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第十一章 パールのやきもち

 パールは海底で泣いていた。

 一平に怒鳴られたことも悲しかったが、戒めを破ってしまったことの方がもっと悲しかった。いつも気をつけているはずなのに。一平との約束は絶対に守ろうと思っているのに。すぐにパールは忘れてしまう。

 ひとつのことを思いつくと、他の歯止めを忘れてしまって失敗する。

 パールは悪い子になりたくなかった。

 一平はパールはいい子だと言ってくれた。悪いとわかってて何度も繰り返す奴が悪い子なのだと。パールはちゃんと気をつけるから悪い子じゃないと。

 でも、本当にそうだろうか。

 自分は近頃、何度も繰り返してはいないだろうか。いけないとわかっているのに、いつの間にかしていることが多くはないだろうか。何度もと言うのは、何回までだったら大丈夫なのだろう?パールはもう三回も言いつけを破った。

 昼間内緒で漁をして、翼を助けるため人間に声をかけて、今度はただのやきもちのために人間の前に自ら姿を表した。

 これは悪いとわかってて何回も繰り返す悪い子のすることではないのか? 

 誰に唆されたわけでもない。他でもない自分の意思で、パールは言いつけを破っているのだ。それが悲しかった。

 こんなに悪い子だと、もうじき一平に嫌われてしまう。一緒にいるのが嫌になって、置いていかれてしまう。もしかしたら今度は、あの男の子と一緒に旅を続けてしまうかもしれない。パールの事はすっかり忘れて。

(やだ‼︎)

 考えただけで涙が出る。

(一平ちゃんがパールのことを忘れて置いて行っちゃうなんてやだ)

 あの人間の男の子はパールより小さかった。一平は優しい人だから、きっとあの子を放ってはおかないだろう。パールとあの子のどっちかを選べと言われたら、力のないあの子の方を守ろうとするだろう。少なくともパールは一人でも魚を捕まえて食べ、この海で生きていくことができる。あの子よりは。

(どうして?⁉︎)

 どうして、あんな人間を見つけてしまったんだろう。

 あの子を見つけなければ、こんなことにはならなかったのに。

 どうして、一平ちゃんに助けてもらおうなんて思ったんだろう。

 言われた通り、人間を見つけたらすぐに逃げて、忘れてしまえばよかったのに。

 あの子は一平ちゃんの膝の上で泣いていた。

 パールの席なのに。

 あそこにはいつもパールがいたのに。

 一平ちゃんの温かさも、匂いも、優しい眼差しも、いつだって望めば手に入ったのに。

 先客がいるなんて‼︎

 我慢できなかった。

 我慢するには、パールは幼なすぎた。

 気に入りのおもちゃを勝手に使われた子どものように、なりふり構わずパールは一平を取り返そうとしたのだ。

 そして、叱られた。

 怒鳴られて初めて、パールは自分が一平の言いつけを破ったことに気がついた。

(だって嫌だったんだもん…)

 でも怒られた。

(もう嫌われちゃった。きっと。…)

