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「いつもの『彼」の秘めたるもの』

作者: 極月シンヤ

 前作に関しての謝罪とお詫びを――

 満足な推敲もせず、当時の自分でさえ納得のいかない作品を出してしまった事を、深くお詫び申し上げます。

 ジャンルは前作以前と変わらぬものですが、心を入れ替えて執筆しましたので、今後ともよろしくお願いします。

「――勇志! 早く飲み物買ってきてよ。このままじゃ、いつになってもお昼ご飯食べられないじゃない! どれだけ鈍いのよアンタは!」

 高槻有紗たかつき ありさは隣の座席に座る優男に、荒々しく言葉を投げつける。遠慮も何もない言葉。私を初見する人達にはきっと、悪いイメージしか湧かないだろう。

 だが、そんな言葉を投げつけられた優男――神砂勇志かみさご ゆうじは気にも留めていない様で、くちごたえもせず淡い笑みを浮かべて席を立つ。

 漆黒の髪を短めに切りそろえた彼は、身長もそれなりに高く体躯も引き締まっている。故に美形といえば美形。

 だが、頼りないそのオーラが全てを台無しにしている。

「――あぁ、悪い。今行ってくる」

 それじゃぁ、と手を挙げて教室を出て行く勇志。その姿は正に『ご主人様に従順な犬』と言っても過言ではない。

「有紗って良いわよね〜、あんな使い勝手の良いワンコがいるんだから」

「そうそう。食費も何にもかからないのに、やりたい放題なんだから。私も――って言うより、一家に一人欲しいかも」

「あははっ、確かにその通りかもね〜」

 私と一緒に昼食を食べようとしていたクラスメイト。皆が皆口を揃えて勇志に向かって嘲笑しながら馬鹿にし、私を羨ましがる。


 ――そんな何も知らない彼女達を、私はいつも心の底から疎ましく思う。


 勇志にこうやって命令する度に湧き上がる様々な感情。私自身では制御できない、矛盾など関係なく無差別に私の心を侵食するこの思い――途方も無い怒り。

 私なんかの命令にいつも従う勇志。そんな彼の媚びへつらうような態度がいつも私の気に触る。

 私に見下されているにも関わらず、何にも感じていないようなヘラヘラとした笑み。そんな何気ない身振りですら、私の感情を逆撫でる。

 そんな態度を取っているのだから、こんな女共にも見下される。ざまぁみろって事。

 既に立ち去ってしまった勇志の姿を追うように、開かれたままのドアに目を細めて視線を送る。

 昔のように、彼の背中が――存在が大きいと感じる事は無くなってしまった。今はもう、私にとって寂しい位にちっぽけで、情けない存在。


 ――昔は、あんな風じゃなかったのに……

 自分でも未練がましいと思う。でも、勇志にはいつまでもそうあって欲しいと心の底から願ったのだ。

 ――間違った事、曲がった事を良しとせず、体を張ってでも正しい方向へと突き進む。そんな姿のままで。

 中学生時代、クラスメイト全員のイジメからたった一人で私を救ってくれた、カッコイイ男の子のままで――

 そんな姿に憧れた。イジメられて、抵抗を示す事無く、クラスメイトから良い様にされっぱなしの私だったから。

 大多数相手でも怯まず、臆さず立ち向かう男の子の姿が目にも胸に焼きついた。

 そんな姿と彼の強い心に引かれ、いつの間にか私は、神砂勇志という男の子に恋焦がれた。


 ――だが、カッコイイ男の子はもう居ない。居るのは、昔の私と同じように都合の良い様に使われる情け無い犬一匹。

 だから私は腹が立つ。彼にはそんな姿は似合わない。主人に従うなんて持っての他。彼は誰も手綱を握らせず、自分が思う正しい道を行くべきだ。

 私の命令なんて跳ね除けて、我が道を行って欲しい。私の自分勝手さを注意し、正しい方向へと導いて欲しい。そんな思いが強まって、彼に対してはいつも強い口調になる。いつも遣いぱしってしまう。

