第五章 まだ見ぬ故郷
一平には言葉がない。そばで聞いているドンも同じだ。
彼の頭の中に浮かんでくるのは、かつて読んだり見たりしたSFの物語の断片ばかりだ。一瞬のうちに―とはパールは言わなかったが―大移動することを瞬間移動と言う。これまた、超能力の一種だ。パールがそのテレポートをしたのか?
いや、とてもそうは思えなかった。第一必然性がない。
では、移動させられたのか?
手を使わずに物体を動かせることをテレキネシスと言う。誰かの手で送り込まれたのだと考えることはできないか?でも、それもとてつもないことに思われる。
それとも、次元のポケットか何かに嵌まり込んでこういうことになったのだろうか。魔のバミューダトライアングルと呼ばれる、船や飛行機が行方不明になる謎の海域の話も聞いたことがある。パールもそういう所へ迷い込んで、日本に吐き出されたのか?
初めは、単に海流や天候の影響で流されてきたのだろう、ぐらいにしか考えていなかった。だからパールの故郷がそんなに遠いとは、旅に出ると決心した時には思っていなかったのだ。正直なところ。
一平は頭を抱え込んだ。
この事実は彼の乏しい知識では手に余りすぎる。
そんな一平の様子を見るに見兼ねたのか、ドンが口を開いた。
といっても、例の精神感応で、である。
―少年よ。なぜなのかは今考えなくてもよいのではないか?わたしのこの後天的な能力にしろ、明確な理由づけはできない。事実は事実として受け止めるしかないのだ。おまえが知りたいのはその人魚が迷子になった理由ではなく、トリトニアという故郷の場所なのだろう⁉︎―
そうだった、と一平は思い直す。きりりと顔を上げて言った。
「そうでした。ドン。あなたに会いに来たのはそのためでした」
「一平ちゃん…」
パールが心配そうに一平を見上げている。
それに優しい一瞥をくれ、ドンに話を聞かなきゃな、と目で言った。
―ヘラクレスの柱、というのを知っているか?―
「ヘラクレスの柱?」
ヘラクレスとは確か、ギリシャ神話に出て来る英雄の名だ。その、柱?
―遥か昔からそう呼ばれているそうだ。北大西洋の東端に、陸に切り取られ、離れてしまった海がある。そこと大西洋とを繋ぐ海峡の名称だ―
(陸に切り取られ、離れてしまった海?)
一平は世界地図を頭に思い浮かべた。
地中海?カスピ海か?
(大西洋とを繋ぐ海域?…海峡⁉︎)
ジブラルタル海峡か、と思い至る。
―そのヘラクレスの柱の南西深く、海底深く、ポセイドニアはあるという。私も行ったことはない。ただ、行ったことがある者、そこから来た者に会ったことがあるだけだ―
「本当ですか?」
それなら、この情報の信憑性はかなり高い。一平は思わず歓喜の声を上げていた。
「その人は…トリトニアから?それとも他の…」
―いろいろだな。海人もいたし、深海魚や回遊魚や…―
そうか。海人だとは限らないのだ。
―いずれにしろ、百年以上は昔の話だ―
「はあ…」
年若い一平にとって百年前はとんでもなく大昔に思える。ちょっとがっかりしてしまうのは仕方がない。
だが、大雑把とはいえ、場所の特定ができたのだ。今までは漠然とし過ぎていたが、目処はついた。これが嬉しくないはずがない。一平は気を取り直してパールに真向かった。
「よかったな。大体どこだかわかったぞ。絶対連れてってやるからな」
パールも微笑んで返す。
―慎重に進めよ。わたしの話は百年前の事情だということを忘れるな。道々、最新の情報を集めて旅に備えるがいい―
ドンの忠告の言葉を噛み締めて、一平は言った。
「備えあれば憂いなし、ですね」
そんな諺がこの世界にあるかどうかは知らないが、浮かんだので言ってみた。
―そんな言葉を知っているのか―
ドンは些か驚いたようだった。そのことに一平の方が余計に驚く。
―誰に教わったのだ―
「え…」
誰だったろう?と、一平は思考を巡らせる。日本では特に珍しくもない言い回しだ。テレビや本で知ったのか、周囲の人たちが使っていたのか?
