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第二十一章 魔物と女神

 それまでよりは、広い空洞に出た。

 光はなく真っ暗だが、一平にはわかる。ここは魔物の胃袋の中だ。飲み込まれてきた大小様々な生物や無生物が所狭しと積み重なっている。海水は胃に達するまでのどこかで濾されて排出されてしまったらしく、水面からあぶれた魚たちが苦しげにピチピチ跳ねているのが至る所で見受けられた。

 そこには、わずかだが潮溜りがあった。外に出損なった海水なのだろうが、飲み込まれた海の生き物たちが生きていくには、あまりにも少なすぎた。五分もしないうちにみな死んでいくのは避けられそうもない。

 水の中でなくても息ができるのが幸いした。

 とは言え、ぐずぐずしてはいられない。ここは魔物の腹の中だということを忘れてはならない。じっとしていれば、遅かれ早かれ他の魚たちと同じ運命を辿ることになる。急いで目的のものを見つけてさっさと戻らなければ。

 ぬるぬると滑る魚たちの死体を踏み分けながら、一平はパールの宝物を探した。一通り見回して、ないとわかると、折り重なる生き物や死体を一つ一つ除けて覗き込む。気の遠くなりそうな作業だったが、他に方法はなかった。

 息はできるが、普段通りとは言い難かった。匂いがひどいのだ。

 手術に立ち会ったことなどありはしないから、人の内臓がどういう匂いを発するものかは一平は知らない。だが、肉にしろ魚にしろ独特の匂い、生臭さというものがある。排泄物の匂いも決して心地よいものではない。尿や便はまだしも慣れているが、吐瀉物に至ってはそばにいるだけでこちらも気分が悪くなるような匂いを撒き散らかす。それに近い臭気が辺り一面に漂っていたのだ。饐えたような酸っぱそうな匂い…。酸性のものの持つ特有の匂い。

(…胃酸か)

 ここが胃袋であることを、改めて一平は認識する。

(…とすると…もしや…これは…)

 足元に累々と横たわる死骸の下の水は、飲み込まれた海水ではない。腹の中に取り込んだものを溶かして消化するための酵素、胃液だ。

(まずい‼︎)

 そう思った時には、一平は既に異液の中に足を突っ込んでいた。海水だとばかり思っていたので、気にもならなかったが、胃液なのならのんびり浸かってはいられない。慌てて飛び退いて訝しげに足先を見る。

 今のところは異常はなさそうだ。短時間だったし、海水で薄められるなどして濃度が低かったのかもしれない。それにそもそも、体があっという間に溶けるほどの強い酸であったら、本体の方にまで悪い影響を及ぼす。元々胃酸のPH値は、取り扱い注意の必要な硫酸等とは桁が違うのだろう。獲物は逃げられやしないのだから、じっくりじわじわと溶かしていけばいいのだ。

 それも願い下げだな、と一平は思った。魚たちは窒息しているのでもう痛くも痒くもないだろうが、一平はまだピンピンしている。こんな所に閉じ込められて、じわりじわりと苦しみながら果てていくのは物凄く遠慮したい。

 食料だけは腐るほどあるが、とても手をつける気分になれる場所じゃない。

 とにかく、早くカチューシャを見つけることだ。喉に仕掛けてきたつっかい棒だって、いつ外れてもおかしくないのだから。

(どこだ⁈…翼…。教えてくれ…)

 あのカチューシャに翼の魂が宿っているのなら、返事をしてほしいと彼は思った。

(パールには…必要なんだ…。おまえが…パールのことを大事に思ってくれた証しなんだから…)


 翼はパールが好きだった。

 それは確かだ。

 恋愛対象になんかならないような幼い少女でも、彼らがまだ子どもであっても、翼がパールに抱いた感情は、『ケーキが好き』の『好き』ではない。

 ―ぼく、パールが好きだな―

 そう呟いた翼の口調には大人の貫禄があった。

 無邪気に、『可愛いなぁ』と告げる時にはない、挑戦的な気持ちが確かに込められていた。

 ―パールが一平のことを慕っているのはわかっている。だけど、それは一番初めに会ったのがおまえだったからだ。ぼくはパールが好きだ。おまえよりずっと。だから見ていろ。絶対に、ぼくの方をより好きにさせてみせる―