 ……だが、彼は私の思いを無視して従順であり続ける。そんな姿は見たくないのに、そんな姿は望んでいないのに。


 気付けば、心の中は勇志に対する不満だらけ。

 だが、それと同時に私自身への不満も沸き起こる。

 昔の勇志を思うあまり、辛く当たってしまう私。

 彼の情けなさが目に余り耐えられないなら、直接言えば良い。「そんな情けない姿見せないで」って素直に言えば。

 ――なのに、いつになっても素直に私の気持ちを伝える事が出来ない。関係もわらないまま。

 勇志も悪いかもしれないが、ハッキリ言わない私も悪い。なのに、自身の欠点は棚に上げて、思い描くのは彼の不満ばかり。


 ――今の勇志と同じ位、こんな私が嫌い。素直になれない自分が、思いを直接勇志に伝えられない、意気地なしの自分が――



「ちょっと有紗――言い過ぎた私達が悪かったから、そんなコワイ顔しないでよぉ〜」

「……えっ? そんなイキナリ謝られても困るんだけどー―私、そんなコワイ顔してた?」

 気が付くと、申し訳なさげに笑みを浮かべる周りのクラスメイト。

 その中心に置かれていた私には、一体全体なんの事なのか全くわからない。

 とりあえず、自分がどのような表情を作っていたのかを確かめたくて、頬に両手を当てるが何が分かる訳でも無い。

「有紗は分かってないかも知れないけど、まぁ〜た表情に出てたわよ? もう、『目の前のコイツ等、全員ブッ飛ばす――』って解釈しても良い位の形相。女の子なんだから、あんな顔男の子の前でしたらダメだかんね?」

 その言葉に釣られて、皆があっけらかんとした笑みを溢す。

 冗談めかしているのは明らか。だが、どこか目は笑っていない気がするのは――気のせいじゃないかもしれない。

「ぁ〜…………私、ちょっとトイレ行って来る。ついでに、帰ってくるのがおっそい勇志のヤツも捕まえてくるね」

 私は皆に手を振り、脱兎の如くその場から立ち去る。私が原因で作り出してしまったあの空気の中に身を投じるのは、さすがに精神衛生上互いに避けなければならないだろう。

 ――でも、そろそろこの癖も直さないといけないよね。……って、そう簡単に直らないから癖なんだろうけどさ――

 いつでもどこでも、思っている事を表情に出してしまう私の癖。

 そのお陰で「一生泥棒にはなれないね」とか「馬鹿正直」とか「有紗は絶対苦労する」とか銘打たれ、情けのおまけまで付けられてしまっている。

 ――真剣に、誰かこの癖の療法を知っていたら教えて欲しい。


 私は逃げるようにして教室を飛び出した勢いのまま、パン販売を行っている購買までの道のりを闊歩する。

 せわしなく視線を巡らせ、勇志の姿を探すがどこにもその姿は見当たらない。

 一年生の教室前廊下、一階から購買がある三階へ繋がる階段、購買へ向かう為の廊下――そして、購買の前。

 すでに混雑する時間帯は終わったのか、購買の前に居る生徒は少なく見慣れた人物を見落とすようなことはありえない。なのに、思い描く人は見当たらない。

「――勇志のヤツ、私のお使いほっぽリ出して何処うろついてんのかしら」

 確認の為、もう一度周囲を見渡すもひょっこり都合よく現れる訳でもなく結果は同じ。

 折角探しにきてやったのに、見つからない。いつもはヘラヘラと私の言いなりになっている癖に、こんな時だけ私の意図に逆らう。

 コレは完全な私の被害妄想。自己中心的な私の当てつけ。

 だが、その事実が無性に腹立たしく、理不尽極まり無い事だが勇志の事を怒鳴りつけたくなってくる。

 みつけたら、タダじゃ置かない――私は彷徨わせる視線を鋭く尖らせながらもUターン。

 振りまく敵意の篭った視線がすれ違う生徒達とぶつかるが気にしない。

上級生であろうが無かろうが、今の私は虫の居所が非常に悪い。突っかかってくるなら大歓迎。――むしろ私は受けて立ちたい。

 そんな気持ちが伝わったのか、目があった生徒達は一同に顔を背け廊下の隅に寄っていく。

 そのお陰で私は王様のように廊下のど真ん中を悠々と歩く事が出来たのだが、今の私はそれを心地よいと感じることができず、怒りのボルテージは上がり続けるばかり。


 ――何故、周りの皆は私を注意しないのか。こんな、誰彼構わず当たり散らすなんて理不尽極まりない事なのに。それなのに、何故皆はそれを正そうとせず、見てみぬ振りを決め込むのか――


