35限目 賭けに負けたので、生きていません
前回のあらすじ:ヒナ死亡(久々)
雨の降る中の、告別式会場。
その男が姿を見せたことによって、一同はざわめいた。
一ツ橋虎次郎。
ネクタイも締めていない彼の姿は、ひどく場違いだった。
憔悴し切った様子の凛子が虎次郎を迎える。
あれから数日も経っていないのに。
彼女の目元には涙の跡があった。
「虎……」
「……チッ」
虎次郎は視線を落とすと、舌打ちをした。
やはり来るべきではなかった、という顔をしている。
その態度を傍から出てきた男が見咎める。
虎次郎の兄、樹だ。
「来てくれたんだね。虎次郎」
「……てめーらがゴチャゴチャうるせーからだよ」
「ちょっと、そんな言い方――」
許してはおけなかった。
自分たちの目の前で、同い年の少女が死んだというのに。
凛子が声を荒げながら虎次郎に掴みかかろうとしたその時――。
樹が腰をひねり、虎次郎の頬に思いっきり拳を叩き込んだのだ。
思わず息を止める凛子。
樹がそんなに我慢をしていただなんて、まったく気づかなかった。
虎次郎は受け身も取れずに無様に床を転がった。
樹は手の甲を押さえながら、なにも言わずに彼を見下ろしている。
「……っなにすんだッ!」
火に油を注ぐように一瞬で燃え上がる虎次郎。
虎次郎はそのまま兄に殴りかかる。
「オレのせいだっつーのか!? テメェも、オレが、オレがやったって!?」
「……ぼくは、そうは思っていないよ。
でもきっと、ぼくだけだろうね。
お前の今の姿を見れば、誰だってそう思う」
「――ッ、てめぇ……!」
少年は教師の横っ面をブン殴る。
樹は虎次郎のその一発を甘んじて身に浴びたように、凛子には思えた。
続く虎次郎の拳を悠々と避けて、樹は再び彼を殴りつける。
壮絶な兄弟の殴り合いだ。しかもその片方は教師である。
これが問題にならないはずがない。間に入ったのはやはり凛子だ。
「もうやめてよ!
樹お兄ちゃん! 虎ちゃん!」
ふたりの剣幕に負けじと声を張る。もうたくさんだ。
彼女はさらに涙を流しながら、樹に組みつく。
「やめてよ、お願いだから……
そんなの、いやだよ……!」
しかし樹はそんな凛子を振り払う。
彼の怒りは、その程度では収まらないようだ。
虎次郎はひどく悔しそうで、悲しそうで、
それらがないまぜになった複雑な想いを、全て憤怒で覆い隠しているようだ。
血相を変えてやってきた優斗とヒナの父親が、虎次郎と樹を羽交い絞めにする。
それでもまだ、兄弟は深く互いを憎み合うような形相をしていた。
「テメェ!」
「虎次郎……!」
樹は教え子の死を通じて、虎次郎へのこれまでの思いの丈を。
虎次郎もまた、自らと樹の間に深く横たわる溝を再確認する儀式が、行なわれていた。
どちらも、本当にヒナのことを思いやっているのではない。
あの少女は、この兄弟の仲をより引き裂くための触媒に過ぎなかったのだ。
そのことに気づいた凛子は、やはりさめざめと涙を流してしまう。
「……ヒナ、ごめんね……
こんなの……いやだよね……ごめんね……」
ひと目もはばからず泣く凛子。
ヒナがあまりにも不憫で、可哀想で。
自分をかばって逝ってしまったヒナを思い浮かべながら。
凛子は顔をくしゃくしゃに歪めて、ふたりの分まで泣いていたのだった……。
◆◆
と、そんな葬式が行なわれている最中。
ヒナはぺたんと地べたに座り、突っ伏していた。
そうして、小鳥の鳴き声のようなささやき声を、
めいいっぱいに低くして、うめく
「やってしまいました……
迂闊で不覚でした……
まさか、まさか、凛子ちゃんが、
幻の大復活を遂げるとは……うう……」
ヒナの覚悟は本物だった。
彼女は勝機も十分に確信していながら、それでも負けたのだ。
完全に予定外の出来事だった。
ヒナ式ヘブンズ・ドアーは完璧な能力のはずだった。
天国の扉を拓くための力だ。
だが、それがまさか、たったの二日目にして打ち破られるとは。
さすがは百地凛子。
藤井ヒナを屠るそのために生み出された(?)魔人。
「ずるいです、あの笑顔……
あんなエンジェルスマイルを前に、
生きていられるはずがありません……」
と言いつつも、その髪の間から覗く口元はにやけている。
凛子が自分のことを想ってくれたのが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。
