第十二章 無人島
健太を小島に残し、パールを見張りにつけて、一平は島探しに出かけた。
水が必要だったのだ。
こんな島ではなく、真水の調達のできる島を見つけたかった。
見えるところに何でもある島はあるが、人が多すぎる。連れて行ってやるのは簡単だったが、そうできない事情がこちらにはある。人の目の届くところにパールを連れて行きたくないのだ、一平は。離れた所で待たせておくのも心配だった。どうしたら一番よいのか、すぐに思いつくことができなかった。
かといって、ぐずぐずしていればまた健太は弱ってしまう。魚の水分だけでそもそも足りるはずがないのだ。聞き出したところによれば、健太は昨日の夕方から漂っていたらしい。一晩、真っ暗な海上で、ただ一人で過ごしたのだ。
家族が子どもの捜索をしていないはずもなかったが、すぐに夜になってしまったため、中断を余儀なくさせられたのだろう。一平たちは朝が早いので、人間の捜索の手が届く前に出会ってしまったのだ。
ともあれ、考える時間が欲しかった。そのためには、健太に真水を与えて活力をつけなければならない。ここがグアム島の近くだとすれば、名も知られていない小さな島が他にもあってもおかしくないと一平は考えていた。とにかく、植物が生えていて真水のある無人島を探さねばならない。
一平の取り合いをして張り合った二人だったが、媒体の一平がいなければ諍いの元は何もなかった。そのくらい二人はまだ単純だった。四歳の健太も、十歳のパールでさえも。
パールはしばらくの間、岩の小島の上にいた。健太がパールを珍しがるほどには、パールには人間は珍しくなかったが、健太の姿はどこか洞窟での一平を思い出させる。服装も―といっても、海パン一枚だが―髪の色も、その言語も。
同じ日本人なので当たり前と言えば当たり前なのだが、トリトニアではまずお目にかかれない様子だったから無理もない。
当然、一平のいとこの翼と学のことも思い起こさせた。
でもこの子の名前はパールの弟と似ている。床に伏しがちなパールとは対照的に、弟のキンタは元気なやんちゃ坊主だった。
今頃どうしているだろう、とパールは思わずにはいられなかった。パパもママも、身の周りの人々も…。
ホームシックに襲われたパールはしくしくと泣き出した。
健太にはその理由がわからない。目をぱちくりさせるだけだった。
困った健太はいいことを思いつく。
健太は陽気な子どもだった。幼稚園ではいつもおかしな顔をしてみんなを笑わせるのが大好きな子なのだ。家庭でも、父親が留守がちなため沈むことの多い母親に、わざとおどけて気持ちを解そうとする心優しい少年だった。
普通でない作り顔は他人の笑いを誘う。幼い子がすれば余計おかしく、微笑ましくて、ほとんどの人が笑いに引き込まれる。
舌を丸めて見せたり、あかんべと豚の鼻を組み合わせてみたりするが、健太の一番の得意は瞼をひっくり返すことだった。どうやるものか、上瞼をひっくり返すと瞳は上を向き、眉間が寄る。鼻の周りや口角なども自然に下がり気味になり、なんともおどけた滑稽な顔になるのだ。
それを、健太はパールに向かってして見せた。
パールは一瞬、放心したように目を瞠き、プッと吹き出した。ついでキャハハと高笑いを始める。笑いが収まりそうになると、また健太が同じことをして見せなるので止まりようがない。
今まで泣いていたのが嘘のように、パールは腹を抱えて笑い転げた。
二人の間はそれで急速に近づいたようだった。
