089 リカになれた日
自由民となった彼らが養護院に入っていく。振り返っては何度も手を振る子どもたちの姿に、私も必死で笑顔を作り続けた。
最後に扉が閉じられる音を聞いた瞬間、全身の力が抜けてしまう。まるで地面が揺れるような感覚――崩れ落ちる私の体を、すかさずハウンドが支えてくれた。
「無茶しやがって……」
低く響くハウンドの声は、遠くでこだまするように耳に届く。――完全な魔力切れ。頭がぼんやりとして、自力で立つこともままならない。息をするのも億劫なくらいだった。
「別にいいじゃねぇか、わざわざお前の力を見せつけなくたって。こんなことしなくたって、もうお前のことは誰もが認めてるじゃねぇか」
「ふふーん……優しくて可愛いのはみんな知ってるけど、リカちぃは最強で無敵なんだってことも伝えたかったの。そうしたらみんなも安心できるでしょ?」
なんとか返事を絞り出したものの、声が震えていたかもしれない。ハウンドは呆れたように息を吐きつつ、ちらちらと視線を送ってくる騎士たちを鬱陶しそうに手で追い払っている。
「……お前の考えはさっぱり分からん」
そう言いながらも、彼の声にはどこか優しさが滲んでいる。大きな手が私の肩をしっかりと支えていて、伝わってくるその温もりについ委ねたくなってしまう。でも、そんな弱い自分をこれ以上見せるわけにはいかない。彼の負担になりすぎないよう、意識を集中して足に力を込め、なんとか体を持ち上げた。
「――ありがとう、もう大丈夫」
肩から離れた瞬間、少しだけ冷たくなった空気が肌に触れる。深く息を吸い込むと、全身にマナが巡るのを感じた。
……さて、お屋敷に戻らなくちゃ。このまま眠ってしまいたいくらいには頭が働いていなかったけど、いきなり肩をスパーン! と叩かれ「痛っ!」と叫んでしまった。
こんな荒っぽい仕打ちをするのは……やっぱりロベリア様だ。どうせすぐに飽きてどこかへ行くと思っていたのに、最後まで見届けてくれてたみたいだ。
「やるじゃん。俺、口ばっかの守られヒロインって嫌いなんだよな」
「いたた……私もその意見には賛成ですけど、そんな馬鹿力で叩かないでくださいよ!」
「なんだよ、せっかくお姉様が認めてやったんだからそこは素直に喜んでおけよ。……なぁ、リカ?」
ニヤリと意地悪そうに笑うロベリア様が、「今夜は祝い酒といこうか」とレオさんの肩を抱いて歩き出した。
「……いいのかい? たくさんの人に君の力を見られてしまったけれど」
子どもたちを送り届けたデュオさんが戻ってきて、私の顔を見るなり「瞳の色、見てごらん」と手鏡を差し出してくれた。鏡を覗くと、そこに映るのは紫色に燦燦と輝く自分の瞳。こんなにも美しい色だったんだ。まるで稀少な宝石のようで、シシル様が「欲しい」と言った気持ちが少しだけ分かる気がした。……いや、さすがに抉り出そうだなんて狂気じみた発想は浮かばないけれど……。
「いいんです。シモンはきっとこれから私やフォウローザに色々と揺さぶりをかけてると思うんです。だから、私ならみんなを守れるよってことを、ちゃんとその目に焼き付けておいてほしかったんです」
――シモンはきっと、何らかの術を使って私をつぶさに監視している。
そんな気がしてならないのは、何かに見られているような視線をたびたび感じるようになったからだ。それは明確な敵意ではないものの、見られているという感覚に嫌な予感を拭い去ることはできない。きっと魔法か呪術の類だろう。
――でも、逃げるつもりはない。強い精神力を保てば、相手の術中に陥ることもないはずだ。だからこそ私は、敢えてこの力を見せつける選択をしたのだ。
「アンチを黙らせるにはどうすればいいか知ってますか?」
口元に笑みを浮かべ、デュオさんに尋ねる。彼が軽く首を傾げるのを見て、私は静かに続けた。
「スルーするか、効いてないって思わせればいいんです。それでもしつこい相手だったら……徹底的に叩き潰します」
「目が据わってるよ……」
いけないいけない、昔の記憶がよみがえってしまった。あの頃の私はただのJK配信者で、自分一人だけ守れれば良かった。
でも今は違う。今の私は、守るべきものがたくさんある。だからこそこの力を蓄え、磨く必要があった。リカちぃを最強の配信者に育て上げるためにも、私自身がもっと強くならなくちゃいけない。
そんなことを考えていたら少し体も安定してきた。あとのことはみんなに任せて、私は部屋で魔晶石を食べて今日はもう引きこもろうかな。なんて思いつつ帰ろうとした時、養護院に入っていたはずのソルが「おーい!」と呼びかけて追いかけてきた。
