008 神様のいない教会
頭がじんじんと痛む中、ハウンドに連れて行かれた先は中央区の東側にある教会。商業区からそれほど離れていない場所にあるこの教会は、日本で見たことのある教会とは全く異なるものだった。
外壁はところどころ傷がつき今にも崩れ落ちてしまいそうで、かつてこの地を襲った戦禍の名残が陰鬱な空気となって漂っている。教会と言えば結婚式のイメージだったけど、こんなところで式を挙げた日には即日離婚してしまいそうだ。
お昼には炊き出しが行われていたのだろうか。外には簡素な机や空になった鍋が乱雑に置かれていて、片付けまで手が回っていない様子だった。
「ここって、何の神様を祀っているの?」
「さぁ、なんだったかな。もう忘れられた神だ。この世界で神を信仰している奴なんざ滅多にいねぇよ。この教会もただの過去の遺物だ」
ちょうど良い建物があるから使わせてもらってる。そんな物言いだった。忘れられた神様かぁ。マナが淀んでいるように思えるのと、何か関係があるのだろうか。
教会の扉を開けた瞬間、軋む音が響き渡る。中はさすがに綺麗にしているのかと思えばそんなことはなく、壁の一部は崩れ落ち、砕けた石が床に散らばっている。かつては彩り豊かだったであろうステンドグラスも、今は割れた部分に布や板が打ち付けられ、ほとんど光を通していない。
人々が祈りを捧げるためのベンチなんてものはなく、その代わりに簡素なベッドや敷物が並べられていて、その上で病人やけが人が横たわっている。
ほのかな灯りを照らすランプがいくつか置かれているものの、それだけでは暗がりを完全に拭い去ることはできていない。ランプの光が揺れる度に、影が不気味に踊っていた。
「ここが教会……?」
「……具合は大丈夫か? なんか、気分が悪くなったりは?」
「それは大丈夫だけど……」
壁には信仰の象徴がほとんど残っておらず、かつて飾られていたであろう神像や絵画の跡がかすかに残るだけだった。信仰にすがる者が少ないことを象徴するかのように、教会全体を覆うのは呻き声と疲弊の色だけだ。
それでも、教会の片隅では数人の女性が献身的に働いていた。彼女たちは患者の手当てをし、傷を包帯で巻き、横たわる老人には薬を飲ませ、声を上げることもなくただ淡々とその手を動かしていた。
「あら、ハウンド様」
「邪魔するぞ。足りていないものは?」
「薬と、人手ですね。移民は増えるばかりなのに、働き手が増えないなんて」
「……すまねぇな」
珍しくハウンドが素直に謝っている。それで満足したのか、女の人は話が済むとさっさと仕事に戻ってしまった。
確かに人手は足りていなさそうだ。お医者さんのような人も見当たらない。こっそりとハウンドに「どうして働き手が増えないの?」と尋ねてみる。
「元々この領地はミュゼのもんだったが……戦争だのに巻き込まれて多くの住民が死んじまった。ロベリアに反発して出て行った奴も多いし、ここに残ったのは怪我人や、もともと土地を持っていた連中だけだ」
十年経ったとはいえ怪我人は後遺症を抱えることが多いだろうし、心に傷を負った人も少なくないだろう。そう考えると純粋な働き手としてはあまり期待できないということか……。ふむふむ、と相槌を打つと、ハウンドは続ける。
「ロベリアがフォウ公国の令嬢だったのは聞いてるだろう。あいつを慕ってフォウ家からここに来た者もいるが、要所に詰めているかロベリアの遠征に同行することが多くて、市政に関わることは少ない。サントスみたいな王都からわざわざ来るような物好きもいるが、あれは例外だな」
「そうなの? 移民は増えるばかりっていうのは、どこかの領地から流れてきてるんじゃないの?」
「その移民ってのは、ロベリアが遠征先で拾ってきた孤児や別の戦争から逃れてきた連中だ。識字率も低いし、こっちの文化にも馴染めていない」
長い目で見れば彼らもいずれは労働力になりえるかもしれない。でも今はただ食べるのに必死なのだという。
女たちは孤児や病人の世話に追われ、男たちは魔獣や他国への警戒に時間を取られて教育に割く余裕がない。結局、この状況を根本から変える手立ては後回しにされ続けている……ということか。
「……これ、詰んでるよね?」
「そういうこった」
ハウンドは肩をすくめ、怪我人のもとへ歩み寄りながら「どこでやられた?」と淡々と確認をしている。
私にも何か出来ることはないだろうか。こんな状況の中でただ立っているだけというわけにもいかず、近くにいたおばさんに声をかけてみた。