 今の私はメチャクチャだって理解している。しかし、直そうとしないし、悪びれてもいない。

 今の私は行動も思想も矛盾だらけ。だが、すれ違い見てみぬ振りする生徒達とダブってしまうのだ。私の理不尽を頼りない笑みで受け止め、黙認し、苦言も無く従う彼に――

 怒りを顕著に示しながら廊下を歩き、二階へと降りる階段に差し掛かる。

 その時、不意に男の声が複数耳に入る。

『――オイ! パン買ってくんのにどんだけ時間掛かってんだよ!』

 苛立ちのこもった荒い声色、それに連なって響いた鈍い音。それらが響いてくるのは屋上へと続く階段の先。

『ゴホッ――ご、ごめんなさい。でも、コレだけ量があるとどうしても遅くなってしまって』

 咳き込みながらも自身を弁護するが、その声を打ち消すようにさらに鈍い音――恐らく打撃音が私の鼓膜を打つ。

 友人同士が仲良く楽しくお食事を。そんな雰囲気でないのは明らか。高確率で『大多数が一人をいたぶる』そんな、見ていて怒りしか覚えない最低なショーが開催されているだろう。

 こんなところにも、相手の意図を解さない輩がのさばっている。

 そんな奴等が許せない、気に食わない、のさばらせて置けない、どうしようもないくらいに邪魔。

 心の内に渦巻いていた怒り。その矛先は一つに纏り研ぎ澄まされ、上へと伸びる階段の先に向けられる。

 私は降りようと踏み出していた踵を返し、上りの階段へ足をかける。

 感情が突き動かすまま、抗う事など考えもせずに一歩、また一歩と上る。

「おい有紗、何処行くつもりだ!」

 不意に私は手首を掴まれ、呼び止められる。私は突然の事に驚きながらも、目を見開きその方向へと振り返る。

 その視線の先に居たのは、私が探していた男の姿。勇志はコンビニ袋を片手に持ち、訝しげな表情で私を見上げる。

「ほら、これが頼まれた物。その中に俺の昼食も入ってるから落とすなよ?」

 私は強引にそのコンビニ袋を握らされ、彼の手によって強引に階段から引きずり下ろされる。

「――ちょっと、待ちなさいよ勇志!」

 階段を下り、各教室に面した廊下に出たところで勇志の手を振りほどいて彼を睨みつける。

 勇志は私の視線を臆する事無く堂々と受け止め、立ちはだかる。私に絶対服従するようになって、始めてみる態度。始めてみる険しい表情。

 そんな表情が私の激情を煽りたて、感情の高ぶりと共に声も荒々しくなる。

「勇志、貴方には階段の上で何が起こっているのか、想像付くでしょう?」

 何が起こっているのかを想像し、昔の私が脳裏に浮かび上がる。

 人を傷つける事に何のためらいも無い大勢の人。その輪の中に一人うずくまる私。

 誰も助けてくれない絶望感。先生ですら目を背ける失望感。暗闇に一人放置された時のような孤独感。友情など一時の幻想だと思い知らされた時の喪失感。

 それらの思い出が私の心を覆い、理性を打ち砕く。許せない怒りに任せて握りこまれた拳が打ち震える。

「しらばっくれたりしないで答えて。なんでそれを止めようとしないの? なんで止めに行こうとする私を止めるの?」

 『階段の上で起こっている事から目を逸らす』それは、昔の私を見捨てているようで、私には我慢できなかった。

 『止めに行こうとする私を止める』それは、私を救ってくれた勇志の行動が間違っていると断言されているようで、絶対に許せなかった。

 それに何より、イジメられていた私から目を逸らさず、誰に止められても救いの手をさし伸ばしてくれた勇志。だからこそ、彼にそんな行動を取ってほしくなかった。

 どれだけ私に従順になったとしても、どれだけ情けない姿をさらす様になったとしても。根底の部分では昔と変わっていないと、信じ続けたかったから――

 私の怒声を受け止めて尚、勇志は冷静な視線のまま私を見据え、物静かに言葉を紡ぐ――

「それほど難しい答えじゃない。――無駄な争いに首を突っ込むなんて、どうしようもない馬鹿がすること。ただ、それだけだ」


 …………なんだ、それは――


 勇志がどんなに変わってしまっても、私は心の底、奥深くで信じていた。

 なのに、なんなのだその答えは! 無駄な争い? 馬鹿がすること? 私はそんな言葉を待っていたわけでは無い。そんな言葉を吐かせる為に、辛く当たっていた訳では無い。それなのに、それなのに!