(父ちゃんだ…)
父の勝が言っていたのだと思い出す。
漁に出る時、特に天候が怪しい時、父はよくそう呟いていた。しかも、トリトニア語で。
一平はハッとする。今まで自覚していなかったが、一平はこの十三年間始終父の呟くトリトニア語を耳にしていたのだ。特に、幼い頃。
考えてみれば、見知らぬ土地に流れ着き、言葉もわからぬ父が、そう簡単に自国の言葉を放り出してしまうはずがないのだ。身に着けたもの以外に父の身元を保証するものは言語しかなかったのだから。知り合った人々に対して使っても通じるはずもなく、どんなに心細い思いをしたことだろう。やがて生まれた白紙状態の我が子に対し、その言葉を密かに教え込んだとして、何の不思議があろうか。
事実、日本人とは異なる能力を持つことに関して、父は一平に二人だけの秘密であると強要した。
日本人の母と外国人の父を持つバイリンガルの子どもが、母とは日本語、父とは外国語で話すのが当たり前で、違和感も感じず意識すらしないのと同じである。
父の使うトリトニア語を受け入れて理解はしても、一平は父以外の人にその言語を使うことなど考えもしなかったし、実行もしなかったのだ。
それも、父が日本語に堪能になるにつれて回数が減っていったのだろう。一平が中学生になる頃には、父がトリトニア語を口にすることはまるきりなくなっていた。
だから一平も忘れていた。
パールに会ってその言葉を聞いた時に、意味がわかったのはそういうわけだったのだ。
そういうことを一瞬にして理解した。そして、ドンの問いに答えていた。
「父…です…。父の…トリトニアの…ラサールに…」
―おまえの父は相当の学識があったらしいな。この言葉はなかなかに使えるものではないぞ―
「そう…なんですか?」
日本では当たり前のように誰もが口にしているように思うが。
考えてみれば海の魚たちは備えも蓄えもしているようには思えないので、もっともである。
「そうだよ。パールは知らなかったもん。やっぱり一平ちゃんはすごいねえ」
パールは感心している。
そんな無邪気な様子のパールにドンは目を向けた。
―おまえは何なのだ?この少年をずいぶん頼りにしているようだが―
「パールは…パールだよ。本当は、パールティアっていうの。でも皆パールって呼ぶんだ」
名前を聞かれたのかと思ってパールは説明した。
「え?そうなのか?」
これは一平も知らなかった。パールの名がパールティアで、パールは愛称だなんて。
「うん。でも、パールでいいの。パールティアってあんまり使わないから」
大した問題ではない。一平だって、潮干という名字を端折って名乗っている。
でもなんだかしっくりこない。
もう三ヶ月以上も一緒にいるというのに、そんなことも知らないでいたのだ。
さっきの迷子の事情にしろそうだ。こんなに身近な、そばにいるのが当たり前のような存在になっているというのに…。
自分の知らない事がパールにはまだまだいっぱいあるはずだと思うと、一平は何だか落ち着かなかった。パールのことはどんな小さなことでも知っておかなければならない気がした。
いや、知っておきたかった。
―おまえはまだ小さいが、大人でもない少年と旅をするのであればもっと覚悟しなければならぬぞ。海は広い。どこにどんな危険が待ち受けているか誰にもわからないのだからな。おんぶに抱っこばかりしていては、その少年の身が保たないぞ―
パールは目をぱちくりさせてドンを見た。
「…うん…」
ここへくる途中、一平におんぶしていたことを思い出して神妙になった。その結果怪我をしたのはパールでなく一平だ。ドンの言葉が心に重かった。
「…ごめんね…一平ちゃん…」
何を謝ることがある、と一平は目を見開いた。
「そうだよね…パール…何もできないから…。怪我させちゃったんだよね」
