天秤
彼は、王よりも富んでいた。
名はバルタサル・デ・アルボラン。代々の銀行家であったバルタサルは投資の才で大陸随一の財を築いた。国々を統べる王ですら、彼には敵わなかった。
バルタサルが拠点を置く都には、アルボラン家の紋章を旗に掲げる商船、アルボラン家の所有する図書館、アルボランが経営する大学と、都を支える物には必ずアルボランの名前があった。
ある時バルタサルは、城を建てるために小高い丘の頂に向かった。海を見渡せる高台は風が心地よく、娘と余暇を過ごすにはいい土地だ。
山頂へは一本の石畳だけが延びていたが、人が絶え、土に埋もれかけていた。馬車は軋みながら、その道を登った。
別荘が建つはずの高台には、見苦しい廃墟があった。蔦が壁を這い、屋根は抜け落ち、扉は用を成していない。
「この蔦に絞め殺されているボロ小屋は何だ」と顔を顰めていると、現場監督が耳打ちした。
「何世紀も前の礼拝堂だそうです。月の女神を祀るものですが、もう信奉者はおりません」
「ならば取り壊せ。カビ臭くて堪らん」
鶴の一声で礼拝堂の解体が決まった。
その礼拝堂の中には、埃にまみれた祭壇が現れた。何か絵が描かれていたのかもしれないが、長い年月の中で色あせ、霞んでしまっている。見つけた巻物も虫が食っており、開こうとすればバラバラと崩れていく。
息をするのも苦しいほどに埃が舞う建物の奥で、棚を探っていた職人が、金属製の置物を見つけた。それはまるでベールのように蜘蛛の巣に包まれていた。
「これは……。驚いたな、月秤だよ!」
職人は蜘蛛の糸を拭い取り、古い天秤を凝視した。
「それは価値がある物なのか?」
バルタサルは職人に声をかけ、彼が見つけた天秤を手に取った。
支柱が曲がり、鎖は切れ、秤皿の片方は割れている。月を象った秤皿には、かつて繊細な彫りがあったように見える。だが銀は黒く鈍り、間近に覗き込んでも何も映らない。
「誰が見るかによるでしょうが、我々にはただの銀細工ですな。ここに祀られていた女神は人間と恋をし、この天秤をその恋人に贈ったと言われております。その言い伝えでは、女神の恋人だった男が死んだ時、この天秤は傾いたまま動かなくなったとか――」
台座の底に何かが掘られていて、それを覗き込もうとバルタサルが傾けると、秤皿を吊っていた細い鎖が切れ、その秤皿が落ちてしまった。
銀の秤皿を拾い上げ、天秤そのものも詳しく見てみたが、聖遺物だとしても保存状態が悪すぎる。
月秤の伝説は興味深いものだったが、バルタサルにとって、この天秤はガラクタにしか思えなかった。
「壊れた天秤などいらん。直すだけの価値もなさそうだ」
そう言って彼は、廃材を焼いていた火に月秤を投げ入れた。
持ち主もなく、使い道もない銀物など、バルタサルには無価値だった。
燃える炭火の中で、銀は赤く熱され、融け落ちていった。
ある晩、バルタサルは夢で不気味な女と会った。
どことも分からぬ闇の中、月光が照らす世界に、その女は立っていた。透き通るほどに白い肌は、血が通っているのかも疑わしい。その髪はバルタサルが知るどんな老人の髪よりも白く、その瞳も、心の奥を見透かすような怪しさがあった。幼女のような無垢さがあるが、老婆のような達観した態度は、魔女のような人知を超えた存在にしか出せないであろう。
「ドン・バルタサル。お前は、わたくしが何よりも大切にしていたものを奪ったわね」
魔女に名前を呼ばれ、バルタサルは肝が冷えるのを感じた。今見ている光景は夢だと高を括っていた彼は、幻に呼び掛けられるとは思っていなかったのだ。
いや、あるいは夢なのか? この女は、口を開くことなく声を発した。
「答えないの、ドン・バルタサル?」
バルタサルが狼狽していると、女は重ねて彼の名を呼んだ。青白いその唇は、やはり開くことがなかった。
「お前は何者だ?」
「わたくしは名を忘れられた者。お前に居場所を奪われた者よ」
何を言う。事業のために誰かを立ち退かせるとしても、引っ越し先の家から費用まで保証してきた。土地の所有者が立ち退かない時は、その所有者の要求する額を支払った。
今回城を建てる山も、都の郊外で所有者もいなかった。
「わたくしから奪った山に所有者がいないとは、盗人猛々しいわ」
「なっ……!」
女に考えを読まれ、バルタサルは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「馬鹿な、もう信者がいない神だぞ!」