 血が沸騰したかのように体中が熱くなる。

 それを押さえつけるように全身の筋肉を緊張させるが、私を突き動かそうとする衝動は抑えきれず、体が小刻みに震えだす。

 煮えたぎる血液が全身を巡り、気持ちが高ぶり、それら全てがピークに達したその瞬間。私と勇志の間で乾いた音が鳴り響く。

 私の気持ちを乗せた平手が、勇志の頬を打ち抜く。

 信じていた勇志からの答えは、私の信頼を打ち砕き、心の中で描いていた彼の人間像を見事に瓦解していく。

 そして、瓦礫と化した人間像から一種類の感情が生まれてくる。

それは、あまりに情けなく、あまりに許しがたい言葉を平気で吐く勇志への途方も無い憤り。

 私に打たれても、何も文句を吐かない彼。自分の意見を訂正するような言動も見せず、ただ沈黙する彼。

 私はその場にコンビニ袋を叩きつけ、背を向けそのまま歩き出す。

 叩いた感触、喧騒の中であっても鮮明に聞こえたその音が、いつまでも体の中に残っていた。

 その行為に私は罪悪感も後悔も全く沸いてこない。むしろこれで見切りがついた。

そう、これで何も思い悩む事は無い。心の中にはもう何も無い――はずだった。



 何かの呪文を唱えるような抑揚の無い先生の声色が響く教室。そんな中私は視線を泳がせて、ある一点を注視する。

 昼休みも終わり授業が始まっても、優男が座る隣の席は開いたまま。いつも見ていた男の姿は見られず、授業をサボるような性格では無いアイツはいつまで経っても現れない。

 ソイツが何処へ行ったのか、何をしているのか、何がしたいのか、何を思っているのか。私には分からないし、知る由も無いし、知りたいとも思わないし、もうどうでもいい。

 心の中は空虚。だが、そうであるが為に、何処からか湧き上がった感情はその空っぽの心の中に流れ込む。勇志が放った言葉と、彼に対する思いの数々が溢れかえり、私の心を蹂躙する。

 イジメを止めるのは『馬鹿がすること』そんな人として情けない言葉を放った勇志も気に食わない。だがそれ以上に、そんな彼を思っていた私自身の愚直さが、どうしようもなく腹立たしい。

 『イジメの現場に遭遇しても、見捨てろ』そんな風な言葉を口にする人間を、今まで信じてきたのか――そんな私の馬鹿さ加減に呆れてしまう。

 自分の歩んだ道筋を容易く間違いと切り捨てる人間に、今まで憧れていたのか――そんな私の盲目さが情けなくなってくる。

 簡単に人を見捨てる人間に、今まで恋心を抱いていたのか――そんな私の愚かさに、憤りを通り越して笑いが込み上げる。

 笑い話にもならない、教訓譚にもならない、言葉として残すのも、勿論文章として残すのもためらわれる、今思い描くこの不様な感情。


 ――だが、同時にふと思う。『今』の感情ではなく、『今まで』の感情であったのならどうだろう――


 アイツとの衝撃的な出会いから今までの道筋を綴った自伝。

 もしもそれらを綴るとするなら、きっと今思い描いた『自身の侮蔑』など取るに足らない小さな物。

 だって、こんな思いよりもアイツ――勇志への言葉に出来ないほどの感謝と、頭を下げずには居られないほどの謝辞と、捻くれてしまった勇志への侮蔑と、少なくとも私は神砂勇志という人間と過ごした、どうしようもなく楽しかった時間。それらを綴る事で自伝の大多数を占めてしまう。

