたすら腹立たしいばかりだった。
竜族……!
だからなんだ。それがなんの役に立つ。そんな奴等、助けてくれたこともないのに同胞だなんて思うもんか。
父は半竜族を自称しながらあっけなく処刑され、スタニスはその血だけを惜しまれて首輪をはめられ、飼われている。
金色の目をした神様はスタニスを見るなり嫌そうに顔をしかめて鼻に皺を寄せ、ひとこと言った。
『なんだお前、襤褸布みたいにきたねえな』
うるさい、殺す。と口にしないまでも睨み付けると、イェンは猫の子をそうするようにスタニスの襟首をひっつかんで泉に放り投げた。
突然の事に全身の毛を逆立てて警戒するスタニスを、文字通りみぐるみはいで丸洗いする。
妙に手慣れた仕草で服を着せると、頭を力任せに布で拭いた。
痛い、と思ったけれど、スタニスは唇を引き結んで耐えた。
何かの反応を返せば、きっと悪い事が起きる。黙ってなすが儘の少年を乾かすと男は満足気に笑う。
『なんだちゃんと人間の子供に見えるじゃねえか、名前は?』
思いがけず優しく微笑まれて……息をのむ。
スタニスは、俯いた。
旅に同行していた兵士の一人がその餓鬼の名前はスタニスだよ、と男に教え……、スタニスはぶんぶんと首を振って否定した。違う、そんな名前じゃない。両親がつけてくれた名は違う。
『……ユエ』
ぽつりと、男にだけ聞こえる声で言うと、イェンは『お月様のことだな』と不似合いな可愛らしい台詞を言う。
スタニスは、おそるおそる顔をあげた。
『うん』
『いい名前だ。俺はイェン――、よろしくなユエ』
久しぶりに、誰かに名前を呼んで貰えた気がしていた。
冷たい印象なのに笑うとひどく甘い表情になる、変な奴。
それが彼への第一印象だった。
イェンはとにかく出鱈目な男だった。
竜族混じりのスタニスを面白がって吐くまで鍛えたかと思えば、逐一まじめに、やけに上手な絵で図解しつつ論理立てて戦い方を教えてくれる。
酔うと歌う。だけど調子が外れる。
博打には弱い。赤ん坊の扱いには慣れている。何にも動じず、誰にも阿らない。
気が向くと、不意に、優しく頭を撫でてくれる。
それが、くすぐったい。
(イェンが……父さんだったら、よかったのにな)
少年はふとした拍子に考え、あんなやつとんでもない!と自分の馬鹿な考えに身震いする。
でも。……、と思う。
イェンは誰が見てもかっこいいし(歌は下手だけど)、強いし。きっと『父さん』みたいに誰かに殺されたりしない。
そうしたら、少年もこんなところにいなくてよかった。母さんといられた。
……わかっている、イェンに話せば鼻で笑われる妄想だ。なのに、どこかで期待するのをやめられない。
自分はまた、失った家族を手に入れることが出来るんじゃないんだろうか……。
けれど、イェンはある日、いつものように『出かけてくる』とふらりと砂龍に乗って西の空に姿を消して……。
それきり。
彼は、北部には戻ってこなかった。
気まぐれな師と出会ってから二年が過ぎたころ、少年はまたひとりに、なった。
テラスに出ると、柵に行儀悪くもたれかけて――イェンはそこにいた。初めて彼を見てからもはや二十年以上が経過したが、その姿は全く変わらない。
「よう、馬鹿弟子」
甘い声で微笑まれ、けっ、と毒づく。
「何しに来たんです、暇人。あんたいつから西国に仕官を?」
間合いを図りながら近づくとイェンは嘯く。
「うん? 別に……ハヤルが連れて行ってってやるっていうからな、遊びに来ただけだ」
来るな、とスタニスが毒づくと、イェンは目を細めた。
「変わらんな、王都は。誰が治めても同じだ……浮かれる貴族、反目する軍部……」
やけに実感のこもった言葉に、そういえばこの男の出身は意外にも西国ではなくカルディナなのだと、そういっていたのを思い出した。忌々しい事にイェンとの会話は高確率で覚えている。
「思い出に浸るのは結構、ただ遊びに来たってわけでもないんでしょう? 何をしに来たんです」
もう一度、尋ねる。イェンははぐらかした。
「単に懐かしい故郷に遊びに来ただけだよ。……変わらないと言えば」
イェンの金色の瞳が面白そうに光る。
「……ユエ、おまえ、幾つになった? 三十半ばか?」
意外な質問に思わず「は?」と聞き返してしまい、つい反応が遅れる。イェンの手が伸びてきて、ぎょっとすると、くしゃりと髪を乱される。大昔のように。
いつかは見下ろしてやると思っていた身長差は悲しい事にあまり埋められなかった。至近距離で獣の瞳に射すくめられた。
