第六章 イヌワシの背中
そのイヌワシの体調は悠に三メートルはあった。身幅もそれなりに広く、頑丈そうだ。
しかも柔らかく、温かい。
一平は今まで馬やポニーの背にさえ乗った事はなかった。電気で動く遊園地の乗り物にはない生命の息吹が密接に感じられた。大きな羽毛だらけの背に跨がると、接した部分から鳥の体温と微かな鼓動が伝わってくる。
でもその事はあまり気にならなかった。あの渦を通らずに運んでもらえるのなら楽チンだと思っていたのに、事はそれほど簡単ではなかったからだ。
馬に通常つけられている鞍や鎧や手綱の役割をするものは持ち合わせていない。掴まることのできる取っ手のようなものも、当然ついているはずもなかった。自力でしがみついているにはあまりに難しい乗り物だった。
鳥のように大空を飛びたいというのは人類の悲願だったが、実際に鳥に乗った人間は一人もいないのに違いない。これはすごいことだと感激する反面、不安も一平の胸を襲う。乗った者がいないのなら、乗せた経験のある鳥もいないということだ。いくら子どもとはいえ、二人の人間を背に乗せていることを、この鳥は忘れてしまわないだろうか。普段通り急旋回や急降下をしてしまう可能性はあまりにも大きかった。
さっき見た限りでは、かなりの上空を飛来してきた。あの高みから落ちたらいくら下が海水でも無傷とはいかないだろう。
パールは思いの外腕の力が強いが、それもどのぐらい持つものやらわからない。
一平のそんな不安をパールは全く感じていないようだった。
これまで鳥に乗ったことがあるのかと聞くと、一平と同じく初めてだと言う。そもそもが、日本で一平に出会うまでは、海上に出たことすらただの一度もなかったのだそうだ。
「トリトニアでは、大人にならないと海の上に行っちゃいけないの」
パールは自力で海上に出たわけではないと言う。前にも言及したように、『気がついたら海の上にいたの』だ。
海上世界の事は話には聞いていたが、そのあまりの明るさにパールはしばし我を忘れた。自分がどういう状況に置かれたのかを心配するよりも、初めて見る世界に目も耳も心も奪われていた。自分が父母と遠く離れて一人ぼっちになったということを理解するまでに、幼いパールはかなりの時間を要したのだ。
初めはそれほど離れていないだろうと思った。しかし、海底まで潜ってみても、トリトニアとは様子が違う。明るさも、周りを泳ぐ魚たちも、普段見るものとはかなり異なっている。
自分がとんでもないところで迷子になっているのだとやっと自覚して、パールはたまらず泣き出した。
いくら泣いても慰めてくれる者も声をかけてくれる者もいない。こんな事は初めてだ。どうしていいかわからない。誰かパールを助けて…。
安らぎを求めてパールは海上へ戻った。彼女にとっての新世界に心を彷徨わせることで、せめてもの無聊を慰めようとしたのだ。
泣き疲れてパールは眠った。揺蕩う波は揺籠のように優しくパールを抱き止めてくれた。
そして次に目を覚ました時、パールは運命の人と出会ったのだ。
地上世界に足を踏み入れて―パールに足はないが―体に変調を来たさないのかどうかは、パール自身にもわからないことだった。まさに救世主たるべくパールの前に現れた一平に素直に従ったことには、取り立てて意味はない。目の前の相手に害があろうとなかろうと、生まれたての赤ん坊のように心の真っ白なパールは、深く考えることなしにその場に流されてしまう傾向にあった。
いかな悪人であろうと、雨の中置き去りにされた赤ん坊を見つければ、思わず助けようとするだろう。少なくとも、気持ちは引き寄せられるはずだ。そういう幼さがパールにはあった。
放っておけない未熟さ。庇ってやらねばという気を起こさせるいじらしさ。してやった行為に対して包み隠すことのないまっすぐな感謝と尊敬のまなざし…。
それらがこの少女の持つ強みだった。そういう性質が彼女を窮地から救っている。パールを見つけたのが一平でなかったとしても、ある程度まではパールは救われただろう。
だが、普通の人間には海の中で息などできない。
パールと話すこともできない。
一平だからここまでコミュニケーションがとれたのだ。
そして、彼女が家に帰る手助けをしてくれる。
引き合う磁石のS極とN極のように、二つの個体は出会い、内包する魂を通い合わせることになった。
海から出たのなど初めてだったのだから、パールにも自分が具合が悪くなるなど予想もできなかった。翌日やってきた一平がパールの異変に気づき、かつてないほどに心を痛めても、パール本人はけろっとしていた。
身体の変調は眠っている間にやってきて、彼女自身自覚せぬままにその深みから戻ってきたのだ。
鳥の背に乗せてもらうのも初めての経験だ。このような巨大な鳥を間近で見るのも初めてだった。
一方、実は一平は飛行機にもまだ乗ったことがない。
(あれ?)
