092 危機一髪!
森に降り立った瞬間、感じ取ったのは以前とは全く異なる雰囲気だった。豊富なマナが森に恵みをもたらしていたはずなのに、今は枯れ果てたような寂しさが漂っている。冬の影響もあるだろうけれど、それだけでは説明がつかないほどだった。
「――チッ、小型とはいえ、こんな入り口にもいやがるのか」
森の入り口は初心者冒険者でも安心して入れる安全地帯だった。なのに今は、森の奥から低い唸り声が響き、周囲に潜む気配が緊張を引き締める。見上げれば、木々の上にはリスのような魔獣――"小型"が複数潜んでいた。気配の濃さから相当数いそうだ。
「相手してられねぇな。一掃する手段はあるか?」
「あるけど……念の為に目を閉じて耳を塞いでてくれない?」
「……なんで目も閉じる必要があるんだ?」
「いいから! 言われたとおりにして!」
ハウンドは訝しげだったが、指示に従い耳に手を当て、目を閉じた。私も周囲の魔獣の位置を確認し、空に向かって「――ッ!」と何の言葉の意味も持たない声を放つ。
瞬間、見えない音波が幾重にも広がり、私を中心に大気を揺るがした。木々に音波が叩きつけられ、魔獣たちが為す術もなくボトボトと地面に落下する。気絶して動かないものもいれば、耳や口から血を流している個体もいた。
目や耳を閉じていても、ハウンドは音波のビリビリとした余韻を感じ取ったのだろう。波が静まるのと同時に彼は目を開き、周囲を鋭く確認していた。
「……凄ぇもんだな。呪詠律じゃなさそうだが、何をした?」
「魔力をぶっ放しただけ。蝙蝠の超音波みたいな感じ?」
「以前に似たようなことをしていたが、コントロール出来るようになったってことか。だが、なぜ目を閉じる必要があるんだ? 波動の衝撃から守るためか?」
「……うん、そう、それそれ。飛んできた小石とか目に入ったら危ないじゃない」
本当の理由は、口から放たれる波状の魔力の痕跡を見せたくないからだ。透明とはいえ、魔力を扱える人やハウンドのような特異体質の持ち主にはその痕跡を視認できる可能性がある。
自分でもどうしてそんなに気になるのか分からないけれど、とにかく口から何かを出す、という行為を人に見られるのが嫌なのだ。建前としては破綻していなかったらしく、ハウンドはそれ以上追及しなかった。
ちなみに先日の実験において、魔塔の天井を吹き飛ばしたのがこの超音波攻撃だ。「やってみよ」と言ったのはシシル様のくせに、当然のように修繕費も請求されてしまっている。その反省から今回の威力は大幅に抑えたつもりだ。
「さて、どっちに向かうべきか……」
「リリーさん、まだ配信中みたい。この場所がどの辺りか分かる?」
エコーストーンに映るリリーさんの背後には、澄んだ沢が流れていた。彼女は『さっきから獣の唸り声がするんだよね……。噂の熊型かな?』なんて言いながら、周囲をキョロキョロと見渡している。スタンプ機能を停止しているのは正しい判断だ。エフェクトが舞ってしまえば、魔獣に位置を知らせてしまうだろう。
「水辺か。この川幅だと、恐らく上流の方だろう。こんな深い場所まで行きやがって……」
「熊さんも気になるけれど、まずはリリーさんと合流した方が良さそうだね」
「仕方ねぇな。ついてこい」
ハウンドは場所の目星がついたのか、足早に先へ進み始めた。その背中を追う形で私も急ぐ。道中でも魔獣の気配を感じたが、どうやらこちらを警戒しているのか襲い掛かってくる様子はない。今は時間が惜しい。ひとまず無視して進むしかなかった。
『キャッ……! い、今の声、聞こえた? 凄い近くまで来てるみたい。さっさと退散……と行きたいところなんだけど、参ったなぁ、迷っちゃったみたい』
エコーストーンからリリーさんの小さな悲鳴が聞こえてくる。ハウンドもそれを聞き取ったのか、さらに足を速めた。
遅れまいと必死に彼を追うが息が上がってきてしまう。沢に辿り着いたはいいものの、足元は大きな石がごろごろと転がり、歩くたびにバランスを崩しそうになる。振り返ったハウンドに、私は精一杯の声で「私は良いから、先に行って!」と叫んだ。
