第十五章 月下の遺跡
気がつくと一平は何も着ていなかった。気怠い開放感が身の裡を浸している。どうやら何か柔らかいものの上に俯せになっているらしい。
これは岩じゃない。砂浜とも違う。布団でもない。温かくて柔らかくて、とても寛げる香りが辺りを漂っていた。ひどく気持ちがいい。
身体の下に敷いたものが動いた気がして、一平は目を開けた。
自分が乗っているものが、うら若い娘の裸体であることに気がついて、思わず飛び離れようとした。
だが、一平の体は彼が思ったようには動かなかった。自分の意思に反し、全く言うことを利こうとしない。まるで意識だけが他人の体に乗り移ったようである。
この体は自分のものではないのか?
いうことは利かないが感覚はある。娘の体が温かいことも柔らかいことも、そこに確かに存在していることも、自分の感覚として感じられる。
右の二の腕の二十センチほどの傷が目を引いた。
これは一平のものだ。大渦に切り裂かれた時のものだ。
が、これはどうしたことだろう。自分は今、月下の遺跡にパールと二人でいるのではなかったのか?自分の体の下にあるこの娘は一体誰だろう?
一平は娘の手を探っていた。僅かに身を起こし、華奢で白い指に自分の指を絡ませる。二人の指に長い髪が絡まる。娘の髪だ。娘の身体を全て包んでしまうほど長い。そして赤い。
(パールの髪と同じ色だ。)
そう思うと、無性に愛しかった。
繋いだ手に力がこもる。娘は目を閉じてされるがままになっている。恥じらっているのか、まともに一平の顔を見ようとしない。
そのことが一層一平の心を切なくさせる。一平の身体が、この娘を愛しい、愛しいと叫んでいる。一平はそっと娘の唇に触れた。
わけもなく、ああ、やはりいつもの通りだ、と思う。自分の唇は、この娘の唇の感触をよく知っているのだ。
ふと、この娘は眠っているのではないかと思った。大きな反応がないからだ。目も何色か見ることができない。
目を開いたら、さぞや美しいに違いない。
彼は囁いた。
「…目を開けて…パール…」
(⁉︎)
驚いた途端に世界は変わった。
娘の姿はなく、いうことを利かない己の身体もない。
あの、共寝の後のような怪しい雰囲気は、きれいさっぱり消え去っていた。
その代わりに聞こえてきたのは猛々しい人声と金属音だ。己を奮い立たせる雄叫びや気合、激しく刃がぶつかり合う甲高い音。
戦場の鬨の声だということに一平が気がついたのは、周りに現れたのが戦装束の男たちだったからだ。皆、一平と似たような衣装を身に付けていたが、さらにその上に帷子をつけ、剣帯を下げ、手に手に得物を持っている。額には特攻隊の鉢巻きのようなものを締めているものもいる。
気がつくと、自分もそうだった。
敵であると思われる男と剣を切り結んでいた。
一平が勢いよく押し払うと、敵は呆気なく吹っ飛んだ。だがすぐ両脇から新手が切りかかる。目にも止まらぬ速さで左右を薙ぎ払い、背後の気配を捉えてすかさず跳び避けた。
身体が勝手に敏捷な動きをするのだ。手にしているのは、刃渡りが一メートル以上もありそうな幅広の剣だった。見るからに重そうだが、自分の身体の一部であるかのように自然に操れる。
自分のものとは思えないほどの低くドスの効いた咆哮をあげて、一平は何かに突進して行った。
自分が向かっているのはその先にある建物の上で舞っている少女であるようだった。いや、舞っているのではない。ボロボロの黄色いドレスが身動きする度にはためくのだ。
その少女の髪も赤かった。パールと同じ、珊瑚色だ。
(パールなのか?)