パールは力なく一平に凭れかかっている。
風に吹かれて珊瑚色の髪がサラサラとそよいでいた。
こんなふうに髪が靡いているのを見るのは初めてだった。よくシャンプーやリンスのコマーシャルで見るようなさらさらヘアーの映像のようだった。
(ふーん…)
いつも海の中にいるので滅多にお目にかかれない光景だった。
前髪が煽られておでこは剥き出し、耳朶が見え隠れし、遅れ毛が鼻の頭をくすぐっている。
見ている方が、なんだかくすぐったい。いや、一番くすぐったいのは一平の心のようだった。起こさなければいけないのに、この状態が消え失せてしまうのがもったいなくてなかなか踏み切れなかった。
パールが鳥に掴まるのを放棄しているので一平の手は必要以上に忙しい。バランスを崩したら二人とも落っこちてしまう。
仕方なし、彼はパールの耳元になるべく口を近づけて言った。
「こら。起きろよ、パール。落ちるぞ」
呼んでも起きないほど深い眠りに落ちているわけではないだろうな、と不思議に思って気がついた。
自分の頬でパールの頬に触れてみる。
―冷たい―
しかも、乾いている。
一平は愕然とした。
(なぜ、もっと早く気づかなかったんだ⁉︎)
風は熱を奪う。そして水分をも奪う。
太陽が出ていなくても、風が強ければ洗濯物はよく乾く。
例の症状だった。
パールに関して注意しなければいけない大事なこと。
体の水分を一定以上奪われるとパールはこうなる。意識を失い、ぐったりと死人のようになってしまう。
大渦の危険を回避することと空を飛べるという新しいことにのみ目が行って、大事なことを忘れていた。
時間的には憂慮するほどは経っていない。だから安心もしていた。風が思った以上に水分を奪うものだということに気づくのが少し遅かった。
これ以上はだめだ。
今すぐ海に降りなくては。
一平は焦る。
パールを片方の腕で抱え込み、もう一方の手だけで鳥の背を掴む。
「降ろしてくれ‼︎」
イヌワシに向かって大声で怒鳴った。
鳥は一平に不審な目を向けた。
―何を喚いてるんだ⁉︎―
そういう目だった。
イヌワシにトリトニア語は通じない。
わかってはいたが、他にどうしようもない。一平はもう一つ言語を話せたが、日本語の方が通じないのは明白だ。
「頼む‼︎降ろしてくれ!もういい‼︎パールが変なんだ!海に戻さないと死んでしまう!」
わかっているのに、喚くことしかできない。
一平の切羽詰まった雰囲気を察したのか、イヌワシは下降体制に入った。
パールの様子を見ることができれば一目瞭然なのだだろうが、そうするにはイヌワシは大きく首を後ろへ曲げなければならない。飛行中にそんなことをすればこちらもバランスを崩してしまうから、一平にはありがたかった。
着地できるような場所はなかった。鳥にとっては着水は遠慮したいところだ。
囀りで何か言っているようだが、生憎と何を言っているのかわからない。
水面を目の前にしているのに手が届かなくてもどかしい。
パールを抱えて飛び込みたいくらいだが、飛んでいる鳥の背中でそんな姿勢をとるのは難しい。しがみついているのがやっとだった。
「くそっ‼︎」
やむなく一平は強行手段に出た。
できればしたくなかったが、パールの命には変えられない。
少しずつ体をずらしてパールを側面から下ろす。海面に近くなったところで海に落とすのだ。できるだけ衝撃が少ないように。
そしてすぐさま自分も飛び込む。
