第十七章 鮫との死闘
パールを隠すのが最優先課題だった。
そして、獲物としてのパールから鮫の気を逸らすのが次にすべきことだった。
さらに可能なら、敵を倒すこと。
このすべてを一平は実行しようとしていた。
生きとし生けるものは、すべて食い食われる宿命を負っている。
人の目には留まらぬような小さいプランクトン類から巨大な鯨まで、すべて食物連鎖の中でそれぞれの生を全うしている。
生物には捕食の対象となるものがいると同時に、天敵と呼ばれる己の生命を脅かすものが存在するのだ。
ただ一つの例外は人間だ。人間に天敵はいない。
毒蛇や蜂や、稀に鮫や熊などにやられて命を落とす者はいるが、種としての存在を常に脅かしている生物はいない。自然環境を自分たちの都合のいいように破壊し、手を加えることのできる二本足の悪魔に、怖いものなどありはしないのだ。
だが、海人はどうだろうか。
パールが自分とは違う二本足の一平を見て動じなかったこと、父の勝が見た目は全く地上の人間と変わりなかったことからして、海人の少なくとも一部は二本の足を持っているようだ。文明の発達に差はあっても、知能は基本的には変わらないだろう。
ただし、海人は水の中で呼吸ができ、魚や海獣のように自由自在に泳ぎ回れる。己より小さな魚や海藻を糧とする。死すればバクテリアのような低生生物や植物の栄養源になるはずで、食物連鎖のどこかに鎖を連ねるのに違いない。
海人を好物とする生き物は果たして海の中にいるのか?
幸い今までは出会わなかった。だが、今はこうして鮫に襲われている。だったら立ち向かうまでだ。常識や理屈がどうあれ、事実を優先すべきだ。
一平はそう判断していた。
一口に鮫とは言っても、すべてが獰猛であるわけではない。強い顎や鋭い歯を持ち、ずる賢そうな目つきをしてはいても、それは鮫が生物として生きていくための必要手段なのだ。
冷酷無比と恐れるのは人間の勝手な思惑であり、鮫にとってはごく当たり前のことでしかない。鮫にしてみれば言われのない不当な評価である。
パールを狙ってきたのは、鮫の中でも人食いと恐れられるイタチザメだ。体調は三メートルほど。イタチザメにしては小さい。身長百七十センチの一平の倍まではない。体の大きさからいって、成熟したばかりと思われた。これがホオジロザメのように六メートルも七メートルもあったら、立ち向かっていこうなどとは思わなかったかもしれない。
そして一平は丸腰ではない。頼みの綱は短剣だ。刃渡りは短いが、切れ味は恐ろしく鋭い剣を持っている。
その短剣を手に、一平は鮫の鼻先目掛けてまっしぐらに進んでいた。
鮫は一直線には進まない。柔骨魚類の柔軟な体を持ち、身を左右に蛇行させて泳ぐ。
嗅覚は一トンの海水に混じった一滴の血の匂いを遠くから嗅ぎ取れるほど鋭い。さっき嗅ぎつけた血はパール自身のものではなかったが、取り敢えず気を逸らせることだ。一平は鮫を挑発した。
鮫は一平を目視すると、体をくねらせ尾鰭を振った。
大きな幅広の頭にある丸い口吻部から、鋸状で深い切れ込みがある歯を覗かせて向かってきたのだ。
「あああ‼︎あんなことしてるぅ!」
サンゴの隙間から海上の方を覗いてパールは地団駄を踏んだ。
一平の行為の意味するところはすぐにわかった。パールを危険から守るためにしているのは明白だった。
パールは、一平は強い人だと信頼していた。
鮫が人魚―特に子どもの―にとって、どんなに注意しなければならない相手なのかは、パールも両親に聞かされていた。ただ、深窓のお姫様状態だったパールには現実味に乏しい知識であったことは確かだ。
だが、れっきとした大人の男性ならば、一対一で仕留めるるのはそれほど難しい話ではないということも聞いていた。出会ってからニ度目の変態を終え、十一歳になって間もないパールに対し、一平は十四歳になってずいぶん経つ。身長差もちっとも縮まらない。
身体が大きいということと年上であるということ、そして男の子であるということだけで判断するのは早計だったとしても、パールには一平が鮫にやられてしまうという不安はあまり起こらなかった。こんな所にパールを隠し、単身敵の前へ飛び出して行く勇気のある者には、神様が必ず応援してくれるという漠然とした期待感もある。