「つくづく傲慢な男。お前が知らない事が、存在しない事になると思っていたのかしら? わたくしはある。ただお前が知らなかっただけ」
バルタサルは身体が震えるのを感じた。何か、恐怖に襲われている。
「う、奪った居場所というのは、礼拝堂のことか? 礼拝堂なら建て直してやる。もし望むなら、……わ、わたしは別の丘に別荘を作ることにする!」
得も言われぬ恐怖の念に、バルタサルが礼拝堂の再建を提案する。だが魔女――、いや、女神の望む贖罪は、違うようだ。
「それはもういいわ。もうわたくしに信者はいない。礼拝堂を使う者はもういないのだから。でも、月秤を捨てたことは許せないわ」
「何? 月秤? 銀の天秤か?」
確か、女神が人間の恋人に贈った物だった。
「分かった。純銀の天秤を最高の職人に作らせて、あなたに献上しよう!」
「馬鹿。あの月秤はわたくしがアマデウスに贈った物よ。二人の愛と思い出が詰まっていた宝だったの。お前のせいで、今はもう形もないじゃない。ドン・バルタサル、お前は取り返しのつかないことをしたのよ」
口を開かぬまま、女神はバルタサルを断罪する。怒りに燃えたその瞳が、バルタサルの心臓を貫く。
彼の額に、氷のように冷たい汗が流れる。
「わたしは、どう償えばいい?」
「あら、あなたにこの想いが償えると思っているの?」
彼女の青白い口元が、冷たく弧を描いた。
女神が月を見上げる。バルタサルが彼女の見つめる先を追うと、そこには巨大な天秤があった。
先ほどまで影もなかった天秤が出現し、バルタサルはよろめく。足がもつれそうになり、足元を見ると、見たことのある石畳が敷かれていた。あの礼拝堂に続く道に敷かれていた石だ。
慌てて周りを見渡すと、自分たちはいつの間にか礼拝堂のあった丘の上にいた。
目まぐるしい変化に戸惑うバルタサルを尻目に、女神が告げた。
「東側の皿を見なさい」
バルタサルは女神の言葉のままに、塔のようにそびえる天秤の左の秤皿を見た。そして、息を呑む。
秤皿の上には、銀の山が乗っていた。この丘の上に建てるはずだった城を飲み込むほどに大きい。
月光に照らされた銀はきらきらと輝き、魔法のように神秘的な光を放っていた。
これほどの銀は、どんな国の宝物庫であっても収まりきらない。
重く沈む左の秤皿に対して、右の秤皿には何も乗らず、高く天に向けて持ち上がっていた。
バルタサルは、これほどの奇跡を起こす女神にますます恐怖した。
「バルタサル、あなたは犯した罪を贖いなさい。この西側の皿に、銀の山と釣り合うだけの銀、もしくは同じほど価値がある物を乗せるのよ」
バルタサルが気付くと、二人は天秤の空いたほうの秤皿の上に立っていた。秤皿が黒くすすけていた時は分からなかった月の模様が、繊細に彫り込まれていた。
「期限は次の満月よ。もしこの天秤が釣り合わなければ、その時はあなたの命をもって償いなさい」
「なに!? む、無理だ!!」
国中、いや、大陸中の銀を集めても、あの銀の山には釣り合わない。大陸最大の資産家といえど、これだけの銀を買い集めることは不可能だ。
「ほ、ほかの条件はないか? わたしにできることならば何でもする!」
「わたくしはこの条件を変えるつもりはないわ。わたくしの負った心の傷は、この銀に等しいの。あなたお得意の取引でしょ? こんなに分かりやすい取引はないわ」
遠くから見れば、この女神は優しく微笑んでいるように見えるかもしれない。だがその目は、敵意をもってバルタサルを射抜いている。
「次の満月まで待っていてあげるわ。その時までにこの天秤を釣り合わせなさい。もし次に満月が南中にある時、この天秤が傾いていたら――」
女神はバルタサルに向き直り、冷たく睨んだ。そして、その手をバルタサルの喉元に――。
バルタサルは飛び起きた。思わず首に手を当て、息ができているか確かめた。空気をむさぼるように息を荒げ、つい咳き込んでしまった。
枕元の水差しに手を伸ばし、グラスに水を注ぐ。その水を飲もうと口元にグラスを運ぶが、その手の震えが止まらない。
窓の外を見るとまだ夜も明けていないが、もう眠れるはずがなかった。
バルタサルはすぐさま執事を呼び出し、御者たちに支度をさせると、馬車を走らせあの丘に向かった。
麓からはまったく見えなかったが、あの礼拝堂のあった丘にたどり着くと、そこには天高くそびえる月秤があった。その天秤棒は、誰も見たことがないほどの銀塊に傾いていた。




