一人で帰ります
仕事帰り、駅前の掲示板の前で足が止まった。
白い紙に黒い文字で、「不審者出没」。通り魔、という言葉だけがやけに浮いて見える。
改札を出ると、空気が少し張りつめていた。人の流れが速い。誰も足を止めない。早く帰ることが、暗黙の了解になっている。
「女性の方は、できるだけ男性と一緒に帰ってください」
警備員の声は穏やかだった。命令ではなく、お願いに近い。
善意だと分かるから、私は何も言わなかった。
すぐに、動きがあった。
男性の同僚が一人、迷うような間を置いてから、女性の同僚の隣に並ぶ。可愛らしい声で何か言って、肩が触れる距離まで近づいた。彼女は少し安心したように笑う。
次に、その男性がこちらを見る。
一瞬ためらってから、私のほうに歩いてきた。
「よかったら、一緒に帰ります?」
声は低くて控えめだった。断られる可能性も、ちゃんと含んだ言い方だったと思う。
守ってあげなきゃ、という気持ちが、悪意なく滲んでいる。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
私は立ち止まらずに答えた。
「一人で帰ります」
それだけ言って、改札の外へ向かう。
背中に視線が集まるのが分かった。心配と、少しの戸惑い。理解できないものを見る目。それらを、私は振り返らなかった。
外は思ったより静かだった。
街灯の位置、コンビニの明かり、人影の間隔。自然と視界に入る。足音の数。距離。角を曲がった先の逃げ道。
呼吸は落ち着いている。
何かあれば、対処はできる。距離を取って、時間を稼いで、逃げればいい。倒す必要はない。頭の中で、手順だけが淡々と並ぶ。
――でも、やらない。
拳は握らない。構えない。
力を使わないと決めるのも、私の判断だ。
住宅街に入ると、犬の鳴き声がした。洗濯物が風に揺れている。緊張が、少しだけほどける。
何も起きない。
最後まで、何も。
玄関の鍵を閉めて、靴を脱いだとき、ようやく息を吐いた。
部屋の隅に置いたボクシンググローブが目に入る。使い込まれて、革は柔らかい。
私はそれに触れず、電気を消した。
守られなかったわけじゃない。
無力だったわけでもない。
ただ、自分で決めて帰ってきただけだ。
それでいいと、私は思っている。




