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第二十二章 光の人魚姫

 少し前から振動を感じるようになっていた。

 これが蠕動運動と言うものだろうか。取り込んだ餌を消化するために、臓器が自力で動いているからこうなるのか?

 改めて周りをよく見ると、死骸の嵩が減っていた。一平が探し物のために移動させたせいではない。ならしをされたのだ。

 浸かりきっていた下の方の摂取物は、原型を留めないほど変わり果てた姿になっている。この胃液の雨の降り方も尋常ではなくなってきた。もともと濡れてはいたが、既に一平はずぶ濡れ状態だ。これはまずい。

 見つけたカチューシャを自分の頭に嵌め、一平は何度も胃壁をよじ登ろうと努力してみた。しかし壁はぬるぬるとして柔らかい上にひっきりなしに液体が染み出してきて、五十センチと登れはしなかった。

 入ってきた時の食道と同様ここが海水で満たされていれば、泳いで外への道を辿ることができるのにと、一平は頭を抱えていた。

 これは大きな誤算だ。

 かくなる上は、下の肛門から出るしかないかと考え始めた時、再び今までになく大きな振動が来た。

「うわ」

 足元が悪いので転ぶのは容易い。

 尻や手をついた所は、溶解しかけた生物の胃液漬けだ。敢えて触れたくはないが、そうも言っていられない。咄嗟に思いっきり握り締めたものが、ぐにょりと気味悪く崩れて怖気が走った。

 ここへ来てからどのくらいの時間が経ったのだろうか。はじめのうちはなんとも感じなかった胃酸の液ももうかなりの成果を上げている。体中の皮膚―特にむき出しのところ―はヒリヒリチクチクして、足の裏などはひと皮剥けていた。バランスが取れずに尻餅をつくので、臀部も爛れてきている。皮膚が柔らかく敏感な場所なので程度も酷い。火傷状態だ。マントを下に敷いて防護を図ったが、気休めとわかってとうに止めていた。

「くそ…」

 いっそ、自らこの胃液の中に飛び込んでいって、腸への道を探そうかと、本気で考える。その先はさらに過酷な道であることを身体のどこかが示唆して引き止めてくれているので、辛うじて思い止まっているのだ。

 再び大きな揺れが来て、一平は左右に揺さぶられる。ぶち当たった胃壁は柔らかいが、それ以前に身体中が痛いので、大した慰めにはならなかった。

 為す術がなく、拳骨で殴りつける。ググっと凹み、拍子抜けする手応えだ。

「うぅ…」

 呻き声が俯いた一平の口から漏れる。

 絶望に打ちひしがれながらも、何とかしっかり立て直そうと自分を励ます。

 ―しっかりしろ。一平―

 ―落ち着け。落ち着いて考えるんだ。何か、方法があるはずだ―

 ―諦めるな。ここで諦めたら、もう二度とパールには会えないんだぞ。おまえが戻らなかったらパールは一体どうなるんだ。あの子を一人にしていいのか?こんな旅に連れ出しておいて放り出すのか?こんな魔物の住む海に、あのいたいけな少女を⁈―

 パールの姿が思い浮かぶ。一平に叱られればしゅんとし、褒められれば元気になる。無邪気に甘え、彼を慕って寄り添ってくる少女。一平を信じて待つ真摯な瞳。その身を案じて泣くパール。

 心配しているだろう。

 ちゃんと、言われた通りにしているだろうか。

 もし、一平の言いつけをあくまでも守ろうとするならば、いずれ―それも近いうちに―パールもこいつらのお仲間になる。

 ―そんなのはいやだ!―

 帰らなくては…。ボクの言ったことがパールの死に繋がるのなら、なんとしてでも戻らなければならない。

 一平が決意を新たにした時、またしても揺れが来た。

 今度の揺れは非常に大きい。今までのものとは比較にならない。勢いよく下から突き上げるようにして襲ってきたうねりは、胃壁の収縮によるものだった。膨らんだ風船を外から押して空気を飛び出させるように、胃袋が縮んで中のものを押し上げた。

 胃酸漬けの生物もろとも、一平は押し出された。

 勢いに抵抗する術を持たない彼は流されるしかない。

 一瞬にして自分を取り囲んだものの気味悪さに、思わず一平は目を瞑った。

 ほんの一秒か二秒の後、彼の身体は澄んだ青い海にゆらゆらと漂っていた。

 身体中にまとわりつく不快感が消えて、一平は目を開く。

(ここは…)


 パールといた海域だった。地形に見覚えがある。

 目の前十メートルほどの所で黒い巨体が体を折って呻いていた。何度も何度も口から食べたものを吐き出し続けているのだ。

 一平は理解した。

 魔物が嘔吐したので自分は助かったのだと。

 しかし、なぜ急にそんなことになったのだろう。何か悪いものでも食べたのだろうか?変わったものでも口にして、体が受け付けなくて…。

 でもあの魔物は何でもかんでも一緒くたに飲み込んでいた。そんなデリケートな体なのだとは思えない。

 あまりの意外さにぼんやりと魔物の様子を眺めていたが、はたと思い至った。

 ぼっとしてる場合じゃない。

 パールはどこなんだ?

