第八章 温泉
胸に衝撃を感じて一平は目を覚ました。
原因はパールだった。
一平の胸を鷲掴みにし、苦しそうにしがみついている。青ざめた顔に脂汗を滲ませ、歪んだ表情で助けを求めている。
「パール‼︎」
一平は呼び掛けて揺り起こした。何処か具合が悪くて苦しいのだと思った。
が、そうではないらしい。身体を揺さぶられてパールは虚ろに目を開けた。
覗き込む一平の顔を確認して、フッと緊張が緩んだ。
「一平ちゃん!」
初めて一平の存在に気がついたように、パールは首にしがみついてくる。
具合が悪いのではない。何処か悪いのならこんな敏捷な動きはできない。
パールは震えていた。歯の根がガチガチと合わさらない。
よほど怖い夢でも見たのだろう。一平はそう思う。
震える少女の身体をそっと支え、これは現だと知らしめるように、頬をすり寄せて抱きしめた。
「大丈夫だ…。ボクはここにいるよ…」
優しい囁きに我を取り戻してパールの身体は少しおとなしくなる。
触れ合うほどすぐそばに、一平の静かな眼差しがある。一平の瞳の中に自分が映っているのを認めてパールは落ち着きを取り戻した。恐ろしい出来事が夢だとわかってほっとすると、再びその夢に捕まえられないように逃げるが如く、新たに抱きつき直した。
「…どうした?…そんなに…怖い夢だったのか?」
―どうして一平ちゃんはわかるのだろう。パールが怖い夢を見ていたことが?―
幼いパールは不思議に思った。そしてやっぱり一平ちゃんはすごいと感心した。彼に話してしまおう。そうしたらきっと、一平ちゃんがあの夢をどこか遠くへ追い払ってくれる。そう思ってパールは訴えた。
「海のお山が火を噴くの。…いっぱい…いっぱい…。大きい岩がたくさん飛んできて、トリトニアの人達の上に落ちてくるの…。パールがいる所も揺れるの。海の水が変なふうに流れて…パール、どっちに逃げたらいいのかわからなかった…」
「うん…」
話すことで再び興奮が蘇ってき始めたパールを宥めるために、今は相槌を打った。そうして一平は、さ現の自分がいることをパールに思い出させようとした。
「いっぱい、いっぱい、人が死ぬの…。血を流している人もいっぱいいるの。泣いている赤ちゃんも、助けてって叫んでいる女の人も…」
「夢だよ、パール。…それは夢なんだ」
パールの目からは涙が溢れ出す。たとえ夢であっても心苦しく悲しい風景だ。その姿に繊細なパールが共鳴してしまうのは当然と言えば当然だった。
「パール…歌ってあげたかったけど、歌えなかった。…だって、一平ちゃんがいないんだもん。一平ちゃん、どこにもいなくて…パール…」
その先を、パールは続けられない。
夢の中で一平の名を呼びまくり、探し回った末に、どこからか声がした。一平の声だ。だが、ひどく遠い。姿は見えない。もどかしくて声を振り絞ったその時に、パールは現実の一平の姿があることを認識した。
「いるじゃないか。ここに。ほら。こうしてパールを抱っこしてるのは一体誰だい?知らない人?」
パールは違うと首を振る。
「自分で触ってごらん?幽霊じゃないから」
パールは言われて手を伸ばした。まず頬に触れた。耳を弄って髪を引っ張った。
「いたっ」
思わず抗議の声を上げると、パールは微かに微笑んだ。
「…間違えた」一平は訂正した。「夢かどうかを確かめる時は自分のことを抓るんだった」
今更言っても遅い。
パールが笑う。
「じゃあ…一平ちゃんが抓って。パールのこと」
言われて一平は目を瞠った。
が、すぐに綻ばせた。
パールの鼻先に親指と人差し指を向け、号令をかける。
「いくぞ。せーの…」
「いやーん」
鼻を摘まれて出すパールの声は鼻声だ。甘ったるい笑いを含んでいる。
もう大丈夫だ。一平のおふざけにパールは乗っている。
そっちがやれって言ったんだぞ、とか、痛いのやだもん、とか、他愛のない言い合いをしていたら目が冴えてしまった。
「…少し早いけど、出かけるか⁉︎」
一平は提案してみた。
「まだ暗いよ⁉︎」
「じきに夜明けだ。上の方が少し白んでいる」
