【幕間】一つの夜の、三つの出来事(中)
カルディナの王都は五つの区に分かれている。
東西四区と中央区。貴族が好んで住むのは中央区と北区、東区はどちらかと言えば貧困層が多い地区だった。
「へい、らっしゃい。お客さん、何にしましょ?」
「――ワインを瓶で頼む。連れがいるんだが」
「ああ!先生ならあちらに――」
店の恰幅のいい主人に促されてスタニスは東区にある黒珊瑚亭の奥へと足を進めた。安い店にはよく焼けた肉の香ばしい匂いが充満している。
「亭主、この店の自慢は?」
「豚の香草焼きでさ!あとでお持ちしますね」
「そうだよな……」
「へ?」
「いや、なんでもないんだ」
黒珊瑚亭は安さと量が売りの店らしい。肉体労働に従事しているらしき屈強な男たちが大声で笑いながら化粧が濃い、服の布地は薄い女たちの肩を引き寄せながら酒を交わしている。カウンターが20席ほど、四人掛けのテーブルが十、奥に一つだけ半個室がある。
習性で、脱出経路を二つほど確認しながら半個室に入ると、男がグラスを掲げた。
「先にはじめていたよ、ごめん」
「お待たせいたしまして、先生?」
エミール・ハイトマンはグラスをテーブルに置いて微笑む。
「先生、ね。僕はそんな御大層なものじゃないけど……、そう呼ばれているのは君じゃないのか、スタニス」
「……まあな。それより、ここは魚が旨い店だって?ふざけたことを思い出させやがる」
「覚えていてくれて嬉しいよ。――元は君が適当に考えるからいけない」
スタニスが舌打ちしたときに、二人の前にデン、と肉がおかれた。
香草焼きでございぃ、とリズミカルに宣言して店員は去っていく。
「この店の名物なんだ。旨いよ」
「……貰おうか」
「海は今は凪いでいるけど、荒れ模様が予測されてね?」
エミールの言葉に、スタニスは黙ってナイフとフォークを持った。
エミールとスタニスが共に、軍部に所属していた頃、二人でカナンに潜伏する西国の諜報員を炙り出す任務に就いたことがある。
その際にスタニスは適当に符丁を決めた。
西国を海と呼び、西国側についた人間を魚と呼んで、旨い魚は諜報員の意味だ。焼き魚は関連度度が低く、煮魚は高い。何年もたって、思い出すとは思っていなかった。
――黒珊瑚亭の名物は、肉だ。
わざわざ魚の名前を出すという事は……。
ワインを手酌で注ぎ、安物の錆びた液体を喉に流し込むと胸がつかえるような感じがする。
周囲には馬鹿騒ぎをするお上品な男たち、香水の匂い、――眼前にはハイトマン。昔に戻ったような錯覚を覚える。
「それで?わざわざ俺を呼び出した理由は何だ、ハイトマン……昔話がしたいわけじゃないだろ?」
「……君の顔を見たらふいに懐かしくなって、酒が飲みたくなったのは本当だよ」
「帰るぞ」
「つれないな……、君と飲みたかったのもあるけれど……、旨い魚の事を耳にしてね」
「……魚」
口に含んだ肉は、安いなりの触感だが味付けは悪くなかった。
肉汁を香草の風味が包んで、黒胡椒が舌先に残る。味が濃いのは肉体労働従事者が客に多いからだろう。
「――魚が、カナンの近くを泳いでる、って聞いてね?」
「……またか?五年前に餌をもらって……海底に沈んだはずだ」
五年前、カルディナは西国とカナン国境をめぐって揉めた。その影響で前カミンスキ伯爵ウカシュをヴァザは失い……、ヤドヴィカを喪ったのも余波といっても過言ではないだろう。
「……、今劇場で上演している演目があって。僕が脚本を書いているんだけど」
「あー、王妃の不倫のやつね」
スタニスは気のない返事をした。あいにくとこの男が愛する観劇や物語には興味がない。
「見も蓋もないな、そのいい方。――それはいいんだ。芝居や音楽屋なんかにはね、流浪している人間も少なくない。西の海に詳しい男がいてさ」
「それで」
「――魚の群れがね、二つに分かれそうなんだ」
喧騒の中で二人の会話など聞いている人間はいないだろう。エミールはそれでも声をひそめ……ほとんど口の動きだけでしゃべった。
カルディナは四季と豊かな土壌に恵まれた大国だが、西国はそうではない。
厳しい土地柄で、弱い個体は淘汰されてきた。それは国民性にも反映されている。それは、王家の後継問題にも如実に表れている。開闢以来、穏やかに政権が移行したのは数えるほど……、多くの場合王が老いると男兄弟……果てには娘婿も加わって骨肉の争いが起こるのだ。
――敵からは奪え、そして殲滅せよ。
そう、西国の将が兵を鼓舞する大音声をスタニスは今でも思い出すことができる。