 思いはそこへ帰って行く。

 パールの涙は尽きない。

 一平が現れるまでは。


「パール?‼︎」

 海底に蹲るパールを見つけて、一平は呼び掛けた。

 尾鰭を抱え込んで胎児のように丸まったパールの周りに、うっすらと白い光の傘がかかっていた。

 それに気づいて、一平はスピードを上げた。

 あのまま放っておいたら、パールはまたトリトンの壁の中に閉じこもってしまう。

 今のうちに阻止しなければ。

 まだパールの身体からは糸状の触手は出ていない。

 一平はできるだけ優しく、そして力強い声で呼びかけた。

「おいで。パール」

 パールの肩がびくっと震えた。

 大丈夫だ。現実の声がまだ彼女の耳に届いている。

「こっちへおいで。ボクの所へ」

 おずおずと、パールは顔を上げた。眉根に皺を寄せ、不安そうな表情で。

「さぁ。おいで」

 パールの顔がくしゃくしゃになった。泣くのを我慢できない時の顔だ。

 パールの耳には一平の声が届いている。

 目には一平の姿が映っている。

 鼻も、大好きな匂いを嗅ぎとっていた。

 抗えない声だ。背けられない姿、絶えさせたくない匂いだった。

 パールは身を起こす。両腕を差し出して勢いよく尾鰭を振る。

 瞬く間にパールはやってきた。両手を広げて待つ一平の胸に。

 がむしゃらにしがみつき、顔中を押しつける。

 心地よい温かさが肌を通して身の内に広がる。

 決して失いたくない感覚だった。

 一平がパールの背中を柔らかく支えてよしよしする。

 パールは戻ってきた。逃避の夢の世界に行かずに、厳しい現実の世界に。

 一平が『おいで』といえば、パールはやってくる。

 封印を解く魔法の呪文のように、その声はパールを引き寄せて止まないのだった。


 パールは訊く。

「もう、怒ってない?」

 やっぱり…と、一平は思う。

「ボクのことを、そんなおこりんぼだと思ってたのか?」

 逆に聞かれて、パールは首を振った。

「だって…パールが悪い子だから…」

 言いかけたパールの額に、一平は自分の額をぶつけてよこした。そのまま押し付けながら、パールの目を覗き込む。

「パールはいい子だ…」

「でも…もう三回も…言いつけ守らなかった…」

「それでも、いい子だ…」

「わかんないよ…」

 なぜ、一平はそんなに優しいことを言うのだろう。泣きたいくらい優しいことを。

「反省することが大切なんだ。パールはまだ小さい。心と体が一緒に動いてしまう。…いろんなことを同時に処理できないからだ。おまえのせいじゃない。もう少ししたら必ず、そんな事はなくなる。おまえはいい子なんだから…」

(何を偉そうに言っているんだろう…)

 一平は自分で自分が不思議だった。

  頭の中で、誰かが自分に同じことを言っているのだ。一平はただ、それを口に出して言ってやっただけだった。

 それはかつて、一平の父が幼い息子に語って聞かせた言葉だったのだ。

「ほんと?」

「ボクがパールに嘘ついたことあるかい?」

 翼が死んだ時も、パールには言わないでおこうと言う学の言い分を退けて真実と真向かった一平だった。

 ううん、とパールが首を振る。

「あの子は近いうちに人間の国へ返すよ。必ず。そしたらまた、二人だけで出発しよう。だからそれまでは、あの子と仲良くしてやって欲しいな」

 パールの心を見透かしたかのようなことを一平は言った。

 ―一平ちゃんには、何だってわかってしまうんだ。パールがあの子に攻撃的な気持ちを抱いたことも、一平ちゃんを独り占めしたいと思っていることも―

 それでもなおかつ、一平はパールを見捨てない。あの子が帰ったら、またパールだけの一平でいてくれると言うのだ。

 それでも不満だと言うのはあまりに欲張りすぎと言うものではないだろうか。

 パールは頷いた。

 一平に手をとられて、岩だけの小島へ向かった。


「おまえ、名前は?」

 小島の上で一平が少年に尋ねていた。名前がないと呼ぶのに不便だ。

「健太…桜井健太」

「キンタ⁉︎」

 パールが目を剥いて問い返した。

「ちょっと違うな、パール。キンタじゃなくて、健太だってさ」

 一平に正されて、パールはなんだと乗り出していた身を引っ込めた。

「キンタって…おまえの弟の名前だろ?似てるなんて、奇遇だな」

 一平たちは日本語に戻っていた。健太と名乗るこの少年のために。

「キンタね。もう少し大きい。… 七歳なの…」

 そう言って、パールは遠い目をした。トリトニアのことを思い出しているのか、弟の姿をその脳裏に描き出しているのか。

「おまえは?健太はいくつなんだ?」

「ぼく…四歳。すみれ組なの」

「スミレグミ?」

 幼稚園か保育園のクラスの名前だろう。パールに意味がわかるはずもない。一平に、中学校よりずっと小さい子が行く学校だ、と教えられてやっと理解した。

「修練所、そんな小さい子、まだ入れないよ」

 人間の子どもは、こんな小さいうちからその幼稚園とやらに通うのだ。やっぱりすごい。だからきっと、一平ちゃんは何でも知ってるんだ、とパールは感心した。

「今は…冬休みか?」

 もうとうに細かい日付はわからなくなっていた。場所を移動するので、体に感じる季節感も当てにならない。大体の勘だが、もう日本は寒くなっているだろう。クリスマスか正月か…そんなところだ。幼稚園通いの子どもが観光に来ているとなると。