昨夜は闇夜だった。月明かりがあるのとないのとでは、同じ夜でも海中であっても明るさはうんと違ってくる。その暗さが少し緩和されていることに一平は気がついていた。
明け方で眠りが浅くなっている時は夢も鮮明だと言う。それらを考え合わせれば、簡単に導き出せる答えだった。
海上を見上げ、パールも納得した。
「お腹は空いてないか?」
「まだ平気」
「よし。それなら出かけよう。朝飯は明るくなってから調達だ。いいな」
「うん」
早朝にもかかわらず、海水の温度が高いことに一平は気がついた。日本の近くにも暖流は流れていたが、それよりもっと暖かい。潮が変わると水温も変化するが、ちょっと極端すぎるような気がした。まるで、生暖かいプールに入っているようなのだ。真夏の日の光で温められて温んだ、子ども用のプールの少ない水を思い起こさせる。
なぜだろうとは思っても、答えは出なかった。
一平はパールを連れ、太平洋をぐんぐん南下する。
昼過ぎに、方角を確かめる段になって突如気づいた。
赤道に近づいているのではないか。
地球の真ん中に、東西に引かれた長い線。
海の上に実際にそんな線などありはしない。地上の人間が便宜上名付けた『赤道』と言う名の、場所の目安。その付近は、地球上で一番暖かい、いや、暑い地域だ。実際の高温域は『熱赤道』と呼ばれ、直線ではない。赤道より二十度もずれている所もある。
気温に伴って海が暖かくなっていても不思議はない。
そんなことをパールに話しながら泳いでいたら、格別に熱い所に出くわした。海底の一部がまるでお風呂のように熱い。
(お風呂⁉︎…)
思って、はっとした。これはもしや…。
温泉が吹き出しているのだ。
一平の生まれ育った日本は、火山国のせいで有数な温泉地がたくさんある。
冷泉、低温泉、温泉など、温度によって区別されているが、摂氏二十五度から四十二度くらいが一般的だ。その総数は二万四千箇所にも及ぶ。
これはそういった温泉の源泉かもしれないと一平は思った。
「ふーん… 。海の中にも温泉があるんだ。…」
幸い、低い水温でぬるめられて、噴き出すお湯は我慢できないほど熱くはない。だがこれのおかげでその周囲は非常に暖かい。
一平はしばらく懐かしがってお湯の噴き出し口から離れなかった。ごく小さい時分から熱いお風呂は嫌いだったが、今となっては懐かしい思い出だ。父も風呂嫌いだったので行った事はないが、南紀にも温泉が多数湧き出している。和歌山県の沿岸には勝浦や白浜、内陸に入ると川湯、湯の華、龍神等の温泉地があった。日本人は温泉好きな民族だ。
一平が温泉について話してやると、パールは訊いてきた。
「ねぇ、一平ちゃん。地上の人はどうしてこんなものの中に入るの?わざわざ汲んでまで」
「そうだな…。お湯の方が汗や汚れがきれいに落ちるからかな?それと、一日の疲れがとれるんだ。ボクはシャワーの方が好きだったけど、わざわざ高いお金を払ってまで、温泉地に旅行する人もいるよ。いろんな治療に効くらしい」
「病気が治るの?」
「うーん…。よく知らないけど、毎日入り続けると良くなったりするみたいだな。神経痛とか、怪我とか、冷え性とか、胃腸病とか….。美人の湯、とか言うのもあるし。温泉の成分にも依るみたいだけどね」
パールが少し嬉しそうだ。目が輝いている。何がそんなに楽しいんだ?と一平は訝しんだ。
「何だ?」
尋ねた途端にパールは身を翻した。湯の噴き出し口のすぐそばに屈み込み、清々しい空気を吸い込むかのように顔を突き出した。
(え⁉︎)
「今日はここに泊まろうよ。一平ちゃん」
まだ午を少し回ったばかりである。朝が早かったとはいえ、まだ寝るには陽が高すぎる。
呆気に取られる一平にパールは言う。
「パール、ここ気に入っちゃった」
「…どういうことだい?」
「少しならいいでしょう?ずっといたいなんて言わないから」
「…?…」
「だって…元気になれるんでしょう?温泉は」
「!」
そうか。パールは自分が病弱だったと言っていたっけ。一平に温泉の効能を聞いて、ここにいたら少しは時間自分も丈夫になれるのではないかと思ったのに違いない。パールは期待に胸を膨らませてニコニコしっぱなしだ。