 早くこれを渡して、ここから逃げなければ…。

 パールを置いてきた場所の見当をつけ、水を掻き始めた。

(くっ…)

 海の塩分がピリピリと皮膚に染みる。

 気を取り直して進行方向に目をやった。一平はそのまま固まった。

 珊瑚礁の上に何かがいた。そこの一角だけがオパール色の光で青く輝いている。

 そしてその中心に、彼の女神がいた。

「パール…」

 小さな人魚姫は一心不乱に歌を歌っていた。華やかなステージの上の歌姫のように、恍惚とした表情で美しいメロディーを奏でている。神々しい光はパールの身体から発されていたのだ。

 よく見ると、光源から細い光の筋がいくつも伸びている。光の筋の向かう先はあの魔物だ。

 一平は振り返った。

 吐瀉物を全て吐き出してすっきりしたのか、魔物は一回りも二回りも小さくなって蹲って寝入っていた。


 ―おやすみ、魔物さん

  おやすみ、ねんねしな

  もう、お腹はきれいになったよ

  もう、痛くないよ、苦しくないよ

  今までみたいに、食べなくていいよ

  大丈夫だからね

  ありがとう

  返してくれてありがとう

  パールの大切な人を、ありがとう―


 耳に届くパールの歌が、全てを語っていた。

 偶然でも何でもない。

 一平の命を救ったのはパールだ。

 どこでどう思いついたか知らないが、パールが魔物を楽にしたのだ。

 あの暴飲暴食には、何か理由があったのだろう。それをパールが取り除いてやった。それが同時に、腹の中のものを吐き出させる行為となり、腹の中にいた一平を体の外へ放り出すことへと繋がったのだ。

 パールはまだ歌っている。

 その歌詞から察するところ、一平が助かったのは知っているのだ。それでも、まだ歌っている。

 一平を助けるためだけならば、もう歌わなくてもいい。祈らなくてもいい。それでもまだ止めないということはおそらく…。

 パールは、魔物そのものを救ってやりたいと思っているのだ。この後もあのような暴挙に出ることがないようにと。

 その願いは達成されるだろう。

 彼女にならばそれができるに違いないと、一平はわけもなく確信した。

 そのうちに眠くなった。

 一平は逆らわない。

 この睡魔は(たち)の悪いものではない。よく身に馴染んだ快い開放感が彼の身体を支配していく。既に痛みは感じなくなっていた。

 次に目を覚ました時、身体中の爛れも良くなっているのだろうなと、漠然と思った。


 パールが見下ろしている。

 ほっとした顔で。

 実はそれまでは、今にも泣きそうなほど心配な表情だったのだが、一平の目元が動いて瞼が開き始めると、きれいさっぱり消え失せてしまったのだ。でも一平にはそんな事は知りようもない。

「パール…」

 ちょっと元気がないが、いつもの優しげな微笑みで呼ばれて、パールは一平の上に突っ伏してきた。

 いや、違う。一平の頭を丸ごと抱え込んだのだ。

 一平は面食らう。

 だが、それで初めてわかった。

 パールはずっとこうして一平を抱いていたのだ。以前パールが熱を出した時、一平が一晩中抱いて温めてくれたように。

 体の小さいパールは一平を丸ごと包むことはできないので、大切な上半身を可能な限り包んでいたのだと思われた。

 全身火傷のような状態だったのだから、それで熱が出る事は充分考えられる。

「…もう…熱くないね…よかった…」

 パールの口から漏れる小さな呟きが、一平の考えの正しかったことを裏付けた。

 女性の胸に抱かれるというのは滅多にあることではなかった。母を早くに亡くした一平にとっては余計そうで、記憶にあるのは、旅立つ直前に最後に伯母に抱き締められたことだけだ。

 一平の方は甘えん坊のパールを数え切れないほど抱っこしてやっていたが、このシチュエーションは初めてである。

 一応女性とはいっても、膨らんだ乳房もなく、子どもそのものの少女―しかも体の半分は魚の尻尾―の胸だ。赤面するほどの価値のあるものではないが、驚きがなりを潜めると、途端に一平の胸は早鐘を打ち始めた。飛び離れたいくらいだが、そんなことをしてはパールに変に思われると、気を回すくらいには頭は働いた。溜まった唾をごくんと飲み下し、努めて冷静に少女の腕を擦り抜けた。

「…おまえは…凄いな…」

 唐突な一平の言葉に、パールは首を傾げる。

「一平ちゃん、顔赤いよ⁈やっぱりまだお熱があるのかなぁ」

 隠したつもりだったのに気づかれて、一平は慌てて身を起こした。

「…平気さ…。おまえが、診てくれたんだから」

 顔が赤いのは熱のせいではない。このドキドキも。気取られたくなくて、ぞんざいな口調になってしまうのもそのためだ。

 けれど一平は抑える。気持ちを無理矢理押し込めて話を逸らす。

「声…出るようになったんだな…」

 そして、やっとパールの顔を見やった。

 違和感があった。

(…?…)