ハウンドは少し迷うような素振りを見せる。でも、私は自分の身は自分で守れると先ほど証明したばかりだ。今まさに危険に直面しようとしているリリーさんの方を優先すべきだと彼も判断したようで、「危ないと思ったら直ぐに屋敷に戻れ」と短く言い残して、大きな岩を軽々と乗り越えていった。
彼の背中が視界から消えるのを見届け、息を整えながら、ゆっくりと前進を続けた。
『ちょ、ちょっと見てよ! あれ、全然熊じゃないじゃん! 何あれ……狼? そんなものまでいるなんて聞いてないんですけど!』
リリーさんの焦りに満ちた囁き声がエコーストーンから流れた。彼女はリスナーにも状況を伝えようと、魔獣の方にカメラを向ける。その映像には――一、二、三? 三体の狼が、地面に伏せた何かを貪り食べる姿が映し出されていた。よく目を凝らせば、その「何か」は人型をしているようにも見える。
『――ヒッ、あいつら、人を喰ってる……! あ、いけない、グロはコンテンツ違反だったっけ……。ええと、ごめん、映せないんだけれど、でもなんでこんなところに人が? まさか同業者?』
狼たちの気配は確実に、声を上ずらせる彼女へと近付いている。ハウンドは間に合うだろうか――。
『見つかる前に逃げなくっちゃ――って、え、うそ、道が塞がって――』
突然、狼の遠吠えが響き渡った。それはエコーストーン越しの音だけではなく、私の耳にも届くほどの近さだ。映像は激しく揺れ、地面や空、そして木々が乱雑に映し出される。獣たちの低い唸り声と荒い息遣いが恐怖感を煽った。
『やば、早……! いや、キャアアアァァァ!』
彼女の悲鳴が耳をつんざく。エコーレコードは地面に落ちたのだろう。映像は転がる小石を捉えたまま動かなくなってしまった。
「嘘でしょ……」
まさか、やられてしまったの……? 全身の血の気が引く感覚を覚えながら、祈るような思いでエコーストーンの映像を凝視する。
ドンッ、と重々しい音が響き渡った。キャウン、と獣の悲鳴も聞こえてくる。そして、揺れる視界の中で、誰かが地面からエコーストーンを拾い上げる。画面には、一瞬黒い何かが映り込み、続いて褐色の女性……リリーさんの姿が映し出された。
彼女の服には少し血が付いているが、その表情から命に別状はないと分かる。恐怖の余韻に震えていたのだろう、へたり込んだ彼女は猫のような瞳を細め、涙を浮かべていた。
『っハウンドさん~~! ありがとうございます~~~!』
『ったく、弱ぇくせに先走ったことしてんじゃねぇよ』
――間に合った! ハウンドはリリーさんを救ったんだ。もしコメント機能が提供されていたら、今頃『ハウンド様ぁぁぁ!』の嵐が画面を埋め尽くしていたことだろう。私自身も感動で胸が熱くなってくる。
『そっちに隠れてろ、他にもまだ何体かいやがる』
リリーさんはハウンドの指示に従い、小刻みに頷きながら静かに安全な場所へと移動していく。その様子を見届け、ハウンドと合流すべく目の前の大きな岩を必死で乗り越えた。
岩を登り、沢に沿うように点々と続く血痕を辿っていくと――ようやくハウンドたちと合流することができた。
「お、おまたせ……」
「息が上がってんぞ。お前はもう少し運動を心掛けるんだな」
「それは私も痛感してるよ……」
この世界では歩くことが当たり前になっているはずなのに、軽い山登りともなればあっさり息を切らしてしまう。それに最近は転送魔道具に頼りきりになってしまっていた。
いざという時のためにも鍛錬が必要かもしれないと自省していると、ハウンドの隣にいたリリーさんが、私の登場に驚いたように目を丸くした。
「ヤダ、ハウンドさんったら、リカちぃまで連れてきちゃったの? 危ないじゃん!」
「お前に言われたくねぇんだよ! 力量を見極められないようじゃあ冒険者として失格だぞ」
「いやぁ、ごめんごめん。こんなに深いところまで来るつもりは無かったんだけどさ。奥に進むにつれてリスナーが増えるもんだから、つい……」
配信者としてその気持ちは良く分かる。けれどそれで危険を冒してしまっては本末転倒だ。危うく自分が狼の餌となるところを生配信するところだったんだから、これからは十分に気を付けて欲しい。