一平は実行した。
そっとパールを下ろしたつもりだったが、結構水飛沫が上がり、鳥はそれを避けるように急上昇した。
高度が上がる。決して低くはない。
けれど、一平にとっては高くもない。幼い頃から海抜十メートルの岬から飛び込みをしていた一平だ。迷いもなく飛び込んだ。
沈みゆくパールを視界に捉えた。
まっしぐらに泳ぎ寄る。
身体を抱え、落ち着ける場所を目で探す。
身体を固定し、胸に耳をつける。
心臓はちゃんと動いていた。
ほっとするが、完全に安心はできない。持ち直してくれなければ…。
冷え切ったパールの体を抱き寄せる。水の中の方が冷えそうな感じだが、海人では逆らしい。水分の蒸発は体の機能を著しく低下させてしまうようだ。脱水症状、という言葉を一平は思い出した。一般に言うそれとは少し違うようだが、良くないことに変わりはない。
髪も皮膚も水に入るとまもなくしっとりと戻った。が、肝心なのは体の中だ。五臓六腑に、神経組織の末端までに水分が行き渡るまでには、しばらくの時間を要する。それはすでに経験済みだ。
以前こうなった時よりもずっと早く、パールは意識を取り戻した。
瞼がヒクヒクと動き、幾度か瞬いて、パールは青い瞳を覗かせた。
「パール…」
安堵して一平が呟く。
不思議そうな目をしてパールが答えた。
「一平ちゃん…」
「…大丈夫か?」
尋ねる一平の表情は心配気だ。何か悪いことが起こったのだとパールは理解する。
「パール…どうしたの?」
以前倒れた時とは違う。今のパールは一平の言っていることを理解できる。
「おひさまだけじゃない。…風にも…気をつけなくちゃいけなかったんだ。気がつかなくてごめんよ。…」
一平は悲しそうに言う。
「何でごめんなの?一平ちゃんは悪くないよ。一平ちゃんは知らなかったんでしょう?」
「気づかなくちゃいけなかったんだ」
「無理だよ、そんなこと。パールだって知らなかったんだから」
どうやら自分はまた具合が悪くなったらしい。
今の一平のように、心配気に見下ろす顔を見るのはパールには珍しいことじゃない。
パールはよく人事不省に陥る。いや、陥っていた。
トリトニアにいた頃は。
彼女は体が弱いのだった。
地上で言うなら、虚弱体質と言うところだろうか。
生まれながらにして特別な病を抱えていたわけではない。海人としては、かなりの早産で超未熟児だったのだ。
生存さえ危ぶまれたところを奇跡的に生き永らえた。しかし、体は弱いままだ。ちょっとしたことですぐ寝込む。意識不明になるのは珍しいことではなく、十分な栄養も摂れないために成長も遅れがちだった。
さすがに生まれてこの方これだけ病気と縁が切れないと、自分に何か障害があるのだと自覚せざるを得ない。パールはそれらのことを聞かされてもいたし、多少は対症療法を知ってもいた。
だが、一平と出会って以来、不思議とそのような事はなくなっていた。出会ってすぐ死にそうになったことを除けば。
あの頃はまだ一平とも十分なコミュニケーションをとることができなかった。自分が虚弱だということを伝える機会を逸した。
言っておかなければいけないのだとバールは今思った。
一平の表情は真剣だ。本当に、心からパールの体のことを心配してくれている。それは、父や母と比べても寸分も違わない。
父にも母にも一平にも、パールは悲しい顔をして欲しくなかった。
他でもない、自分のせいで心配をかけている。自分では不可抗力のこの宿命を、パールはなんとかしたいと思っていた。