「……とてもそうは見えないけどな、髪を降ろすと特に。少なくとも三十路過ぎには見えねえ」
「何が言いたい? 糞爺……!」
イェンは笑顔を消した。
スタニスの髪を乱した掌を降ろすと、はらりと前髪が額に落ち、どこまでも甘い声で、男は囁いた。
「――ユエ。お前いつから年を取るのを……人間を辞めた?」
「……な、にを……!」
「おまえのチンケな面に騙されて、皆気付いていないのか?――お前の気配は、シンより俺達に近い」
「……くだらない、何言って、やがる……戯言を……」
戸惑いを口にしたスタニスをイェンは鼻で笑った。
「気付いていなかったんなら、……同族の誼で忠告しておいてやる。公爵一家との家族ごっこは楽しいだろうが……そろそろ終わりにしておけ」
家族ごっこ。
悪意の有る言葉にイェンをにらむと師はどこか憐れむような視線を弟子に向ける。
「今はまだいい。十年、二十年たって、そのままの姿のお前がこの国にいたらどうなる? シンはいい。あいつには王族という看板がある。ただの人間にしか見えない――単なる兵士のお前が、不老のまま人に紛れて生きていれば、なんと呼ばれるかわかるか? 俺は知っているぞ……俺もかつてはそうだったからな」
イェンは歌うように言った。
「竜族でも人間でもない奴はな……、化け物と呼ばれるんだよ」
「……何を、馬鹿げた」
「それとも、また――神殿に飼われるか? 犬みたいに繋がれてな」
喉元に触れられそうになり、反射的に身を引く。
スタニスは何も言い返すことが出来ずに、ただ炯々と光る師の瞳を見つめ返していた。
「もう一度言う――さっさと身の振り方を考えて、王都から去れ――、俺は好意から言っているぞ、ユエ」
ふざけたことを言うな、と怒鳴りつけようとした時、軽い、足音が、した。その足音に覚えがある。
スタニスが、恐る恐る顔をあげると、そこには果たして、金色の髪をした少女がいた。
不安げに空色の瞳を揺らして、声を無くして立ち尽くしている。いつから、いたのか。どこまで聞いていたのか。なんと声をかければいいのか。
逡巡するが、喉に何かが使えて声が出ない。
(化け物――と)
イェンの言葉が甦る。
――もしも、そう、彼女やその父に呼ばれたら。
そんなことなどあり得ない、例え血の繋がりがなくても、――家族と言うのは僭越だとしても、スタニスの居場所はあの屋敷にしかない。
気難しいレシェクにどこかほのぼのとしたレミリア。あどけない弟君や、小生意気なヘンリク。ヒルダやセバスや……。
イェンは弟子の内心など全く構わずに、ことさら明るく、話を続けた。
「やあ、お嬢さん久しぶり。すっかり大きくなって」
「ご無沙汰しております、……イェン様」
レミリアは、ぎこちなく、頷く。
スタニスは、レミリアから視線を逸らして……二人を面白そうにイェンは見比べる。
「お嬢さん、さっきから聞いていたろ?」
レミリアが弾かれたように顔をあげた。薔薇色の頬に朱をにじませて首を振る。
「スタニスは、望んでここにいます。だから、どこにも行く必要なんかありません……」
震えそうな声で言うレミリアを、イェンは嗤う。
「なるほどそれは美しい言葉だ。……それで? お嬢さん、あんた後、何年生きる」
「え?」
レミリアは虚をつかれたかのようにイェンを見た。スタニスの気に入りの明るい空色が、曇る。
「五十年?もっと、か? 竜族は――三百年近くは生きるぞ。あんたが生きている間は、いいだろう。じゃあ、その後は……?」
「それ、は」
「家族ごっこは楽しいさ――だが、残される者は、地獄だ」
「……黙れ……っ」
スタニスが、低く遮り、イェンの胸倉をつかんだとき、静かな声が聞こえた。
「――何をしている」
三人の視線が集まった先、レシェクが無表情で立っていた。
動きの止まったスタニスとレミリアを片眉をあげて交互に見ると、視線で促した。
「カミラが心配していた――戻ろう」
「……お父様」
レミリアが頷く。それから、とスタニスに声をかけた。
「スタニスお前もだ。さっさと帰るぞ……主の許可なく他国の使者に喧嘩を売るな」
スタニスはイェンの胸倉から、手を放した。レシェクは二人を一瞥する。
おそらく会話を聞いていただろうに微塵の動揺もないレシェクの様子に、イェンは面白そうに公爵の背中を眺めたが無言で三人を見送った。
「……行くぞ」
公爵はイェンを一瞬視界に入れ、ゆっくりと逸らすと、二人を引き連れ王宮を後にした。