 口に出しては言わないが、言葉の端々や態度の変化に、翼の気持ちは表れていた。十三年間兄弟同様に過ごしてきた従兄弟だ。少しも感じ取れないとしたら、子どもだということを差し引いても、愚鈍な話だと言えるだろう。

 然して、一平は気づいていた。

 今頃になって彼は思う。翼はあの頃から―パールを見た瞬間から― 一平自身が自覚していなかった気持ちを感じ取ったのかもしれないと。ただの迷子に寄せる同情ではなく、同族意識から来る連帯感でもなく、一人の異性としてパールのことを見ていることを。

(…好きだったんだ…。ボクは…パールが…。もうずっと前から…。きっと、パールを見つけた時からずっと…)

 不可解な自分の行動を反省しつつも分析して、一平は結論する。

 こんなばかなことをしているのはそのせいだ。

 パールが好きだから。大事だから。泣かせたくないし悲しませたくない。だから拾いに来た。パールの大事なものを。

 その手に取り戻して笑うパールが見たかった。彼女が微笑むと、それだけで幸せな気持ちになれた。パールが笑ってくれなかったら、今自分の生きている意味はない。

 父のことは知りたかったし、自分に何ができるか探求したい。けれど、パールの笑顔を見ることの方が、それよりも優先されていた。

(だから…。パールに持っていく。翼の髪飾りを。パールだけじゃない。(あいつ)の願いでもあるんだ。ボク以外に、誰がしてやれる⁈)

 死んだ人間に身体はもうない。

 が、心はどこかにある。

 一平はそう思う。

 去り際に翼の魂はパールに会いに来たのだと聞いている。空から見ているからね、と言ってくれたのだという。

 それは夢だったのかもしれない。けれど、その時点で翼が息を引き取ったのを知る手段はパールにはなかったはずなのだ。だったらやはり、事実なのではないだろうか。死者の魂はこの世界のどこかに実在する。例え見えなくても。聞こえなくても。

 誰も見ていない所で悪いことをした人間が、不安や良心の呵責に苛まれるのは、見られているという意識が心のどこかに存在するが故なのかもしれない。

 あの遺跡の島での不思議な体験も、一平をそういう考え方に至らせるのにひと役買っていた。パールは霊の声を聞き、二人は共に同じ夢を見た。いや、見させられた。

(…見てるんだろう?約束だろう、翼⁈おまえの髪飾りだ。おまえの形見の品だ。…ボクに見つけさせてくれ。どこにいる?このままでは…おまえはパールのそばから離れてしまうんだぞ⁈)

 一平の必死の呼びかけが聞き届けられたのだろうか。

 遂に一平はパールのカチューシャを発見した。胃液溜まりの底できらりと何かが輝いたような気がして目をやると、丸い粒の連なる何かが沈んでいるのがわかった。

(‼︎)

 一平は迷わず手を突っ込んだ。もっと強い酸であっても、多分彼は同じことをしただろう。

 果たしてその手に掴んだものは、紛れもなくパールの宝物の髪飾りであった。

 安堵の吐息が一平の口から漏れる。

 あいた方の手の甲で額の汗を拭いながら、頭上の侵入口を仰ぎ見る。

 ぽたりと雫が落ちてきた。

(?)

 ポタリ、ポタリとどんどん間隔を狭めて増えてくる。

 まるで俄か雨だ。

 一平は思いっきり眉を顰めた。

 胃液の出血大サービスだった。


 果てしなく長い時間が流れていった。

 実際には僅かだったが、パールにはそう感じられた。

 自分はなんということをしてしまったのだろう。なんと愚かしく、不用意な真似をしてしまったのか。

 髪飾りが弾き飛ばされてしまったのは不可抗力だとしても、拾おうとしたのが無謀なことだったのだとしても、危機を救ってくれた一平を再び危険に追いやることになる態度を、パールはとってしまったのだ。