 そう、いくら心を空っぽにしたところで、私はいつでも勇志の事を考えている。

 その考えた事が彼に上手く伝わっているのかと問われれば、苦笑いを浮かべる事しか出来ないが、結果が私の全てを表しているわけでは無い。


 それに、私が結果を出すにはまだ早すぎる。

 自身の考えを言葉にする過程で、自動的に皮肉へと変換してしまう私。こんな捻くれた性格のお陰で、素直に私の本心をぶつけた事なんて無きに等しい。

 ――まぁ、昼休みの激昂は確かに私の本心だったけど、あんなのはノーカウント。アレはただのみっともない八つ当たり。いつも言おうとしている事に近いようでいて、はるかに遠い。


 私の視線は未だに空席を捉えたまま。

 だが、ただ呆然と眺めているという訳では無い。

 今まで伝えられなかった意思と言葉。そして、出会った時から抱いていたこの思い。

 それらを全て彼にぶつける決意がこの胸にこめられる。だがこれは、彼と私の間に生まれた物語を閉幕させる為の決意ではない。

 少なくとも私はそう思うし、そう判断している。

 閉幕には――ここで結果を出すには、いくらなんでも早すぎる。



 そんな決意をした五限目の授業だったが、私と勇志が話す機会は放課後となった今でも訪れることはなかった。

 五、六限目と、結局姿を見せなかった勇志。ホームルームが終わり、クラスメイト皆が居なくなってしまった今でも私の隣に戻ってくる事なく、彼の鞄は机の隣に立てかけられたまま。

 『伝えるのは明日でも良いか』そんな感情も浮かんでくるが、私は瞬時に黙殺。こんな決意、捻くれた私の感情からそう簡単に引き出せる物では無い。明日になってしまえば、この決意が薄れてうやむやになってしまうのは明らか。

「本当に、勇志のヤツどうしたんだろ……」

 私は自分の机を抱きかかえるようにしてうつ伏せになり、ぼぉっと窓の外を眺める。五限目から決意を胸に気を張っていた為か、既に精神面の電池が切れかけ口を半開きにして放心状態に陥りかける。

「――有紗、こんな時間までなにやってるんだ?」

 ガラガラと教室の戸を開ける音と共に、聞きなれた声が私の耳に飛び込んでくる。

 その声が私の起動スイッチとなり、緩みきっていた心も一新。背筋をピンと張り勢い良く勇志の方向へと振り向く。

 だが、目に映った勇志の姿に唖然とし、頭が真っ白になって息が詰まる。

「……勇志――その怪我、どうしたの?」

 勇志の頬に張られたガーゼに絆創膏、ブレザーの袖から覗く手首に巻かれた包帯。自分の席に戻りたいのだろうが、勇志の歩みはぎこちなく、足もどちらかを痛めているのは明らか。

 先ほどのまで抱いていた決意など霧散し、彼の容態に心は奪われてしまう。

 どうしたのだろうか、つまづいて転んだ位じゃあんな怪我にはならない。階段から派手に落ちてしまったのか、それとも、野球かサッカーを人達がボールで窓ガラスを割り、その破片を直に浴びてしまったのか。それとも――

 次々と湧き上がる不安要素に心が痛む。だが、勇志は私の心情を汲んではくれない。

「別に、ただ俺が馬鹿なことやっちまっただけだ。有紗には関係ない事だから気にするな」

「そ、そりゃあ私には関係ないかもしれないけど、そんな言い方しなくても良いでしょう? 一応は心配してるんだから、ちょっと位説明があっても良いじゃない」

「……すまない。こればっかりは、有紗に説明できない。したくない。だから、何も聞かずに今日は帰ってくれ」

 勇志の言葉に、私は息を詰まらせてしまう。

 『有紗には関係ない』と突き放しておきながら、懇願するような表情を浮かべる勇志。その表情が『これ以上俺の事情に関わるな』と言っているようで、私の事を軽蔑しているようで。

「なによ、それ――」

 心を覆うのは長年付き合ってきたのに相手もしてくれない悲しみ。自分は勇志の話を聞いてあげる事もできない存在なのだと、打ちひしがれる。

 ただひたすらに悔しかった。なにも出来ない、勇志から素直に話を聞かせてもらうことも出来ない、頼りないだけで役立たずの、ただ捻くれて、減らず口叩いて、本心を語れずに居る、大切な一歩がいつまでも踏み出せないでいる臆病者の自分が――

