第十四章 ポナペの風
ミクロネシアはギリシア語で『小さな島々』を意味する。
広大な太平洋の真ん中、赤道のすぐ北に、東西3200キロメートルにも及んで存在する六百もの島々を、人々はカロリン諸島と呼んでいた。
その東部にその島はある。グアム島から東南東へ約130キロメートル。グアムから太平洋を斜めに南下し、南アメリカ大陸のはずれにある岬を回って大西洋へ抜けようとしている一平とパールの進路上に。
巨大な玄武岩でできた神秘的な遺跡ナン・マタールで知られるボナペ島である。
ミクロネシアの島々は地形的に大きくニ種類に分けられる。火山活動によって生まれたものと、珊瑚礁からなるものだ。前者は険しい山がちな地形だが、肥沃な土壌のため豊かな植物が育っている。一方珊瑚礁でできた島は平坦で土地が痩せているため、ココヤシぐらいしか育たない。海洋性熱帯気候のため常に気温が高く、雨季には激しい降雨が見られる。
ポナペ島は後者である。島の東端の珊瑚礁の上に、神秘的な遺跡が建っている。
島には一年中霧に覆われた標高800メートル近い連山がある。雨量も川の数も半端なく多く、雨が降るたびに多量の土砂が海岸に運ばれる。山の土砂は栄養素を多分に含んでいるために、河口付近や海岸にマングローブという森を発達させる。マングローブとは、海水の中でも生きていける樹木の総称だ。
海岸にマングローブが発達するようになると、陸上の植物は潮風などによる浸害を直接受けずに済むようになる。陸上の土砂の流出が食い止められるようになり、同時に海水による浸食も食い止められる。更にに、昆虫や小鳥などの陸上動物や様々な海中生物にとって最高の環境を提供し、生物層の豊かな森を築いてくれるのだ。
ポナペの小高い山の麓から海に向かって広大に貼り出すマングローブは、どこまでが陸でどこからが海なのか区別がつかないほど繁茂していた。今も海に向かって前進を続けているようで、圧倒的なパワーを感じさせる。
そのマングローブの森に囲まれて、ナン・マタール遺跡は建っている。水路で隔てられた人工の島々に、宮殿や行政の場、住居跡や祭礼・儀式の跡、墓場などがたくさん残っている。
また、マングローブはアマモなどの暖かい海の海藻も良く育てる環境を作ってくれる。海藻の茂る海には植物プランクトンが多くなり、それを食べる動物プランクトンが増える。さらに、動物プランクトンを食べるマンタを引きつけたり、サンゴを成長させる要因となったりする。マングローブのあるところに珊瑚礁はつきものだった。
ポナペ島のすぐそばにも珊瑚礁でできた小さな島があった。珊瑚礁は生物の宝庫だ。最高の漁場である。目の前にご馳走がうじゃうじゃしているのに放っておく手はない。
一平とパールはその珊瑚礁に立ち寄り、空腹を満たしていた。
浅いところですらチョウチョウウオやスズメダイがいるし、マングローブの根の裏にはガラス細工のような小型のエビがいる。水面からはみ出している根の上にも、ウズラタマビキガイやミナミトビハゼが張り付いている。暗がりには、鰭が長くて体の真ん中に一本の縦縞があるホソスジマンジュウイシモチが群れ、マングローブの種子の中には淡いピンクのトゲアナエビが隠れている。
マングローブの種子というのは細い枝のような棒状で非常に丈夫だ。干潟の泥に埋もれて育つ。海を流れて行って他の土地に根を生やすことも少なくない。
その種子の奥に引っ込んだトゲアナエビをどうにかして誘い出してやろうと、パールはさっきから悪戦苦闘していた。お腹はもういっぱいなので、食べてやろうという気はない。遊びだ。
干潟には、ミナミコメツキガニがいた。英名をソルジャークラブと言い、まるでよく訓練された兵隊のように、数万匹が一斉に同じ行動を取るニセンチほどの蟹だ。一平はこの蟹の様子が面白くて、辛抱強く眺めていた。
