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第九章 海底火山

 それから何度か、二人は温泉に行き遭った。

 温度も様々、匂いも様々だ。 

 という事は、成分も様々だということだ。それが何なのか、どういう効能があるのかはわからないが。

 温泉に行き遭う度、パールは匂いを吸い込み、少しでも丈夫になろうと、熱いのを我慢して浸かりけ続けた。最初に失敗をしてから、ふやけるほど熱く、のぼせるほど長い湯浴みにはならないよう、ちゃんと気をつけている。

 ある時、パールは言った。

「この温泉、持って行けたらいいのにね」

「なぜだい?」

 そんなに気に入ってしまったのか。いや、それほど、パールの己の弱さに対する拘りは大きいのか。そう思いながら一平は問い返した。

「ほら、ここ見て⁉︎」

 そう言ってパールが指し示したのは右手の人差し指である。二日ほど前、カニを捕まえようとして失敗し、逆襲されて怪我したのだ。死に物狂いのカニは、こちらの予想を遥かに上回る力でパールの指先を挟み、捻じ上げたのだった。パールの叫び声に一平が飛んで来なかったら、早く指を捥ぎ剥取られてしまうところだった。

 その傷が回復している。血はとうに止まっていたものの、新しい組織が再生するまでには至っていなかったのに、傷が塞がっている。

「もう全然痛くないの」

 パールは自分以外の者には癒しを与えることができるが、歌うことで自分の身体を治すことはできないらしかった。眠気ぐらいは感じるが、その他は皆無だ。それまで二人とも小さな怪我は何度もしていたので、自信をもって言える。パールが歌を歌う時、一平の傷が良くなっても、パールの傷が良くなる事は決してない。

 だからこんなに早く治るはずがないのだ。だったら、理由は温泉の効能だとしか考えられない。

 パールはここの温泉の湯を怪我に効くものと考えついて、いつでもどこでも携帯していたいと思ったのだ。

「…すごいな…」

 温泉がいくら体に良いとは言っても、そんなあからさまに効果があるとは、今まで聞いたことがない。信じられない気持ちの方が強かったが、事実は事実である。

 一平は感心してパールの指先を見つめていた。

「ね?すごいでしょ⁉︎一平ちゃんも持っていきたいと思うでしょ?」

 海の中でのみ育った人魚なら、そんな事は思いつかなかっただろう。だがパールはほんの一ヵ月だが地上で暮らしたことがあった。

 あの洞窟の中には、一平や学や翼が珍しい地上のものをいろいろ持ってきていた。その中には缶ジュースやペットボトル飲料などもあった。缶ジュースは開けてしまえば蓋をすることはできないが、ペットボトルに入った飲み物には栓をすることができた。蓋をすれば、逆さにしても振っても海の中に入れても、中の液体が漏れ出る事はない。大きさも、 2リットルと大きなものから350ミリリットルというコンパクトなものまでいろいろあった。

 あんなふうに持ち運びたいと、パールは思ったのだ。携帯の救急薬代わりに。

「そんなもの、海の中には売ってないからなあ…」

 それを聞いて、一平は呑気に答える。

 パールが洞窟でのことを忘れないでいることを知って、ほんわかした気分になっていた。

 時間が経ってしまうと温泉は効き目を失うという事は知る由もない。

「おいしかったよね。ミルクティー」

 パールは甘い飲み物を好んで口にしたものだ。海の中では水分を口から摂る必要はなかったが、地上ではそういうわけにはいかなかったのだ。お茶やコーヒーもあったが、辛いわさびと同じように、ちょっとでも苦い飲み物は苦手だった。砂糖とミルクのたくさん入ったロイヤルミルクティーだけは例外だったなと、一平は思い起こしていた。

 それと同時に思い出した。

 あの時もパールはミルクティーの缶を差し出した。 

 犬首に村の漁師たちが近づいていると気づいて、慌てて洞窟に駆けつけた時のことだ。一平が息を切らしているため、パールが労いの手を差し伸べてくれたのだ。

 優しい子だ、と思った。

 それは前の日に、パールが明日自分が飲むからといって大事にとっておいた缶紅茶だったのだ。

 あの頃は一日の大半を別々に過ごしていた。気になって気になって、勉強も部活も疎かになりがちだった。何より大変だったのは、パールに何かの危険が及んでいるとすぐに知ることができないことだった。道端から、学校から、病院から、幾度となく一平は走り、泳いだ。

