忘れよう
「お前、難しいこと聞くなぁ。んんん。」
先輩は軽く握ったこぶしを顎にあて、しばらく考えていた。
僕にはこの沈黙がとても長く感じた。
少しすると、こぶしを顎から離し、先輩は話しはじめた。
「オレの場合は・・その人のことばっかり考えて、胸が苦しくなるかなぁ。と言っても、そんな感覚味わったのは若い頃だけどな。」
「そうなんですか・・ その人のことばかり考える・・。」
僕は今の自分の気持ちが、先輩の言う“人を好きになる気持ち”と同じかどうか確かめようとした。
でも、よく分からない。何かを考えようとすると頭がぼんやりとしてきて、ソープでの出来事が頭の中で、モザイクがかかった映像のようにぼんやりと映し出された。
「なぁ、圭。」
先輩の声が響いた。
「は、はい。」
「もう、その子のことは忘れた方がいい。相手はソープ嬢だ。お前は確かにいい男だけど、相手はどの客に対しても、やさしく恋人のように接するもんだ。それがプロの風俗嬢ってもんだよ。」
先輩の言葉を聞き、頭の中の映像が一瞬にして消えた。
そうだよな。彼女はあれが仕事なんだ。やさしく振舞うことも、思わせぶりな態度をとることも、次回指名してもらうための大事な仕事だ。
忘れよう。忘れるんだ。
「加藤さん、そうですね。その通りです。もう考えないようにします。」
僕は彼女への想いを断ち切るかのように、グラスに半分ほど残ったビールを一気に飲み干した。
この後、先輩とソープでの話は一切出なかった。
朝、5時。居酒屋の閉店と同時に店を出た。
辺りはまだ薄暗く、夜の余韻が少し残っていた。
しかし、先輩と飲み明かしたことで、昨夜の出来事が遠い過去のことのように感じられた。
「じゃあな、圭。 オレがいなくなってもしっかりやれよ。」
「はい。今日は・・いや、今まで本当にありがとうございました。向こう行っても頑張ってください。」
「おおっ、またいつか。」
「はい。」
こうして先輩とお別れした。
電車に乗る頃には遠くに見えるビル街の隙間から太陽が少しずつ顔を出しはじめた。
その光は、今まで感じたこともないくらい眩しく、エネルギーに満ち溢れていた。
まるで、これからの僕の人生を応援してくれているような、そんな何だかとても温かい光だった。