潮が干くと一斉に顔を出し、二本のハサミでせっせと泥を口に運んで有機物を濾し取って食べる。それだけでも一見の価値があったが、人の気配がするとハサミと足をドリルのように捩じ込んで砂に潜ってしまうのだ。それも一斉に。
この島には人が住んでいないらしいので、安心してこのような真似をすることができた。
いつまで頑張っても顔を出してくれないトゲアナエビに痺れを切らして、やがてパールが姿を見せた。
「一平ちゃあん…」
途端に、蟹たちは撤退した。
残念だが潮時でもあった。
「腹はくちたか?」
四つん這いに身を起こして、一平は呼び掛ける。腹這いになっていたので体の前面は砂だらけだ。
「エビさん、出てきてくれないの」
パールは不満そうに唇を尖らせている。
「こっちも引っ込んじゃったよ。おまえのせいで」
冗談で言ったのだが、パールは悲しそうな顔をした。
「パールのせい?」
「ほら」
今まで蟹たちが群れていた所を指差して見せたが、すでにもぬけの殻である。
「何がいたの?」
「ミナミコメツキガニ」
「それ、おいしいの?」
一平が食事をしていたと思ったのだろう。パールはそう訊いてきた。
一平はくすっと笑う。
「こーんな、小さいんだぜ⁉︎」
親指と人差し指の先をニセンチほど広げて、Cの字を作って見せた。
「蟹が食いたいんだったら、こっちの食えば?」
既に息のない大きな蟹が一平の傍らに転がっていた。真っ黒なノコギリガザミだ。マングローブガニとも言う。茹でると真っ赤になるのは不思議だが、生でも甘くてうまい。
「もうお腹いっぱいだよお…」
満腹なのなら結構なことだ。それなら見せびらかして食べてやろう。一平はどてっと腰を下ろし、短剣で器用に蟹の足を外し、身を取り出しては口に入れた。
パールはすることがない。
開けた景色を眺め回しているうちに、ポナペの本島に目が止まった。
林立する壁のようなもの。石の建物のようなものが。
パールの表情が変わった。
「…一平ちゃん…あれ…」
茫洋と差し示す。
首を巡らせて確認すると、一平は言った。
「…遺跡だよ。多分…。ボナぺにはナン・マタールっていう有名な遺跡があるんだ。昔の人の…古代文明名残りらしい」
パールは一平の話を上の空で聞いている。
「あれ…トリトニアみたい…」
その言葉に、一平は思わず腰を浮かした。
「トリトニアだって⁉︎」
叫んだが、思い直した。
ここは地上じゃないか。こんなところにあるはずはないと。
「ああいうの…あるの。…トリトニアに…」
遠目でよくわからないが、トリトニアに通じるものが何かあるのだろう。一平は目を凝らした。
パールの瞳がさまよう。心なしか、青い色を増したように見える。
トリトニアのことを思い出しているのだ。今のパールの心はこの島の上にはない。
「…わかった…」
一平は目を伏せた。
「…夜になったら…行ってみよう。満潮を狙って」
「夜?」
「…あそこには、人間が住んでるはずだ。だから今はだめだ。わかるな⁉︎」
パールはゆっくりと頷いた。
満潮を迎えたのは月がかなり高くなってからだった。
遺跡のそばに行ける時が待ち遠しくて、パールはそわそわと落ち着かなかった。
今夜はこれから潮が満ちる。夜なので、水分を奪う灼熱の太陽は天地がひっくり返らない限り顔を出さない。パールが砂浜で休んでいても、体調を崩す心配はなかった。
二人は珊瑚礁の島の上で青向けになって降るような星空を眺めていたが、やがてパールだけは睡魔に勝てずに寝息を立てていた。
年末の紅白歌合戦で、お気に入りの歌手が出てくるのを待っていたのに待ちきれずに眠ってしまって悔しい思いをしたことがあったな、と一平は思い出した。
あれはいつのことだったろう?