「あの、何かお手伝いできることないですか?」
「それは助かるけれど……、そんな細腕で何ができるかねぇ。裏の井戸から水を汲んできてくれるとありがたいんだけど」
「お水ですね。わかりました!」
近くに置かれたバケツを取って、早速教会裏にあるという井戸に向かう。すれ違いざまにハウンドが何か言いかけていたが、「すぐ戻るから!」と先手を打って彼の言葉を遮った。
外に出ると、少し日が傾き始め、森に囲まれた教会の裏手は一層陰気に感じられた。まずはこの鬱蒼と生い茂る森を少しでも伐採した方がいいんじゃないかな。木漏れ日が差し込めば少なくとも気分は良くなるんじゃないかしら。
「井戸ってこれかぁ。うわー、生で見るの初めてだわ」
古びた石造りの井戸は年季が入っていて、側面には苔がびっしりと張り付いている。手押し式のポンプが取り付けられているが、その金具は錆びついていて使い込まれていることが見て取れた。
「えーと、バケツをここに置いて、これを押せば水が出てくるのかな……?」
なにせ井戸で水汲みなんてしたことのない生粋の現代っ子だ。恐る恐るポンプを押してみると、錆びついていて思ったように動かせない。今度は力任せに何度か押し引きしてみる。腕に力を込めるたびにポンプがギシギシと軋むが、水は一向に出る気配がない。
まずい。このまま空のバケツを持ってすごすご戻ったら「やっぱりそんな細腕じゃ無理だったわねぇ」とゼロだった期待値がマイナスになってしまう。あんまり遅くなってしまってもハウンドが鬼の形相で迎えにやってくることだろう。
「なんで、水が、出ないのよ!」
「おねーさん、なにしてんの?」
「わぁ!」
突然、背後から声をかけられてびっくりしてしまった。振り返れば、小さな子どもたちが不思議そうに私とポンプを見比べている。この辺りに住む子どもだろうか。粗末な服を着た子どもたちは、「それ、壊れてるよ」と無邪気に言った。
「え? そうなの? じゃあ水は出ないってこと?」
「こっちこっち、この道具を押すんだよ」
誘われるまま彼らが指差すところを覗くと、何かが取り付けられているのを発見した。押してみてよ、と言われるがままに道具を押し込めば、今まで全く動く気配のなかったポンプの先から勢いよく水が溢れ出た。
「わ、すごーい! これは魔道具?」
「そうだよ、偉い魔導士様が作ってくれたんだって」
「これのおかげで、ぼくたちでも水汲みができるんだよ!」
なるほど、魔道具はこんなところにも利用されているのか。……そして私は、こんなに幼い子どもたちと同じ仕事を頼まれたのか、と少し情けなくなってしまう。
人手不足を補うためにこうした便利な魔道具が頼りになっているのだろう。子どもたちがきゃっきゃと笑いながら手伝ってくれたので、「ありがとう」と伝えると、みんな嬉しそうに目を輝かせた。
「お姉さん、だれ? 初めて見るわ」
「ええと……ハウンドって知ってる? あのおじさんのお手伝いをしているの。リカよ、よろしくね」
「リカ様! とってもきれいな髪、まるでお姫様みたい!」
「ハウンドってあの怖いおじさんでしょ? いじめられてない?」
「見てみてー、これあっちで拾ったんだよー」
気づけば、子どもたちがわらわらと私の周りに集まり、四方八方から次々と話しかけてくる。
どこから来たの? どこに住んでるの? あのおじさんとはどんな関係なの? 見て見て! 遊ぼう! 手伝ってあげる! ぼく四歳だよ!
――返事をする暇もないほどに途切れることなく言葉が降り注ぎ、頭が混乱しそうだ。耳が、足りない……!
「すとーっぷ! えーと、お姉さんはロベリア様のお屋敷に住んでるのよ。今日は教会の様子を見に来たんだけど、みんなはこの辺に住んでいるの?」
「おれたちは教会で暮らしているよ」
「今はねー、ケガした人を助ける時間だから、外で遊んでろって言われてるの」
「そうなんだ。学校とかは行ってないのかな?」
一番大きそうな子でも小学校低学年くらいだろうか。日本では学校が終われば学童があったり小さい子は保育園に通ったりするものだけど、この世界ではどうなんだろう? つい日本の常識で考えてしまっていたら、子供たちは「なにそれ?」ときょとんとした顔をしていた。
「うーんと、勉強を教えてくれるところよ」
「それって楽しいの?」
「……人によるわね」
少なくとも私は学校のすべてが楽しかったわけじゃない。でも、国語や音楽の授業は好きだった。この世界での勉強って何だろう? やっぱり字を習ったり、計算ができるようになったりすることなのかなぁ?