「関係ないって、私に説明できないって――なんなのよ、その言い方!」

 その時、私の中で何かが吹っ切れた。込み上げる悲しみと、漏れかける嗚咽と弱音の変わりになって吐き出される荒れ狂った言葉。

「いつもは私の命令に情けないほど従順なクセして、こんな時だけそんな態度取らないで! 私に隠し事なんて、気に食わないの。分かったら、さっさと白状して!」

 それは完全なる逆ギレ。だが、勇志はそれを指摘する事無く、無言のまま私を見据える。

 何の感情も見せない余裕を持った態度。私を値踏みしているようなその双眸に、負けじと目を尖らせ歯を食いしばる。

「……念を押して言うが、これはお前とは無関係の話だ。俺が勝手に突っ走って、勝手に馬鹿なことやって、勝手にこんな怪我したってだけの話――」

 根負けしたのか、勇志は少しばかり肩の力を抜いて口を開く。

 言い聞かせるような口調、少々自虐的な感はあったが、私はそんな前口上など聞く耳持たず、本題に入るよう無言で促した。

「昼休み、屋上の方で上級生が溜まってただろ? 一人の下級生捕まえて、パシらせて、殴って蹴って、やりたい放題してたヤツ等」

 そいつ等の事を思い出し、私は顔を歪めて思わず拳に力が入る。

 何年か前の私と、私を取り巻く状況とダブらせたあの瞬間の感情。私を助けてくれた勇志はもう居ないと決定付けられた――目の前の男に絶望した、あの瞬間。

 あの時の煮えたぎるような、私の心を蹂躙するような、真っ黒でドロドロした感情。それが再び私の心に渦巻き、その激情がそのまま視線に注がれた瞬間――


「この怪我は、あいつ等が気に食わなくて、情けない事しているのを見てられなくて――上級生何人か相手に大喧嘩した時に負った怪我だよ」


 言い聞かせるでもなく、怒鳴りつけるでもなく、諭すでもなく、同情を引くでもなく。ただ、淡々と事実を呟く勇志の言葉。

 感情のこもっていない、単なる五十音の組み合わせ。だが、私の心を打つのに、振るわせるのには十分なその言葉。

「な、なんで――私があいつ等を止めに行こうとした時言ったでしょ? 『無駄な争いに首を突っ込むなんて、どうしようもない馬鹿がすること』だって。なのに、なのになんで助けたりなんかしたの?」

 それは、私を失望させた、絶望させた勇志が紡いだ決定打。だが、勇志は何も気にする事無く淡い笑みを浮かべ、照れ隠しのつもりか人差し指で頬を書く。

「――まぁ、アレだ。俺はその『どうしようも無い馬鹿』だったってだけだろ? 中学生の頃、有紗がイジメられてる時に首を突っ込んだのと同じでさ」

 私は思わず息を呑み、湧き上がる嬉しさに胸が一杯になる。

 勇志は、私が思っているような情け無いヤツじゃなかった。私に従順になっていたとしても、クラスメイトに馬鹿にされていたとしても、根っこの部分では変わらない。私の憧れた、心奪われた、男の子のまま。あの時の、カッコイイ勇志のまま。

 高ぶり、最高潮となった私の気持ち。今なら、何の抵抗も無く、ただありのまま、素直なままに伝えられると思う。授業中決意した事。何年もの間、心の中に留めておいた私の気持ち――

 何の抵抗も無く私の口から言葉が紡ぎだされる。何のよどみも無く、言葉に詰まる事無く。

――それこそ、いつもの主従関係と変わらぬまま――


「ホンットに、勇志は馬鹿だね。あぁ、馬鹿さ加減だと心配してた私の方が上になっちゃうか。でも、他人の事件に首を突っ込んで、大喧嘩して、そんな無駄な怪我して、上級生に目付けられて。中学生の頃と何も変わらないって言うのも、問題なんじゃない?」