パールのことを幼い幼いと思ってはいても、自分にもそんな時が確かにあったのだと、一平は過去を振り返る。あの頃はまだ母がいた。ということは小学校になる以前の出来事だ。
パールは十歳だと言う。
(…やっぱり、ガキ臭いか…)
一平は思い直し、しげしげとパールの寝顔を見下ろした。
(でも、可愛いからいいか)
自然と一平の目元が綻ぶ。
この幸せそうな眠りをいつまでも守ってやりたいと思う。トリトニアに無事帰れたらこの子はどんなに喜ぶことだろう。
早く連れて行ってやりたい。
そのためには、トリトニアがどこにあるのか、どういう場所なのか、詳しいことをもっと知りたかった。
あの遺跡に何か共通点があるのなら、手掛かりを得られるかもしれない。きっとパールが何かを教えてくれる。
そのためには、睡眠不足で回らない頭より、少しでも眠ってすっきりした頭にしておいた方が良い。
もう少し…もうしばらく、潮が完璧に満ちるまで寝かせておいてやろう。自分が眠いことなどすっかり忘れて、一平はパールの寝顔を眺め続けていた。
ナン・マタールは水浸しだった。
ポナペ島のナン・マタール遺跡は人工島の集まりであり、大小の島々は互いに水路で結ばれている。だが、満潮時はさらに水位が上がり、岩盤が海に隠れ、あたかも海面に数十の石囲みが並んでいるような景観を呈するのだ。
石壁の囲みはいずれも方形か長方形で、五角形や六角形の玄武岩の柱が薪のように積み上げられ、珊瑚片や砂などで隙間を埋めて作られている。平均して一辺が二十メートル前後、高さは数メートルから十メートルと様々だ。規模としては、大小のアトラクションが点在する広大なテーマパークのようだと言えば妥当だろうか。
満潮で水路の水かさが増しているので、地上を歩くことのできないパールにとっては好都合だった。一平の許可が降りるとパールは先に立って泳ぎ出し、ぐるぐると水路を回った。
石壁の外からは、囲いの中の様子を見ることはできない。囲いの出入口は一カ所であることが多く、船着場なのか、石段があったりもする。だが、期待に反して石囲いの中までは海水で満たされてはいなかった。中には池のようなものもあり、外海と繋がっているのか、サンゴ貝や魚が澄み切った深い水の中で生態系を作っていた。
パールが興味を惹かれたのは、幅が130メートル、奥行きが50メートルほどもあるかなり大きな石囲いだった。南にある入口を入るとさらに小さな石囲いがあった。小さいと言っても、高さはパールの背よりもあり、畳を一枚半縦に並べたくらいの広さはある。
囲いの中には水も満ちていないのに、何かに導かれるように、パールは玄武岩やサンゴ片の敷き詰められた地面を躄って行った。
中を見たいと言うパールを抱き上げて、一平も一緒に覗き込んだ。
中は空っぽだった。
(棺⁉︎)
大きさといい、形といい、人一人を収納するには充分だった。
パールは目を彷徨わせる。何かを探すかのように。
その様子を不審に思った一平はどうかしたのかと尋ねた。
「…声が…」
「声⁉︎」
パールはぼんやりと頷いた。
「声がするの…。誰かの声。パールを、呼んでる…」
一平は眉間に皺を寄せた。彼には波の音と彼らの声以外何も聞こえはしないのだ。
「…痛いって…寂しいって…。誰かが、ここで泣いてる…」
いきなり、ザアッと、音がした。
スコールだ。
この地方には珍しくはないが、さっきまではあんなに星がいっぱい出ていたのに⁉︎
あっという間に、二人濡れそぼる。
別段慌ててどこかに逃げ込むこともないが、パールは雨に降られていることにも気がついていないようだ。パールの目は焦点が合っていなかった。彼女は普通聞こえないものを聞き、見えないものを見ているのだ。何かに取り憑かれてしまったような様子のパールを、一平は思わず引き寄せた。
ここには何かがいるのだ。
一平には感じ取ることができないが、パールは感じている。
それは確かだ。それだけは一平にも直感としてわかる。
一平には見えないもので、一平には聞こえないもの、一平には感じ取ることができないもの…。そういうものでもパールにはわかるのだ。これまでに見聞きした様々な経験が一平にそう確信させる。パールには確かに不思議な力がある。
それが先天性の遺伝的な何かによるものなのか、純粋無垢な彼女の性質を以て呼び醒まされるものなのかはわからないが、実際にあるのだから信じるしかない。
パールの心を捉えたものが何なのかはよくわからないが、健全なものではないような気がした。幽霊、亡霊、悪霊…そんな禍々しいものばかりが頭に浮かんでくる。一平の腕に絡め取られ、両の手でその太い腕を抱えながら、パールは切なそうに涙を流していた。
突如、一平は思った。
(これは…墓か?)
