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第三章 六つの大渦

「思い出した!」

 パールが言った。

「?」

「セトールっていうのはね、鯨の博士っていう意味なんだよ」

「へえ…」

「パパが鯨のお話してくれた時に言ってたの。どっかで聞いたことある名前だと思ってた…」

 さもあろう。確かにあの鯨は学者の風格のようなものを持っていた。

「あの鯨にぴったりだな」

「うん」

「パールのお父さんは何ていうんだ?お母さんは?」

 不意に思いついて、一平は訊いてみた。

「パパはオスカー、ママはシルヴィアだよ。弟はキンタ」

「弟がいるのか?」

「うん」

 とてもそうは見えない。絶対に一人っ子か、或いは末っ子だと勝手に思い込んでいた。

「一平ちゃんのパパとママは?」

「父ちゃんは勝。母ちゃんはさよ子」

「マサル?ラサールじゃないの?」

 一平は溜飲を下した。

 日本に流れ着いて、父は多分ラサールと名乗ったのだろう。日本人の名でないそれを、村人がマサルと聞き間違えたのか、或いは呼びやすいように日本の名を付けたのかはわからないが、発音の似通ったマサルという名で人々は父を呼ぶことにしたのだ。『勝』という漢字を当てはめて。

「十四年前まではラサールで、それから死ぬまでは勝だったんだ」

 一平の説明はパールに新たな質問を呼び寄せる。

「地上の人は途中で名前が変わるの?一平ちゃんも?」

「違うよ。ボクは生まれてから死ぬまで潮干一平だ」

「一平ちゃんじゃないの?シオビキイッペイっていうのが名前?」

 トリトニアでは姓と名が分かれていないらしい。パールにとって一平は潮干一平でもただの一平でもなく、『一平ちゃん』でしかないのだ。

「一平ちゃんでいいよ。そう呼べ」

 詳しく説明する意義を見出せないので面倒臭くなって一平は言った。自分はもう地上での生活を捨てたのだ。これからはただ『一平』とだけ名乗ってゆこう、そう思った。


 セトールの言った海域はどの辺りだろうと、一平は思考を巡らせた。鯨の足で七日ということは、自分たちにはその何倍もかかるのだろう。鯨の泳ぐ速度は十ノットから二十ノットぐらいだというから、二十四時間だと少なくとも二百キロメートルは進める計算になる。単純計算で千七百キロの距離だ。遠い…。

 一平たちは一ヶ月近くをかけてゆっくりと進んだ。急ぐ旅ではない。突発的に何が起こるかわからない。そのために体力はなるたけ温存しておかなければならない。

 湾内は一平にとって庭のようなものだったが、遠洋はまだ不慣れだ。幼いパールがついてこれるかどうかも不安だ。

 紀伊半島から南へ千四百キロメートル、東京からは千七百キロメートル。そこには日本の領土の最南端と言われる沖ノ鳥島がある。

 沖ノ鳥は無人島である。

 いや、そもそも島などと呼べるような代物ではない。東西約四、五キロ、南北に約一、七キロの、珊瑚礁に囲まれた二つの大岩と言っていい。波の力で根元が抉れて水没しそうなため、浸食阻止の目的で、テトラポッドと特殊コンクリートでドーナツ状に囲む工事が為されている。

 自然のままの姿でないのは、この島が国土の最南端にあるところに理由がある。この島が水没すると、二百浬の経済水域が狭められることになるからだ。

 だがそんなことは知らなかったし、いまの一平には何の関わりもない。この島が沖ノ鳥島であることよりも、この島がセトールの言った島であるとはっきり確認できることの方が重要だった。

「ここだ。…これテトラポッドって言って波を防ぐのに使うんだけど…。ここには人も住んでないみたいなのに変だな」

 一平は不思議に思いながらテトラポッドに手を掛けた。

 村の桟橋が思い出されて心が騒いだ。

 ザバ、とポッドの上に乗り上げる。

「どこ行くの?」

 それを見てパールが不安そうに問うた。

 この島には木も草も林もない。島の向こう側まで一望の元に見渡せる。どこへ行こうと一平の姿を見失うことはなさそうだったが、パールは陸の上を思うようには歩けない。置いていかれることはないと思いながらも、やはり心細い。