だからパールはおとなしく隠れていた。言いつけを破って出て行ったりしたら、それこそ一平の身が危険に晒されるのだとわかっていた。
鮫は一平の後を追い回す。鮫の泳ぎの癖を頭に入れ、一平はひらりひらりと躱し続けた。自分の出せるスピードをわざと遅く見せて、いざと言うときの切り札に使うという知恵も使う。
だがそれにも限度があった。明らかに鮫が嫌がる行為をしている一平に、鮫が敵意を抱かぬはずがない。そして、鮫ほど複雑に感覚器官を駆使して獲物を狩る動物は他にいないのだ。音、振動、臭い、電流、形など、獲物から発せられる様々な情報を、今鮫は一平一人に標準を合わせて集めていた。
しまったと思った時には遅かった。
鮫は一平の右足をその頑丈な顎に捉えていた。
激痛が足から頭の先へと走り抜ける。鋭い牙は一平の足の一番太い辺り、太腿にグサリと突き刺さっている。
「ぐあ…」
仰け反りそうになる身体を必死に鮫の体に押さえつける。鮫の頭に折り重なるようにして、一平は鮫の体にしがみついた。
楯鱗と呼ばれるサメの鱗は、普通の魚と違ってとてもざらざらしている。いわゆる鮫肌と言うやつだ。おろし金にも使われるくらいだから擦れば痛い。
そのせいで剥き出しの一平の腕は擦り傷だらけである。うっすら血が滲んでいるが、太腿の比ではない。鮫は顎に力を入れ、一平の足の肉を抉っている。どくどくと血が流れ出し、文字通りの血潮となって海水を赤く染めた。ブンブン振り回されて千切られていないだけマシだった。
(くそ…。やはり…力不足だったか…。ボクの力など…たかがこのくらいの鮫にも及ばないのか…。こんな所で力尽きて、海の藻屑と消えるのか…)
それは一平の望みではないはずだ。海へ旅立った目的を、彼はまだ一つも果たしていない。第一の望み、パールを故郷へ送り届けることも、第二の望みである自分の素性を知ることも…。
(パール…。パールごめん。ボクはもうおまえを守ってやれない。トリトニアにおまえを連れて行ってやれない…)
もし鮫が一平の右足一本で諦めてくれたとしても、病院もない海の中でどうやって手当てをし、回復すればよいのだろうか。パールにいくら癒しの力があるとは言っても、なくなった足を再生することなどできるはずがない。いや、その前におそらく出血多量で死に至るだろう。
そんな惨めな姿をパールに見せるのは嫌だった。
いや、惨めと言うより残酷だ。あんな幼く無垢な少女に、見るも惨たらしい有り様と何もできない苦しさを味わせるのは。
(くそ…)
どうすればいいのかわからないながらも、生きたいという一平の本能は彼に一つの行動を起こさせた。
短剣を左手に持ち、鮫の目の位置を探り当てると突き刺した。
鮫の目には魚の骨などから目を守る瞬膜があるが、剣先の鋭さには敵わない。見事に突き刺さり、鮫は思いもかけない痛みにのたうち回る。
この状態で体をくねらせられてはたまらない。襲いくる痛みに耐えながら、短剣に一層力を込め、目玉をこじ開ける意気込みで動かす努力をした。
次に、もう片方の目にも同じことをした。物を補足するのに必要なのは必ずしも目ばかりではないが、手の届く範囲で一番柔らかそうなのが目だったのだ。腹側の心臓の位置に刺されば一番手っ取り早いのだろうが、今の一平の状態ではそれしかなかった。
微かに歌声が聞こえたような気がした。
パールの歌だ。
彼女が歌っている。
間違いない。パールだ。パールが、一平の傷が少しでも良くなるようにと、歌声を飛ばしているのだ。
一平が噛み付かれた瞬間をパールはしっかりと見ていた。
信じられなかった。
だが、それは事実だった。
思わず飛び出して行きそうになるのをパールは必死で我慢した。
今パールがすべきなのはそんなことではない。
一平を助けたいのならば、足手纏いになってはならない。
ここから届くかどうかはわからない。効き目があるかどうかはわからないが歌ってみよう。セトールはパールの歌をどこか遠くから聞きつけてやってきた。台風の島で一平の大怪我を治すこともできた。だから試してみる価値はある。
それでパールは歌った。