「どうしたの?」
何か設備に不都合でもあったのだろうか。そう不安に思い問いかけると、彼は「まさか!」と大きく首を振った。
「すげぇ良い部屋でビックリした! もうすぐ飯の時間だっていうから、みんなも楽しみにしているんだ。……でも、そうじゃなくて、ちゃんとお礼が言いたかったんだ」
「お礼? もういっぱい言ってもらったからいいのに」
「そんなわけにはいかねぇよ。それに、ちょっとそいつと話したいこともあってさ。みんなを寝かしつけてからになるけど、夜にそっちに行ってもいいか?」
そう言いながらソルが顎で示す先には――ハウンドがいた。「あん?」と睨むように応じるハウンドに対し、ソルはまったく動じることなくケロリとしている。
「じゃあまたな!」
元気に駆け戻るソルの後ろ姿を見送りながら、思わず目を細めた。体力も戻ったのか足取りは軽く、夕焼けに染まったオレンジの髪がまるで動物のように躍動している。
「相変わらず喧しい奴だ。まぁ、話の内容はだいたい察しがつくがな……」
「私も一緒にいたほうがいい?」
「ふむ……無理のない範囲で構わんが、同席しろ」
てっきり「寝てていい」と言われると思っていたから、少し驚いてしまう。でも、彼らの今後の生活に関する話なら、私も同席した方が早いかもしれない。
「僕も同席してもいいかな?」
「まぁ……別にかまわん。大した話じゃ無かったら無駄足を踏ませることになるがな」
「じゃあ、少し仮眠させてもらってから執務室に行くね?」
「そうするといいよ。……ハウンド、君もまだやることがあるんだろう? 彼女は僕が送っていくよ」
「……分かった、なんかあったら連絡しろ」
私をデュオさんに託したハウンドは、一人先にお屋敷へと戻って行った。その背中が遠ざかっていくのをぼんやりと眺めていると、デュオさんが目の前に立ち、優しい声で問いかけてくれる。
「歩けそう? おぶっていこうか?」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ。ちょっと歩くの遅いかもしれないですけど……」
「それは構わないよ。のんびり帰ろうか」
そう言うと、デュオさんは私の歩調に合わせるようにゆっくりと歩き出した。程よい距離感とその優しさが心地よい反面、少しくすぐったい気持ちになる。
「……ああ、少し瞳の色も落ち着いてきたね」
「本当ですか? 痛みとかあるわけじゃないし、自分じゃよく分からないんですよね」
「以前見たときと比べてもとても深い色になっていたよ。……君の魔力が伸びている証拠だね」
「面白いですよね、魔力の量で瞳の色が変わるっていうのも」
日本と比べて、色彩豊かな髪色や瞳の色を持つこの世界では、瞳の色が相当に重要な意味を持つらしい。それを考えると、マーカスさんがやけに気にしていた理由も少し理解できた気がする。
「そうだね、そういう意味では君の普段の色はミュゼを連想させないもので良かったのかもしれない。……さっきみたいに所かまわず力を使うようでは、もう隠しようもないかもしれないけどね」
「王様にバレちゃいましたし、わざわざ公言しないにしても、多少は知れてしまってもいいかなって思ってます。……ミュゼの関係者である私が普通に暮らしていると分かれば、差別も薄れるかもしれないですし」
「難しいところだね。シモンがまた何かをやらかせば、どうしても非難の矛先は君にも向いてしまうから」
親の犯した罪を、子である私が「関係ない」と切り捨てることはできない。それがどれだけ理不尽であったとしても、だ。デュオさんの危惧する気持ちは痛いほどに理解できた。
「特に十年前の禁術の遺族にしてみれば、君の存在自体を許せないと思う者もいると思うんだ。言いふらしでもしない限りは漏れるような話でもないけれど、くれぐれも気を付けてほしい」
「それは、そうですね……」
「……仮にばれてしまったとしても、今の君を見れば受け入れてくれる人も多いと思うけれどね。私欲のためじゃなくて、こうして人のために力を奮っているのだし」
デュオさんの声色に込められた気遣いが、私の心を少しだけ軽くしてくれる。
そう、少なからず私には打算があった。カリオス様へのアピールだけではない。この身に宿る魔力とともにこの世界で生きていくためには、力を他人のために使う姿勢を見せる必要があった。自分を――リカちぃをプロデュースし続けるためにも。