「どこも行きゃしないよ。ちょっとここで休んでいこう。ここから先は大渦が待ち構えているそうだから、英気を養わなくっちゃ」

 一平はそう言ってパールに向かって手を伸ばす。

 パールが腕にしがみつく。

「うわ…」

 パールを引き上げたが、足場が凸凹しているのでバランスを崩した。咄嗟に庇ったためパールに怪我はない。仰向けに転がった一平の身体の上からパールは急いで降りた。

「だいじょぶ?一平ちゃん?どこ痛いの?」

 答えるのが面倒なくらい痛い。打ったのは尾てい骨のようだった。

 起き上がって尻をさするとパールが後ろに回り込んでくる。

「ここ?お尻ぶつけたの?」

「くーっ…」

 一平は呻いて顔を顰めているばかりだ。

「ごめんね。パールのせいで…」

しょんぼりと言ったかと思うと、パールは一平の尻に顔を寄せてきた。

 唇で触れた。

 ギョッとして一平が振り向く。

「な…」血が逆流する。「な…何してんだ、おまえ…」

真っ赤になってパールを引き剥がす。

「あん…」

 邪魔をされてパールは口を尖らせた。

「な…何考えてんだよっ⁉︎」

 一平は喚いた。

 パールはきょとんとしている。

「…おまじないだよ。こうすると痛いの飛んでくんだよ」

 そういえば、おまじないだと言ってパールはセトールに同じことをした。

「お…驚かすなっ‼︎」

 一平がなぜ怒鳴っているのかパールにはわからない。

「治ったの?痛いって言わないね⁉︎」

 おまじないのせいだかなんだか知らないが、確かに尻の痛いのは忘れていた。

「あたた…」

 やっぱり痛い。

「…大丈夫?」

 無心に心配して覗き込むパールがいじらしい。

「大したこと…ないさ…冷やせばすぐ‥元通りになる…」

 痩せ我慢を、一平はした。年下相手とはいえ、見栄はあった。いや、自分が年上だからこそ、みっともなく騒ぐわけにはいかなかった。

「ちょっと昼寝しよう。危険はなさそうだ」

 そう言って自ら横になる。

 パールも素直に従った。


 太陽の光が降り注ぐ。

 八月の南の地は暑かった。岩の上とはいえ、地上と呼べるところに寝転がるのは何日ぶりだろう。身体についた水滴がみるみるうちに蒸発していくのが感じられる。

(暖かい…)

 ジリジリと太陽が照りつける。肌が焼けてゆく。

 一平ははっと飛び起きた。

(パール‼︎)

パールはすやすやと寝ていた。無防備に。

(ボクは…ばかだ‼︎…)

 出会って間もない頃の失敗をまたやらかそうというのか。パールは海の生き物だ。水なしで長いこと陸に置いたら身体が乾いて生命が危うくなる。

 寝ているパールを乱暴に抱き起こし、両手に抱えて海へ入った。

 目を覚ましたパールが何事かと目を(しばたた)く。

「どうしたの?」

 パールは抱かれたまま一平を見上げた。一平の心配になど何も気づいていない無邪気な瞳だ。

 今気づいたからよかったようなものの、あのまま気づかずにずっと眠りこけていたらパールはまた…。一平は後悔の念を拭うことができない。

「また…やっちまった…」

「?」

 パールが不思議そうに首を傾げる。

「…ボクは、ばかだな…」

「一平ちゃん?」

 自分はパールと同族だと確信していた。だが、明らかに違う部分がある。一平には平気でも、何でもないことでも、パールにとっては命取りになることが確実に存在する。自分本位で考えてはいけないのだと痛切に感じた。

 一平は言う。

「ボクは未熟者だ。…おまえに、こんなことをさせてはいけなかったんだ。どうして、してしまう前に気づかないんだろう⁉︎」

「なあに?」

「パール。よく覚えておくんだ。おまえは陸の上に長くいたらだめなんだってことを。身体が乾ききってしまったら、死んでしまうかもしれないってことを」

「死ぬ?」

「ボクとは違うんだ。ボクがさっきみたいに太陽の下でのんびり眠っていても、パールはしちゃいけない。お日様はパールの身体から水分を奪う。そうなったら苦しくなるはずだ。だから気をつけろ。ボクも注意するけど、さっきみたいに忘れてしまうことがこれからもあるかもしれない」

「お日様の下で寝ちゃだめなの?」

「海面ならいい。でも、陸の上ではだめだ」

「うん」

 いつもパールは素直だった。一平の言うことに一生懸命耳を傾け、理解しようとする。

 その姿勢は真摯でひたむきだ。無条件に受け入れようとする姿はが頭が下がるほどだが、逆に空恐ろしくもあった。パールは既に一平に従い、模倣することが習い性になっている。その彼女の命運を握っているのは自分なのだという重責が、ひしひしと一平の身に押し寄せる。