霊がいる場所としては、墓場が一番妥当だ。
「パール!…パール‼︎」
一平はパールの心を呼び戻そうと、何度も名を呼んだ。トリトンの壁に包まれている状態とも似ていたが、同じ方法は採れなかった。
「体が…バラバラになっちゃったんだって。だから元通りにできなくて苦しいんだって…」
涙をポロポロ零しながら、パールが呟く。
「誰がそんなことを言うんだ⁉︎誰もいないぞ。…パール。ここには誰もいない。ボクと、おまえの他には…」
「…イソケレケル…最後の王を殺した男…」
それが亡霊の正体か?聞いたこともない名だ。
「…骨をバラバラに持ち去られた…われはどこに帰ればいい?」
聞こえるのはパールの声だったが、口調は彼女のものではなかった。亡霊が彼女を憑座にして自分の言いたいことを喋っているのだ。
「パール‼︎」
そんな事は一平には我慢できない。亡霊になどパールを乗っ取られてたまるかと、体を激しく揺さぶった。亡霊を追い出そうと。
がくんがくんと操り人形のように揺れて、パール―いや、亡霊は静かになった。
「一平ちゃん…」
青い瞳にパール本人の光が宿った。
一平はホッと胸を撫で下ろす。
もう離すものかというように、ぎゅっと抱き締めた。
パールも小さな手で一平の胸にしがみつく。
「今の人…どうしたの?なんで、バラバラになっちゃったの?」
尋ねるパールが労しい。すぐに他人の不幸に共鳴してしまうパールには、放って置けない身の上に聞こえたのだろう。
「…もういないんだからそんなこと考えなくていい」
再び亡霊に捕まるのを恐れ、一平は言い放つ。
「違うよ。いるよ。まだ痛いって、泣いてるよ…」
「……」
亡霊がパールの身体から出て行った(?)とは言え、消えてしまったわけではないのだ。依然として、この空気の中に、水の中に、霊はいるとパールは言う。
「誰かに骨を持っていかれちゃったんだね。どこにあるかわかれば持ってきてあげられるのにね。そうしたら、もう痛くないでしょう?」
それはどうだろうか。骨をバラバラに持っていかれたというのは、おそらく後世の発掘によるものだろう。出土した時期か発掘した人間がまちまちなのか、持ち去った場所が分かれてしまったのだ。多分。
だとすれば、それはどこかの陸地にある。考古学の研究室か博物館に。取り返してくるのはまず不可能だ。
難しい話になるのでどう話したものかと迷っていると、一平が答えないことを『無理だ』という意味に取ったらしく、パールは他の考えを提示してきた。
「お歌を歌ってあげようかなぁ」
いつも一平を安らかな気持ちにさせてくれるあの歌だ。
鯨には効いた。大亀にも。一平の大きな怪我も回復させた。
亡霊にも効くものだろうか?
疑問だったが、取り越し苦労だったらしい。歌い進むにつれ、パールの表情が変わってくる。哀しみの色が薄れ、穏やかな晴れやかな顔へと。
「もう痛くないって!」
歌い終えると、パールがにこやかに報告してくる。
「これでまたしばらくはよく眠れそうだって」
一平は目を細めて微笑んだ。
すごい子だ、と心から思う。他者への思いやりが人の心を癒す。霊魂でさえも、その慰めを心の糧として回復する。
気がつくと、雨はいつの間にか止んでいた。
―お礼にいいものを見せよう―
亡霊が言った。パールの口を通して一平にも語られる。
「いいもの?」
問い返した一平に亡霊が告げてくる。
―ついてくるがいい―
パールが、操られているように動き出した。
元来た水路に出、向かいの石囲いの間を泳いでゆく。目的の地へとパールは誘導される。一平が離れずついて行く。
今度の石囲いは一辺が100メートルほどあった。その中にさっきはなかったものがある。
池だ。
結構大きな池の前に来ると、亡霊が告げる。
―これはわれが命を絶った地。この池の水面に、われの未来の年老いた姿が映った―
(未来の姿?)
―見たければ、見るがよい。何が映るかはわからぬが―
含みのある言い方だ。必ずしもいいものばかりが見えるとは限らないと忠告しているのだ。
一平が躊躇していると、パールがフラフラと池に近寄り、水面を覗き込んだ。
「パール、よせ!」
警戒して駆け寄った一平の目にも水面は飛び込んでくる。が、水面は真っ白だった。
世界が消えた。
目を開いていられないほど、眩く白い光が一平とパールを包んだ。