疑問に思った時、顔が見えかけた少女の姿は消えた。
一平を取り巻いていた敵の姿も一人残らず消え失せた。
次に聞こえてきたのはすすり泣きだった。
それと、呻き声だ。
断続的に、ひどく苦しそうに唸っているのはなんとパールだった。
どこかの穴倉の中に彼女はいるようだった。そして一平も。
彼女の姿にちょっと違和感があるのは髪が長いせいだった。先程の娘ほどではないが、腰まではあるだろうか。今のパールの髪はもっと短く、やっと肩の辺りまでしかない。
それでも、顔は確かにパールのものだった。こちらも同じように違和感を感じる。面差しが少し大人びて、頬の辺りもすっきりとして今のようには丸くない。これは多分、あと何年か先のパールの姿なのだと一平は悟った。そうして見ると、身長もずいぶん伸びているではないか。
パールは横になって苦しんでいた。
身体中が痛いらしく、ひっきりなしに寝返りを打つ。
こんな様子を目にするのは初めてで、一平はおたおたしていた。
一平の方も、どうやら今より成長しているらしい。腕の筋肉は逞しく盛り上がり、身体には溢れんばかりのエネルギーが満ちている。
だがそのエネルギーも、今は何の役にも立たないみたいだった。
傍らに座り込み、手を握って頑張れと声を掛けることしか彼はしていない。
(どうしたんだろう?)
現実の出来事ではないとわかると、少し冷静に一平は二人の様子を見ることができた。
パールの口からはしきりと痛いよ、とか助けて、とか、うわ言が漏れる。
「大人になるって…こんなに…苦しいの?」
涙の溜まった瞳でパールは一平に訴える。
彼には答える術がない。大抵はどんな時だってパールの疑問に答えを与えてきた。適当な答えが見つからない時はごまかしたり、いい加減なことを言ったりしたこともあったが、まず黙りこくってしまうことはなかった。
それなのに、今の一平は言葉を持たなかった。
意識の一平も同じだ。だが、言ってやるべきことがあったとしてもどうにもならないのだということは、もう彼にはわかっていた。この不思議な夢の中では彼はただの傍観者に過ぎないのだ。
「あううっ… 」
一際大きく、痛みに耐える声が穴倉の中に響き渡った。
身悶えするパールを鎮めようと手を伸ばした途端、またしても全ては消えた。
辺りは月下の遺跡に戻っていた。
方形に囲われた人工島の真ん中で、一平とパールは支え合って立っていた。
足のないパールは一人で立つことはできない。せいぜいが膝の位置でせ尾鰭を折り曲げてバランスを取る程度だ。それに付き合うように、一平も膝をついてパールを支えていた。
パールがきつく一平の背中を掴んでいる。顔にはたった今苦しんでいた名残りがある。突然の現象の変化に明らかに戸惑っている様子だ。
「…夢?…」
パールが呟いた。
「…夢…だったの?」
「……」
「…あんなに、痛かったのに…嘘みたいに…」
「…大丈夫か?」
聞かれてパールは顔を上げる。
「もう…苦しくないんだろう?」
一平の問いにパールは不思議そうに目を瞬く。
「一平ちゃんも…見てたの?今の夢⁉︎」
「…どこかの穴の中で、おまえは苦しんでいた。でも、ボクは何もしてやれずにそこにいただけだった…」
確かめたくて、正直に一平は説明する。
「そうだよ。…おんなじだよ。…どうしてだろう?パールと一平ちゃんがおんなじ夢見るなんて…」
「他にも…見たか?」
「うん…」
聞いてから、一平はしまったと思った。
あの夢の事は言えないと思ったからだ。
まだ子どものパールには意味はわからないかもしれないが、あれはまさしく男と女の営み。夢は願望の表れとも言う。ああいうことを自分は心のどこかで望んでいるのだと思われるのは抵抗があった。
しかも、どうやら相手はパールであるようなのだ。姿は今とまるきり違っていたし、顔立ちもはっきり覚えてはいないが、夢の中の一平はあの娘のことをバールと言う名で呼んでいた。
だから尚のこと、口に出しては言えなかった。
おまえもあの夢を見たのかと聞いたら、内容に触れねばならなくなる。もしパールが同じ夢を見ていて、詳しく説明し始めても困る。
一平は急いでもう一つの夢の話を取り上げた。
「戦場で…ボクは戦ってた。すごく大きくて重い剣をボクは軽々と振り回して敵を薙ぎ倒してた。…どこか建物の上を目指して突き進んでた…」
「ふーん…」
パールの口調は、自分はそんなもの見なかったと言っているのに等しかった。
一平は少しほっとする。同じ夢ばかりじゃなかったのだ。
「パールね…ふわふわ流れてたの。鳥さんに乗せてもらってないのに、お空を飛んでるみたいだった」
「空を⁉︎」
「うん。だってね。下に海が見えるの。イヌワシさんに乗せてもらってる時に見たのとおんなじだよ。濃い青い海に、白い波が小さく小さく光るの」
それは確かに上空から見た海のイメージイだ。
「でもね。岩もいっぱい見えるの。大きいのや小さいのや、緑や白や黄色いのや…。パール、そんなの見たことないのに」
(緑の岩?苔でも生えてるのか?それに、白に黄色だって?)