「結構いい気持ちだね」
気は心、病は気から、とも言う。思い込みやすく信じやすいパールにとっては、良くなると思っただけで効果がありそうだと一平は思った。
(まぁ、いいか…)
昨夜の悪夢のことを考えたら、多少足が鈍ってもこの方がずっといい。どうせいつ着けるとも、いつまでに辿り着こうとも、予定など立てられない旅なのだ。
一平もパールのそばに横になった。少々熱いが、パールの具合が悪いのではないかと心配するよりはずっとマシだった。
「一平ちゃん、手が…。パールの指が…」
しばらくして、パールがいきなり喚き始めた。
何事かと振り向くと、パールは大きく開いた両の手を呆然と見つめて、泣きそうになっている。
「皺くちゃになっちゃったよ。…おばあさんみたいに。どうしよう。一平ちゃん…」
眉間にしわを寄せ青ざめるパールは、自分の身に起こった変化に驚くあまり、一平にしがみつくのも忘れている。
実に真剣に悩む有り様だったが、一平は眉尻を下げた。思い当たることがあったのだ。
「あああ…」
絶望に、パールは言葉を失ってゆく。
パールの手を大きな手が包んだ。五本の指をまとめてくるみ、パールの目に触れさせないようにする。
「心配するな、パール。大丈夫だ」
気休めだろうか。それとも本当に⁉︎
一平の言うことなら信用したいが、それよりもまだショックの方が大きい。
「長いことお湯に使っていたからだ。皮がふやけただけだよ。地上ではよくそうなる。なってもすぐに元に戻る。安心しろ」
「皮が⁉︎」
「うん。お風呂に入るとね、指の表面が水を吸って膨張するんだ。膨らんで余るから皺になる。でもお風呂から出れば元通りになるよ。異常なことじゃないから心配するな」
「ほんと?…」
「うん。…いくら体にいいって言っても、浸かり過ぎはよくない。湯当たりとかのぼせるとかいうのはいい意味では使わないからね」
「パール…少しフラフラするの…」
少し虚ろな目でパールは告白した。
「そら見ろ。長湯しすぎだ。場所を変えるぞ。」
「うん…」
安心したのと、体の限界が来たのだろう。パールは急に力を失って、一平の胸に倒れ込んできた。
(全く…)
一平に迷惑をかけまいとして、丈夫な体になるために、パールはここに留まることを申し出たのだ。その健気なひたむきな気持ちがわかるからこそ、したいようにさせていたのだが、結局は体の方がついていっていない。大きな心配ではないが、小さな迷惑をかけている。
朦朧とする意識の中で、パールは思っていた。
(まただ…。また、一平ちゃんに迷惑かけてる…。パールって…なんてだめな子…もっとしっかりしなくちゃ…)
そんなことがあったのに、温泉の威力はパールを魅了してやまなかった。
のぼせから冷めて気がついたら、件の温泉からは遠く離れていた。それがひどく残念だった。あんまりがっかりしているので、一平はうすうす感づいていたことを教えてやった。
温泉が吹き出しているということは、この近くは火山活動をしているということであり、それならば、かなり広い範囲にこのような状態が存在しているはずだ。そう遠くないどこかに、同じような源泉が必ずあるに違いない。
そういうことをパールにもわかるように話してやった。
パールは喜んだ。
それならひとところにずっといなくても、何回か温泉に浸かるチャンスがあるかもしれない。一回よりはニ回、二回よりは三回と、回数が増えれば増えただけ元気になっていくのだと、パールは思い込んだのだ。
「楽しみだね。一平ちゃん。早く他の温泉を見つけようよ」
浮かれて鼻歌を歌いだすパールを見ながら、一平は思う。
(これからしばらくは湯治旅行だな)
早く早くと急かすパールを眺めながら、なんだか年寄りじみていやしないかと、心の中で苦笑した。
パールは浮かれているが、一平にはひとつ気がかりなことがあった。
温泉はいいが、この辺りが火山地帯だということだ。
一平は記憶の紐を解きほぐす。一体ここはどの辺りなんだろう?