ギルド長としての立場で軽く注意を促すと、彼女は「はーい」と言いながらも唇を尖らせていた。
リリーさんは大きな岩に足をかけ、紅紫色の髪をひとつに結い直した。冒険服はところどころほつれ、指先には包帯が巻かれている。さすがにライブ配信は中断しているみたいだ。
周囲を見渡すと、狼の姿をした魔獣が三体、血を流して地面に横たわっている。その死骸にはクロスボウの矢が深々と突き刺さっていた。
ハウンドは少し離れた場所に転がる人型の物体に近づいていく。私も恐る恐る後を追うと、血に染まったローブを纏った老齢の男性が事切れていた。胸から腹にかけて無残に食い荒らされ、周囲には血と肉片が飛び散っている。咄嗟に視線を逸らした先には、力を失った魔法陣が刻まれているのが見えた。
「……自分で召喚した魔獣に喰われるとは、世話ねぇな」
「シモンの協力者かな……?」
「そうだろうな。ただ、魔獣を放つ理由がわからねぇ。戦力の分散が狙いか、それとも別の目的があるのか……単なる嫌がらせって線もあるが」
戦力分散の可能性は高い。現に、今はどこも人手不足が深刻だった。郊外の村々では作物が食い荒らされ、討伐クエストを受けた冒険者たちにも被害が出ているという。
もちろん各国も手をこまねいているわけではなく、騎士団が大規模な遠征を繰り返しているおかげで治安の崩壊は避けられている。けれど、その背後に隠された目的が読めないことが、不気味だった。
「うわぁ、グロ~……。え? こいつが魔獣を召喚したの? なんで?」
「……質問があるなら、そのレコードを切ってからにしろ」
バレたか~、なんて軽口を叩きながら、リリーさんはエコーレコードを操作して録画を停止した。配信者魂に溢れているのは喜ばしいことだけれど、不確かな情報が拡散されるのは好ましくない。
「ごめんなさい、ここからはライブ配信を控えてもらえますか?」
毅然とした口調でそう伝えると、リリーさんは「ごめんごめん」と人好きのする笑顔を見せながらも、少しばつが悪そうに頭を掻いた。素直なところは彼女の魅力の一つだけど、配信者としてのマナーは持ってもらいたい。少し厳しい対応かもしれないと思いつつ、改めて釘を差しておく必要があった。
「……あれ。この魔法陣、魔晶石で作ったのかな」
地面に描かれた魔法陣に目を凝らすと、中央には魔晶石が埋め込まれていた。掘り起こしてみると、それはまだ完全には力を失っていなさそうだ。仄かに黒く光る石は見ているだけで気分が悪くなるし、込められた膨大な魔力には覚えがある。これは……シモンのものだ。重要な手がかりになりそうだから、私はそれを慎重に鞄に収めた。
「……魔獣はダミーか?」
魔晶石を仕舞った私を横目に、ハウンドが何かを察したように顔を上げた。でもすぐに苛立ちを隠さず、頭を掻きむしる。
「チッ、地図がねぇな。仕方ねぇ、戻ってから確認するか……」
「何か思いついたの?」
「いや……各国にも出没しているとはいえ、基本的にはフォウローザを囲むように魔獣の目撃報告が集中している。もしかするとだが……」
言葉を切り、ハウンドがリリーさんにちらりと目をやる。先ほどまでの恐怖もどこへやら、彼女はすっかり元気を取り戻したらしく、「それでそれで?」と期待を込めて言葉の続きを待っている。
「……お前には関係ない話だ。それよりも、ここの魔獣についてギルドに報告したのはお前だろう? 他にどんな魔獣を見た?」
「ケチだなぁ。えーっとね、入り口でリスみたいなのを見たでしょ? 道中には猿がいて、そしてここで狼って感じかな」
確かに、この場所に来る途中にも何かがいる気配を感じた。それが猿だったのだろうか。それならば、魔法陣の効果はもう消えているようだから、放置されている猿を倒せばこの一帯はひとまず落ち着くはずだ。
「……熊さん、いませんでしたか?」
「熊は見てないんだよね〜。てかそれ、目撃者ほとんどいないでしょ? 本当に存在するの?」
私とデュオさんが対峙したことがある以上、存在しないはずがない。普段は奥深くに潜んでいるのだろうか?
もう少し探してみようかと沢から森に目を向けたその瞬間、かすかな声が耳をかすめたような気がした。