 だが、今はいつでも一緒にいる。一平の目の届くところに必ずパールはいる。そのことが、一平を何より安心させたし、心を穏やかに保ってくれていた。


 だが、平穏は破られた。

 海の水が大きく揺らいだのだ。

 海の中は常に水が動いているが、この動きは半端ではない。

 ゴゴゴ…という地鳴りもする。近くはない。遥か彼方から、遠い雷鳴のようにどろどろと響いてくる。 よろめいて均衡を失ったパールに手を伸ばして引き寄せ、一平は辺りの様子を伺った。

 西の方が明るい。そして赤い。

 日没は近かった。だが、夕焼けとは違う。

「来い」

 より一層強く引き寄せて、一平は海上を目指した。

 パールは青ざめている。恐ろしさがだんだんパールの体を硬直させてゆく。この感覚は経験したことがある。それもつい最近だ。夢の中で…。

 パールの頭の中に、先日の悪夢がまざまざと蘇った。揺れる水、火を噴く山、泣き叫ぶ人々…。でも、その中でも一番怖かったのは、一平がそばにいないことだった。

 あれは夢だ、と一平は言った。

 その通り。あれは確かに夢だった。

 でも…。

 パールは見上げた。一平の顔はいつもパールの遥か上にある。普通にしていてもいつも見上げることになる。だからパールは見上げた。

 大好きな人の顔はそこにあった。その面に笑いはなかったが、どこも損傷していない勇姿があった。パールの腰を掴んでいるのは紛れもなく一平の腕だ。夢ではない。一平はすぐそばにいる。

 パールは尾鰭を一層激しく振った。彼に負担をかけないように。置いて行かれないように、自力で泳いだ。手はしっかりと一平の背と胸の服を掴んでいた。

 一平は西の方角を見つめた。彼らがやってきた北西に近い。

 海上から見えたのは初めて目にする光景だった。いや、本や映像で見た事はある。でもそれは現実ではない。今一平が見ているのは、今この時、彼の目の前で起こっている自然の脅威だった。

「噴火だ…」

 思わず、呆然と呟いた。

 パールのことは相変わらずしっかり抱き寄せていたが、噴火を確認した瞬間、一平はパールの存在を忘れた。

 赤い火柱が天へ向かって突き上げている。空気に触れたことで煙になるのだろうか、濃い灰色の噴煙がその周りをもくもくと漂っている。

 噴き上げた火が火球となって再び落下する。いや、火球だと見えたのは溶岩なのかもしれない。だとすれば、海に振り注いでいるのは岩だ。ここからでは石ころぐらいにしか見えず、見極めるのは難しい。

 判別できない距離でよかったと一平は思った。

 大地の揺れは彼らのいるところまで届いてきたが、溶岩まではやって来れないだろう。おそらく、ここに到達するまでに冷えて固まり、再び海底で眠りにつくのであろうから。

 とは言え、早く立ち退いた方がよさそうだ。

 できるだけ早く、この地帯を後にしたい。マグマは届かなくても、火山灰や有毒ガスが風に乗って流れてくるかもしれないし、連鎖反応でまた他の火山が噴火しないとも限らない。火山活動が一日やそこらで収まるはずもないのだ。

(コースをもっと西にとっていたら…)

 そう考えると恐ろしかった。

(パールが、他の温泉もとせがまなかったら…)

もっとちまちま進んでいたはずだ。

(予知能力⁉︎)

 パールのあの夢は、予知夢だったのではないか?トリトニアのことではなく…。

 ふっと、そんな気がした。

  パールはと言えば、一平にしがみついたまま、名画でも見ているように噴火の有り様を見つめていた。

 恐ろしいと思った気持ちは消え失せていた。

 一平の胸に張り付いて、彼の心臓の音を体で感じる。それだけで、パールには怖いものなどなかったのだ。

―一平ちゃんがいれば大丈夫―

 パールは本気で、そう思っていた。

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