 ―しっかりしなければ―

 一平は肝に命じる。パールを無事にトリトニアに送り届けるために。その望みを叶えるために、まずしなければならないのはそういう心構えだと、一平はこの時つくづく思った。


 沖ノ鳥島から太陽の沈む方向に二人は泳いで行った。

 セトールはこの島の西に六つの大渦があると言った。

 六つの大渦。

 鳴門の渦潮なら知っている。犬首岬にもささやかながらも海は渦を巻いていた。それでも地元の者は決してそこへは近づかない。船では危険だったし、泳ぐのはもっと危険だった。一平にとってはどうということもなかったが、それは彼一人の特権である。

 大渦というのがどの程度のものなのか、犬首の渦しか経験したことのない一平にはどのくらい危険が伴うものなのかはわからない。

 セトールが訪ねてみろと言うからには決して辿り着けない所ではないと思う。しかし、名称から察するに、生半可なものではないだろうとも思える。大体大渦一つでも厄介なのに六つもあるという。しかも、大亀はその中心にいるらしい。

 とにかく、この目で見てみぬことには何も始まらないと、一平は考えた。

 大渦のある場所はすぐにわかった。近づくに従って水の渦巻く音がごうごうと轟いている。思っていたよりもずっと規模が大きかった。一つの渦に犬首の渦が丸ごと入ってしまいそうだ。

 激しく渦を巻く海面はもとより、海中に見て取れる螺旋状の海流はそれ自体が生命を持っているように見える。よく見ると渦巻きと渦巻きの間は距離があった。隣の渦巻きの影響を辛うじて受けないでいられるくらいの間隔だ。その部分ならば流れは緩く、通り抜けることは可能かと思われた。

 とはいえ、渦巻きはじっと静止しているわけではない。その上渦巻自体の回転はとても速く、吸い込まれたらあっという間に違う場所に運ばれてしまいそうだ。当然、息もできないくらい苦しいに違いない。意識を保っていられるかどうかも疑わしい。一度気を失ったら次に目が覚めるとは限らない。犬首の渦とは比較にならないほどの規模と威力だ。

 それらのことが一平の頭の中を目まぐるしく駆け巡った。ある程度の予想はしていたが、思った以上に凄い。それに、想像するのと実際に目にするのとは大きな開きがある。これからどうしたらいいかを冷静に分析して考えをまとめるまでには少々時間を要した。

 パールも大きな目をますます大きく見開いてこの有り様を眺めていた。

 海中での生活が一平より長いパールにも、こういう自然現象を目にするのは初めてだったらしい。

「…すごいねえ…」

 パールが呟く。

「…なんか…きれいだねえ」

(きれい⁉︎)

 パールが漏らした意外な感想に一平は自分を取り戻す。

「海もお歌を歌うんだね」

「‼︎」

 パールの耳にはこの恐ろしげな轟きも音楽に聞こえるらしい。一平にはとてもそんなことは思いもつかない。

 セトールはパールの歌のことを天使の歌声と言ったが、他者にそう言わしめるだけの天性のセンスがこの少女には備わっているのだ。一平はこの時はっきりとそう感じた。

「ルーラルーララーララルー…」

 パールがメロディを奏で始めた。

 特に意識してやっているのではない。ごく自然に、自分の体の中から発生してくるらしい。

 一平が感じていた驚きや恐怖がなりを潜めてゆく。少女のこの寛いだ態度を目の当たりにすれば、誰でもそうなるだろう。加えてパールの歌声はいつも一平の心をリラックスさせてくれる。

 しばし聞き惚れてから、一平は冷静に考え始めた。

 この大渦を越えていくとしたら、道は渦と渦の間しかない。海水の流れをよく見極め、渦に影響されない道筋を選ぶ眼力が必要だった。

 経験の浅い自分にそんなことが可能だろうか。

 もしも間違えて渦に巻き込まれてしまったら一巻の終わりだ。自分だけではない。パールの生命も一平の肩に掛かっている。

 一平は意識を眼前の大渦の流れに集中した。流れ方に法則性があるのなら頭に刻みつけなければならない。ないのなら運を天に任せるまでだ。一平と渦の間で睨み合いが始まった。


