第二章 昔語り
「おまえのそのなり、見たことある」
鯨が言った。
さっきは気づかなかったが、鯨の口振りは穏やかで、彼らに危害を加える気は全くなさそうだった。
鯨の言葉に一平は我に返る。
「あんたに会ったことなんかない」
まだ気持ちの切り替えができない。ぶっきらぼうに一平は答えた。
「よく似ているが違う。あの男はもうおまえほど若くはないはずだ」
「誰のことを言っているのか知らないが、ボクには関係ない」
「関係ないはずがない。その腰の鞘にも見覚えがある」
(何なんだ、一体?いきなり襲ってきたと思ったらパールを口の中に隠しているし、ボクを見たことあると言う)
一平は眉を顰めて鯨を見据えた。
「…おまえは、あの男の息子か?」
一平は目を見開いた。
(父のことを知っている⁉︎)
「父ちゃんのことを知っているのか?トリトニアのラサールを⁉︎」
「やはり…な…」
鯨は頷いた。といっても大きな体でコクリとしたわけではない。が、そういう気配がした。
(教えてくれ。なぜ…なぜ父を知っている?)
さっきまでおまえ呼ばわりしていたことなどきれいさっぱり忘れて一平は問うた。潮干勝としての父ではなく、トリトニアのラサールである父を知る者に生まれて初めて会えたのだ。
「ラサールは…わしの友だった…」
(友?鯨が?父ちゃんの?)
「やつは槍の名手だった。わしらにとって最高のご馳走である大王イカを捕りに、ラサールも南氷洋にやってきていた。部下の一軍を引き連れて」
「南氷洋⁉︎」
南極の海だ。
太平洋に棲息するマッコウクジラは夏になると群れで南の海の果てを目指し、巨大な大王イカをたらふく食って冬に備えるという。寒い寒い、氷の海だ。
(そんな所へ、ボクの一族は行けるのか?テレビで見たことあるけど、氷点下にもなって、吐く息も凍るというじゃないか)
「わしらもやつらも、夏だけ南氷洋に出かけて行った。ご馳走の取り合いになることもしばしばだった。わしらは白い腹でイカを誘うが、やつらは槍や銛でイカを捕る。小さな体で大した技倆よ、と感心したものだ」
「あなたも、父とイカの取り合いをしたのか?」
「漁の腕前を競ったものだ。肚の座った精悍な男だった。しかも、優しい。…おまえによく似ている…」
鯨は父のラサールと共に一平のことも誉めているようだった。
さっきの態度は無謀だったが、確かに度胸はあったかもしれない。
この鯨の方こそ、些細なことを気に留めない大きな器の持ち主なのでは、と一平は考えを改める。自分の方こそ、無礼で早とちりで短気だった。
一平は頬を赤らめて言う。
「…早計でした…。パールを渦巻く波から庇ってくれたのに、あんな言い方をして…すみません」
鯨は出来うる限り目を細めた。
「だから似ていると言うのだ。ラサールも、自分が悪ければ指摘されずとも頭を下げられる男だった」
「……」
そういう父の性格ならば一平もよく知っていた。大好きだった父に似ていると評されて、嬉しさと共に誇らしさが込み上げてくる。
「もっとよく…聞かせてください。ボクは…トリトニアでの父のことは何も知らないんです。父は記憶を失って地上で暮らしていたので」
「そんな理由があったか…。行方が知れなくなって心配していたが、…そうか…」
「元気か、とは、訊かないんですか?」
ふと、不思議に思って一平は訊いてみた。友達ならば息災かどうかが一番気に掛かるはずだ。
「訊くまでもあるまい。やつにもそろそろ迎えが来る頃だ。しかも、地上に長くいたとすれば、自然身体も弱ろう」
「え?」
「海人どもは地上人よりも寿命が短いらしいからな。殆どの者は四十の声を聞く前に神に召されると聞く」
(何だって?それじゃ…父ちゃんが死んだのは病死じゃなく、寿命を迎えていたからなのか?地上での生活がそれに拍車を掛けたと?)
「戦が頻繁に起こればもっと平均寿命は下がろうよ。若者が命を失うことになるからな」
(そうなのか?海人とはそんなに寿命が短いのか?…では、パールも、このボクも?)