デュオさんはそんな私の計算を知ってか知らずか、じっと私を見つめていた。眩しいものを見るように目を細めながら、穏やかな笑みを浮かべている。
「……最初に会った時に比べて、君はどんどんと輝きを増していくね。きっとこれからはもっと、それこそ神のように崇める者も出てくるかもしれない」
「えぇ、それは嫌だなぁ。親しみやすさって大事ですから」
「そうだね。でも、なんだろうな……うまく言葉で言い表せないや。ただ、もう君はフレデリカではないんだってことは確かだよね」
「……ん? どういうことですか? 一応私の身体はフレデリカですよ?」
「いや、君はもうフレデリカじゃない。君は"リカ"という全く別の存在だよ」
彼の低い声は静かに響き、どこか断定的だった。その言葉の意味がうまく咀嚼できずに、私はただ彼を見上げることしかできない。
デュオさんの顔はどことなく晴れやかなもので、その視線は遠くを見ているようだった。
「生涯愛する人は一人だけだと思っていた。……僕を浮気者だと思うかい?」
「……ノーコメントでお願いします」
「君のそういうところも好きだよ」
小さく笑う彼に私は何も返せない。そう、私は何も返せないのだ。彼を受け入れることも、はっきりと拒絶することもできない。ただ、その好意に甘えるだけの自分をどこかずるいと思いながら――今日も結局、何も返せなかった。
部屋までデュオさんに送ってもらい、そのままベッドに倒れ込んだ。着替えを考える余裕すらない。頭が重く、体もだるい。完全に魔力切れの症状が出てきている。あと少しでも魔力を使えばきっと意識を失ってしまうだろう。いくら魔力の総量が増えたとは言え、さすがに一気に二十人分はやり過ぎだったみたいだ。
もし今、シモンが襲ってきたらかなりまずい状況かもしれない。でも、きっとまだ来ないだろうという確信めいた思いもあった。
サングレイスに点在しているという隠れ家は、王立騎士団やスイガ君らが調べ上げて一つ一つ潰してくれている。ロウラン家のような規模の大きい協力者が他にいない限り、シモン自身も逃げ回っているような状況だった。
……カレナが違法奴隷を勝手に扱っていなければ、シモンの存在に気付くのはもっと後になっていたはずだ。想定外だったのは相手も同じこと。きっと、向こうも相当に焦っていることだろう。
うとうとと、ベッドに体を沈め、まどろみに身を任せる。柔らかな布団が疲れた体を優しく包み込むけれど、どうしてだろう――子どもたちを助けた高揚感からか、心だけが浮ついたままで、どうにも落ち着かない。
――あぁ、そうだ。寝る前に、また暗示をかけておかないと。
ベッドの上で仰向けになり、胸にそっと手を当てる。この暗示は、もういつからか私の眠る前のルーチンになっていた。まるで心の中の小さな扉に鍵をかける儀式のように。
「"この気持ちは、消えて"」
喉から絞り出すように繰り返し、胸の奥に沈めたはずの気持ちを再び奥へと押し込める。
今日もまた破られてしまった。抑え込んで忘れたつもりが突きつけられては思い出し、また封じる。毎日こんな風に自分の気持ちを消しているこっちの身にもなってほしい。
何度言い聞かせても完全に消えることのないその気持ちは、どれほど深く私の中に根付いてしまっているんだろう。こんなのは意味のない行為だと、私だって、そんなこともうとっくに分かっていた。
だけど――私はリカちぃだから。みんなから愛される配信者でいなくちゃいけないから。誰か一人を特別に思ったり、弱い姿を曝け出したりすれば、その役割はきっと壊れてしまう。だからデュオさんにだって、私は曖昧な態度で躱すことしかできないんだ。
結局自分だけが大事なんだ。「私は配信者だから」なんて嘯いて、好意だけを享受する。だっていつ離れていくか分からないんだもん。他の推しが出来てしまえば、忘れられる存在だったから。
「……"消えて"……」
暗示の言葉をもう一度呟くと、最後の魔力がその言葉に引きずられるように消えていくのが分かった。ほんとうに考えなしだわ、なんて自嘲しながら目を閉じる。
――その時だった。
『――私はあなたが大好きよ』
耳元で囁かれる声。それはまるで私の望む言葉そのもので、拒絶する隙すら与えないほどに優しく響いた。
声なのか、それともただの幻聴なのか――その声には遠い記憶のどこかで触れたような愛おしさが伴っている。
――誰?
答えを求める間もなく、深い闇が私を包み込む。意識はゆっくりと沈んでいき、何もかもが遠のいていった。