パールはその顔の作り方を健太から教わり、健太は珍しいパールの尾鰭を触らせてもらって、いろんなことを質問した。
そのうちに、パールは身体が乾いてきていることに気がついて海へ入ってしまった。健太も入りたかったが、一平に止められていた。この後、嫌でも長い間入っていなければならなくなるので、できるだけ体を休めておく必要があったのだ。
海へ入ったパールは、貝やらイソギンチャクやらヤドカリやらを取ってきて、健太をもてなしてやった。イソギンチャクの中に指を突っ込んで潮を吹かせたり、ヤドカリにレースをさせたり、どの貝が空っぽなのか当てっこしたりして遊んだ。
それが飽きると歌を歌う。
健太も幼稚園で覚えた歌を口ずさむ。
それをパールはすぐに覚えて、共に唱和できるのだった。
不意にパールは言った。
「どっか怪我してない?」
健太は思い出した。そういえば、昨日岩場で遊んでいる時、フジツボで左手の指を切ったと。
ここだと指差して健太は目を丸くする。
「治ってる⁉︎」
ふふふん、とパールは得意げに鼻を鳴らした。
「パールのお歌ね。傷がよくなるんだ。すごいでしょ」
健太は丸ごと信じ込んで、何度も首を縦に振った。その瞳には明らかに尊敬の念が現れていた。
「ぼくにも教えて」
「いいよ」
ねだられてパールは喜びを感じていた。こんな自分にも、誰かに勝るところがひとつはあるのだと思うと嬉しかった。どう逆立ちしたとしても、健太に伝授できるような類のものではないということまでは、パールは自覚してはいない。教えを請われることが嬉しくて、ただパールは満足していた。
二人して歌ばかり歌っているところへ一平が戻って来た。
やっと、無人島を見つけたのだ。
移動を始めて二十分ほどでその島に着いた。
猫の額ほどだが砂浜があり、三メートルほどの高さの崖に熱帯の植物が生い茂っていた。崖の上の林の奥へ踏み込むと、清水がポタポタと落ちている場所がある。その下に鉄屑が置いてあった。浜に散らばっていた何かの乗り物の残骸。その一部だった。
グアム島は、かつて広島や長崎に原爆を落としたB 29が発進した場所だ。いまだにグアム島の周囲には、戦闘の名残の沈没物が残っている。そういったものの一つがこの浜に打ち捨てられていたのだ。
それは小型の飛行機らしかった。古い型の戦闘機だ。激しく壊れ、腐敗しているが、異様な生々しさがある。
一平はその残骸から器になりそうな鉄のかけらを拾って、清水の袂へ置いておいたのだ。彼ら三人が戻ってくる頃には、水は溢れんばかりに溜まっていた。
一平は健太を連れてきて、その水を飲ませてやる。喉の渇きが清々しさへと変わってゆき、顔色さえ良くなったように見えて、一平はほっとした。
島にはココヤシ、パンノキなどが植わっていた。身を割れば中の汁を飲むこともできる。果肉もそれなりにうまい。
一平は崖下に横穴も見つけていた。小石や木の根を取り除き、草を敷き詰めれば、一時凌ぎの寝床になるだろうと、早速作業を開始した。
健太にも手伝わせた。石や不要物を運び出すことを、まるで園庭で砂遊びに興じていると錯覚するほど、健太は浮かれて働いた。
パールには戦闘機の座席から剥ぎ取った革を海の水で洗うように言いつけた。パールは小石をたわし代わりにして、鼻歌交じりで一生懸命擦り続けた。
その革を、崖に下がる蔦や蔓草を紐に使って横穴の口に吊るした。風よけだ。陽が落ちるまでにはなんとか支度が出来上がった。
「寝心地はよくないだろうが…今夜はここで寝ろ」
浮き輪を枕に、一平のマントを布団にした椰子の葉のベッドの前で、一平は言った。