 確かにあの髪飾りは大切なものだった。失ってしまうのは絶対に嫌だった。その気持ちを抑える事はまだ幼いパールには無理だった。けれど、そんな素振りを見せたら一平がどう思うのか、パールが悲しんでいることを知ったら彼がどういう行動をとるのか、理屈ではなく経験がパールに教えてくれる。しかし、それより先に自分の感情を表に出してしまうのが、若すぎる故の哀しさだった。

 一平の行動は、素早い。

 一平の言ったことをパールがしっかりと理解する前に、もう彼は飛び出している。パールが止める間もない。ワンテンポ遅れてパールは事の重大さに気づくことになる。

 ―また、考えなしのことをしてしまった―

 いつも、いつもそうだ。

 してしまってから気づく。

 鯨の前にフラフラ出て行った時も、沈没船の中に真珠のネックレスを見つけた時も、台風の脅威に晒された時にも…。

 そしていつも一平に冷や汗をかかせる。心配を掛ける。危険に巻き込む。

 パールには何もできない。ただおとなしくじっと待っていること、身を隠していること、一平の無事を祈ること、しか。

(どうしてだろう⁈)

(どうしていつも、パールは一平ちゃんに迷惑ばかり掛けてしまうんだろう?)

(どうして一平ちゃんは、それでもパールを助けてくれるんだろう?)

 ありがたかった。

 嬉しかった。

 そして、何より、情けなかった。

 大好きな一平を困らせてばかりいる自分が。

(どうして…?)

 危険なことなどしてほしくないのに。ただ一緒にいたいだけなのに。

 あんなところへ飛び込んで行ったら命がないに決まっている。

 せっかく逃れてきたのに。

 一平の努力をパールは水の泡にしたのだ。

 ただ一人の頼れる人を失うことになるのは必至だった。

 止めどなく涙が流れる。

 これが泣かずにいられるものか。

 あの魔物は一平ちゃんを飲み込んでしまった。パールの髪飾りと共に。

 自分はこれからどうしたらいいのだろう。

(どうしたら…)

 ―パール―

 誰かの呼ぶ声がして、パールは周囲を見回した。

 辺りは静まり返ったままだ。

 ―トリトニアの真珠よ―

(誰?)

 人らしき姿はどこにも見えない。

 ―目を閉じなさい。そのままでは、私の姿は見えませぬ―

 素直なパールは姿なき声に従順に従った。

 瞼の裏に光が広がる。オパール色の光だ。

(これは…)

 パールの知っている光だった。この輝きはトリトニアで見たことがある。全てを包み込むような優しい色合い。

 その光の中心に影が集まる。

 影は次第に人の形へと姿を変えてゆく。

 長い長い髪をした女性のシルエットが浮かび上がる。顔ははっきりとは見えない。ぼやけている。

 女性は名乗った。

 ―私の名はピピア―

 

(ピピア⁈)

 鸚鵡返しに考えてから、パールはハッとなる。

(ピア女神様⁈)

 ―覚えていてくれましたか。その通りです。私はトリトニアの守護神の連れ合い、女神ピピアです―

(本当に…本当に、ピピア女神様?)

 その名はトリトニアに住むものなら喋りたての赤ん坊でも知っていた。守護神トリトンの名と共に。

 女神は静かに微笑していた。顔立ちがわからなくても、微笑んでいることは体で感じられる。それほど暖かい。

 守護神たちは、滅多に海人の前に姿を表す事はない。声を聞くことができるのは神官たちだけだと聞かされて育った。だから今自分の前にいるのがピピア女神だというのは俄かには信じられない思いがある。

 しかし、そこはそれ、パールはやはりパールだった。

(お願い。ピア女神様。一平ちゃんを助けて!)