 また、変態でもしたのかと思ったが違った。カチューシャをしていないせいだ。

「おまえ…髪飾りを…」

 どうした?と訊きそうになって気がついた。そういえば、渡した記憶がない。

 パールがくすっと笑って言った。

「一平ちゃん、かわいいよ」

「ばっ…‼︎」

 まだ頭に嵌めたままだったカチューシャを真っ赤になって取り外した。

 クスクスと愉快そうに笑い続けるパールを横目で見て、一平は憮然とした。

「…気がついたなら、自分で嵌めればいいだろう。何でいつまでも…」

「一平ちゃんに渡して欲しかったの」

 ぶつぶつ言うのを終いまで聞かず、パールはニコニコと訴えてきた。

「え?」

「持ってきてくれた時みたいに嵌めてよ」

「……」

 トリトンの壁に包まれたパールの髪にカチューシャを差してやったことをパールは言っている。

 あの時パールは生まれ変わった。翼の死を乗り越えて、新たな一歩を踏み出した。

 そして今再び、パールは一歩成長した。自分の大切なものが一平の存在であるということを自覚して、自分の可能性を自ら試した。

 パールにはうまく説明できないし、言うつもりもなかったが、彼女は思ったのだ。一平にカチューシャを嵌めてもらうことを、自分の成長の儀式の代わりにしようと。


 一平はすぐに頷いた。

 深い意味があろうとなかろうと、こんなかわいいパールの頼み事を足蹴にするのは馬鹿げている。

 神妙に頭を垂れるパールの髪にカチューシャの両端をゆっくりと差してゆく。頭にぴったり収まると、パールが愛嬌たっぷりの瞳を向けた。

 思わず心臓がドキンと跳ねた。

 それを隠すために、またしても一平は話を思ってもみない方向へ向ける。

「戴冠式…いや、戴帽式みたいだな」

「タイボウシキ?」

「ああ。戴冠式ってのは王様になる時に冠を被せてもらう式のことさ」

 それならパールも知っている。トリトニアには王様がいるのだ。

「戴帽式ってのは…看護婦になる時、看護婦の帽子、ナースキャップを戴く式のことだよ」

「看護婦って、お医者さんのお手伝いをする人のことだよね?」

 洞窟にいた頃得た知識でそのくらいのことならわかる。図鑑には、看護婦や医者の仕事の様子が絵付きで紹介されていた。

 男性も看護の仕事に就けるようになってからは看護婦とは言わず看護師と呼ばれていて、衛生面などの理由からナースキャップは廃止されている。洞窟で見ていた図鑑は発行年月日が大分古いものであったようだ。一平はその点を訂正したが、パールは構わず尋ねる。

「看護婦さんにならないと、その帽子はもらえないの?」

「…じゃないか?ドラマでしか見たことないけど」

 一平だってそんなに詳しいわけじゃない。

「そっか!」

 それでもパールは納得して、何やら目を輝かせている。

「なんだ?」

「じゃあ、パールは看護婦さんくらいにはなれたんだよね?」

 カチューシャをナースキャップに重ね合わせて見ていることに、一平は気がついた。

「看護婦どころか…立派に医者の仕事をしてると思うぞ⁈」

 何しろあんな得体の知れない魔物をおとなしくさせたんだから。

「そんなことないよう。パールはまだ子どもだもん」

 謙遜しているのか、本気でそう思っているのか、いまいち一平にはわからない。

「だけど…」

 笑っていたパールがふと眉を曇らせて言った。

「もう、一人で行っちゃだめだよ⁈今度はパールも一緒に連れて行ってね」

「………」

「パール、心配したんだから。…いっぱい…いっぱい…」

 まだまだ記憶は生々しすぎる。一平の皮膚の変わり果てた有り様を見て、パールが動揺しなかったはずはないのだ。泣かなかったはずもない。苦しくなかったはずがないのだ。

 でもそのことをパールは言わない。心して言わないようにしている。

 一平の胸に愛しさが込み上げる。

 戻って来れてよかった。

 笑顔だけではない。パールが一平のことを心配して泣いたり怒ったりするのも、一平にとっては快いことなのだ。それはパールが一平のことを案じているしるし。一平のことを思うが故にしてしまうという証し。パールに心配をかける時、少なくともその時だけはパールは一平のことを考えてくれているという証拠なのだから。

 一平はゆっくりと手を広げた。

「おいで」

 パールの目がきらめく。

「そばにいるよ。ずっと。いつだって…どんな時でも、ボクはおまえと一緒にいる…」


 旅半ば、目指すトリトニアはまだ遠い。


 (トリトニアの伝説 第二部 放浪人の行進曲 完)

拙い作品を読んでいただきありがとうございました。

「放浪人の行進曲」は、海洋ファンタジー「トリトニアの伝説」の第二部です。


目指すトリトニアが北大西洋にあることを確信し、旅を続ける一平とパールの二人ですが、様々な困難を乗り越えながらお互いが何よりも大切な存在であることを自覚しました。

この後は新たな出会いと展開が待ち受けていますので、引き続き読んでいただければ嬉しいです。


一週間ほどの準備期間の後、第三部「ムラーラの恋歌」を連載開始する予定です。

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