口から時折、「うへぇへぇへぇ……」という笑い声が漏れてしまう。
普通に怖い。
「業の深い生き物だ……」
そんなヒナにかける言葉の見つからないシュルツ。
近づきたくないし触りたくないし、できれば話しかけたくもない。
だが、賭けは賭けだ。
「でも、言ったよね、ヒナさん」
弱っているところに――弱っている、のか?――つけ込むようだが。
約束は約束である。
「“なんでも”言うことを聞く、って」
「……はい、言いました」
「言ったよね?」
「……はい」
しゅん、と肩を落とすヒナ。
本気で落ち込んでいるようだ。
三千世界を貫くほどの恋愛力を持つヒナだが、
この未来までは見通せなかったようだ。
弱った年下の少女をいじめるような趣味は、シュルツにはない。
ないが、この際そんなことは言っていられない。
これはシュルツにとっても、恐ろしいほどのチャンスなのだ。
次にこんな機会が巡ってくるのは、何十年先になることか。
「じゃあ、ボクの言うことを聞いてくれるね?」
「っ。…………は、はい」
ぎゅっとスカートの裾を握って。
ほんのりと頬をピンク色に染めながら、ヒナはシュルツを見やる。
一体何を想像しているのかわからないが。
きっと彼女にとって都合の良いことには違いないだろう。
ヒナの恥じらい顔には、ほのかな色香が漂っている。
彼女はうつむき、指を絡ませ、慎み深くはにかんでいた。
これだけを切り取ってみれば、
まるで絵画の中に閉じ込められた、誰もが想像する黒髪の乙女のようだ。
だが――そんな気遣いはまったくの無用。
ヒナの本性は、清楚の庭に狂い咲く食人ビッチ草なのだから。
「それじゃあ、ね……」
だから、思い知らせなければならない。
互いの立場を。
あくまでも彼女は、自分に雇われたテスターでしかないのだと。
その瑞々しい身体に、石鹸の香り漂う17才の若い果実に、刻みつけなければならない。
本当はシュルツだってそんなことはしたくないけれど。
ファム・ファタールよりもずっとたちの悪い彼女を屈服させ、服従させるには、これしかないのだ。
だから、シュルツは……
「……ヒナさん、じゃあ、目を瞑ってくれるかな」
「…………わかりました」
ヒナは少しだけ呼吸を止めて。
真剣な顔になり、ゆっくりと目を閉じる。
生唾を飲み込むシュルツ。
今から自分は。
この少女を。
この少女に。
胸の鼓動が高鳴る。
こちらを信じきって、すべてを委ねているような乙女。
その表情は、あまりにも無防備だ。
本当に、シュルツにならなにをされてもいいと思っているのだろう。
まったく、バカなことだ。
それが彼女自身の、弱点であるとも知らず……
シュルツは黒猫のぬいぐるみではなく。
その空間に、擬似的な自らの姿を出現させる。
感づかれないように。
ホンの少しの間だけだ。
シュルツは、片手をヒナの頬に添えた。
「あ……」とこらえきれずにつぶやいた彼女の。
その額に。
意を決して。
ためらいを捨てて。
おもいっきり。
デコピンした。
木の実が弾けるような、実に良い音がした。
クリティカルヒットだ。
「あぅっ」
目を開けて、額を抑えるヒナ。
そのまなじりには涙が浮かんでいる。
「いたいですよぉ」
「そういう風にしたんだからね」
こともなく言い放つシュルツは、すでに黒猫の姿だ。
頬を膨らませるヒナの前、ふふふ、と得意気に笑う。
「どうする? ボクはもう一回してもいいよ」
「うー……今度は負けませんよぉ……」
眉根を寄せるヒナ。
彼女は弾かれた額を手でこすり……それから、相好を崩す。
「えへへ……いたいですよ、もー……」
その痛みすらも、甘い刺激なのだと。
シュルツは気づかないまま、勝ち誇っているのだった……。
シュルツより一言:どうだ! やってやったぞ! ヒナさんに! 一矢報いてやった! デコピンだ! どうだ見たか! ボクだってやるときはやるんだ! 暴力ぐらい振るうことができるんだぞ! さぞかし、い、痛かっただろ! でも謝らないぞ! なんでもいいって言ったのは、そっちなんだからな!? 思い知ったか! どうだ! ボクのことが怖いだろう! いいか、お互いの立場をハッキリと理解をしたのなら、もう二度とボクに逆らうんじゃあないぞッ!