「ばか。おまえが怪我させたんじゃないよ。逆だろ?おまえが治してくれたんじゃないか。ボクが礼を言わなきゃならないのに…」
一平は慌ててパールの言うことを否定した。
―おまえは癒しの力を持っているのか?―
二人の会話を耳にしてドンが訊いた。
「わかんないよ…」
「セトールにも言われたんです。パールには癒しの力があるって。この子の歌が痛みを和らげるって。実際、ボクのこの傷もパールのおかげで血が止まったみたいなんです」
返答に困るパールの代わりに一平が答えた。
―では、さっきの歌声は、おまえが?―
「聞いてたの?」
―鳥どもが妙に騒いでおった。それに混じって聞こえてきたのは、天使の歌声のようだった。私はそれで目を覚ましたのだ。こんなことは滅多にない―
「へえ…」
一平が感心する。
―聞こえてくるはずがないのだからな。実際の音が。…心に響いてきた。優しい思いが。誰かを労り、祈る思いが―
パールはちょっぴりはにかんだ。
「パールね。鳥さんと一緒にお願いしたの。神様に。一平ちゃんの傷が早くよくなりますようにって。絶対、一平ちゃんを死なさないでくださいって」
「え…」
今度は一平の方が赤くなった。
―そうか…。この少年はおまえの大事な人なのだな―
「うん。一平ちゃんはパールの大好きな人だよ」
人を幸せにする笑顔でパールは躊躇いなく頷いた。
「……」
その笑顔で幸せになったのは当然のことながら一平であった。
他意のないことはわかってはいたが、体中がカッと熱くなった。どういう態度をとればいいのかわからなかったが、助かったことにパールとドンはお互いに顔を見合わせてニコニコしている。
つんぼ桟敷に置かれていることに気づいてほっとしたが、すぐまたドキッとさせられた。
―少年よ。おまえはどうなのだ?この人魚は一体おまえの何だ?―
何だと言われてもどう答えればいいのかわからない。
パールは一平の身内でもないし、仲間というには少し違うようだし、友達というよりは保護者感覚だ。
―人魚は、おまえを大好きな人だと言っとるぞ―
年少の少女が臆面もなくはっきり答えているのだぞ、と圧力をかけている。
一平は、最も適当な答えを見つけて言った。
「パールは…ボクの宝だ…」
一平の悩みに答えを与えてくれたパール。一平の悲しみをどこかへやってくれたパール。一平のするべき道を提示してくれたパール…。パールの笑顔は一平にとってかけがえのないもの、他のどんなものとも引き換えにできない、失いたくない宝物だった。誰にも譲れない。
ドンは嬉しそうな目をして言った。
―おまえと同じ目をしていた若者を知っている。その者は既にこの世にないが、人々に勇者と呼ばれていた。…その名はヴァーン―
「勇者…ヴァーン⁉︎」
それは何をした人なのか?一平の瞳が問いかけていたが、ドンは何も言わなかった。ただ、一平とパールとを見比べて優しく微笑んだ。
―トリトニアに無事辿り着けるよう祈っていてやろう。初志貫徹こそ男の道ぞ。邁進しろ―
難しい言葉を使ったが、この少年なら理解するだろう。ドンはそう思った。
―大切にするがいい。その人魚が大切なら守れ。その人魚とおまえの取り巻く世界を守れ。おまえなら守れるだろう。きっと…―
予言のような言葉を残してドンは首を引っ込めた。再び長い眠りに就こうとしている。もっと聞きたいような気もしたが、何をどう訊けばよいのかわからなくて、一平はドンを引き止められなかった。
ドンは二人の訪問を決して嫌がってはいなかった。尋ねられたことにも面倒がらずに答え、助言すらしてくれた。二人の人柄を見極めると安心したようにその場を引き取って行った。もう話すことはない、後は自分でどうにかしろ、と島影が無言で語っていた。突き放すのではなく、太鼓判を押して遠くから見守り続ける親のように。
これ以上巻き込むのは無意味だろうと一平も悟る。 最後に贈ってくれた言葉が一平を後押ししてくれる。