とはいえ、無いものの説明を重ねても仕方ないだろう。私は話題を変えることにした。
「何か、困っていることはない?」
このくらいの子供たちには要望書なんて書けないだろうし、せっかくだから生の声でも聞いてみようと尋ねると、あれもこれもそれも、収集が付かなくなるくらいにあちらこちらから声が飛び交った。
要約すると。ご飯が足りない、おやつが食べたい、おもちゃが欲しい、夜は暗くて怖い、変な声が聞こえる、ママに会いたい、パパに会いたい、寂しい、退屈、つまんない。
親を恋しがる姿に涙腺が緩んでしまう。そうだよね、困ってることなんてたくさんあるよね。
「おやつになりそうなものならあるわ。たくさんあるから、みんなで仲良く分けて食べて」
カバンの中からまだたくさん残っていた瓶詰の飴を取り出して、一番背の高い女の子に瓶ごと渡せば、「わぁぁ」と目を輝かせた子供たちは、競い合うようにして飴玉に手を伸ばしていた。互いに飴を見せ合って嬉しそうに笑う姿に、少しでも喜んでもらえた嬉しさがこみ上げてくる。
「――おい。何してんだ、そろそろ帰るぞ」
「あ、ハウンド。ごめん、遅くなっちゃったね」
いつまでたっても戻らないから様子を見に来たのだろう。結局お迎えに来させてしまった。
ハウンドが教会から歩いてくると、子供たちその姿を見るや否や「キャーッ!」と蜘蛛の子を散らすように逃げていった。中には本気で怖がっている子もいれば笑顔で逃げていく子もいる。遠くから「また来てね!」と楽しそうに呼びかけてくれて、私は手を大きく振り返した。
「まったく……ほら、それ寄越せ。頼まれてたんだろう」
私のそばに置かれていた水の入ったバケツを、ハウンドが持ち上げようとする。けれども私はすぐに彼の手を制した。
「だめ。これは私が頼まれた仕事だもん。私が運ぶの」
「……そうかい。じゃあ、さっさと済ませてこい」
「うん!」
彼に見守られながら水をこぼさないように慎重にバケツを運び、おばさんに遅くなったことを詫びる。
「楽しそうな声が聞こえたよ。子どもたちの相手をしてくれてありがとうね」
「いえ……あの、また来ますね」
「そうしておくれ、あの子たちも喜ぶよ」
おばさんに別れを告げ、外に出ると、空はすっかり茜色に染まり、夕日が遠くの山々に溶け込んでいた。
お屋敷への帰り道、風に揺れる小麦畑を眺めながら、私は今日の出来事を振り返る。
商業区は賑やかだったけど、一歩道を変えれば貧困にあえぐ人たちが暮らしているという。教会で懸命に働く女性たちの疲れた顔や、けが人や病人たち、そして、子供たちの顔が次々と浮かび上がった。
あの子たちは笑っていたけれど、みんなが抱える苦しみや不安が、ずっしりと心にのしかかる。
「どうだった、外の世界は」
「ううん……まだ整理できてないけど……。やらなくちゃいけないことがたくさんあるってことだけは分かった」
「たとえば?」
この領地には「ない」ものが多すぎる。教育も必要、治療も必要、建物の修繕や道の整備も急務。手を付けないといけないことが多すぎて、ああ、忙しくしているハウンドの気持ちが今になって痛いほど分かる。
そんな状況の中でせっかく日本から来たというのに、私には即座に解決できるようなチート能力も、物作りの知識も無い。だから、一気にこの状況を変える力は持っていない。この世界の人からしてみればとんだ期待外れだろう。
だけど、この世界で息づく人たちを私は目の当たりにしてしまったから。"フレデリカ"として生きていくと決めたから。何もせずに見て見ぬふりなんて、出来そうになかった。
私の持っている知識や経験で、この世界に貢献できること……。それを考えたときに、ふとひらめいたのは――。
「エコーストーンは……使えると思うの」
「……ほう? お前はあの魔道具にやたら拘るな。俺にとっちゃ便利な通信道具に過ぎないが、何か他に使いどころがあるのか?」
「あるわ、いくらでもある。"通信"だけだと確かに限定的だけど、"配信"をすればみんなに情報を届けるだけじゃなくて、たとえば……希望とか、楽しみとかも一緒に届けられると思うの」
ピンとこないのか、ハウンドは首をかしげたけれども私は気にせずに続けた。
「ここって新聞とか無いから、情報の流れが遅いでしょ? でもエコーストーンを使えば、誰にでも、すぐに情報を届けられるはず。教育にも使えるし、音楽だって配信できる。そうすれば――みんなの心も癒せるんじゃないかなって思うの」
自分でも気づかないうちに、声が熱を帯びていた。ハウンドはその勢いに圧倒されたのか、一瞬黙り込む。
「ふむ……なるほどな。まあ、やってみりゃいい。明後日だろ、爺との面会は。その時に話を聞いてみればいい」
「うん。それで色々聞いてみて、出来ることがありそうだったら試してみるね」
夕日を背に、私は拳を強く握りしめた。これが、私の最初の一歩になる。配信を通じて、みんなを少しでも助けるために――やるしかない。
気合を入れるように「やるぞー!」と拳を掲げると、ハウンドが呆れたように小さく笑った。