一平の…一平の回復だけを願って歌い続けた。
歌に気がつくと、一平の痛みは薄らいだ。
目を攻撃したせいで、鮫の顎に力が入らなくなっていたのかもしれない。痛みの限度を越して感覚が麻痺してしまったのだと言えなくもない。だが薄らいだ事は確かだ。
そして、腕の擦り傷がなくなっていた。
(…‼︎…)
一平は確信した。これは確かにパールの癒しの力だ。
そして、どうしたことだろう。
鮫は一平の足を離してくれた。
目も、レーザー治療か何かを当てられているように、ヒクヒクと動いて治っていくのが見える。
パールの力は一緒にいる者をも巻き込んでしまう。細かい指向性の調節ができないのだ。発現したばかりのこの力のコントロール法を、彼女はまだ覚えていなかった。一平を癒せば、一緒にいる鮫もまた元気になってしまうというのに…。
だが、鮫はなぜかそのままその場を去った。
明らかに弱っている手負いの獲物をそのままに、尾鰭を左右に振って海底目掛けて泳いで行った。
後には、狐に摘まれたような顔をした一平だけが取り残された。
好転した状態を見て取り、パールがやってくる。
(…パール…)
ぼんやりとその光景を眺めながら、一平は意識が薄らいでいくのを自覚していた。
出血が多すぎるのだ。
(だめだ…。ここで、気を失ったら…)
覚えているのはそこまでだった。
気がついた時には見知らぬ海域にいた。
いや、海域ではない。陸上だ。見知らぬ島の上だ。
さっきの島ではない。もう少し広い。島と呼べるほどには。
小さな浜の上に、一平は寝かされていた。
そばには誰もいない。
(…?…)
ここがどこなのか、今はいつで、なぜこうしているのか考えた結果、思い浮かんだのは鮫との格闘だった。
がば、と跳ね起き、辺りを見渡した。
波は静かで天気も良い。身体も服も血もすっかり乾いている。そして一平にはまだ両足があった。鮫に食いちぎられずに済んだ右足を、彼は浜に投げ出して座っていた。
食らいつかれたところを見る。
歯の跡はいっぱいあった。治り切ってはいないが、痛みはない。
―パールがしてくれたのだ―
そう思うと、どうしようもなく心が騒いだ。
こんな気持ちは初めてだった。
感謝の気持ちと言ったらいいのか…ありがたいには違いないが、それだけではない。何度か経験しても、未だに信じ難いこの神業に対する畏怖の心。その行為を惜しみなく自分に注いでくれる幼い少女の痛々しいほどの思い。それらが心に染み渡り、ほっとしながらも、わさわさと落ち着かせてくれない。
パールは無事なはずだった。
確かに無事な姿を一平は目にしていた。
だが、その後の記憶がない。
多分気を失ったからだが、だとすると自分はどうやってここまで来て、この浜に上がったのか?
パールにできるとは思えない。水の中であっても、パールは寝ている一平を三メートル引っ張るのが関の山だ。しかも、ここは重力の大きい地上なのである。
パールの姿が見えないのには理由を見つけることができた。
陽が強いからだ。今回に限ってはパールはきちんと一平の言いつけを守っているようだった。
海面に目をやり、海上を見渡してみる。どこにもパールが出てきそうな気配は見て取れなかった。島の姿も他には見えない。さっきの海域とはだいぶ離れた所に一平はいるらしい。
足を動かしてみた。
多少引き攣れた感じがして痛いが、歩けぬほど、泳げぬほどではない。もう少し休んでいたほうがいいと判断して寝転がる。
パールがさっきの鮫に襲われているのではないかという危惧は不思議なほど感じなかった。
次に目が覚めたときには陽がだいぶ傾いていた。やはり身体は相当休息を欲していたようである。日差しも弱まったのでそろそろパールもやってくるだろうと思っていたら、不意に大きな波の音がした。
波はそんなに高くなかったはずだ。
かといって、パールが海上に上がってくる時にも、そんな音はしない。
鯨のブリーチングぐらいしか思い浮かばなかったが、そうではなかった。
今まで島など一つもなかったところに大きな島が出現していた。
いや、島ではない。とても近い。そして大きい。生物としては…。
一平は唖然とした。
彼の目の前にいるのは、恐竜だったのだ。