「西国の後継候補は、二人。妾腹腹の長男と、王族を母に持つ次男だ……もめそうだろう?」
「いかにもだな」
西国の王はカルディナと異なり、幾人も妻を持つのが普通だ。妻たちに求められるのは才気と美貌だけ。選ばれた娘達がハレムに入り、王の寵を競う。身分高き女性が王の妻になることはカルディナと比べると、稀だ。妻の親族が権力を掌握するのを恐れているからだというが、――あまり王族同士が婚姻することはないという。
「今の西国の王はロマンチストらしくてね?幼馴染の王族の娘を正妃として迎えた。が、後宮の妾にはすでに子がいた」
「先に他の女にも手を出しておきながら――ロマンチストと言えるのか、それは?」
「仕方ないよ、子孫を残すのは王の務め――西国ではね」
エミールはテーブルに食器をおいた。
「そろそろ、魚の親は――召される日が近いらしい、稚魚のうちひとりは功を立てたいと焦れてる……スタニス、君の主の、海がね、ほしいんだと」
「――勝手なことばかり」
「彼らにしてみれば先祖代々の土地をカルディナが奪ったと恨みが骨まで、なのさ。――不穏な動きがあるから、カナンから逃げていたと、僕におしえてくれた男は言っていた」
スタニスはワインで口内を湿らせてから、エミールの話を反芻した。
「上でも、ある程度は海の状況は掴んでいるかもしれないけれど……、君も漁場のことは詳しい方がいいだろ?」
「その男に会えるか」
「いいよ。劇場で会えるようにする――千秋楽はあの父娘が来るみたいだけど、一緒に君も来る?」
「行こう」
「夜会服来てきてよ、腹抱えて笑ってやるから」
エミールの軽口にケッ、と毒づき――スタニスは視線を逸した。肉を頬張り、ワインで流し込むと、束の間、沈黙が訪れる。カウンター近くで馬鹿笑いをする男達を見るとも無しに見て、スタニスは目を細めた。
「詰ってもいいぜ」
「――なに?」
エミールが顔をあげる。――彼を見つめ返しながら、スタニスは自嘲した。
「二度と――軍には戻らない、って大見得切って退役したくせに、のうのうと舞い戻ってよ――。キルヒナーとおまえは、俺を詰ってくれて、いい」
エミール・ハイトマンは目を丸くして――、手をテーブルの上で、組んだ。
「それなら君も僕を詰っても、いい。――君が軍を辞めるとき、自分はもうすこし足掻くと誓ったくせに、五年もたたずに辞めて、今じゃすっかり根無し草だ――」
「――そうか?」
「本当は――誰も誰かが悩み抜いて決めた決断を詰る権利なんか、ないんだよ――好きに生きて、悔いがなければ、それでいい」
スタニスは苦笑した。――青臭いのは、変わらない。スタニスはそっかと頷いてから、口の端をあげた。
「そういやなんか童話が流行らしいな?つまんなそうだけど」
エミールはこほん、と咳払いをした。ちらりとかつての同輩を窺う。
「その、――君も、読んだ?」
「うちの若君に、お嬢様が読んでやってるよ――俺は興味ないけど」
塩対応に少しばかり、がっくりとしたエミールである。
「うちの若君も、あんまり内容がわかんないみたいでさ。お嬢様が熱心に読み聞かせしてる間に寝ちゃっててさ、お嬢様が、ぷんぷん怒ってた」
「お嬢様は面白いって言ってくれたんだけどね」
「――趣味が悪いよなぁ。ちょっと変なんだ、あの子」
あんまり優しい目で言うので、エミールは安心し、同時にすこしばかり寂しいような気持ちにもなった。
記憶にあるスタニス・サウレはいつも孤独で泰然としていた。何にも動じず、何も欲しがらず、何にも関わらず――砂塵と怒号の舞う戦場で落ち着き払った彼を確認するたび、小憎らしいと思いながらも、安堵するような心地がしたものだ。
それはエミールも、死んだ他の仲間達も同じだ、きっと。エミールは憎まれ口を叩く。
「――君はあんまり見た目は変わらないけど、すっかり丸くなっちゃって。がっかりだよ」
「お前は老けた割に中身は青臭いまんまだよな、劇の内容みるかぎり」
「…………み、観てないんじゃなかったのか」
「今日の昼観た。途中で寝たけどな。歌はよかったぞ」
「――君には人の心の機微がわからないんだよ」
「不倫に繊細もくそもあるかよ」
スタニスはワインを二つのグラスにつぐとニヤリとエミールを見た。くたばれ、とお互いに悪態をつきながら、二人はようやく互いにグラスを掲げた。
「久々の再会に?」
「あんまり会いたくなかったけどな」
乾杯、と揃えた声は案の定、安酒場にたむろう男たちの笑い声に掻き消された。
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