 ひとしきり歌い終わると、パールは一平の様子がいつもと違うのに気がついた。声をかけようとしたが、邪魔のできない雰囲気を感じて言葉を飲み込んだ。

 かれこれ三十分はそうしていただろうか。

 どうにか目処がつけられた。海中の経験が浅いと言っても、生まれてこの方毎日のように海に入り浸り、海と友達だった一平だ。生まれながらに持っていた海人の資質は旅に出てから何かの封印を解かれたかのように一平の行動を裏打ちし、助け舟を出してくれる。

 この時も一平は自分自身に驚いていた。海の中には細かな浮遊物がいっぱいだ。その流れを追えば海流の流れはある程度掴めるが、これほどはっきり把握できるとは今の今まで考えてみたこともない。

「よし!」

 自信を持って、一平は気合を入れた。

 それまでおとなしく一平が口を開くのを待っていたパールも、唐突さに目を丸くする。

「パール…」一平は渦を見ながら話しかけた。「見えるか?あの、右手にある渦を一の渦とする。左にあるのがニの渦だ。ああいうのがこには六つあるらしい。その六つが手を繋ぐように輪になっていて、その中心に大亀がいる。輪の中心だから多分穏やかなところだと思う」

 パールがうん、と首を振る。

「あの渦はとても怖いものだ。試しに何か放り込んでみればわかる。あっという間に吸い込まれてどこかへ運ばれてしまうだろう」

 そう言われてパールは初めて恐ろしそうな顔をした。

「極力気をつけろ。ボクのそばから離れるな。ちょっと触ってみようなんて思うなよ。手を出したらおしまいだからな」

「キョクリョク?」

「…それ以上どうしようもなくなった時以外はってこと。…いや、絶対だめだって思った方がいいな」

 難しい言葉を説明しなければならないのはいつものことだったが、ふとおかしくなった。

 一平たちはトリトニアの言葉で喋っている。日本語を教えているわけではないのに、パールよりも一平の方が難しい言葉を知っているのはおかしな話だった。いつの間にやら一平はトリトニア語の会話に全く不自由しなくなっていた。誰かが宝の箱の鍵を開けて一平の頭に封印されていた言語能力を解き放ってくれたみたいだった。

「…おてて繋いでいてくれる?」

 鯨が泳ぐのに巻き込まれた時のことを思い出して、パールは訊いた。

「当たり前じゃないか」

 一平は即答する。誰が離すもんかと思う。

(でも…それよりおぶった方が危なくなくないかな?)

 繋いだ手と手の間に衝撃が来たらまた離れ離れになってしまいそうだ。それよりは、体をくっつけ合って一塊りになっていた方がいい。飛ばされても行き着く所は一緒のはずだ。

「よし。こうしよう」

 説明は省略して一平はパールの腕をとる。自分の背中に回して背負った。パールが慌てて肩にしがみつく。

「腕を前に回せ。…そうだ。しっかり捕まってろよ」

 パールは一平の言う通りにした。

「もっと力を入れないと落ちるぞ」

 パールはしがみついた。

 でも思う。

「一平ちゃん、苦しくないの?」

「いや」」

 首を締め付けられているのだ。苦しくないはずがない。が、一平は嘘をついた。パールの腕力など高が知れている。これを加減することの方が一平には恐ろしかった。

「いいから。絶対離すなよ。ボクがいいって言うまで、必ずだぞ」

「うん…」

「死んでも、離すなよ」

「うん…」 

 自分でも無茶を言っているとわかっていた。でも

パールは反論しない。多少意味がわからなくても、一平の言うことはパールにとって絶対だった。

 一平は間合いを計る。

 渦巻きを凝視し、通り道に目を凝らす。

「行くぞ」

 彼は泳ぎ出した。


 思った通りだった。

 渦の外縁と外縁は力が相殺されて台風の目状態になっていた。これは隣り合う渦巻きの回転する向きが正反対であることから起こる現象だった。それを読み取ることのできるものだけがこの渦の内側に入ることができるのだ。

