【後編】北海道河豚計画
### 【起】河豚計画と北辰連邦の成立
昭和九年。1934年にドイツではヒトラーが政権を握り、ヒトラー率いるナチ党の政策によって、ヨーロッパのユダヤ人たちは迫害から追われるように各地を彷徨っていた。
昭和十二年。西暦に直すと1937年。
かの有名なクリスタルナハト。水晶の夜事件の起こる前年。
世界は確実に崩壊へと歩んでいた。
西の果てであるヨーロッパからみて対極。
遥か東――吹雪に閉ざされた北の大地に、ひとつの“国もどき”が密かに胎動していた。
その名を北辰連邦。
榎本武揚が掲げた蝦夷共和国ではなく、北辰の名を掲げた理由はただ一つ。
亡き坂本龍馬の意志を継ぐという気概であった。
それは日本政府の公文書には載らない、地図にも国境線にも現れぬ影の国家。
旧北海道庁の統治から事実上切り離され、極星祠という新興宗教が農村を統治する形で構築された“自治圏”だった。
表向きは自給自足の農業共同体。
だが内実は――
「気をつけろよ、あそこはただの農村じゃねぇ。神が住んでるらしいぞ」
そんな噂が軍人のあいだでも交わされるほどに、異質だった。
極星祠の頂点に立つ司祭の名は、クリエ・ティビテート。
新興宗教の祖であるその男が、なぜか政治・経済・宗教・外交すべてを牛耳っている。
しかも彼の周囲には、決まって“死者”の影がつきまとう。
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昭和十三年冬。西暦で言うと1938年。
クリスタルナハト。大規模なユダヤ排斥運動が起こった年の暮れ。
東京・霞が関の閣議室にて。
「……この計画、正気の沙汰とは思えん」
内務省の役人がうめいた。机の上に置かれた一枚の紙。
そこには、こう記されていた。
> 『河豚計画――ユダヤ系移民の樺太・北海道への定住案』
当時の日本政府が満州国で実施しようと水面下で検討していた亡命ユダヤ人の受け入れ構想を、なぜか極星祠が“独自に”進めていたのである。
しかもその計画書には、ナチス・ドイツとの対立を回避する巧妙な外交策や、入植地の整備、経済的利得まで記されていた。
「北海道と樺太、千島領域を北辰連邦として独立させ、ユダヤ人を含む移民を広く受け入れる……。外国人居留地と共に特区と各種試験場を作り、農業、工業、漁業、商業をはじめとしたあらゆる産業を発展させる。正規軍は和人のみで構成する。何かあれば北辰連邦ごと潰してもらっても構わない……」
この男は何者なのか? そして、どこまで見えているのか?
政府首脳たちは、司祭の正体に恐怖すら抱き始める。
だが、クリエは笑って言うのだった。
「我々は受け入れるだけです。 彼らの宗教も、文化も、歴史も否定しません。 俺の望みはただ一つ……彼らに“帰る場所”を与えることだけです」
誰よりも冷徹に。
誰よりも優しく。
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一方その頃、樺太・敷香の仮設入植地では、ポーランド系ディアスポラだったユダヤ人の若い女性が、室内で子どもたちの手を引いていた。かつてのユダヤ人居住区で育った者。
彼女の目にはまだ希望があった。
――この土地でなら、生きられるかもしれない。
そう思わせる何かが、確かにあった。
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「これは備えです」
「何の?」
「来るべき“審判の日”のために。神の民が、もう一度地上に安息を手に入れるために」
クリエはそう言って、北の空を見つめていた。
そこには、まだ誰も知らぬ運命の光が――確かに瞬いていた。
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### 【承】入植の波と運命の出会い
ユダヤ人の入植が本格化したのは、翌年1939年、昭和十四年の春であった。
スエズを越え、満洲鉄道を経由し、遥か極東の地に流れ着いた難民たち――
その中には老いた哲学者も、歌うような言葉を紡ぐ詩人も、肩を落とした看護婦もいた。
そして、シャーレット・バレニアもその一人だった。
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降り立ったのは、かつての流刑地・樺太。
列車を降りたとき、彼女は立ち止まり、空を見上げた。
冷たい空気に震える子供の手を握り、こう呟いた。
「……この場所が、新しい故郷になるなら、私は生きてみせるわ」
駅から出て居住地へと向かっていく。
しかし、彼女は気づかなかった。
自分のその姿が――ただの難民ではなく、ある男の“記憶”を呼び起こしていたことに。
その日。北辰連邦を作った男クリエは、たまたま樺太・敷香に視察に来ていた。
クリエ・ティビテート。極星祠の司祭。彼は難民申請の報告書に目を通していたが、飽きた様子で散歩に出る。
その時、たまたまユダヤ難民の集団とすれ違ったのだったが。
彼は足を止めた。
「אִמָא」