無理をしてはいけないのはわかっている。眠い時は思い切って寝てしまうのがよくなる早道だと教わった。その言いつけを守ってきた。けれど、それでもこうして心配をかけてしまうことがある。
何も知らなければ、そういう時どんなに慌て、困るかくらいはパールにも想像がついた。心構えというものは必要なのだ。
理屈ではなく、パールは一平に話しておいた方が良いと結論する。
「あのね、一平ちゃん。パールね…」
自分が未熟児で生まれたこと、すぐ具合が悪くなってしまうこと、だから無茶をしないでよく寝るようにと言われて育ったこと、それらをパールは口にした。
辿々しい説明ではあったが、一平はじっくりと聞き、しっかりと心に留めた。
「だから…こういうこともダメだったんだと思う。…だって一平ちゃんは何ともないもんね」
自分が人より弱いということ、小さいということ、劣っているということ。それらはパールのコンプレックスだった。パールにとって普通の人以上に何でもでき、頼りになる一平とは比べるのもおこがましい。
「ボクは…またちょっと違うと思うよ。何しろ半分は陸の人間だからね」
「半分、陸の人間⁉︎」
そういう話はしたことがなかった。パールはただ本能で一平を同族と感じ取った。一平の生い立ちがどうで、どうして海の中でなく陸の上に家があるのかは、あまり重要ではなかったのだ。
「ボクのお母さんはね、陸の人間なんだよ、パール。トリトン族じゃない」
「さよ子って名前のお母さん?」
「そう。よく覚えてたね」
母の名を忘れないでいてくれたのが嬉しくて、一平は微笑む。
褒められて、パールも嬉しい。
「変わった名前、って思ってた」
「うん、そうだね…」
パールは何も訊いてこない。一平が言うのを待っているのか、会話の糸口がつかめないのか、いずれにせよ、幼い。
「お父さんは…」
「ラサールでしょう?でも、勝になっちゃったんだよね」
それも覚えていたか。
「これは…ボクの憶測なんだけど…。多分、父ちゃんは迷子になったんだよ。パールと同じで。そしてついでに記憶を失くした」
「記憶?」
「それまでのことを全部忘れちゃう病気さ。だからトリトニアのことも自分の名前も全然覚えてなかった。それで、日本人の母ちゃんと結婚したんだ」
でも、それならどうして一平が知っているのだろう、父親の昔の名前を。
パールがそう思ったのを読み取ったかのように一平は続けた。
「父ちゃんが死んだのはちょっと前なんだけど、死ぬ前に急に思い出したらしい。自分の名前がラサールで、トリトニアっていう所から来たんだって、ボクに言った。そして、ボクにもいつかトリトニアに帰れって言ったんだ」
「だから、一平ちゃんの本当のおうちはトリトニアにあるんだね」
パールが目を輝かせて言った。
そう。そんなことを話した覚えがある。
「一平ちゃんはいいね。おうちも二つあるし、海の中でも陸の上でも平気なんだもん。パールにはおうちは一つだけだし、海の中しかいられないし」
目から鱗が落ちたような気がした。
ものは考えようだ。
他人より多く家を持っている。他人より適応できる環境が広い。そう考えれば、自分は恵まれていると言えた。
何事にも楽観的なパールの考え方は、危なっかしいがいい面もある。
それらを長所としてうまく利用していけばいいのだ。もう、水の中で息ができることを隠さなくてもいいのだから。