一平は思わずパールの姿を確かめた。彼女は確かに一平の腕の中で息をしていた。くるくるとよく動く瞳も、血色のいい唇も、汚れないほど美しい肌も、まぎれもなく命ある者の持つものだ。少女が死を迎える時のことを考えて、一平は頭を振った。
(そんなことを考えるのはよそう。どっちみちずっと先の話じゃないか。ボクだって、四十歳になるまでには今まで生きてきた倍以上の年月がかかるんだから…)
「いつ死ぬかより、どう生きるかだ。おまえを見ればラサールがどう生きたかがわかる。子どもは育てたようにしか育たぬものだ」
鯨の言うことは少しわかりにくかった。多分、子どもを育てたことのある者にしかわからないことなのだろう。
一平は訊いた。
「父と…最後に会ったのはいつだったんですか?」
「十五年ほど前になるかな。ラサールはわしの見舞いに訪ってくれたのだ」
「見舞い?」
「その年は前の年に受けた傷の治りが悪かった。南氷洋へ行くことは諦めて太平洋で大人しくしていたのだ。南の海にわしが現れないわけを知ってか、ラサールはわざわざわしを訪ねてくれたのだ」
「お住まいは太平洋なんですか?」
「この辺の海域を回遊している。その昔、南太平洋にはわしのハーレムがあったのだ」
鯨は群れで暮らす。女子どもを大勢従えた一番の強者がハーレムの王となって皆を率いる。逞しく成長した若者に敗れる時が来ると、年老いた王はハーレムを離れ、離れ鯨となって一人放浪う。
鯨は遠い目をした。彼は王座を追われ、普通は生涯行くことのないこの北太平洋まで死に場所を求めて辿り着いたのだった。
「若者に王位を譲り、わしはここで隠居生活に入った。それを哀れに思ってくれたのかも知れぬ。やつはそのことには一言も触れずに話をして帰った。その直後だ。この辺一帯に大型台風がやって来たのは」
(どの台風だろう?紀伊半島は台風の通り道だもんな。そうだったのか…)
一平の家は紀伊半島にあった。九月に発生する台風はこの辺りを通過することが多い。しかも勢力が大きいことで特徴だ。一平は記憶を辿ってみたがわからない。なにしろ生まれる前の話だ。
「おそらくその台風がラサールの運命の分かれ道だったのだろうよ。深く潜ってしまえば大して影響はないはずだが、何かのはずみで気を失ったか、大怪我でもしたのではないかね?」
「……」
「あれ以来、わしはラサールに会っておらん。風の噂に行方知れずになったと聞いてはいたが、まさかこんな目と鼻の先で後継ぎを育てていたとはな…」
「……」
一平は父のようになりたかった。
共に漁船に乗り、毎日大漁旗をはためかせて浜に戻る自分を何度想像したことだろう。
漁師になると言い切ると、父は一平によく似た目を細めて静かに微笑んだものだ。この鯨が言うように、後継ぎを育てていると意識していたのだろうか。
残念ながらその夢は潰えた。
父を失い、翼を死なせ、一平の行く道は海だと指し示された。
父の思い描いていた漁師の後継ぎになることはもう叶わない。
そう思うと寂しかったが、これは一平自身が選んだ道だった。
パールに出会ってこの道を選んだ。
迷いはあまりなかった。
これが自分の運命なのだと割り切れた。
何より、パールを無事に親元へ送り届けてやりたかった。
先刻、パールが死んでしまったと思った時は世界が真っ暗になった。夢も希望も何もかもなくなってしまったような気がした。
この鯨が敵でなくてよかったと、今つくづく思う。
それにしても…と、一平は顔を上げた。
「さっきはなぜ、ボクらの方に向かって来たのですか?」
「む…?うむ…天使の歌声が聞こえたのだ。声の主を探しにまいった。あいつの歌にあのようにぴったりと沿わせることができる者はそうはおらん」
マッコウクジラは歌は歌わない。歌うのはザトウクジラだ。さっきの歌の主は、このマッコウクジラの知り合いのザトウクジラだったらしい。
「パールのお歌が聞こえたの?」
それまでおとなしく二人の話に耳を傾けていたパールが目を輝かせた。
「やはり、おまえか。歌っていたのは」
「うん」
「わしももう長くない。かなりあちこち節々が痛む。おまえの歌はその痛みを嘘のように癒してくれたぞ」
そんな効果がただの歌にあるとは思えなかった。
だが確かにパールの歌は心地よい。どんな子守歌よりも安らかな眠りを誘う。
「おまえには癒しの力があるらしい」
鯨は不思議なことを言った。
「癒しの力?」
「海人の中には稀にそういう力を持つ者が現れるという。方法は様々だが、その力自体には計り知れぬものがあると聞いている」
パールは笑った。
「そんなもの、パールにはないよ」言い切った。「パールはただ歌うのが好きなだけだよ」
「まあよい。いずれはっきりするだろう。何にしろ、自分の心を大切にすることだ」
鯨もそれ以上は追求しない。
が、二人のことは気になるらしい。
「ところで、おまえたちはどこへ行く?この辺りに住まっているわけではないようだが…」
