帰りたい。
居酒屋の和やかなボックス席が、一瞬にして緊張感漂う取り調べ室のように変わっていった。
本当にこれから行くんだろうか・・。
どうしよう。
「なぁ圭、お前さ、童貞なの・・?」
この質問も、正直に答えるしかないか。
「はい・・そうです。」
「そっか、お前イケメンだから絶対童貞には見えないよ。」
「そうですか・・」
「今日さ、ソープ行こうと思ってたんだ。」
「ソープですか。 ソープって、確か・・」
「そう、本番あり。だから、お前は今日で童貞卒業ってことになる。やっぱ、やめとくか?」
嫌だ。初めての相手がソープ嬢なんて絶対嫌だ。
こう思ったが、僕が発した言葉は考えとは全く逆の答えだった。
「.....構いませんよ。行きましょう。」
酔っているせいなのか、先輩へのこれまでの感謝の気持ちからなのか。
なぜか分からないが、思っていることと逆の事を言ってしまう。
この日は何かがおかしかった。
すべてがぼんやりしていて、まるで夢の中にいるような気分だった。
僕と先輩は居酒屋を出た。
もう5月だというのに、冷たい風が足元と首からすっと忍びこむように入り込んできた。
緊張と寒さで、体が震える。本当に行くのか。嫌だ。家に帰りたい。
高田馬場から山手線で新宿に向かった。
先輩の行きつけの店は歌舞伎町にあるらしい。
新宿駅から徒歩で店に向かった。
歩きにくいほどの人混み、うるさいくらいの騒音、眩し過ぎるネオンの光。
すべてが、僕の緊張をさらに加速させていった。
ある店の前で先輩は立ち止った。
「ここだよ。」
そこはまるでお城のように豪華できらびやかな建物だった。
まるでヨーロッパの神殿のような佇まいで、僕はただ圧倒された。
店の入り口付近には小さな人口の滝が流れていて、流れ落ちた水がしぶきとなって飛び散り、その水しぶきがライトの灯りに照らされ、無数のダイヤのようにキラキラと輝いていた。
こんな高級感溢れる場所で、不純なことするのか。
「おい、どうした? 行くぞ」
「は、はい。」
この時、僕は緊張で心臓が破裂しそうだった。
「いらっしゃいませ」
店員の大きな声が響いた。
「ご予約はございますでしょうか。」
「いや、してないです。写真あります?」
「はい、ございます。今ですね、女の娘がちょうどこの2人でご案内最後になります。」
先輩が手なれた感じで、店員とやり取りをする後ろで、僕は、緊張でガタガタ震えながら突っ立っていた。
「おい、圭」
「は、はい」
「女の娘、もうこの2人で最後なんだって。お前どっちがいい?」
「どっちでも、いいです。加藤さん先に決めてください。」
「いいのかよ、じゃぁこの娘で」
「はい、ミキさんで、それではお客様はこちらの女の娘でよろしいでしょうか」
僕は写真も見ずに、ただうなずいた。
「はい、サキさんでよろしいですね。コースはいかが致しましょうか?」
「60分・・でいいよな? 圭」
「え、はい。大丈夫です。」
「お会計は別々でよろしいですか?」
「一緒でいいです。」
「加藤さん、自分の分は払いますから。」
「いいんだよ、気にしなくて。」
「それでは、お会計御2人様で7万円になります。」
7万ってことは・・1人3万5千円。高いな。
こんなもんなのかな。
先輩には後でお金を払おう。
番号札を渡され、待合室で待つことになった。
先輩はコーヒーを飲みながら、テレビのお笑い番組を見て、声をあげて笑っていた。
その一方で僕は、緊張で何も考えられず、ただ座り込んでいた。
10分くらい待っただろうか。
店員がドアを開けて、待合室に入ってきた。
「番号札12番でお待ちのお客さま、お待たせ致しました。ご案内になります。」
先輩が先に呼ばれた。
「じゃあ、また後でな」
先輩は一切緊張している様子もなく、笑みを浮かべながら楽しげに待合室を出ていった。
その後は、僕一人でただひたすら呼ばれるのを待った。
テレビの音がうるさく感じたので、リモコンに手を伸ばし電源を切った。
すると、かなり静かになり余計緊張が増してしまった。
落ち着こうと新聞を手に取ったが、
文字を見ても全く頭に入ってこない。
先輩が呼ばれてから10分くらい経った頃だろうか。
ガチャっと音がして店員がドアを開けた。
マシンガンのように速かった心臓の鼓動が、一瞬ピタリと止まり、息ができなくなった。
「お待たせ致しました。番号札13番でお待ちのお客様、ご案内になります。」
「は、はい。」
どうすればいい。どうすればいいんだ。
僕は完全に思考回路が停止していた。
もう、嫌だ。家に帰りたい。