 とはいえ、渦は動いている。微妙に場所を変え、膨らみを変え、その通路を不変なものにさせてくれない。注意を怠れない。

 パールは不思議な気持ちで一平の背にいた。

 渦のことをきれいと評したけれど、これほど間近にくるとそんな悠長な感想は抱けない。渦は巨大で果てしがなく、巻く勢いは怖いほど堂々としている。

 一人だったら絶対に通ろうとは思わなかっただろう。

 一平がいるから通れるのだ。

 何も知らずに近寄っていたら呆気なく死んでいただろうし、とっくに大亀に会うのは諦めて他の方法を探していただろう。

 不安はあまりなかった。無知が幸いしていたかもしれない。でも渦巻きの怖さを知っていても、一平と一緒なら安心できた。一人ではないということは心強い。

 しかもこの連れは頼りになる。

 パールのことを本当に心配してくれている。

 そしてパールは一平のことが好きだった。

 自分の生まれ育った世界と一平とどっちを採るかと訊かれたら、パールには答えられないほど、彼の存在はパールにとって重いものになっていた。その一平の背中で長い時間が過ぎた。

 ようやく大渦の九割方進んだ時、不意に渦が大きく揺れた。渦の範囲が予想外に膨らみ、物騒な触手を二人の方に伸ばしてきた。

「一平ちゃん‼︎」

 後方になりつつある一の渦を眺めていたパールが気がついて叫ぶ。

 一平が危機を察知して振り返るが、遅い。

「うわっ‼︎」

 水流が鋭い切先となって二人を直撃する。

 一平の右腕が切り裂かれた。

 まるで鋭利な刃物で切られたようにきれいな切り口だ。いわゆる地上でかまいたちと呼ばれる現象に似ている。

 弾き飛ばされて体勢を崩した。思わず腕を押さえてよろめいてしまう。

「一平ちゃん!」

 ただ事でないのはパールにもわかる。パールも一平と共に振り回されていた。だが、言いつけはしっかり守ってしがみついている。

 

 パールの腕で一平の首が締まる。右腕は焼け付くように痛い。

 切られたのは二の腕だ。二十センチに渡って傷口から血が滲んでくる。左手で押さえても全部は押さえきれない。

 腕が使えないと速度が鈍る。

「くそっ」

 忌々しげに悪態をついた時にはもう一平は体勢を整えていた。こんな所にはいつまでもいたくない。一平は右腕の傷には構わずに水を掻く。一平の血でパールの目の前に赤いフィルターがかかる。

 心が痛い。パールの胸はぎゅっと締め付けられ、刃物で突かれているように苦しかった。

(一平ちゃんが…一平ちゃんが…) 

 一番頼りになり、何でもできると思っている一平が目の前で傷ついている。岩の島でお尻を打った時よりずっと痛そうだ。だって血がいっぱい出ている。痛くないはずがない。どうしよう。どうしよう。

 パールはパニックに陥った。

(やだやだやだ。一平ちゃんが怪我しちゃうなんてやだ。こんなに血が出たらきっと死んじゃうよ)

 苦しくないはずがないのに一平はパールを背負ったまま渦の向こうを目指している。速度を落とさず、さっきよりも周りに注意を払い、まっしぐらにこの危険地帯を抜けようと努力している。その表情は真剣そのものだ。苦痛に顔が歪んでいる。

 それを見てパールは落ち着きを取り戻す。

 とにかく血止めをしなければ、とパールは思う。

 一平の首に回していた手を一平の右腕の方へ伸ばした。

 一平の首が楽になる代わりに腕が重くなった。

「何やってんだ⁉︎ちゃんと掴まってろ」

「こっちに掴まる!」

 パールは一平の傷口を両手で押さえようとしていたのだ。

「邪魔だ。ばか」

 やめさせようとして言ったがパールは聞いちゃいない。一平の傷口を守ることしか頭にない。小さな手が一平の二の腕を覆う。押さえただけで痛みが引くような代物ではなかったが、パールの手が触れた途端にすうっと感覚が変わり、ドクドクと脈打っていたのが嘘のように収まった。

(…⁈…)

(パールがするから…一平ちゃんの代わりにパールが押さえてるから。だから一平ちゃんは泳いで。…早く行こう…ここから早く抜け出そうよ)

 パールがどういう気持ちでいるのか、声がしたかのようにはっきりとわかった。

 一平は、自分のするべきことに立ち戻った。パールを見る。

 表情が硬い。涙溢れる瞳はただ一点を見つめている。パールの意識は傷口に集中していた。

(パールがするから…。一平ちゃんの代わりにパールが押さえてるから。だから一平ちゃんは泳いで。…早く行こう…ここから早く抜け出そうよ)

 パールがどういう気持ちでいるのか、声がしたかのようにはっきりとわかった。

 一平は自分のするべきことに立ち戻った。


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