ぽつりとつぶやいた先に居たのは、難民としてはるばる極東までやって来た少女だった。
彼女は冷たく言う。
「……人違いよ」
クリエは冷たく拒否され、追いすがることも出来ず。
見た目にもわかりやすくしょぼくれて部屋に戻った。
そして部屋に戻ると先ほどの少女の書類を探したのだった。
シャーレット・バレニア
年齢:20代前半
職業:元・医療従事者(市民病院勤務)
傷病者看護に長け、保育士の経験もあり。
出自:イタリア領 → 東欧 → 満州 → 樺太
彼は立ち上がると、そのまま本土に向かうための飛行機を手配した。
身内すら制止できなかった。
***
翌日。シャーレットの元にクリエが再びやってくる。
本来彼が持っている権限ならたった一言「本土に彼女を連れて行く」と言えば済むだけだったのだが。そんな権限など無いかのように、恐る恐るといった様子でクリエはシャーレットに声をかけた。
「……母さん?」
その声に、シャーレットは振り返る。
困惑と警戒。
そのまなざしは、どこまでも静かで――冷たかった。
「……そもそも貴方誰よ? そういえば昨日も同じことを言ってたわね」
「……すまない。俺はクリエだ。北辰連邦の前身である極星祠の司祭だ」
「へぇ。本当かしら? まあ本当だとして、その司祭様がなんの用なの?」
居たたまれなくなったのかクリエはバツが悪そうに下を向いて言う。
「すまん……やっぱり人違いだった」
「当たり前でしょ。明らかに貴方の方が私より年上だもの」
「それはそうだな……そもそも俺の母親はこの世に居ないんだから、もし母親ならお前は幽霊だな」
「なにそれ? 極東のジョークかしら」
彼女はクリエの中に、亡き母親を求める子供を見た。
一瞬、抱きしめてしまいそうな衝動を覚えながらも、それを抑えて、深く頭を下げた。もう話すことも無くなったクリエだったが、名残惜しそうに突っ立っている。しばらくの沈黙の後。クリエは言った。
「また来てもいいか?」
「来ないでって言っても貴方は来そうだから。当面は許してあげるわ」
「そうだな。恩に着るぜ」
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その夜。
極星祠の官邸に戻ったクリエは、静かに告げた。
「……彼女を保護下に置け。いや、“ただの保護”ではない。“希望”として。彼女が必要だ。この地に、未来を灯すために」
側近のフェルト・バウムが問う。
「運命、ですか?」
クリエは答えなかった。
だが、胸の奥には確かに灯りがともっていた。
かつて一度失った“家族”という言葉の意味――それをもう一度、思い出すために。
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北辰連邦は、なおも膨張を続けていた。
ロシアがその動きの危険性に気づくのは、もう少し先のこと。
そして、再び世界が炎に包まれるまで、あとわずかだった。
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### 【転】北露戦争と、家族になるということ
昭和十六年。1941年。
世界は、再びその形を変えようとしていた。
北海道と樺太、そして千島列島を実効支配する北辰連邦。
表向きは日本の宗教自治区だが、実際には独自の法と経済圏と軍を持つ準国家であった。
その力の源は、極星祠の巨大な信仰共同体と、
“蘇生”という禁忌すら手中に収めた技術だった。
もっとも蘇生が可能なのはクリエ一人だけであり、蘇生後に強化される。ということも無いのでそこまで有用な技術とも言えないのだが。
だが、『神の恩寵さえあれば死なない』という比喩でも何でもないその神話。その神話が持つ意味は案外大きかった。
その頃、シベリアに駐屯するロシア軍は、密かに侵攻準備を進めていた。
目的はただ一つ――「ユダヤ人国家の再出現」を阻止するため。
「ロシア帝国から追い出したはずの者どもが、よりによって極東で牙研いでいるとあれば……皇帝が許すまい」
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北辰連邦は、彼らの動きを察知していた。
だが、先に動いたのはロシアだった。
樺太西部への空爆。
通信網と港湾施設が次々と破壊される。
その夜、司祭官邸の一室――
クリエは連絡が入るまで待ち、電報を見ると静かに語った。
「始まったな……“彼ら”は、『我々』の存在そのものを許せなかったのだ」
クリエに呼ばれていたシャーレットは小さく息を呑む。
その瞳に、覚悟の光が宿っていた。
「なら、私はもう……逃げない」
彼女の声に、クリエはゆっくりと向き直る。
「……シャーレット。俺はこの戦いに出る。 天狼部隊を率いて最前線に立つ」
「……死ぬつもり?」
「……いや、生きて帰る。約束しよう。 その代わり、一つだけ、願いがある」
シャーレットが首を傾げる。
彼は少し照れたように笑って――
「帰ってきたら。俺と――家族になってくれるか?」
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その翌日、極星祠軍精鋭・特殊部隊《天狼》が出撃した。