 私の喉から紡ぎだされた声は人を小ばかにしたような明るさを秘め、口元は相手を嘲笑うかのように釣りあがり歪む。

 その瞬間、「え?」と私自ら声をこぼして心の中に疑問符が浮かぶ。

 ……今のは、私が言ったのだろうか――そんな、心にも無い、デタラメな言葉を。

 だが、耳にした声色は紛れも無く私の声。確かに私は目の前に立つ優男を罵倒した。

 私の意図がなんであろうと、侮蔑した。侮辱した。軽蔑した。それは、日常茶飯事で私達の間に交わされていた、主従関係を表していた口調と言葉。

 その事実に気付いた瞬間、私の息が詰まり、冷水を叩きつけられたかのように体が、心が冷たくなる。

 私の意志が切り離されたかのように、口からは言葉の刃が紡がれ勇志の心を確実に裂いていく。

 まさに心外。だが、言い放たれた声は引っ込める事は出来ないし、無に返す事も出来はしない。確かに私の言葉は勇志に伝わり、理解されてしまったのだから。

 それを示すように、勇志の表情から笑みは消え、浮かんでいるのは深い悲しみ。眉間に皺をよせ、ただただ何かに耐えるよう目は伏せられてしまう。

「あれ、そんな寂しそうな顔してどうしたの? ……もしかして、勇志の気持ちに同調するとでも思った? 私が感謝するとでも思った? アハハッ、そんなのあるわけ無いじゃない」

 そんな勇志の気持ちなど、私の気持ちなど、お構い無しに紡がれる無情な数々の言葉。

 容赦なく降り注ぐ罵倒の中、不意に勇志の瞳が見開かれる。

「――やっぱり、有紗は有紗だな。俺なんかじゃ、変える事もできないか」

 勇志の瞳の奥に秘められた色。それは私の言葉に触発された怒りでも、憤りでも無く、内に秘められた侮蔑でも、軽蔑でもない――それは先が見えないほど深く濁った自責の念。

 その瞳を隠すように目を細めて微笑む勇志。だが、喜びなど浮かぶ訳もなく、見ているこちらが痛々しくなる自傷的な笑み。

 怪我した手で鞄を持ち、手を上げて「――またな」と背を向ける勇志。

 彼の背を見ているだけで、心が握りつぶされたように痛い。悲鳴を上げたくなるほど、見っとも無く泣き叫びたくなるほど、私の感情は荒れ狂う。

 だが、私にできた事といえば、痛みを和らげようとただ顔を俯かせただけ。


 ――私は、こんな結末を望んでは居なかった。

 こんな辛そうな、儚く散ってしまいそうな、今にも死んでしまいそうな、そんな勇志の笑みを見たくて、こんな態度を取っていたわけじゃない。

 勇志にあの時のような強さを取り戻して欲しいって思って。でもそれは、自分の勘違いで、根っこの部分では何も変わらず、強いままで居てくれて。私の悩みは全部解決。全てが丸く収まって、嘘の自分を出さずにいれるハッピーエンドを迎えるはずだったのに――

 なのに、なんでこんな、こんなどうしようもない事を言ってしまう! あんな言葉、言いたかった訳じゃないのに! こんな表情、勇志に向けたくなかったのに! ――本当に伝えたかった言葉は、もっと他にあるのに!


 私は勢い良く俯いていた顔をあげ、開かれた視線は憧れの背中を追う――

「――違うっ! 勇志、本当は違うの! 私は、そんな事を言いたいんじゃない!」

 咄嗟に勇志の開いている手を掴み、力強く引き止める。彼は私の声に、行動に驚いたのか目を丸くして振り向いてくれる。

 私の強い後悔、どうしようもない位につのった沢山の思い。ずっと吐き出せずに居た言葉は、理性とか、建前とか、立場とか、これまでの態度とかそんな下らないものを全て蹴散らして口を突く。

「私は、とっても嬉しかった。勇志が私を助けてくれた時と変わらずに居てくれて。そりゃ、私に言いなりで、従順な犬みたいで、目も当てられない位に情けない姿で、あの時の面影も無いくらい頼りなく見えたけど。

 ――だけど! 心の中は相変わらず強くて、カッコ良くて、曲がった事が嫌いで、困っている人が居れば、赤の他人にでもためらわずに手をさし伸ばせる優しさがあって――あの頃と、何にも変わらない。私がずっと、ずうぅっっっっと憧れていた勇志。いつも私の傍にいてくれた、世界一優しい勇志」