「うん。ありがとう。おにいちゃん」
「一人でも、大丈夫か?」
訊かれて健太はハッとした。
一平はここでは寝ないのか?と。
そうだ。彼は海に住んでいると言っていた。あの人魚の少女と共に。
きっと、この海のどこかに彼らの家があるのだ。残念ながら自分はそこの客人となることはできない。
それにきっと、パールちゃんが悲しむ。昼間みたいに泣いてしまう。
ぼくは昨夜だって一人で寝た。それも、暗い海の上で。だから大丈夫だ。今日はこんな素敵なベッドがあるんだから。
健太はこっくりと、頷いて笑った。
しかし、一平は海では眠らなかった。
雨になりそうだったからだ。
パールのことも心配だったが、健太のことも心配だった。
風が怪しいのだ。
この辺りは台風の多い地域である。
赤道から25,000キロメートル以北は熱帯低気圧が発生しやすい。熱帯低気圧は海上で気化熱エネルギーを得て発達しながら北上する。と同時に、凄まじいエネルギーを暴風雨として撒き散らす。それが台風だ。地域によってモンスーン、ハリケーンなどと呼ばれることもある。
グアムも台風の被害が多い地域だと聞いている。用心するに越した事はない。空模様は午後から怪しくなり始めていた。
この現象には何度か行き遭っていた。でも彼ら二人の時はさして困ることではない。海上を避けて海の底近くに潜ってしまえば直接被害を受ける事はないのだ。
一平はパールを海底に寝かせ、時折健太の様子を見に行ったり来たりしようと思っていた。どちらも目が離せないが、パールを地上で休ませることも、健太を海底に同行することも不可能なのだから仕方がない。何かを犠牲にしなければならないのなら、自分の睡眠時間しかないという結論になってしまう。
一平が横穴から出て自分の方へ来るのを見て、パールは嬉しそうだった。健太の方が年下なので、一平は健太に付き添うのではないかと不安だったからだ。
尾を振る犬のようにちょこまかし、パールは一平の周りをつきまとう。
「今日はどこで寝るの?」
「この陸棚の一番深いところかな」
一度眠ってしまえばパールは朝まで起きない。今日は慣れない仕事もしたから、疲れてよく眠るだろう。
海藻の茂みの中に彼らは陣取った。少し離れたぐるりに細工をして、大きな海獣が近づけないように罠を仕掛けた。
パールを寝かしつけると島へ上がった。健太の様子と空模様を確認し、また海底へ戻る。
何度か繰り返しているうちに、台風はぐんぐんと近づいてきていた。風よけにと横穴にくくりつけた革が吹き飛ばされ、雨風が横穴に注ぎ込む。
高さはやっと健太の背ぐらいまでしかないが、奥行きはかなりある穴だった。何かの動物が巣に使っていたのだろう。おかげで健太の寝ているところまでは、あまり雨風が入ってこない。
だがさすがに外は騒々しい。風も少しずつではあるが、健太の体温を下げようとする。体の下のヤシの葉と乾いた草は健太の体温とおひさまのぬくもりをまだ残しているが、慣れない経験で神経が高ぶっている少年は夜中に目を覚ましてしまった。
(…雨⁉︎…)
雨音はバケツをひっくり返したように叩きつける。建物で遮られた空間ではないので、海鳴りか地鳴りのようにしか聞こえない。
時折足元近くに届いてくる水飛沫が身も心もひやっとさせる。
「ママ…」
思わず口に出してから思い出す。
ここは家ではない。父も母もここにはいないのだ。
(…おにいちゃん…)
思い出したのは一平の姿だった。自分を助けてくれた一平はどこにいる?