北辰連邦初の対外戦争。
人類が“神”に手を伸ばした報いとも呼ばれるこの戦争を、後に人々はこう名づけた。
第二次日露戦争――またの名を、北露戦争と。
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戦場では、“蘇生”されたかつての軍神の息子たちが、そして現代の“奇跡”を背負う者たちが交差し、剣と祈り、信仰と科学がぶつかり合う。
「極星の詩を今こそ聞かせてやろうじゃないか。我らに続け!」
天狼部隊の総司令官は乃木希典その人であるフェルト・バウム。突撃隊を指揮するのは薩摩の猛将だった桐野利秋ことネーベルフェルト。さらに工兵と砲兵を率いるのは乃木の息子たちである勝典と保典。軍神の息子たちの統率力と、ユダヤ人の技術と、アイヌの体力、視力。
それらをすべて生かし、夜襲のみで決着をつける。
それらを兵站と医療により援護するのはクリエ・ティビテート――
ドイツ語で創造性を意味するKreativitätに由来する名前を持つ彼。
まさしく神そのものである彼は叫ぶ。
「行け! お前らの勝利はこの俺がいる限り揺るがない! この戦いの果てに、“真の夜明け”があると信じている!」
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そして、戦いの決着がつくころには、
彼と彼女の物語も、一つの答えを出すことになる。
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### 【結】終戦と、真の家族
戦火は一年も経たずに止んだ。
北辰連邦(もっと言うと日本政府だが、この辺はややこしくなるので省こう)とロシアとの間に、停戦協定が結ばれる。
戦線の膠着と、北辰連邦所属部隊の“奇跡的反撃”により、ロシア軍は撤退。
冬将軍よりも冷たく、信仰よりも強固だった国境が、ようやく揺らいだ。
北海道の全土。樺太の全土。今の北方四島を含む千島列島全部。
新たなる国境線が引かれ。その地域に住む人間たちは、平等に極星の庇護下に入った。
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北海道、旧旭川連隊の敷地を改装した極星連邦総合軍医療センター。
手術室の前。
シャーレットは静かに立っていた。
戦争の最中、自らも戦地医療に従事していた彼女の瞳には、焦燥ではなく――祈りが宿っていた。
中で眠っているのは、最前線で指揮を執り、自らも負傷したクリエ・ティビテート。
処置が終わった彼のその胸には、うっすらと火傷の痕が残っている。
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そして――
彼は病室で目を覚ました。
「目が覚めたようね」
当然のようにクリエを看病してくれていたのはシャーレット嬢。
それに気づいたクリエはやや掠れた声で、笑って言った。
「……約束、果たしたぞ」
シャーレットは涙を堪えながら、冗談めかして言う。
「家族になるって、そんな軽い言葉だった?」
「重いよ。だから、俺は生きて帰ったんだ」
「神なのに死にかけるなんて……バカみたい」
「俺だけ死なないのも不公平だろ。俺自身も多少は痛い目を見た方が士気が上がると思ってな」
「訂正するわ。バカみたいじゃなくて、ただの大馬鹿ね」
「辛辣だなおい」
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戦後、極星祠は再編される。
国家としての枠組みを残したまま、
「北辰連邦」はより現実的な政体へと移行し、
国連における“自治国家”という曖昧な地位を得る。
その背後には、教祖を演じ続けてきた“誰か”の存在があった。
かつて、金のメノラーを掲げたその人は、
今や表舞台には出ない。
ただ、雪の降る聖堂の奥で、
かつては少女だった女性と並んで“家族写真”を撮る一人の男として、静かに暮らしている。
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一方、息子たち――
かつて乃木希典が失ったはずのあの二人は、いまや極星連邦軍の象徴として人々に語られる存在となっていた。
彼らの物語もまた、まだ終わらない。
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最後に。
極星祠の記録保管庫に遺された書簡には、こう記されていた。
「これは神が定めた運命ではない。人が運命を“書き直した”物語である」
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こうして、極星の詩は静かに閉じられる。
だが、物語の余韻は――雪解けの水のように、どこまでも静かに、深く流れ続けるのであった。
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