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泡姫  作者: ネンブツダイ
第1章
22/44

緊張

ゴーン、ゴーン、ゴーン




出会った時と同じように、突然、廊下に掛けてある古い時計の鐘が鳴った。時間は11時を指していた。




この鐘の音で、彼女は正気に戻ったようだった。




「あっ、すみませんっ。その、あの、こんばんは えっと・・」




彼女はパニックになっているように見えたが、なぜそうなっているか僕には分からなかった。




「あっ、えっと・・、3階になります。どうぞ」




まるで、初めて会った時とは別人のように、かなり気を遣っているようだった。




僕の斜め前を歩く彼女の後ろ姿を見て、僕は確信した。




背格好や歩く姿は、あの日、真鶴の海にいた女性にそっくりだ。手帳の持ち主は彼女に間違いない。




これ以上整えようもないほど整った髪をしきりに整えながら、階段を昇る彼女は、僕に話しかけることも、僕の顔を見ることもなかった。




僕の方も、緊張で何も話しかけることはできなかった。




「こちら・・になります。どうぞ」




彼女は部屋の扉を開け、僕に入るよう促したが、彼女は部屋には入らなかった。




扉を開けたまま廊下に立つ尽くしている彼女は、切迫した様子で口を開いた。




「あの、本当にごめんなさいっ。ちょっと時間をもらってもいいですか。髪もぐちゃぐちゃだし、化粧も落ちてるから、、直させてください。」




髪や顔を手で恥ずかしそうに隠す彼女に対し、僕は一瞬戸惑ったが、冷静に言葉を返した。




「えっ!  あっ・・・どうぞ。大丈夫ですよ  行ってきてください 時間かかっても構わないですから」




「あ・・、ありがとうございます」




扉が閉まると同時に、廊下にテンポの速いヒールの音が響いた。




なぜだろう。髪も整ってるし、化粧も落ちてないように感じたが・・。




彼女は緊張しているのか。




いや、僕に緊張などするはずがない。




僕なんて大勢いる客の中の一人に過ぎない。




彼女は体調でも悪いのだろうか。




何となくHなムードの漂う薄暗い部屋に戸惑いながら、ベッドに腰掛けた。




僕は緊張で何も考えられず、この1週間のことをぼんやりと回想していた。




5分くらい経った頃だろうか。再び廊下から慌ただしく駆ける足音が響き、ドアが開いた。




「はぁ、はぁ、はぁ・・・ホントごめんなさい。」




息を切らしながら、戻ってきた彼女は深く頭を下げた。




「いえ、大丈夫ですよ」




「信じられないです。また来てくれたんですね。私、その、何て言ったらいいんだろう。うれしいです。」




「すみません、1週間しか経っていないのに、また来てしまって。どうしても・・お会いしたかったんです。」




「え!・・ 本当にありがとうございます。うれしい。どうしよ・・。 あの・・となりに座っても大丈夫ですか?」




「あ、はい」




ベッドに腰掛けている僕のすぐ隣に、彼女は腰を下ろした。両手で髪を整えながら、きょろきょろあたりを見回す彼女は明らかに落ち着きのない様子だった。




彼女が髪を触るたびに、香水とシャンプーのいい香りが漂ってきた。




「ごめんなさい。私緊張しちゃって。また会えるなんて思ってなかったから。」




緊張!? 僕は彼女の言葉を聞いて驚いた。僕に緊張しているということなのだろうか。




「いや、緊張してるのは・・僕の方ですよ」




「緊張してくれるんですか? 私なんかに? まさか!  もう。。やさしいんですね。」




「やさしいとかじゃなくて、本当に緊張してるんです。」




「どうして?・・ じゃあ、お互い様・・ですか?」




「あ、はい」




彼女が緊張しているなんて、信じられなかったが、行動や態度からそれは明白な事実だった。




「あっ、忘れるところでした。お風呂のお湯入れますね。」




立ち上がろうとした彼女の手首を僕はとっさに掴んだ。




「あの・・入れなくていいです。 今日も何もしなくていいんです。」




彼女は驚いた様子で、僕の顔を見た。




今日初めて、彼女が僕の顔を見つめた瞬間だった。




「え! どうして? ダメですよ。ここ高いんですよ。どうして何もしないんですか?」




僕は返答に困った。




正直に言えば、彼女と普通に触れ合いたかった。ソープ嬢としてでなく、一人の女性として。




それに、SEXをしたことがなかったから、こういう場でするのも抵抗があった。




「その・・一緒に居てもらって、普通に話をしてくれるだけで、、、満足なんです。」




「本当ですか・・!? でも、この前も何もしなくて、今回も、それじゃ・・なんか申し訳ないです。」




「僕がそうしたいんです。だから、それで。。いいんですよ。」





僕は彼女の手首を強く握りしめていることに気付いた。




「あっ、ごめんなさい」




握りしめていた彼女の手首から手を離した。その瞬間、手首にある無数の傷が目に入った。




リストカットの傷跡だ。





瞬間的に彼女は手首を隠した。





「・・・見ちゃいましたよね?」





僕はただ頷いた。





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