「うん。パパとママとグアムに来たの」

「グアム‼︎」

 一平は思わず振り返った。

 遠くに見えるあの島影は、あのグアム島だったのか。

 道理でレジャーで賑やかなはずだ。冬休みともなれば、日本からも大勢観光客が訪れているに違いない。グアム島の人口は普段の何倍にも膨れ上がっているだろう。ますますもって、遠ざけたい場所だった。

 物思いに耽る一平を、二人の幼子は不思議そうに見上げていた。

「知ってるの?一平ちゃん⁉︎」

 パールが尋ねる。

「ん?…うん。…行った事はないけどね。人がいっぱい遊びに来るところだよ。ボクたちが行くところじゃない」

 やんわりと、一平はパールに禁止している。あの島には近づくなと。

「おにいちゃんは迷子になったんじゃないの?グアムに遊びに来てたんでしょ??」

 少年は、何だか話がおかしいと思い始めたようだった。

「どこから流されたの?他の島?」

 流されたのかと聞かれて、まあねと答えた。でも一平は流されたのではない。自ら流れてきたのだ。もし流されたとしたら運命にだ。彼は思った通りに言った。

「…運命に…かな…」

「運命?」

 その言葉は健太にもパールにも難しすぎた。二人の目には納得の光がない。

 一平は話を変える。

「健太を信用して、本当のことを言うよ。ボクらはね。…パールとボクは…海に住んでるのさ。いくらでも海の中にいられる」

「海に?」

「ボクはこんな姿をしてるけど、君とはちょっと違う。でも、誰にも知られたくないんだ。知られたら、きっと捕まって、殺されるかもしれないから」

「……」

 こんな小さい子にも、殺されると言う言葉は禍々しく聞こえたのだろう。健太は言葉を発しない。

「君のことは必ずお父さんたちの所へ帰れるようにしてあげる。その代わり…ボクたちのことは誰にも言わないで。約束して…」

 健太は物怖じしない目でしっかりと一平を見た。

 十は年上に見える―いや、四歳の子どもにとっては中学生も大人も老人も大して変わらぬほどに大きくてすごい。一平が芯の通った人間だということ、真の勇気を持ち、誠実な心の持ち主だということを、その目の光から読み取った。

 大して間をおかず、彼はこっくりと頷いていた。

 ―この人は死にそうだった自分を救ってくれた人だ。だから信じられる。この人の言うことは守ろう―

 健太の思っていることは、そのままかつてパールが思ったことだった。

 パールには痛いほど健太の心境が理解できた。

(この子も、パールと同じ…。一平ちゃんがいなくちゃだめなんだ…)

 そう思うと同時に、やはりむずむずとやきもちの虫が疼いてくる。

 つい、パールは言っておきたくなった。

「パールが先だからね!一平ちゃんと会ったのは!だから、パールの方が一平ちゃんと仲良しなんだよ」

「……」

 どういう理屈なんだ、それは…。

 一平は頭を抱えた。

 自分の権利を主張しているのは察せられたが、論理はめちゃくちゃだ。

 一平が呆れているのもものともせずに、パールは一平に抱きついた。

「パールの一平ちゃんだもん!」

 それを見て、健太も奮い立つ。

「ぼくも!」

 パールの飛びついたのとは反対側に体当たりしてくっついた。

「わわわっ…⁉︎⁉︎」

 両側からぎゅっと攻められて、一平は呆然自失状態となる。

(全く…こいつらは…)

 一挙に二人の子持ちになった気分だった。

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