いい機会だ。この鯨に訊いてみよう、と一平は思った。
「トリトニアへ行きたいんです。この子を送り届けたい」
「トリトニア、とな…」
「ええ。でもパールは迷子なもので、どこにあるのかさっぱりわからない。…あなたなら、もしやご存じでは?」
「知らぬな」
期待外れな答えが返る。
「え⁉︎でも、父とはお知り合いだったのでしょう?何かそれらしいことを聞いたことはありませんか?」
「わしが会ったのはここと南氷洋だけだからな。それに太平洋のことならよく知っているが、わしの知っている中にトリトニアという場所はない」
一平はがっくりと肩を落とした。とても物知りそうだったのに。
「思うに、大西洋のどこかではないか?いくらなんでもあの身体で、北半球からイカごときのためにやってくるとも思えんが」
北半球が対象から外れると、北氷洋なども候補から外れることになる。インド洋はまだ可能性を感じるが。いずれにしろ広範囲に過ぎる。
「…そうですか…」
気が沈む。が、沈んでばかりもいられない。
「ありがとうございました。少しは目標に近づいたような気がします」
なに、まだ旅は始まったばかりだ。こんなに日本の近くで父を知っている人に会え、しかもトリトニアの手がかりまで得ることができたのだ。幸先はかなりいい方だと一平は思うことにする。
「大西洋って…遠いの?」
パールが訊いてくる。
「ああ。うんとね」
「ふうん…」
残念がっているのに違いなかった。けれどパールは文句は一言も言わない。言っても仕方がないのだと、言ったら一平が困るのだとわかっている。他のことではわがままを言いまくるパールだったが、ことトリトニアの場所探しに関しては、一平に一任する姿勢を貫いていた。一平がパールのためにとても大きな犠牲を払っているのだということを、なんとなくではあるが感じていた。
「行くのかね?」
「ええ。…あ、でも、夜が明けてからにしめす。まだ寝てないので」
「では、わしの口の中で休むがいい。外敵は入ってこれぬ」
間違って飲まれちゃったりししないかな、と一平は訝しんだ。
が、パールは喜んだ。
「とってもあったかいんだよ。ねえ、行こうよ」
パールにせがまれて一平は同意した。怪訝に思ったことを恥じた。
「宿賃としてもう一度歌ってもらえると、嬉しいが」
お安いご用だった。
パールは鯨の痛みが少しでも軽くなることを祈りながら歌い続けた。
安らかな眠りを貪ったのは鯨だけではない。一平も、そして歌っていたパール本人もその例に漏れなかった。
鯨の口の中は温かかった。
だが、朝が来たのはわからない。
鯨が口を開いてはじめて太陽の光が差し込んでくる。いきなりの眩しさに二人は目を覚ました。手を翳し、眉間に皺を寄せながら、瞬いて光を受け入れようとする。
「まぶしーい」
パールが不満げな声を上げる。
鯨の喉の方から水が押し寄せて来て二人を押し出した。無防備だった二人が口の外へまろび出る。
「よく眠れたか」
鯨が問い掛ける。
体勢を立て直して一平は答える。
「…おかげさまで…ぐっすりと…」
それはよかった、とでも言いたげに、鯨は横長の目を瞑り、再び開いた。
「クジラさん、ありがとう」
パールも礼を言う。
「お世話になりました。お暇します。え…と…」
まだ鯨の名を聞いてなかった。
「お名前を窺うのを忘れていました。…ボクは一平。潮干一平といいます。この子はパールです」
「イッペイか…。珍しい名だ」
日本人の名だ。おそらくこの広い海に住まうものでこの名を持つ者はいまい。きっと、この名を聞いただけで、この少年のことに違いないと思える時が来るだろうと、鯨は思った。
「わしは…セトール。息災でな」
「あなたも…。お身体をいとってください」
「ありがとうよ」
優しい言葉をかけてもらったのは何年ぶりだろう、と鯨は思った。
「おまえたちが眠ってから、思い出したことがある。」鯨は言う。「ここから南へ七日ほど行ったところに小さな岩の島がある。おかしな形の石で囲まれている島だ。七日と言ってもわしらマッコウクジラの足で測った距離だ。その島の西に六つの渦が巻いている海域がある。連なる渦の中心にドンという大亀が住んでいるから、その者を訪ねるがよい」
「大亀…ですか?」
「もう二百年ほど生きているという話だ。わしより遥かに物知りだ。きっとトリトニアという場所のことも何か知っているだろう」
一平の顔がパッと明るくなった。
「あ…ありがとうございます。本当に…助かります…」
鯨が人間であれば、手をとって握りしめていただろう。
代わりにパールが鯨に近寄った。懐かしい者に寄り添うように身体を凭せ掛け、鯨の目元にキスをする。「おまじないだよ。もう痛くならないといいね」
そう言って微笑んだ。
パールは何も言わずとも一平の元に戻ってくる。
別れを告げた。
いつかお礼に伺いますと言う一平に頷き返しながらも、もう二度と会うことは叶うまいと、鯨は静かに思った。