―おまえならやれる―と。
大亀が手足を引っ込めると鳥たちが戻ってきた。
もっとパールと一緒に囀りたいのだ。
パールの方も同じ気持ちだった。
パールは一平を振り返って意向を窺った。
一平は頷いた。ドンが思わず目を覚ましたというパールの歌を聴いてみたいと思ったのだ。夢うつつに聴いたような気はするが。
傷の方も触らぬ限りは痛くない。まだ赤いが、塞がってきているので再びドンの島の上で休む必要もなさそうだ。
パールの歌は確かに心地よかった。この間も思ったことを一平は口にしてみる。
「おまえの歌はなんだか懐かしいな」
そう?と、茶目っ気たっぷりの目でパールは答える。
一平がそんなふうに感じることで、体の中の回復力が高まるのだろうか。傷の具合はどんどん良くなってゆく。
パールと鳥たちの合唱は小さなオーケストラのようだった。やがてパールが歌い止めると、一平は言った。
「もうすっかり治った気分だよ。そろそろ行こうか」
だらだらとここに止まっていては目的は果たせない。目的地がおそろしく遠いことがわかった上は尚更だ。
「また、あの渦を通るの?」
尋ねるパールの口調に不安と恐れが感じられる。
一平に任せっきりで何一つ苦労などしていないが怖かったことは否めない。それに、あそこを通ったがために一平は怪我をしたのだ。そのことの方がよっぽど苦しかった。
「他に方法があるかい?」
否。
それは十分わかっていた。わかってはいたが…。
考え込むパールの様子が今までと違うので、周りの鳥たちが心配そうに覗き込んでくる。何やら鳥語(?)でパールに話しかけている。パールも時々それに応対する。
そうこうするうちにパールの顔が急に輝きを増した。嬉しそうに一平のそばにやってきて言った。
「ねえ、一平ちゃん。いいことがあるよ」
「?」
「あのね、鳥さんたちがね、パールたちを渦の向こうまで連れてってくれるんだって」
「何?」
「お空を飛んでいけるんだよ。すごいねえ」
「…どういうことだ?」
「だから、鳥さんたちが皆でパールたちを運んでくれるの」
鳥さんたち、といったって…と、一平はパールの周りを飛び交う小さな友達を見回した。どう見たって小鳥ばかりだ。大きくてもせいぜいトンビ止まり。パールと比べたって比較にならないほど軽い生き物だ。一体どうやるというんだ?
「亀のおじいさんの背中に大イヌワシが住んでるんだって。パールたちを乗せてくれるように頼んでくれるって」
「イヌワシ?」
ワシならば少しは大きかろうが。それでも一平の体重を支え切れるかどうかはか甚だ疑問が残る。
いくら何でも無理だろうと思っていると、まもなくそのイヌワシが、飛来してきた。
一平は目を丸くした。
確かにでかい。
アラビアンナイトに登場するロック鳥というのを思い出した。
用件を伝えに行ったらしいトンビは、少し遅れて戻ってくる。
一平たちのいる所に陸地はないので、せっかくやってきてくれたイヌワシは上空を旋回するしかない。
「あの鳥さん?」
パールが鳥たちに訊いている。
「本当に、大きいねえ」
遥か上空を飛んでいるのに、一平が両手を広げたくらいの大きさには見える。
「本当に…乗せてくれるのか?」
一平はまだ半信半疑である。
「パールのお歌のお礼なんだって」
「お礼?」
「あのワシさんも怪我してたんだって。でもさっき、パールが鳥さんたちと一緒に歌った時にすごくよくなったんだって。だからお礼に乗せてくれるんだよ」
「……」
こんなにうまく運んでいいのか、と戸惑ったが、ドンの言葉を思い出して深く考えないことにする。事実は事実として…。
パールが鳥たちと意思を通じ合っているのを目にしても、それを不思議に思わなくなってきている自分にも一平は驚いていた。
パールの言葉を、彼らの力を信じよう。素直にそう思えた。