 拍子抜けするほど単純に信じ込んで縋りついた。

(一平ちゃんが大きな魔物に飲まれたの。パールの髪飾りを追っかけていって。…パールのせいなの…)

 ―わかっています。おまえが悲しみの底に沈んでいるのがわかったればこそ、私は来たのです―

(女神様…)

 ― 一つ聞きましょう。おまえはあの髪飾りと一平とどちらを採るかと言われたら、どちらを選びますか?―

(え…)

 ―髪飾りがなくなっても一平がいるのと、一平を失って髪飾りだけが残るのと、どちらの方を望むのです?―

 パールの答えはもう決まっていた。

 散々後悔していたのだ。

(パール、一平ちゃんがいないのは嫌…)

 女神が微笑む。

(髪飾りなくなっても、翼ちゃんは怒らないよね⁈翼ちゃんは髪飾りになっちゃったけど、一平ちゃんまで他のものになっちゃうなんて嫌だ)

 考えただけでもたまらなかった。髪飾りは何も答えてくれない。翼の声も姿も、パールの記憶の中にしか存在しない。一平の声が聞けなくなるのは嫌だった。一平の姿を見れなくなるのも嫌だった。彼のぬくもりを感じることができなくなるなど、とても考えられなかった。


 ―ならば―

 厳かに、ピピア女神の言葉が響く。

 ―ならば、その心の赴くままに行動しなさい。何がおまえにとって一番大切なのかがわかったら、その大切なものを守りなさい。そのための努力を惜しまぬように。自分に正直に生きなさい。それがおまえの良さでもあるのです。自分を知ることを恐れてはなりません―

(大切な…もの…⁈)

 ―おまえが今、一番失いたくないものです。一番好きなものです。それは何ですか?―

 問われてパールは考えた。

 そして答えた。

(一平ちゃんだ…)

 と言うより、呟いた。

 ―では一平を守りなさい。自分に何ができるのかを考えて、できると思ったことをしなさい。背伸びする必要はありませぬ。自分を見つめ、自分のできること、できそうなこと、しなければと思ったことを実行するのです―

(パールにできること…)

 それは何だろう。今のような場合、パールはいつも待っているだけだった。できるだけおとなしく、じっとして、隠れて、一平の言うことを信じ、待って…。

 パールの考えていることを見透かしたかのように、女神は言う。

 ―おまえにしかできないことがあるでしょう?おまえの好きなこと、得意なことの中に―

(パールにしかできないこと?)

 そんなものなんかない、とパールは思った。一平は何だってできるのだ。自分は教えてもらう一方なのだから。

 大体、パールは刃物だって怖いし、すぐ泣くし、好きな蛸一つ満足に捕まえられないのだ。見張りの交代だって、暇つぶしに歌った歌で自分も眠くなってしまう。

 ―いい気持ちだ―

 いつだったか、一平が言ったことがあった。

 ―おまえの歌はなんだかひどく懐かしい―

 そう言う一平の表情は、優しく穏やかだった。

 ―もう一回、歌ってくれないか?―

 一平は望んでくれた。パールの歌う歌を。

 望まれる事は、こんなにも幸せな気持ちになるものなのだと、その時初めてパールは知ったのだ。

 ―おまえのおかげで楽になった―

 礼を言われたこともある。

 ―おまえには本当に癒しの力があるのかもしれないな―

 一平身体のことを心底案じた時、制止を振り切って彼の傷を庇った。鯨のセトールも、パールの歌声を聞くと痛みが引くと言ってくれた。

(そうなのかな?)

 パールが誰かにしてあげたいと思った時、相手の状態は確実に快方へ向かっていた。少なくとも悪化は免れた。

(パールには歌うことしかない。)

 でも今の場合、そんな事は何の役にも立たないのでは?、とパールは考える。

 魔物を倒して腹を切り裂くか、食べたものを吐き出させるかしか、一平を助ける手段はないのではないか。

 ―諦めてはなりませぬ。努力なくして道は開けませんよ―

(でも…)

 悩むパールの頭の片隅に、小さな灯が灯った。

(吐き出させる?)

 もしかしたらできるかもしれない、とパールは思った。

(ううん、きっとできる)

 なぜか、パールは確信した。

 その途端にピピア女神の姿は消えた。

(ピア女神様⁉︎)

 戸惑うがすぐに思い直す。

(ありがとう、女神様。パール、やってみます)

 それからほどもなく、少女の歌声が海の底を流れ始めた。

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