一平にも何のことだかわからない。
「最初に見えたのは、何か四つの小さい岩が繋がってるの。そこは日本なんだって」
「日本?なぜそんなことがわかるんだ?」
「わかんないけど、パールはそう思ったの。…そこからずっとパールは海の上を飛んでたの。ぐるぐる渦巻きとか、煙とか、順番に見えたの」
それは、六つの大渦と海底火山の噴火ではないか。
一平にはぴんとくるものがあった。
「それから、黒い雲だらけで見えなくなっちゃった」
(…あの、台風か…)
パールの見た夢は、自分たちの行程を辿っているのだと一平は思った。
「もっと行くとね。小さい岩がいっぱいいっぱいあるの。数え切れないくらい」
パールの言う岩とは、島なのだ。空の高みからは、島も石ころの大きさにしか見えないからだ。緑の島は木々の緑、白は雪で黄色はおそらく砂漠だろう。
「それでね。真っ白い大きい岩を見ながらぐるっと回ったの。白いのは右のほうにあったんだけど、今度は緑の大きい三角の岩が左に見えるの。ずっとずっと行くと、また違う変な三角の岩があって、右の方にもでこぼこした岩があって…。その真ん中辺の海にパールは落ちていったの。そしたら…」
「そうしたら?」
「…パールはおうちに帰れたの」
「おうちって…トリトニアか?」
「うん……」
それは道のりか?日本からトリトニアへ至る道のりを示しているのではないのか?
一平は乏しい知識を掻き集めるた。
世界の造りはどうなっている?どのように陸地は広がり、手を伸ばしている?
小さい島々が多いのは南太平洋だ。白い大陸はおそらく南極大陸、三角の岩とは、南北のアメリカ大陸を指していて、凸凹なのはヨーロッパ大陸だろう。
だとすると、トリトニアは大西洋の真ん中にある。
ドンに聞いた話とぴったり一致する。
「パールはお家に帰れたの。パパもママもキンタもいたよ。本当になるといいなぁ…」
パールは今の夢をただの夢だと思っているようだ。だが、一平はこれを予言だと思いたかった。
先程の亡霊はいいものを見せようと言った。
これこそは、一平の最も知りたかったこと、トリトニアの在処の情報だ。そうに違いない。他の事はともかく、ドンが教えてくれたこととぴたりと一致する状況は、ただの偶然の一致と片付けられないものがある。
一平は言った。
「なるさ。絶対に。パールの夢の通りに進んでいけば、必ずトリトニアに辿り着ける。…ボクはそう思うよ」
確信を持って話す一平の口調に、パールは一平を見上げた。一平は自分で自分に言い聞かせている。強い意志を持って希望を大きく持つことで、道を開かせ、幸運を呼び込もうとしている。
難しい感情はわからない。けれど、一平の姿勢が今までより数段前向きになっている事はわかる。
パールは頷いた。
「うん、そうだね…」
遥か彼方を見つめていた一平の遠い瞳がバールの元へ降りてくる。
「さっきの亡霊に礼を言わなくちゃな」
一平に言われて、パールは賛同の微笑みを返した。
池はもう暗い水面に月影を静かに映して佇むだけだった。