父の故郷のトリニアのことを調べようと読み漁った地理の本。部活とパールの世話とで忙しい一平に代わって、翼がいろんな本を図書館から借りてきてくれた。
ただ、元々借り物だし、海の中に本は持っていけない。パールをトリトニアに帰してやろうと決めてから村を出る間の僅かな期間で、その全てを覚え込むことなどとてもできるものではなかった。けれどその短期間に、一平は今までにこんなに勉強に打ち込んだ事はないというほど知識を詰め込んだ。トリトニアを探す上で役に立ちそうな事は、片っ端から頭に叩き込んだ。
その地図を頭の中に広げてみる。鮮明に描き出すことはできないが、ぼんやりと、火山帯の集中している箇所が思い浮かんだ。
地球の地盤の下にはマグマがあると言う。高温で煮えたぎる溶岩の上で、まるでトーストに乗せたバターのように、地球の地殻は動いているのだ。
動いている地殻はプレートと呼ばれている。大きな大きな地の板の塊だ。それが互いにぶつかり合う所に撓みができる。その撓みを元へ戻そうと大きな力が溢れ出る。そして起こるのが地震だ。
太平洋プレートとフィリピン海プレートがせめぎ合うところに、地震の発生地点の印があった。その点は、オホーツク海から日本を縦断して、フィリピンとインドネシアを繋ぎ、更にジャワ島からマリアナ諸島を回って伊豆諸島へと北上して洋梨か胃袋のような形を描いていた。
そのマリアナ諸島を中心とした辺りがプレートの境目だった。
地震の発生を表す黒点の他に赤い点が混ざっていたのも思い出す。火山の噴火を示す点だ。黒ほど多くはないが、少なくもない。
フィリピンのピナトゥボ山には大きな丸印があり、四桁の数字が添えられていた。1991年に噴火があったという意味だ。これはかなり有名な話であるらしい。
また、世界で一番深い海溝、マイナス19,240メートルのマリアナ海淵のあるマリアナ海溝は、マリアナ諸島のすぐ東側にあり、プレートの衝突で穿たれた溝であるというのも知っていた。
赤道に近づいているのではないかと思っていたが、そんなに早く進めるものでもない。多分自分たちはその辺にいるのではないだろうか。
火山は地上の山に限ったものではない。海の中にも火山はある。いわゆる海底火山というやつだ。地上からは見えないのであまり知られていないが、海の中にも山はある。それも無数に。高さも地上の山とはは比較にならないほどだ。海の深さは平均でも3800メートル。富士山も軽く沈んでしまう。深いところなら最高峰のエベレスト(8850メートル)の上に、もう一つ山を重ねられる。そして地球の70%は海なのだ。
それらの中に海底火山があるだろうことは容易に想像がついた。世界の海のどこかでは、きっと今も海底火山が活動しているのに違いない。
とは言え、現実味はなかった。日本各地の温泉は火山のお膝元にあり、そこで人々はごく普通に生活している。温泉の恵みを受け、観光を売り物にして強かに生きている。
温泉が危険どころか、命の洗濯をする保養所であるという認識が根強い。一平には、不安よりも楽天的な気持ちの方が強かった。恐ろしい自然も、ある程度までは人間と共存できるものなのだと。
一旦噴火が収まれば、再び活動を始めるまでには何十年、何百年という間隔があるはずであり、活動開始時に居合わせることなど、まずは考えられない。確率はひどく低い。
温泉の吹き出し口の近くには、白く可愛らしいユノハナガニやシンカイコオリエビ、シロウリガイなどが群れをなしていた。ここにも命の営みは面々と続いているのだ。
しかし、気になることもある。
昨夜パールが見たという夢のことだ。
―海の山が、火を噴くの―
(…まさか…ね…)
―パールのいる所も揺れて、海の水が変なふうに流れて―
(あれは夢さ。しかも舞台はここじゃない。トリトニアだ。)
―だって、一平ちゃんがいないんだもん―
(そうさ。ボクははいる。パールのそばに。だから、あれは正夢なんかじゃない。)
パールの見た夢は一平を不安にさせた。
癒しの力を持つパール。鳥語も日本語もすぐに覚えたパール。目も耳も効かないのに、ボクらと話ができるドン。彼らの力は超能力の一種としか思えなかった。
だったら、パールが予知夢を見たとして何の不思議があろうか?はっきりと自覚しないまでも、一平の心は確かに不安の元となる根拠を抱えていた。