辺りは真の闇だ。
昨夜はそれでも月明かりがあった。島の灯が遠くに瞬いていた。だが今夜は星の光すらない。明かりがあったとしても何もする事はない。手探りで外へ出たとしても、あるのは強い雨と風ばかりだ。ここでじっとしているのが一番得策なのだと、健太は回らぬ頭で考えた。
どうせ目を開いていても何も見えないのだからと、健太は目を瞑る。
眠ってしまおう。そうすれば怖くなんかない。あっという間に時間が経って、目覚めた時には明るい朝を連れてきてくれる。
しかし、再び眠りにつくのは難しかった。何度も寝返りを打つうちに、健太は何かの気配を感じて目を開けた。
さっきまではなかったものが二つあった。
暗闇の中で、微かに光る二つの目。
そう。それは目だった。青白い燐光のような、それでいてピカッと光る獣の目。
健太はぞっとした。
人間の目は光らない。それは獣に特有のものだ。健太の頭にそんなことは知識としてなかったが、本能が告げた。身動きしてはいけないと。
硬直する健太に向かって、二つの光はだんだん近づいてくる。暴風雨でなかったら、地を擦るズルッズルッという音が聞こえていただろう。
恐怖で体が震えている。が、健太は目を逸らせない。
目を瞑ってしまったその瞬間に、この獣が喉笛に食らいついてくるという強迫観念に囚われていた。
(…あ…あ…誰か…誰か助けて…)
健太の鼻を異臭がつく。
獣の匂いだ。爬虫類の。
(…おにいちゃん‼︎…)
健太が心の中で一平を呼んだ時、すぐ目の前に迫っていた獣の目が不意に姿を消した。
物音と、何かが動き回る気配がすぐそばでしている。そして激しい気遣いが。
(ああ…あ…)
声も出せぬほど恐怖に凍りついた健太は人の声で我に帰った。
「健太、大丈夫か?」
一平の声がする。腰が抜けた。
指先が健太の頬に触れてきて、彼はびくっと身を震わせた。ついで大きな手が健太の首を引き寄せる。
ずぶ濡れの胸に身を押し付けられ、健太は冷たい!と思った。だが、すぐに温かいと感じた。これは人のぬくもりだ。ドクンドクンと脈打つ心臓の音が肌を通して伝わってくる。
健太は手に触れたものをぎゅっと握り締めた。一平の着ている服のどこかだった。
「…おにいちゃん…」
「怖がらせたな…。まさか、ハブがいるとは思わなかった。でも、もう仕留めたから安心しろ」
(仕留めた?ハブ?ハブって、何だっけ?)
ああ…。健太は思い出した。毒蛇だ。沖縄なんかによくいるやつ。夏に沖縄に行った時、両親が注意しろと教えてくれた。あの光は蛇の目玉だったのか。
「今、一番ひどい時だから…。もう少し我慢しろ。直に朝が来る。あと一時間もすれば、この台風も通り過ぎるさ」
(台風?)
台風の吹き荒れる様子はテレビで見たことがある。木々は斜めになり、海の波は逆立ち、傘を吹き飛ばされたカッパ姿のレポーターが必死で何事かを喚いていた。
(そうなんだ。この凄い音は台風の音なんだ)
(でもどうして?おにいちゃんは海の中で寝ているはずじゃなかったの?)
健太は尋ねた。
「パールちゃんは?」
一呼吸置いて一平が答える。
「あいつは海の底で寝ているよ。おまえが心配になって見に来たとこだ」
「おにいちゃんは見えるの?こんなに真っ暗なのに?」
この横穴から海岸までは五十メートルはあったはずだ。昼ならすぐだが、夜ではどこが海岸線かもわからない。
それを、一平は海の中から『見に来た』と言う。
「おまえの泣いた跡も見えるぞ。ハブの体の柄も」
一平には光がない事は苦にならないらしい。
「朝になったらこいつを料理してやるよ。おまえがおねしょしてなきゃ、この下の干し草が薪になる。生き血も精がつくはずだ」
蛇を食べる?血を飲む?
なんと恐ろしいことを言うのだろう、一平は。
でも、怖くはなかった。一平の膝の上はとても安心できた。
が、しばらくすると一平はハッと身を強張らせた。
「じっとしてろ」
そう言って健太を下ろし、さっと外の様子を伺った。
「パール‼︎」
一平が飛び出して行くのが気配でわかった。
「おにいちゃん!」健太も叫ぶ。「パールちゃんがどうしたの?おにいちゃん⁉︎」
慌てて叫んだが、声は一平の耳には届いていないようだった。
再び訪れた暗黒の世界の中で、健太はただ一平の戻るのを待ち続けた。