 私は、勇志の手を優しく両手で握りなおす。私を優しげな表情で見てくれている勇志。今度こそ私の気持ちを伝える為に、わずかに息を吸い込む。


「――私は、そんな勇志の事が大好きです」


 その言葉に嘘は無く、偽りも無く、罵詈雑言も無い、本当の真っ直ぐな私の気持ち。

 私と勇志の二人しか居ない教室に、私の声が響き渡る。

 今まで片思いだった、ずっと伝えられずに居た、何年か越しの告白。やっと伝えられた、この思い。

 私の告白を静かに聞いてくれていた勇志は、小さく息をついて鞄を近くの机の上に放る。

「ありがとう。俺も有紗の事、中学生だった頃からずっと好きだよ」

 勇志の暖かな言葉、私の気持ちを受け止め、さらに最高の形で帰ってきた告白。

 私の事が好き。そうやって言葉で表すだけでなく、勇志は開いた掌で私の頭を優しく、柔らかく、愛おしむように撫でてくれる。

 私はその心地よさに頬が緩み、身を任せようと――

「って勇志、ちょっと待って!」

 私は跳ねるように勇志の掌から抜け出し、一歩分の距離を置く。

「私って、勇志に酷い事沢山言ったよね? 生意気にも命令したり、罵倒したり、減らず口叩いたり、小ばかにしたり。それに今日の昼休みなんて、私の勘違いで思いっきり勇志をぶっちゃった。なのに、酷い事され続けてきた勇志は、私の事を好きなんていえるの?」

 それは、聞かなくても良かった事なのかもしれない。掘り返さなくてもいいことなのかもしれない。

 でも、私が勇志にした事が明らかな罪ならば、それをきちんと謝罪なり贖罪なりしないといけない。私が勇志にした仕打ちをないがしろにして、日々の生活へ戻ってしまっては、絶対に後ろめたさが残ってしまうと思う。だから今、ハッキリさせておきたかった。

 だが、勇志は私の真剣な思いを打ち砕くように、苦笑を浮かべて肩をすくめる。

「あのなぁ、有紗がいつも俺に叩きつけてる言葉の羅列じゃ、これっぽっちも怒ったりしない。そりゃ、完全に間違った事なら怒って口答えするだろうが、今有紗が言ったようなヤツなんかは気にしないし、根に持たない――ってか、根にもてない、かな」

 「それは、なんで?」と首を傾げる私だったが、勇志はもう呆れ返ってしまったのか、苦笑を硬直させてしまっている。

「……いつも有紗が俺を罵倒する時、どんな表情で居るのかわかってるのか? 口では俺を罵ってるくせに、いつも申し訳なさそうな、自分を責めるような、悔しそうな、悲しそうな、そんな顔してるんだぞ? 見てるこっちが痛いくらいの顔してるんだ。そんなヤツを俺は責めれないし、怒れるわけがない――まぁ、素直になってくれないってのは少し寂しかったが、そんな事じゃぁ俺の気持ちは揺るがない」

 勇志の言葉に、私の頬が熱くなり、冷える訳でも隠せるわけでもないが両手で覆う。

 私が本来の勇志を取り戻そうと、反発を誘うような悪口を意図的に叩いていたのに。その意図的であり心外なところを自ら披露して、後ろめたさを相手に与えてしまっては、何にもならないではないか。

 自身が持つクセを今一度呪いながら、恥ずかしさの勢いに任せて自暴自棄気味に、勇志に今一度問う。

「もう分かった! 私が捻くれてて、どうしようもなく馬鹿で、これっぽっちも素直じゃないって事がよく分かりました! ――でも、勇志はそんな私でいいの? 私なんかじゃなくて、素直で、おしとやかで、可愛い女の子の方が良いんじゃないの?」

「有紗が捻くれてたって、どうなったって、俺は変わらず好きでいる。――俺としては有紗くらい元気が良い方が好きだし、それに……お前は十分に可愛いよ」


 即答。変わらぬ返事。そして、私への賞賛と照れ笑い。

 そんな勇志の笑みに、私も思わず笑みを溢す。

 やっと伝える事ができた本心、通じ合う事ができた気持ち。私はそれらの幸運と、幸福と、喜びと、嬉しさに任せていつもの様に減らず口。

 だが、表情はその感情のままに笑みを浮かべ、私は恥ずかしいながらも勇志の手を握ってそっと身を寄せる。

 教室を、私達を照らすのはオレンジ色に輝き始めた沈み行く太陽。その光はとても優しく、暖かく、まるで成就した二人の恋を祝福してくれているようだった。


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